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2023.08.22.08.15

ぐっどないとうぇるいっつたいむとぅごー

正しくは楽曲『グッドナイト・スウィートハート・グッドナイト (Goodnite, Sweetheart, Goodnite)』[カルビン・カーター (Calvin Carter)、ジェイムズ・ポーキー・ハドソン (James "Pookie" Hudson) 作]、1954年のザ・スパニエルズ (The Spaniels) のヒット曲にして彼等を代表する楽曲である。
但し、表題にある様に、この楽曲冒頭の歌詞をそのまま楽曲名に据えて流通させている場合がある。
オムニバス盤『アメリカン・グラフィティ ― オリジナル・サウンドトラック (41 Original Hits From The Soundtrack Of American Graffiti)』 [1973年発売] に収録されている際の収録曲名も楽曲『グッドナイト・ウェル・イッツ・タイム・トゥ・ゴー (Goodnight, Sweetheart, Well, It's Time To Go,)』である。

敢えて指摘する必要もないだろうが、このオムニバス盤は映画『アメリカン・グラフィティ (American Graffiti)』 [ジョージ・ルーカス (George Lucas) 監督作品 1973年制作] のサウンドトラック盤でもある。だけれども、その映画を離れて、ある時代の音楽をとらえたひとつの作品としても通用する。
だから、ここで表題として掲げた本曲を発端として、このアルバムを寿ぐ事は十分に可能だが、ここではやらない。
その楽曲が起用されたその映画のシーンについて考えたいのだ。

映画の中ではこの楽曲がクロージング・テーマの役割を担っている。
実際には、この楽曲が画面の青空の中に消えていっても、映画は終わっていない。この映画の物語に登場する4人の青年達の現在、つまりこの映画が制作された1973年当時の彼等の消息を簡単に伝えてエンド・クレジットが登場する。その際に流れるのがザ・ビーチ・ボーイズ (The Beach Boys) の楽曲『オール・サマー・ロング (All Summer Long)』 [アルバム『オール・サマー・ロング (All Summer Long)』 [1964年発表] 収録] である。映画が語っている1962年のある夏の1夜にはまだ制作されてもいないこの楽曲が流れるのは、なんらかの意図があるのだろう。
それ故に、その夜の物語の終焉を告げる楽曲こそは、本曲なのである。

その夜、プロム (Prom) の夜の物語の主人公を一見、現在の消息が告げられる4人の青年達であると看做すのは容易い。すなわち、カート・ヘンダーソン (Curt Henderson) [演:リチャード・ドレイファス (Richard Dreyfuss)]、スティーヴ・ボランダー (Steve Bolander) [演:ロン・ハワード (Ronny Howard)]、ジョン・ミルナー (John Milner) [演:ポール・ル・マット (Paul Le Mat)] そしてテリー・フィールズ (Terry "The Toad" Fields) [演:チャールズ・マーティン・スミス (Charlie Martin Smith)] の4人の物語だ。そしてそのひとりひとりにパートナーとなるべき女性1人があてがわれ、彼等8人の群像劇であると解釈するのも可能だ。

そして、映画を観るぼく達が彼等それぞれの行動や思考を常に対称化させて観ている様に、その4人 [もしくは8人] それぞれが自己とひきくらべて、遺りの3人 [もしくは7人] の行動や思考をみていると看做す事も可能であろう。

だからここでぼく達は、例えば、カート・ヘンダーソン (Curt Henderson) ただひとりの視点に立ってこの夜の物語をみてもいいのだ。

翌朝、彼は大学進学の為に、この地を離れる事になっている。だが、未だに逡巡している。
彼からみれば、ジョン・ミルナー (John Milner) [演:ポール・ル・マット (Paul Le Mat)] はありえるかもしれない未来だ。しかも反面教師 (Bad Role Model) としてみえてしまう。今の彼は怖いものなしだが、いつまでもそこにいられる訳もない。このままここに燻って、彼の様になっても良いのだろうか、そんな思いがよぎる。現に今、ボブ・ファルファ (Bob Falfa) [演:ハリソン・フォード (Harrison Ford)] が彼を亡き者とせんと捜し廻っているではないか [ジョン・ミルナー (John Milner) にはキャロル・モリソン (Carol) [演:マッケンジー・フィリップス (MacKenzie Phillips)] と謂う少女が顕れる。彼にとっては子供にしかみえない様な彼女だが、彼のこの街での評価もどこか子供じみた人気とおもえば、実はちょうどいいつりあいなのかもしれない]。
彼からみれば、テリー・フィールズ (Terry "The Toad" Fields) [演:チャールズ・マーティン・スミス (Charlie Martin Smith)] は過去だ。恋人もいなければ自身専用の乗用車もない。1年前の自身はああだっただろうか [そしてその夜、テリー・フィールズ (Terry "The Toad" Fields) はデビー・ダンハム (Debbie Dunham) [演:キャンディ・クラーク (Candy Clark)] と謂う女性と出逢う]。
そして彼からみれば、スティーヴ・ボランダー (Steve Bolander) [演:ロン・ハワード (Ronny Howard)] は自身にはない恋人がいる。それは自身の妹、ローリー・ヘンダーソン (Laurie Henderson) [演:シンディ・ウィリアムズ (Cindy Williams)] だ。彼は自身と同じく進学の為にここを離れる筈だが、妹をどうするつもりだろう [そして、その彼と妹は、彼等にとっての最期となる筈の夜をすったもんだしているのである]。
否、それ以上に自分自身はどうなのか。

images
カート・ヘンダーソン (Curt Henderson) の映画の中での行動原理はきっと斯様なモノだったと思われる。
つまり、彼は大学進学を放棄してここに留まる、その理由を捜してひとり、夜を放浪するのだ。
そしてあてどない放浪の代替物として発見したのが1956年型フォード サンダーバード (1956 Ford Thunderbird) だ。彼はその夜、それに乗る女性を捜しもとめる事になるのである。先に綴った、カート・ヘンダーソン (Curt Henderson) にとってのパートナーとなるべき女性1人とはサンダーバードの女 (The Blonde In The T-Bird) [演:スザンヌ・ソマーズ (Suzanne Somers] が該当する。

上に綴った様な文章を自身の中で反芻してみると、まるで二流のアメリカン・ニューシネマ (New Hollywood) である。しかも出来の悪い。しかし、そうはならなかった。その理由は幾つもあるだろうが、ひとつにカート・ヘンダーソン (Curt Henderson) の心象を描写する事を一切、放棄した点にあるだろう。映画は純粋に客観描写に徹しているのである。
だからこそ、彼はファラオ団 (The Pharaohs)に翻弄されもし、ウルフマン・ジャック (Wolfman Jack) [本人 (Self)] にも逢う。ぼく達はその経緯だけ辿るだけだ。彼と共にサンダーバードの女 (The Blonde In The T-Bird) の行方、もしくは居場所を捜す事となるのだ。

その結果、彼がどの様な思考の変転を経て、その結論に達したのかは解らない。
ウルフマン・ジャック (Wolfman Jack) の計らいで、彼はサンダーバードの女 (The Blonde In The T-Bird) と会話 [だけ] する事が出来る。そしてその際には既に翌朝、この街を去る事を決心しているのだ。
その理由、そこへと辿り着く過程は描かれないままに、本曲が流れ始めるのである [こちらを参照]。

単純に考えれば、そこで歌われている歌詞はカート・ヘンダーソン (Curt Henderson) の心情そのままだ。そしてその歌詞をサンダーバードの女 (The Blonde In The T-Bird) に向けて投げかけている様にも、他の3人 [もしくは7人] に向けている様にも解釈出来る。
彼を見送る人々もその夜、彼に何があったのかは知らない。彼の内心のゆらめきもおそらく理解していないだろう。だからおそらく、予定通りの出立と思ってもいるのに違いない。だからこそ、ここでこの楽曲を選択した意図はよく解る。
だけれども、それを裏切るかの様に、窓の遥か下、カート・ヘンダーソン (Curt Henderson) を乗せた旅客機に並走する様に1956年型フォード サンダーバード (1956 Ford Thunderbird) が疾駆しているのだ。

次回は「」。

附記 1. :
と、上に綴った描写を観ていたら、異なる映画の最終場面を憶い出す。
映画『ピクニック (Picnic)』 [ジョシュア・ローガン (Joshua Logan) 監督作品 1955年制作] である。
そこでは追っ手から逃れる中、ハル・カーター (Hal Carter) [演:ウィリアム・ホールデン (William Holden)] は慌ただしくもマッジ (Madge Owens) [演:キム・ノヴァク (Kim Novak)] に愛情を告げるがそれが今、叶わぬと知るや、疾走中の列車に飛び乗る。その情景は突然に別れを告げられる方、すなわちマッジ (Madge Owens) の視線として語られている [こちらを参照]。これをそのまま逆転させて、ハル・カーター (Hal Carter) の視点に立ってその叙景を構成すれば、映画の中のカート・ヘンダーソン (Curt Henderson) の視点と同じにならないだろうか。
そしてその映画は彼女の妹、ミリー (Millie Owens) [演:スーザン・ストラスバーグ (Susan Strasberg)] が無邪気に見送るなか、ハル・カーター (Hal Carter) を追って旅立つマッジ (Madge Owens) のシーンで終わるのだ。しかも画面は鳥瞰に移行し、彼女を乗せたバスがたどるであろう旅程と重なる様に、ハル・カーター (Hal Carter) を乗せた列車が走行していった線路がある。
その情景を想起して、映画『アメリカン・グラフィティ (American Graffiti)』の終演部を観ると、まるでその映画のその後、第2章 [続篇映画『アメリカン・グラフィティ2 (More American Graffiti)』[ビル・L・ノートン (Bill L. Norton) 監督作品 1979年制作] の事ではない] が存在する様に思えるのだ。

附記 2. :
映画の舞台はプロム (Prom) の夜である。後年、映画『プロムナイト (Prom Night)』 [ポール・リンチ (Paul Lynch) 監督作品 1980年制作] が代表する様に、その夜に勃発する惨劇を題材とする映画が群発する。だが、流石にこの映画ではその様な事態は出来しない。まだ1973年なのだ。
その夜の恐怖を描いたもうひとつの映画『キャリー (Carrie)』 [スティーヴン・キング (Stephen King) 原作 ブライアン・デ・パルマ (Brian De Palma) 監督作品 1976年制作] が登場するまで3年もある。否、たったの3年か?
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