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2023.09.26.08.50

らっくすいんてりあ

拙稿の題材はクランプス (The Cramps) のヴォーカリストではあるが最初に断っておいた方が良いだろう。
彼の、もしくは彼が所属するバンドの音楽に関しては、一切、言及するつもりはない。

ぢゃあ、なんについて綴るのかときみは問うだろう。
それに対する解答は単純だ。みてくれ、彼のヴィジュアルについて、ここではとりあげるのだ。

ここから先を読む前に、ほんの少しでも余裕があれば、ラックス・インテリア (Lux Interior) を画像検索してみて欲しい。
そこにあるモノ、そしてそこから感ずるモノがぼくと同様、そうではないとしても共感もしくは納得をしてもらえるのかどうか、それが問題なのだ。

そこにあるのは、もしかしたら上半身裸体で下半身が黒のレザー・パンツ (Leather Trousers) の人物なのかもしれない。
そこにあるのは、もしかしたら裸体に直接レザー・ジャケット (Leather Jackets) をはおった自身の下半身を覆い隠しているのが1枚のちっぽけなビキニ・パンツ (Bikini Pants) だけの男性なのかもしれない。
さもなければ口に自身の唯一の楽器、ハンドマイク (Microphone) を咥え込んで這いずりまわっている姿なのかもしれない。そうでなければ、身体全身をすっぽりと包み込んだ真紅のレザー・ジャンプスーツ (Leather Jumpsuit)、またはラメ (Lame) のそれなのかもしれない。
そんな彼をみてしまったその後に、彼の唇が真紅に塗られ、と同時に、彼の脚許が真紅のピンヒール (Pin Heels) である事さえ発見してしまうかもしれない。

異様であり異装である。
彼の痩身の肉体は鍛えぬかれてある様でもあり、それを認めてしまうと、上に綴った様な装いはイギー・ポップ (Iggy Pop) と同種のモノと認められるかもしれない。だが、双方に共通の類似点を数え上げていけばいく程、そこでは齟齬がもたらされ、そしておおきな亀裂が生じていく様にみえるだろう。指向が異なるのだ。
イギー・ポップ (Iggy Pop) の裸体に潜むマチスモ (Machismo)とは異なるモノ、否、それに対する拒否反応をみいだしてしまうからだ。
例えばそれはまっかな唇とまっかな脚許、そしてそれに対比され得る漆黒の下腹部である。しかし、それら総てが同居してひとつの肉体のよそおいとして存在するには、彼の痩身は決してふさわしくはない。その存在に同意する肉体はもっと異なるモノだ。モノであって欲しい。
しかも、それらのひとつひとつが他のモノとの同居をも拒絶してもいるのだ。もしも、個々の存在を同意する肉体がそこにあったとしても、それら総てが同時にそこにある事を決して許しはしない様にも思えるからだ。
だからマチスモ (Machismo) とは相異なる主張、フェミニズム (Feminism) や異性装 (Transvestite) やトランスセクシャル (Transsexual) への肯定がそこにあるとも言い難いのだ。否、それらに対する拒絶、さもなければ、不信めいた心情がそこに潜んである様に思えるのだ。
一言をもって評すれば、ステージ上の彼は、一種のキマイラ (Chimaira) なのである。しかも、そのキマイラ (Chimaira) の各部位の属する性それぞれが、そうではない性に対して常に反感や敵意を表出しているのである。
拒絶反応 (Transplant Rejection)、医学用語 (Medical Terminology) としてのそれである。
だからこそ、彼はいつもそこで苦闘し悶絶する。
自身の各部位それぞれが自我をそこで発揮すればする程、彼の痛みは激しくもなる。
だからこそ彼は自身のハンドマイク (Microphone) を貪りしゃぶり尽くすしかない。彼は自身の性器を尺八 (Blow Job) でもしているかの様にそれを弄ぶ。だが、そんな行為はふと、猿轡 (Gag) を噛まされ嬲られているかの様にもみえるのだ。

images
the photo "Lux Interior Performing With The Cramps As An Elvis From Hell At The Bobino, Paris, In 1981" photo by Bernard Legon

次回は「」。

附記 1. :
そんな彼の行為と正反対にみえるのがバンドのギタリスト、ポイズン・アイビー (Poison Ivy) だ。グラマラスな衣装に身をつつみ、自身と対等もしくはそれ以上にグラマラスに映える名器グレッチ・ナッシュビル G6120 (Gretsch G6120 Nashville Guitar) を携えた彼女はいつみても逞しい。自身の伴侶でもあるヴォーカリストののたうちまわ姿をみても、微動だにしない。その扮装は自身の女性性を極端にデフォルメした姿なのだろうが、なぜかぼくにはとても男らしくみえる。

附記 2. :
上に綴った様なラックス・インテリア (Lux Interior) のパフォーマンスから連想させるモノに、ザ・スターリン (The Stalin) 時代の遠藤ミチロウ (Michiro Endo)、かつて彼が行った全裸パフォーマンス (His Nude Performance On The Stage) がある。彼もまたイギー・ポップ (Iggy Pop) の様な隆とした肉体を誇る身体を得ていて、レザー・パンツ (Leather Trousers) に上半身裸体となったそのステージングは強靭なモノとボクには映える。だが、一度、その下半身すら裸身をさらけだしてしまえば、さっきまでそこにあったモノの総ては消失し、新たにそこにあるのは極めて脆弱な肉体でしかない。
寒々しくもみえるし、情けなくもみえる。
全裸だから、と謂う理由とは別のところで無防備であって、儚くも稚くもみえてしまう。
徒手空拳 (With Nothing To Start With) と謂えばきこえはいいが、実際は無一物 (Having Nothing) と評したくなってしまう風情がある [しかもそう感じてしまうのは彼の一物 (Well-hung) がそこに無惨にも曝け出されてしまっているからだ、そんな逆説も弄したくもなる]。
そして、こう思う。
ラックス・インテリア (Lux Interior) は遠藤ミチロウ (Michiro Endo) の様な立場に一度、我身を置き、そこから翻してその先へと超えていこうとしているのではないだろうか、と。
だけど。それは窮鼠猫を噛む (A Cornered Rat Will Bite A Cat.) とはまた少し意味が違う、そうも思う。

附記 3. :
寧ろ、江頭2:50 (Egashira 2:50) の方にちかいのかも知れない。ラックス・インテリア (Lux Interior) の指向をさらに一度、客体化し、滑稽にさせてみること、だが、それにも関わらず、攻撃的であろうとすること。そうすれば、彼が生成されそうな気がする。
そうぢゃない。
江頭2:50 (Egashira 2:50) の目指しているモノがそうであれば良いなぁ、と思っているのだ [最近の彼に対する評価が以前のそれとはだいぶ様変わりしている様に思えるので]。
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