2023.08.08.08.14
と聴いて憶い出すのはぼくの子供時代、自宅にあった二層式 (Twin Tub) の全自動洗濯機 (Automatic Washing Machine)、うず潮 (Uzushio : Whirlpools) [1969年頃 松下電気産業株式会社 (Matsushita Electric Industrial Co., Ltd.) 製造販売] である。
だけれども、拙稿の主題はそこにはない。
森鴎外こと森林太郎 (Rintaro Mori aka Mori Ogai) が翻訳した短編小説『うづしほ (A Descent Into The Maelstrom)』 [エドガア・アルラン・ポオ (Edgar Allan Poe) 作 1841年 グレアムズ・マガジン (Graham's Magazine) 掲載 森林太郎 (Rintaro Mori) 訳 1910年 文藝倶楽部 (Bungei Club) 掲載] なのだ。青空文庫 (Aozora Bunko : The Open Air Library) の蔵書である。
その短編小説はべつの翻訳、別の表題で青空文庫 (Aozora Bunko : The Open Air Library) に収蔵されてもいる。短編小説『メールストロムの旋渦 (A Descent Into The Maelstrom)』 [エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) 作 1841年 グレアムズ・マガジン (Graham's Magazine) 掲載 佐々木直次郎 (Naojiro Sasaki) 訳 1951年 新潮社 (Shinchosha) 刊行] である。
そしてぼくがこの短編小説を体験したのは、さらに別の翻訳、別の表題である。短編小説『メエルシュトレエムに呑まれて (A Descent Into The Maelstrom)』 [エドガア・アルラン・ポオ (Edgar Allan Poe) 作 1841年 グレアムズ・マガジン (Graham's Magazine) 掲載 小川和夫 (Kazuo Ogawa) 訳 1974年 東京創元社 (Tokyo Sogensha) 刊行] である。一般には、この短編小説はこの邦題で流通している様だ。
と、謂う訳で、ひとつの短編小説に少なくとも異なる3人の翻訳家の掌によって、異なるみっつの翻訳が存在している事となる [勿論、このみっつだけではないだろう]。
だからこの異なる翻訳3篇を読み比べれば、新たな発見があるのかもしれない。
またそれとは別に、みっつの翻訳で最も旧いモノ、短編小説『うづしほ (A Descent Into The Maelstrom)』だけに着目しても良いのかもしれない。何故ならば、先に綴った様に、それは森鴎外 (Mori Ogai) の翻訳だからだ。
青空文庫 (Aozora Bunko : The Open Air Library) には、この翻訳の他にも、幾作品かの森鴎外 (Mori Ogai) 翻訳による短編小説が収蔵されている。それらと共に読み比べ、彼が何故、この短編小説に着目したのか、それを推理するのも面白いだろう。幾つかの作品やその作家は既に忘れさられた、逆に謂えば森鴎外 (Mori Ogai) の翻訳だからこそ、今のぼく達の眼に触れる様な作品や作家である。それ故に、この短編小説が彼に翻訳されたのは、エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) と謂う作家の作品だからと謂う点ではないらしいところにありそうなのだ [と、謂いながらぢゃあ何故? とかと謂うところまでを語れる程に確信めいたモノはないのだ]。
だから、ここに挙げた2点に関しては、いつかどこかで、と謂う事にしておきたい。尤も、既に他の誰かが行なってしまった場合もあるのではあろうが。
拙稿の表題に短編小説『うづしほ (A Descent Into The Maelstrom)』を揚げたのは、この連載のこのルールによる。
それだから、以降の記述は必ずしも森鴎外 (Mori Ogai) 翻訳作品について、とは限らない。敢えて謂えば、みっつの翻訳そのどれにも該当する、と同時に、どれとは断定する必要もない、この小説に顕れている事だけに関するモノになるだろう。だから、これから記述される事柄は、みっつ総ての翻訳を事前に読む必要もない。どれかひとつ、そしてもしかすると、短編小説の外観だけを知っていれば済んでしまう様な事ばかりになるだろう。
そこで綴られてあるのは枠物語 (Frame Story) の構造をとってある。
物語の語り手である私 (I, The Narrator) が、ある"老いた"漁師 (The "Old" Man) に案内されてメイルストロム (Malstrom) を一望に収める (Command A View Of)。そしてその後、彼を案内した"老いた"漁師 (The "Old" Man) が、自身の体験談を物語るのである。物語全般の主軸は、その体験談にある。
では何故その様な構造を採ったのであろうか。直裁に"老いた"漁師 (The "Old" Man) の体験、その告白だけで小説は構成出来ないのであろうか。つまり、同じ作家、すなわちエドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) の作品であれば、短編小説『黒猫 (The Black Cat)』 [エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) ユナイテッド・ステイツ・サタデー・ポスト (United States Saturday Post 1843年発表] の様な構成を何故、この小説は採れなかったのだろうか。
答は単純だ。その"老いた"漁師 (The "Old" Man) の地位や身分、教養では決して語られ様もない体験、語りきれない体験だからだ。
彼が語るべきはある自然災害からの脱出、もしくはその克服である。そして、それを行うには冷静な観察眼と沈着とした判断力と、それらに基づいて瞬時に対応出来る体力が必要となる。単純に考えれば"老いた"漁師 (The "Old" Man) に備わっているであろうモノは最期のひとつ、長年の生活によって鍛えられた漁民としての肉体だけであろう。そして、それ以外のモノがもし [ここで"もし"と謂うのは矛盾がある。何故ならそれらを駆使したが故に今の彼があるからだ] 彼に備わっていたとしても、それを適切な語句や的確な語彙を駆使して語り得る表現力もしくは叙述力が彼に備わっているのだろうか。そんな疑問は彼が語っている最中、常についてまわるだろう。その結果、彼の体験談と謂うモノに備わっているべき真実性に疑いが生じる可能性がある。
それだからこそ、彼の語る体験談をひとつ向こうで語られているモノとして結構されたのが、語り手である私 (I, The Narrator) と謂う人物の登場なのである。
小説を読むモノは誰しもが、語り手である私 (I, The Narrator) が"老いた"漁師 (The "Old" Man) の体験談を再構成したであろうと認識出来るからだ。そしてそんな虚構性があるからこそ、逆に、"老いた"漁師 (The "Old" Man) が語 [ったとされ] る物語は迫真を得る事が出来るのだ。
ところで、ぼくはこの小説から、これとよく似た構造の物語をふたつ、想い出してしまったのだ。ちなみに、そのふたつの物語には共通項は一切ない。何故ならば、"似た"とは綴ったが、似ている箇所が全くことなるのである。
ひとつは、小説『パピヨン (Papillon)』 [アンリ・シャリエール (Henri Charriere) 作1969年 ロベール・ラフォン出版社 (Robert Laffont) 刊行] である。この作品からふたつの映画化作品が誕生している。映画『パピヨン (Papillon)』 [フランクリン・J・シャフナー (Franklin J. Schaffner) 監督作品 1973年制作] と映画『パピヨン (Papillon)』 [マイケル・ノアー (Michael Noer) 監督作品 2017年制作] である。尤も、その前にそのマンガ化作品、マンガ『パピヨン (Papillon)』[江波譲二 (Jouji Enami) 画 1971年 週刊少年マガジン連載] をぼくは読んでいる。
物語のクライマックスは、主人公アンリ・パピヨン・シャリエール (Henri "Papillon" Charriere) が最期に投獄された悪魔島ことディアブル島 (Ile du Diable aka Devil's Island) からの脱出行である。彼は崖下に打ち寄せる荒波を観察する。そして、その荒波によって破壊される漂着物を幾つも発見すると同時に、数少ないそこから逃れられた漂着物を見出す事になる。それは偶然の産物であろうか。それとも、以来、彼は何度も何度も観察と試験とその分析に自身の時間を費やす。そして、最後の最期に自らの肉体でもって、その研究成果の実態を試みる事となる。
その過程は、この短編小説で"老いた"漁師 (The "Old" Man) が瞬時に行った分析を弛緩させ、遅延させたモノの様にぼくには思える。
その小説は作家自身の自伝的体験談であると謂われているが、ここだけはその短編小説での描写をまざまざと彷彿させるのだ。
その際、アンリ・パピヨン・シャリエール (Henri "Papillon" Charriere) は長年の投獄生活とそこからの絶えなる脱獄への挑戦から、身体も衰え、頭髪も白髪となってしまっているのだけれども、それさえもがこの短編小説の再演である様にみえてしまうのだ [下掲図は映画映画『パピヨン (Papillon)』 [フランクリン・J・シャフナー (Franklin J. Schaffner) 監督作品 1973年制作] の最終シーン、波間に漂うパピヨン (Henri 'Papillon' Charriere) [演:スティーブ・マックイーン (Steve McQueen)] である]。

いまひとつは映画『サイレント・ランニング (Silent Running)』 [ダグラス・トランブル (Douglas Trumbull) 監督作品 1972年制作] である。
短編小説で語られる"老いた"漁師 (The "Old" Man) の体験談には、彼を含めて3人の兄弟が登場する。弟 (My Little Brother) は、物語の冒頭、その自然災害の発端で姿を消してしまう。そして、遺る2人は、唯一と謂ってよい、我が身を護る方法を争わなけれならない事態に陥る。だがその直後、"老いた"漁師 (The "Old" Man) はその権利を兄 (My Eldest Brother) に委ねて、それ以外の延命策を捜さねばならない羽目になる。そしてそれが結果的に彼が九死に一生を得る (Narrow Escape From Death) 事に繋がる [物語の真の主題は実はそこから始まるのだ]。
映画『サイレント・ランニング (Silent Running)』には、3体の作業用小型ドローン (Drone, Service Robot) が登場する。彼等は主人公フリーマン・ローウェル (Freeman Lowell) [演:ブルース・ダーン (Bruce Dern)] によって、1号機デューイ (Dewey, The Drone 1)、2号機ヒューイ (Huey, The Drone 2) そして3号機ルーイ (Louie, The Drone 3) と命名される。3号機ルーイ (Louie, The Drone 3) は船外活動の際に早くから喪われてしまう。遺る2体のうち、1号機デューイ (Dewey, The Drone 1) はフリーマン・ローウェル (Freeman Lowell) と共に自滅せねばならず、遺る2号機ヒューイ (Huey, The Drone 2) だけが自身に委ねられた使命を完遂していく事になる。ぼく達がこの映画に感動するのは遺された2号機ヒューイ (Huey, The Drone 2) と彼の行動に対してである。
念の為に綴っておかなければならないのは1号機デューイ (Dewey, The Drone 1) と2号機ヒューイ (Huey, The Drone 2) とのその後に命運が別れたのは、フリーマン・ローウェル (Freeman Lowell) の恣意的な判断によるモノである。
3体の作業用小型ドローン (Drone, Service Robot) の間に、短編小説にある様な熾烈な生存競争 (Battle For Existence) があった訳ではない。ただ、3名のうち、生存出来るのは唯一で、遺る2名がそこから脱落せねばならないと謂う物語の構造が、映画と短編小説に共通しているのである。
そして、この様な構造は、他の幾つかの創作物にも顕現している様な気が、ぼくにはするのだ。
次回は「ほ」。
附記 1. :
短編小説の主題はもしかすると、物理学 (Physics) に於ける浮力 (Buoyancy) の問題かもしれない。さもなければ流体力学 (Fluid Mechanics) の問題であろうか。どこかで誰かがこの短編小説に綴られている事象を追試してはいないだろうか。
附記 2. :
と、謂うのは、短編小説の翻案のひとつに短編小説『大渦巻 II (Maelstrom II)』 [アーサー・C・クラーク (Arthur C. Clarke) 作 1962年 プレイボーイ (Playboy) 掲載 1972年 『太陽からの風 (The Wind From The Sun)』所収] があり、さらにその翻案としてマンガ『大渦巻 III (Maelstrom III)』 [星野之宣 (Yukinobu Hoshino) 作 1984年 月刊スーパーアクション (Monthly Super Action) 掲載 『2001夜物語 (2001 Nights)』所収] があるからだ。物語の舞台である宇宙空間は真空である [だけれどもそこで綴られている事件の背景には太陽風 (Solar Wind) の存在が謳われてある]。だから、このふたつの翻案作の背後にあるのは遠心力 (Centrifugal Force) の問題なのかもしれない [だけれども太陽風 (Solar Wind) 自体に物理学 (Physics) 的な存在感、もしくは影響力と謂うモノはどれだけあるのだろうか] 。
附記 3. :
浮力 (Buoyancy) とか流体力学 (Fluid Mechanics) とか呟き始めると途端に顔を覗かせるのがTVアニメ番組『アタックNo.1 (Attack No. 1)』 [浦野千賀子 (Chikako Urano) 原作 1969~1971年 フジテレビ系列放映] に登場する必殺技のひとつ、木の葉落とし (Konoha-otoshi : Drop Like A Leaf) である。その開発の発端には水流にある物体の状況なのだ [最期には沈んでしまうのだけれども]。
そしてこんな事を謂い出すと、マンガ『巨人の星 (Kyojin No Hoshi : Star Of Giants)』 [梶原一騎 (Ikki Kajiwara) 原作 川崎のぼる (Noboru Kawasaki) 作画 1966~1971年 週刊少年マガジン連載] の必殺技、大リーグボール3号 (Major League Ball No. 3) が浮上してしまうが、少なくとも開発秘話上では、他人の空似 (Accidental Resemblance) と謂って差し支えないと思う。
だけれども、拙稿の主題はそこにはない。
森鴎外こと森林太郎 (Rintaro Mori aka Mori Ogai) が翻訳した短編小説『うづしほ (A Descent Into The Maelstrom)』 [エドガア・アルラン・ポオ (Edgar Allan Poe) 作 1841年 グレアムズ・マガジン (Graham's Magazine) 掲載 森林太郎 (Rintaro Mori) 訳 1910年 文藝倶楽部 (Bungei Club) 掲載] なのだ。青空文庫 (Aozora Bunko : The Open Air Library) の蔵書である。
その短編小説はべつの翻訳、別の表題で青空文庫 (Aozora Bunko : The Open Air Library) に収蔵されてもいる。短編小説『メールストロムの旋渦 (A Descent Into The Maelstrom)』 [エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) 作 1841年 グレアムズ・マガジン (Graham's Magazine) 掲載 佐々木直次郎 (Naojiro Sasaki) 訳 1951年 新潮社 (Shinchosha) 刊行] である。
そしてぼくがこの短編小説を体験したのは、さらに別の翻訳、別の表題である。短編小説『メエルシュトレエムに呑まれて (A Descent Into The Maelstrom)』 [エドガア・アルラン・ポオ (Edgar Allan Poe) 作 1841年 グレアムズ・マガジン (Graham's Magazine) 掲載 小川和夫 (Kazuo Ogawa) 訳 1974年 東京創元社 (Tokyo Sogensha) 刊行] である。一般には、この短編小説はこの邦題で流通している様だ。
と、謂う訳で、ひとつの短編小説に少なくとも異なる3人の翻訳家の掌によって、異なるみっつの翻訳が存在している事となる [勿論、このみっつだけではないだろう]。
だからこの異なる翻訳3篇を読み比べれば、新たな発見があるのかもしれない。
またそれとは別に、みっつの翻訳で最も旧いモノ、短編小説『うづしほ (A Descent Into The Maelstrom)』だけに着目しても良いのかもしれない。何故ならば、先に綴った様に、それは森鴎外 (Mori Ogai) の翻訳だからだ。
青空文庫 (Aozora Bunko : The Open Air Library) には、この翻訳の他にも、幾作品かの森鴎外 (Mori Ogai) 翻訳による短編小説が収蔵されている。それらと共に読み比べ、彼が何故、この短編小説に着目したのか、それを推理するのも面白いだろう。幾つかの作品やその作家は既に忘れさられた、逆に謂えば森鴎外 (Mori Ogai) の翻訳だからこそ、今のぼく達の眼に触れる様な作品や作家である。それ故に、この短編小説が彼に翻訳されたのは、エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) と謂う作家の作品だからと謂う点ではないらしいところにありそうなのだ [と、謂いながらぢゃあ何故? とかと謂うところまでを語れる程に確信めいたモノはないのだ]。
だから、ここに挙げた2点に関しては、いつかどこかで、と謂う事にしておきたい。尤も、既に他の誰かが行なってしまった場合もあるのではあろうが。
拙稿の表題に短編小説『うづしほ (A Descent Into The Maelstrom)』を揚げたのは、この連載のこのルールによる。
それだから、以降の記述は必ずしも森鴎外 (Mori Ogai) 翻訳作品について、とは限らない。敢えて謂えば、みっつの翻訳そのどれにも該当する、と同時に、どれとは断定する必要もない、この小説に顕れている事だけに関するモノになるだろう。だから、これから記述される事柄は、みっつ総ての翻訳を事前に読む必要もない。どれかひとつ、そしてもしかすると、短編小説の外観だけを知っていれば済んでしまう様な事ばかりになるだろう。
そこで綴られてあるのは枠物語 (Frame Story) の構造をとってある。
物語の語り手である私 (I, The Narrator) が、ある"老いた"漁師 (The "Old" Man) に案内されてメイルストロム (Malstrom) を一望に収める (Command A View Of)。そしてその後、彼を案内した"老いた"漁師 (The "Old" Man) が、自身の体験談を物語るのである。物語全般の主軸は、その体験談にある。
では何故その様な構造を採ったのであろうか。直裁に"老いた"漁師 (The "Old" Man) の体験、その告白だけで小説は構成出来ないのであろうか。つまり、同じ作家、すなわちエドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) の作品であれば、短編小説『黒猫 (The Black Cat)』 [エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) ユナイテッド・ステイツ・サタデー・ポスト (United States Saturday Post 1843年発表] の様な構成を何故、この小説は採れなかったのだろうか。
答は単純だ。その"老いた"漁師 (The "Old" Man) の地位や身分、教養では決して語られ様もない体験、語りきれない体験だからだ。
彼が語るべきはある自然災害からの脱出、もしくはその克服である。そして、それを行うには冷静な観察眼と沈着とした判断力と、それらに基づいて瞬時に対応出来る体力が必要となる。単純に考えれば"老いた"漁師 (The "Old" Man) に備わっているであろうモノは最期のひとつ、長年の生活によって鍛えられた漁民としての肉体だけであろう。そして、それ以外のモノがもし [ここで"もし"と謂うのは矛盾がある。何故ならそれらを駆使したが故に今の彼があるからだ] 彼に備わっていたとしても、それを適切な語句や的確な語彙を駆使して語り得る表現力もしくは叙述力が彼に備わっているのだろうか。そんな疑問は彼が語っている最中、常についてまわるだろう。その結果、彼の体験談と謂うモノに備わっているべき真実性に疑いが生じる可能性がある。
それだからこそ、彼の語る体験談をひとつ向こうで語られているモノとして結構されたのが、語り手である私 (I, The Narrator) と謂う人物の登場なのである。
小説を読むモノは誰しもが、語り手である私 (I, The Narrator) が"老いた"漁師 (The "Old" Man) の体験談を再構成したであろうと認識出来るからだ。そしてそんな虚構性があるからこそ、逆に、"老いた"漁師 (The "Old" Man) が語 [ったとされ] る物語は迫真を得る事が出来るのだ。
ところで、ぼくはこの小説から、これとよく似た構造の物語をふたつ、想い出してしまったのだ。ちなみに、そのふたつの物語には共通項は一切ない。何故ならば、"似た"とは綴ったが、似ている箇所が全くことなるのである。
ひとつは、小説『パピヨン (Papillon)』 [アンリ・シャリエール (Henri Charriere) 作1969年 ロベール・ラフォン出版社 (Robert Laffont) 刊行] である。この作品からふたつの映画化作品が誕生している。映画『パピヨン (Papillon)』 [フランクリン・J・シャフナー (Franklin J. Schaffner) 監督作品 1973年制作] と映画『パピヨン (Papillon)』 [マイケル・ノアー (Michael Noer) 監督作品 2017年制作] である。尤も、その前にそのマンガ化作品、マンガ『パピヨン (Papillon)』[江波譲二 (Jouji Enami) 画 1971年 週刊少年マガジン連載] をぼくは読んでいる。
物語のクライマックスは、主人公アンリ・パピヨン・シャリエール (Henri "Papillon" Charriere) が最期に投獄された悪魔島ことディアブル島 (Ile du Diable aka Devil's Island) からの脱出行である。彼は崖下に打ち寄せる荒波を観察する。そして、その荒波によって破壊される漂着物を幾つも発見すると同時に、数少ないそこから逃れられた漂着物を見出す事になる。それは偶然の産物であろうか。それとも、以来、彼は何度も何度も観察と試験とその分析に自身の時間を費やす。そして、最後の最期に自らの肉体でもって、その研究成果の実態を試みる事となる。
その過程は、この短編小説で"老いた"漁師 (The "Old" Man) が瞬時に行った分析を弛緩させ、遅延させたモノの様にぼくには思える。
その小説は作家自身の自伝的体験談であると謂われているが、ここだけはその短編小説での描写をまざまざと彷彿させるのだ。
その際、アンリ・パピヨン・シャリエール (Henri "Papillon" Charriere) は長年の投獄生活とそこからの絶えなる脱獄への挑戦から、身体も衰え、頭髪も白髪となってしまっているのだけれども、それさえもがこの短編小説の再演である様にみえてしまうのだ [下掲図は映画映画『パピヨン (Papillon)』 [フランクリン・J・シャフナー (Franklin J. Schaffner) 監督作品 1973年制作] の最終シーン、波間に漂うパピヨン (Henri 'Papillon' Charriere) [演:スティーブ・マックイーン (Steve McQueen)] である]。

いまひとつは映画『サイレント・ランニング (Silent Running)』 [ダグラス・トランブル (Douglas Trumbull) 監督作品 1972年制作] である。
短編小説で語られる"老いた"漁師 (The "Old" Man) の体験談には、彼を含めて3人の兄弟が登場する。弟 (My Little Brother) は、物語の冒頭、その自然災害の発端で姿を消してしまう。そして、遺る2人は、唯一と謂ってよい、我が身を護る方法を争わなけれならない事態に陥る。だがその直後、"老いた"漁師 (The "Old" Man) はその権利を兄 (My Eldest Brother) に委ねて、それ以外の延命策を捜さねばならない羽目になる。そしてそれが結果的に彼が九死に一生を得る (Narrow Escape From Death) 事に繋がる [物語の真の主題は実はそこから始まるのだ]。
映画『サイレント・ランニング (Silent Running)』には、3体の作業用小型ドローン (Drone, Service Robot) が登場する。彼等は主人公フリーマン・ローウェル (Freeman Lowell) [演:ブルース・ダーン (Bruce Dern)] によって、1号機デューイ (Dewey, The Drone 1)、2号機ヒューイ (Huey, The Drone 2) そして3号機ルーイ (Louie, The Drone 3) と命名される。3号機ルーイ (Louie, The Drone 3) は船外活動の際に早くから喪われてしまう。遺る2体のうち、1号機デューイ (Dewey, The Drone 1) はフリーマン・ローウェル (Freeman Lowell) と共に自滅せねばならず、遺る2号機ヒューイ (Huey, The Drone 2) だけが自身に委ねられた使命を完遂していく事になる。ぼく達がこの映画に感動するのは遺された2号機ヒューイ (Huey, The Drone 2) と彼の行動に対してである。
念の為に綴っておかなければならないのは1号機デューイ (Dewey, The Drone 1) と2号機ヒューイ (Huey, The Drone 2) とのその後に命運が別れたのは、フリーマン・ローウェル (Freeman Lowell) の恣意的な判断によるモノである。
3体の作業用小型ドローン (Drone, Service Robot) の間に、短編小説にある様な熾烈な生存競争 (Battle For Existence) があった訳ではない。ただ、3名のうち、生存出来るのは唯一で、遺る2名がそこから脱落せねばならないと謂う物語の構造が、映画と短編小説に共通しているのである。
そして、この様な構造は、他の幾つかの創作物にも顕現している様な気が、ぼくにはするのだ。
次回は「ほ」。
附記 1. :
短編小説の主題はもしかすると、物理学 (Physics) に於ける浮力 (Buoyancy) の問題かもしれない。さもなければ流体力学 (Fluid Mechanics) の問題であろうか。どこかで誰かがこの短編小説に綴られている事象を追試してはいないだろうか。
附記 2. :
と、謂うのは、短編小説の翻案のひとつに短編小説『大渦巻 II (Maelstrom II)』 [アーサー・C・クラーク (Arthur C. Clarke) 作 1962年 プレイボーイ (Playboy) 掲載 1972年 『太陽からの風 (The Wind From The Sun)』所収] があり、さらにその翻案としてマンガ『大渦巻 III (Maelstrom III)』 [星野之宣 (Yukinobu Hoshino) 作 1984年 月刊スーパーアクション (Monthly Super Action) 掲載 『2001夜物語 (2001 Nights)』所収] があるからだ。物語の舞台である宇宙空間は真空である [だけれどもそこで綴られている事件の背景には太陽風 (Solar Wind) の存在が謳われてある]。だから、このふたつの翻案作の背後にあるのは遠心力 (Centrifugal Force) の問題なのかもしれない [だけれども太陽風 (Solar Wind) 自体に物理学 (Physics) 的な存在感、もしくは影響力と謂うモノはどれだけあるのだろうか] 。
附記 3. :
浮力 (Buoyancy) とか流体力学 (Fluid Mechanics) とか呟き始めると途端に顔を覗かせるのがTVアニメ番組『アタックNo.1 (Attack No. 1)』 [浦野千賀子 (Chikako Urano) 原作 1969~1971年 フジテレビ系列放映] に登場する必殺技のひとつ、木の葉落とし (Konoha-otoshi : Drop Like A Leaf) である。その開発の発端には水流にある物体の状況なのだ [最期には沈んでしまうのだけれども]。
そしてこんな事を謂い出すと、マンガ『巨人の星 (Kyojin No Hoshi : Star Of Giants)』 [梶原一騎 (Ikki Kajiwara) 原作 川崎のぼる (Noboru Kawasaki) 作画 1966~1971年 週刊少年マガジン連載] の必殺技、大リーグボール3号 (Major League Ball No. 3) が浮上してしまうが、少なくとも開発秘話上では、他人の空似 (Accidental Resemblance) と謂って差し支えないと思う。
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