2023.09.12.08.42
美しい光景がふたつある。
ひとつは映画の終幕、ものの見事に逃げ仰たサリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) [演:マリリン・バーンズ (Marilyn Burns)] の哄笑をうけて、チェンソー (Chain Saw) を振り回すレザーフェイス (Leatherface) [演:ガンナー・ハンセン (Gunnar Hansen)]、俗にチェーンソーダンス (The Chainsaw Dance) と呼ばれるシーンである。
なぜ、それをぼく達は美しいと思うのか、美しいと呼ぶのか。
ひとつの理由としては、その背景にある。なにもないテキサス (Texas) の平原を朱く染める太陽を背にしているからだ。これがもし、それまで彼女が囚われていた彼の自宅だったら、必ずしもそうはおもわないだろう。
だが。
映画『悪魔のいけにえ (The Texas Chain Saw Massacre)』 [トビー・フーパー (Tobe Hooper) 監督作品 1974年制作] の終結部がそうならば、その冒頭はなんだったのだろう。
物語は、フランクリン・ハーデスティ (Franklin Hardesty) [演:ポール・A・パーテイン (Paul A. Partain)] の転落で始まる。放尿の為にくるまを一旦停車し、道路脇に向かい、渡された空缶を手にし、車椅子 (Wheelchair) 上の彼はそのままそこに用をたそうとする。しかし、通過するトラック (Truck) の起こす突風をうけた彼は車椅子 (Wheelchair) ごと転倒してしまうのだ。
この光景を観たぼく達はおそらくこう思う。きっと、今と同様に、情けない死を彼は迎えるのだ、と。
そんな発想は日常では決して許されないモノだ。だが、映画を観るぼく達はそう思わざるを得ないし、映画だからこそ許されると、多少のうしろめたさを感じながらもそう謂い聞かせる。そして、その映画が語る彼と謂う人物をみれば、ぼく達のうしろめたさも多少なりとも軽減されるのだ。何故ならば、映画の中での彼の言動はすこしばかり常軌を失しているからだ [その精神状態の危うさはこのすぐ後に出逢うヒッチハイカー (Hitchhiker) [演:エドウィン・ニール (Edwin Neal)] のそれとは大同小異 (General Resemblance) にもみえる] 。それ故に、さっきまでとは逆に、彼に対する加虐嗜好と謂うモノも多少加速される様な気もする。惨めで哀れなその死を、期待するぼく達の居場所はそこにある。
しかし、映画はその様な物語を語る事はない。
彼は、闇から顕れたレザーフェイス (Leatherface) によって一瞬にして惨殺されるのだ。恐怖や激痛を感ずるのは彼よりも彼を乗せている車椅子 (Wheelchair) を押していた妹、サリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) の方が甚だしいに違いない。
そして、映画が語るべき真の物語のひとつ、サリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) の物語は実は実兄、フランクリン・ハーデスティ (Franklin Hardesty) の死から始まるのである。
少し先を急ぎすぎている。
映画に登場する被害者は5人、男3人に対して女は2人。そしてそれぞれの女性に対して、恋人となる男性1人があてがわれている。
[少なくとも] 映画の中では恋人のいないフランクリン・ハーデスティ (Franklin Hardesty) の死は上に綴った様なモノだ。だけれども、他の男性2人の死も似た様なモノなのである。
あっさりと殺される。その際に描くべき苦痛や恐怖はあっても最小限のモノだ。出会い頭の衝突の様なかたちでレザーフェイス (Leatherface) に瞬殺される。
恋人を護るが為に自らが矢面に立ったが故の、犠牲的精神 (Self-sacrifice) の顕れすらできない。単なる犬死 (Die In Vain) でしかないのだ。
カーク (Kirk) [演:ウィリアム・ヴェイル (William Vail)] の死はパム (Pam) [演:テリー・マクミン (Teri McMinn)] の恐怖を掻き立てる為の道具でしかない。レザーフェイス (Leatherface) によってちんちょう (Meat Hook) に吊り下げられた彼女の叫びは、自身の背に突き刺さったその激痛だけでなく、レザーフェイス (Leatherface) によって損壊されるかつて彼だった遺骸が起こすモノだ。彼の死は、映画にとってはその為にこそある。
と、同時に、ふたりを捜しあぐねたジェリー (Jerry) [演:アレン・ダンジガー (Allen Danziger)] が恐怖を掻き立てられるのも、冷蔵庫 (refrigerator) 内から不意に立ち上がる彼女の屍体なのである。
そして、いつまでも帰って来ない恋人、ジェリー (Jerry) を捜しに向かった兄妹の前にレザーフェイス (Leatherface) が登場するのだ。
だから、ここまでのこの5人は、単純に殺されるべき人間達であってそれ以上の意味は映画の中では持たない。物語の背景として描かれるべき人物像も、最低限のモノでしかない。だからこそ、淡々とひとりひとり、あっけなくレザーフェイス (Leatherface) によって惨殺されるし、ぼく達が彼等の誰ひとりとして感情移入する必要も求められていない。
逆に性格描写、心理描写と謂う点に関しては、被害者達よりも加害者達、ソーヤー一家 (Sawyer Family) の方が濃厚だ。だけれども、だからと謂って彼等に心情を寄せる事もまた不可能だ。
グランマ (Grandma Sawyer) は既に木乃伊 (Mummy) であり、屍体である。彼女の存在理由は、これが映画『サイコ (Psycho)』 [アルフレッド・ヒッチコック (Alfred Hitchcock) 監督作品 1960年制作] の悪意あるパロディ (Parody) であると謂う表出くらいのモノだろうか。否、少なくとも彼女が存在しているだけで、レザーフェイス (Leatherface) から逃れようと2階に上がったサリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) に、ここはどこか、どう謂うところか、と謂う事を明快に語りかけてくれるのだ。
グランパ (Grandpa) [演:ジョン・デュガン (John Dugan)] は、遅延としての装置だ。老齢化の故に暴力を自らの意思と体力で振るう事が困難となっている彼がいるからこそ、サリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) の恐怖はさらに増幅される。そして、これまで加速するばかりだった物語が一挙にその速力を失し、そこから異なる恐怖を描き始める、その伏線でもあるのだ。
ヒッチハイカー (Hitchhiker) は純粋にヤバいとは誰からみても解るだろう。だが、彼のヤバさ以上に、老人 / コック (Old Man aka Cook) [演:ジム・シードウ (Jim Siedow)] のヤバさは群を抜いている。なまじ、社会生活を営めているだけ、余計に始末が悪い。
だから逆にレザーフェイス (Leatherface) の幼さ、稚さが強調される。彼に人気が集まるのも当然だ。
さて、ぼくは拙稿の冒頭で美しい光景がふたつあると綴った。
映画の中では、レザーフェイス (Leatherface) から逃れたサリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) は救援を求めて老人 / コック (Old Man aka Cook) の店へと辿り着く。彼女は本性を顕した彼に殴打され気絶してしまう。そして、彼は道中に拾ったヒッチハイカー (Hitchhiker) と共に、サリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) がもときた道を逆にたどる。彼等もまた、あの家の住人だったのだ。
気絶から意識を回復したサリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) はようやくその事を悟る。そして、悲鳴をあげるのだ。

映画は彼女の悲鳴と恐怖のあまりにみひらかれた彼女の瞳孔 (Pupil)、その動きだけを追う [上掲図はこちらから]。
それ以外にみえるものはなにもなく、それ以外に聴こえるのは、彼女を嘲笑う3人の哄笑ばかりだ。
その光景は実に美しい。
このシーンが美しいのは、既に始まっているサリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) の物語に続いてようやくここでレザーフェイス (Leatherface) の物語がはじまるからだ。
そして映画を観るぼく達にきっとこんな問いかけをしているのに違いない。
おまえはどっちだ、と。
サリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) の物語としてこの映画を観るのか、それとも、レザーフェイス (Leatherface) の物語としてこの映画を観るのか、その覚悟をこのシーンは尋ねているのに違いない。
被虐者としてこの映画を観る、加虐者としてこの映画を観る、その視点の違いによって、これからの僅か十数分の体験が全く異なるのに違いない。
と、ぼくは思うからこそ、ここを美しいとおもう。
そして、ここでの美しさがチェーンソーダンス (The Chainsaw Dance) にそのまま反映されている、チェーンソーダンス (The Chainsaw Dance) が美しいのはここがあるからこそ、と思うのだ。
きみはいま、その光景をだれの視点で、みているのか。
サリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) は既に脚を痛めはしる事は出来ない。
結果的に物語は減速する。しかし、その遅延されたかたりくちの中で語られる事はあまりに様々だ。
追いついたヒッチハイカー (Hitchhiker) 、嘲り蹂躙しようとするヒッチハイカー (Hitchhiker) は、トラック (Truck) の下敷きになっている。
そのトラック (Truck) の運転手は顕れたと思ったら、何処かへ、そして、おそらく、しかもいつのまにか、安全に逃げ延びている。
彼等を追うレザーフェイス (Leatherface) は自傷し、彼もはしれなくなる。
サリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) は辛くもさっきとは別のトラック (Truck) の荷台にあって、後方へ消えゆく彼の姿をみて、血まみれのまま、おおわらいしている。
そして ...。
次回は「え」。
附記 1. :
先日、映画『マッド・ジェイク / 処刑の診療台 (Blood Salvage)』 [タッカー・ジョンストン (Tucker Johnston) 監督作品 1990年制作] と謂う作品を観た。本作と、その映画を制作した監督の次作である映画『悪魔の沼 (Eaten Alive)』 [トビー・フーパー (Tobe Hooper) 監督作品 1977年制作]、その美味しいところの換骨奪胎 (Addaption) を試みようとした作品にみえなくもない。あるスクラップ工場 (Scraping Factory) を舞台とした、そこを経営する怪しげな家族の物語であって、木乃伊 (Mummy) 化した屍体も登場すれば車椅子 (Wheelchair) も登場するし鰐 (Crocodile) [映画『悪魔の沼 (Eaten Alive)』に登場する] も登場する。その工場に溢れているのは、その家族の長によって損壊された生体である。彼等は生体移植( Organ Transplantation) 等に要する臓器の供給源であり、生きていると謂うよりも死していると謂う方が早い。
そして映画から感ずるある種の嫌悪感は本作と凄くよく似たモノなのにも関わらず、本作から得られる美や感動からは一切、無縁なのである。
ぼくが謂いたいのは、本作にあってこの映画にないモノと、本作にはないがこの映画にあるモノを見極める事によって、何故、本作の評価が現在ある様な地位にあるのか、それを知る手掛かりになりそうだと謂う事なのだ。
「クララがたった (Clara Standing)」と謂う身体障害者 (Disabled) をめぐる荒唐無稽 (Stretch Credibility) さと謂う点だけがこの映画の価値を貶めているのだろうか? と謂う問題も含めて。
附記 2. :
映画『マニアックコップ2 (Maniac Cop 2)』 [ウィリアム・ラスティグ (William Lustig) 監督作品 1990年制作] を観ていると、マット・コーデル (Matt Cordell) [演:ロバート・ツダール (Robert Z'Dar)] に追い詰められたテレサ・マロリー (Teresa Mallory) [演:ローレン・ランドン (Laurene Landon)] が、店頭見本として飾られてあるチェンソー (Chain Saw) を掴み、マット・コーデル (Matt Cordell) に立ち向かおうとするシーンがある。しかもその姿勢はレザーフェイス (Leatherface) のそれとまるでおなじなのである。
それだけ、チェンソー (Chain Saw) と謂う武器は、消費され蕩尽された地位にある。
それ故に、本作の続編映画『悪魔のいけにえ 2 (The Texas Chain Saw Massacre 2)』 [トビー・フーパー (Tobe Hooper) 監督作品 1986年制作] に於いての、レザーフェイス (Leatherface) [演:ビル・ジョンソン (Bill Johnson)] とレフティ・エンライト (Lt. Boude "Lefty" Enright) [演:デニス・ホッパー (Dennis Hopper)] と、この2人が共にチェンソー (Chain Saw) をもって対峙すると謂うのは、そんなチェンソー (Chain Saw) と謂う存在に対するパロディ (Parody) であろう。
映画『悪魔のいけにえ (The Texas Chain Saw Massacre)』と謂えばレザーフェイス (Leatherface) だし、彼が使うチェンソー (Chain Saw) であるが、恐怖映画 (Scary Movie) に於いて、その様な形でチェンソー (Chain Saw) を起用したのは本作が初めてでも、レザーフェイス (Leatherface) が初めてでもない。少なくとも、ぼくの知っている限りにおいては映画『鮮血の美学 (The Last House On The Left)』 [ウェス・クレイヴン (Wes Craven) 監督作品 1972年制作] が早い。
だけれども、そこでのチェンソー (Chain Saw) とは、半ば窮余の作と謂う趣きがない訳でもない。
附記 3. :
こちらで、映画『サランドラ (The Hills Have Eyes)』 [ウェス・クレイヴン (Wes Craven) 監督作品 1977年制作] との本作との関係性、そして同時に映画『ピンク・フラミンゴ (Pink Flamingos)』 [ジョン・ウォーターズ (John Waters) 監督作品 1972年制作] との関係性に関して綴ってある。と、謂う事は、謂うまでもなく本作もまた映画『ピンク・フラミンゴ (Pink Flamingos)』のパロディ (Parody) なのである。そのパロディ (parody) 指向は本作よりも続編映画『悪魔のいけにえ 2 (The Texas Chain Saw Massacre 2)』の方が濃厚である。
ひとつは映画の終幕、ものの見事に逃げ仰たサリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) [演:マリリン・バーンズ (Marilyn Burns)] の哄笑をうけて、チェンソー (Chain Saw) を振り回すレザーフェイス (Leatherface) [演:ガンナー・ハンセン (Gunnar Hansen)]、俗にチェーンソーダンス (The Chainsaw Dance) と呼ばれるシーンである。
なぜ、それをぼく達は美しいと思うのか、美しいと呼ぶのか。
ひとつの理由としては、その背景にある。なにもないテキサス (Texas) の平原を朱く染める太陽を背にしているからだ。これがもし、それまで彼女が囚われていた彼の自宅だったら、必ずしもそうはおもわないだろう。
だが。
映画『悪魔のいけにえ (The Texas Chain Saw Massacre)』 [トビー・フーパー (Tobe Hooper) 監督作品 1974年制作] の終結部がそうならば、その冒頭はなんだったのだろう。
物語は、フランクリン・ハーデスティ (Franklin Hardesty) [演:ポール・A・パーテイン (Paul A. Partain)] の転落で始まる。放尿の為にくるまを一旦停車し、道路脇に向かい、渡された空缶を手にし、車椅子 (Wheelchair) 上の彼はそのままそこに用をたそうとする。しかし、通過するトラック (Truck) の起こす突風をうけた彼は車椅子 (Wheelchair) ごと転倒してしまうのだ。
この光景を観たぼく達はおそらくこう思う。きっと、今と同様に、情けない死を彼は迎えるのだ、と。
そんな発想は日常では決して許されないモノだ。だが、映画を観るぼく達はそう思わざるを得ないし、映画だからこそ許されると、多少のうしろめたさを感じながらもそう謂い聞かせる。そして、その映画が語る彼と謂う人物をみれば、ぼく達のうしろめたさも多少なりとも軽減されるのだ。何故ならば、映画の中での彼の言動はすこしばかり常軌を失しているからだ [その精神状態の危うさはこのすぐ後に出逢うヒッチハイカー (Hitchhiker) [演:エドウィン・ニール (Edwin Neal)] のそれとは大同小異 (General Resemblance) にもみえる] 。それ故に、さっきまでとは逆に、彼に対する加虐嗜好と謂うモノも多少加速される様な気もする。惨めで哀れなその死を、期待するぼく達の居場所はそこにある。
しかし、映画はその様な物語を語る事はない。
彼は、闇から顕れたレザーフェイス (Leatherface) によって一瞬にして惨殺されるのだ。恐怖や激痛を感ずるのは彼よりも彼を乗せている車椅子 (Wheelchair) を押していた妹、サリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) の方が甚だしいに違いない。
そして、映画が語るべき真の物語のひとつ、サリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) の物語は実は実兄、フランクリン・ハーデスティ (Franklin Hardesty) の死から始まるのである。
少し先を急ぎすぎている。
映画に登場する被害者は5人、男3人に対して女は2人。そしてそれぞれの女性に対して、恋人となる男性1人があてがわれている。
[少なくとも] 映画の中では恋人のいないフランクリン・ハーデスティ (Franklin Hardesty) の死は上に綴った様なモノだ。だけれども、他の男性2人の死も似た様なモノなのである。
あっさりと殺される。その際に描くべき苦痛や恐怖はあっても最小限のモノだ。出会い頭の衝突の様なかたちでレザーフェイス (Leatherface) に瞬殺される。
恋人を護るが為に自らが矢面に立ったが故の、犠牲的精神 (Self-sacrifice) の顕れすらできない。単なる犬死 (Die In Vain) でしかないのだ。
カーク (Kirk) [演:ウィリアム・ヴェイル (William Vail)] の死はパム (Pam) [演:テリー・マクミン (Teri McMinn)] の恐怖を掻き立てる為の道具でしかない。レザーフェイス (Leatherface) によってちんちょう (Meat Hook) に吊り下げられた彼女の叫びは、自身の背に突き刺さったその激痛だけでなく、レザーフェイス (Leatherface) によって損壊されるかつて彼だった遺骸が起こすモノだ。彼の死は、映画にとってはその為にこそある。
と、同時に、ふたりを捜しあぐねたジェリー (Jerry) [演:アレン・ダンジガー (Allen Danziger)] が恐怖を掻き立てられるのも、冷蔵庫 (refrigerator) 内から不意に立ち上がる彼女の屍体なのである。
そして、いつまでも帰って来ない恋人、ジェリー (Jerry) を捜しに向かった兄妹の前にレザーフェイス (Leatherface) が登場するのだ。
だから、ここまでのこの5人は、単純に殺されるべき人間達であってそれ以上の意味は映画の中では持たない。物語の背景として描かれるべき人物像も、最低限のモノでしかない。だからこそ、淡々とひとりひとり、あっけなくレザーフェイス (Leatherface) によって惨殺されるし、ぼく達が彼等の誰ひとりとして感情移入する必要も求められていない。
逆に性格描写、心理描写と謂う点に関しては、被害者達よりも加害者達、ソーヤー一家 (Sawyer Family) の方が濃厚だ。だけれども、だからと謂って彼等に心情を寄せる事もまた不可能だ。
グランマ (Grandma Sawyer) は既に木乃伊 (Mummy) であり、屍体である。彼女の存在理由は、これが映画『サイコ (Psycho)』 [アルフレッド・ヒッチコック (Alfred Hitchcock) 監督作品 1960年制作] の悪意あるパロディ (Parody) であると謂う表出くらいのモノだろうか。否、少なくとも彼女が存在しているだけで、レザーフェイス (Leatherface) から逃れようと2階に上がったサリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) に、ここはどこか、どう謂うところか、と謂う事を明快に語りかけてくれるのだ。
グランパ (Grandpa) [演:ジョン・デュガン (John Dugan)] は、遅延としての装置だ。老齢化の故に暴力を自らの意思と体力で振るう事が困難となっている彼がいるからこそ、サリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) の恐怖はさらに増幅される。そして、これまで加速するばかりだった物語が一挙にその速力を失し、そこから異なる恐怖を描き始める、その伏線でもあるのだ。
ヒッチハイカー (Hitchhiker) は純粋にヤバいとは誰からみても解るだろう。だが、彼のヤバさ以上に、老人 / コック (Old Man aka Cook) [演:ジム・シードウ (Jim Siedow)] のヤバさは群を抜いている。なまじ、社会生活を営めているだけ、余計に始末が悪い。
だから逆にレザーフェイス (Leatherface) の幼さ、稚さが強調される。彼に人気が集まるのも当然だ。
さて、ぼくは拙稿の冒頭で美しい光景がふたつあると綴った。
映画の中では、レザーフェイス (Leatherface) から逃れたサリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) は救援を求めて老人 / コック (Old Man aka Cook) の店へと辿り着く。彼女は本性を顕した彼に殴打され気絶してしまう。そして、彼は道中に拾ったヒッチハイカー (Hitchhiker) と共に、サリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) がもときた道を逆にたどる。彼等もまた、あの家の住人だったのだ。
気絶から意識を回復したサリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) はようやくその事を悟る。そして、悲鳴をあげるのだ。

映画は彼女の悲鳴と恐怖のあまりにみひらかれた彼女の瞳孔 (Pupil)、その動きだけを追う [上掲図はこちらから]。
それ以外にみえるものはなにもなく、それ以外に聴こえるのは、彼女を嘲笑う3人の哄笑ばかりだ。
その光景は実に美しい。
このシーンが美しいのは、既に始まっているサリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) の物語に続いてようやくここでレザーフェイス (Leatherface) の物語がはじまるからだ。
そして映画を観るぼく達にきっとこんな問いかけをしているのに違いない。
おまえはどっちだ、と。
サリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) の物語としてこの映画を観るのか、それとも、レザーフェイス (Leatherface) の物語としてこの映画を観るのか、その覚悟をこのシーンは尋ねているのに違いない。
被虐者としてこの映画を観る、加虐者としてこの映画を観る、その視点の違いによって、これからの僅か十数分の体験が全く異なるのに違いない。
と、ぼくは思うからこそ、ここを美しいとおもう。
そして、ここでの美しさがチェーンソーダンス (The Chainsaw Dance) にそのまま反映されている、チェーンソーダンス (The Chainsaw Dance) が美しいのはここがあるからこそ、と思うのだ。
きみはいま、その光景をだれの視点で、みているのか。
サリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) は既に脚を痛めはしる事は出来ない。
結果的に物語は減速する。しかし、その遅延されたかたりくちの中で語られる事はあまりに様々だ。
追いついたヒッチハイカー (Hitchhiker) 、嘲り蹂躙しようとするヒッチハイカー (Hitchhiker) は、トラック (Truck) の下敷きになっている。
そのトラック (Truck) の運転手は顕れたと思ったら、何処かへ、そして、おそらく、しかもいつのまにか、安全に逃げ延びている。
彼等を追うレザーフェイス (Leatherface) は自傷し、彼もはしれなくなる。
サリー・ハーデスティ (Sally Hardesty) は辛くもさっきとは別のトラック (Truck) の荷台にあって、後方へ消えゆく彼の姿をみて、血まみれのまま、おおわらいしている。
そして ...。
次回は「え」。
附記 1. :
先日、映画『マッド・ジェイク / 処刑の診療台 (Blood Salvage)』 [タッカー・ジョンストン (Tucker Johnston) 監督作品 1990年制作] と謂う作品を観た。本作と、その映画を制作した監督の次作である映画『悪魔の沼 (Eaten Alive)』 [トビー・フーパー (Tobe Hooper) 監督作品 1977年制作]、その美味しいところの換骨奪胎 (Addaption) を試みようとした作品にみえなくもない。あるスクラップ工場 (Scraping Factory) を舞台とした、そこを経営する怪しげな家族の物語であって、木乃伊 (Mummy) 化した屍体も登場すれば車椅子 (Wheelchair) も登場するし鰐 (Crocodile) [映画『悪魔の沼 (Eaten Alive)』に登場する] も登場する。その工場に溢れているのは、その家族の長によって損壊された生体である。彼等は生体移植( Organ Transplantation) 等に要する臓器の供給源であり、生きていると謂うよりも死していると謂う方が早い。
そして映画から感ずるある種の嫌悪感は本作と凄くよく似たモノなのにも関わらず、本作から得られる美や感動からは一切、無縁なのである。
ぼくが謂いたいのは、本作にあってこの映画にないモノと、本作にはないがこの映画にあるモノを見極める事によって、何故、本作の評価が現在ある様な地位にあるのか、それを知る手掛かりになりそうだと謂う事なのだ。
「クララがたった (Clara Standing)」と謂う身体障害者 (Disabled) をめぐる荒唐無稽 (Stretch Credibility) さと謂う点だけがこの映画の価値を貶めているのだろうか? と謂う問題も含めて。
附記 2. :
映画『マニアックコップ2 (Maniac Cop 2)』 [ウィリアム・ラスティグ (William Lustig) 監督作品 1990年制作] を観ていると、マット・コーデル (Matt Cordell) [演:ロバート・ツダール (Robert Z'Dar)] に追い詰められたテレサ・マロリー (Teresa Mallory) [演:ローレン・ランドン (Laurene Landon)] が、店頭見本として飾られてあるチェンソー (Chain Saw) を掴み、マット・コーデル (Matt Cordell) に立ち向かおうとするシーンがある。しかもその姿勢はレザーフェイス (Leatherface) のそれとまるでおなじなのである。
それだけ、チェンソー (Chain Saw) と謂う武器は、消費され蕩尽された地位にある。
それ故に、本作の続編映画『悪魔のいけにえ 2 (The Texas Chain Saw Massacre 2)』 [トビー・フーパー (Tobe Hooper) 監督作品 1986年制作] に於いての、レザーフェイス (Leatherface) [演:ビル・ジョンソン (Bill Johnson)] とレフティ・エンライト (Lt. Boude "Lefty" Enright) [演:デニス・ホッパー (Dennis Hopper)] と、この2人が共にチェンソー (Chain Saw) をもって対峙すると謂うのは、そんなチェンソー (Chain Saw) と謂う存在に対するパロディ (Parody) であろう。
映画『悪魔のいけにえ (The Texas Chain Saw Massacre)』と謂えばレザーフェイス (Leatherface) だし、彼が使うチェンソー (Chain Saw) であるが、恐怖映画 (Scary Movie) に於いて、その様な形でチェンソー (Chain Saw) を起用したのは本作が初めてでも、レザーフェイス (Leatherface) が初めてでもない。少なくとも、ぼくの知っている限りにおいては映画『鮮血の美学 (The Last House On The Left)』 [ウェス・クレイヴン (Wes Craven) 監督作品 1972年制作] が早い。
だけれども、そこでのチェンソー (Chain Saw) とは、半ば窮余の作と謂う趣きがない訳でもない。
附記 3. :
こちらで、映画『サランドラ (The Hills Have Eyes)』 [ウェス・クレイヴン (Wes Craven) 監督作品 1977年制作] との本作との関係性、そして同時に映画『ピンク・フラミンゴ (Pink Flamingos)』 [ジョン・ウォーターズ (John Waters) 監督作品 1972年制作] との関係性に関して綴ってある。と、謂う事は、謂うまでもなく本作もまた映画『ピンク・フラミンゴ (Pink Flamingos)』のパロディ (Parody) なのである。そのパロディ (parody) 指向は本作よりも続編映画『悪魔のいけにえ 2 (The Texas Chain Saw Massacre 2)』の方が濃厚である。
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