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2023.07.18.11.33

きせつのないまちのこじきのおやこ

マンガ『サルでも描けるまんが教室 (Even A Monkey Can Draw Manga)』 [相原コージ (Koji Aihara)、竹熊健太郎 (Kentaro Takekuma) 作 19891991ビッグコミックスピリッツ連載] に次の様なシーンが登場する。

そのマンガの主人公ふたり、すなわちペンネーム相原コージ (Koji Aihara) で活動している2人組、竹熊健太郎 (Kentaro Takekuma) と相原弘治 (Koji Aihara) は処女作にして初の連載マンガ『とんち番長 (Tonchi Bancho : The Leader Of The Wit Group Of Juvenile Delinquents)』 [相原コージ (Koji Aihara) 作 19891991年頃 週刊少年スピリッツ連載] で大ヒットを成す。そして成したが故に、その凋落も激しいモノとなる。無一物となった彼等はホームレス (Homelessness) となって彷徨う。
その間、一方の竹熊健太郎 (Kentaro Takekuma) は次から次へと新作のアイデアを語り続け、他方の相原弘治 (Koji Aihara) は、その発言総てを肯定し続けていくが、ただ相棒の妄言を聴き流しているのに過ぎない。結果的に彼等は無一物のまま、街を流離うだけである。

連載当初はこのシーン、ここでの2人の言動が意味しているモノが解らなかった。
だが、解らなくても問題はない。何故なら、竹熊健太郎 (Kentaro Takekuma) が妄言を発し続けているのは、そのマンガの開始当初からの事で、単にそれが何故か、正鵠を射るモノであると同時に、彼の妄言に驚かされながらも相原弘治 (Koji Aihara) が彼の発言に基づいて作画していたからなのだ。2人の作品、マンガ『とんち番長 (Tonchi Bancho : The Leader Of The Wit Group Of Juvenile Delinquents)』の成功はその蓄積の結果なのである。
だから、単に、かつての彼等の成功の為の図式が総て空回りしている象徴としてぼくは読んでいたのだ。

[このマンガの面白みや可笑しみの殆どには原典とも謂える、マンガやマンガ家 (Cartoonist) にまつわる実話や逸話が存在している。謂わば、このマンガはそれらの集積、そしてそれらのパロディ (Parody) ではあるのだ。だが、だからと謂ってその原典を知っている / 知っていないは無関係で、それとはひとつの断絶がそこには機能していて、それ故に誰がみても面白い、可笑しい。その実例のひとつをここに綴ったのである。]

だが、実際はこのふたりの言動には原典がある。
小説『季節のない街 (A City Without Seasons)』 [山本周五郎 (Shugoro Yamamoto) 作 1962朝日新聞 (The Asahi Shimbun) 連載] に登場する乞食の親子、彼等2人の会話をそっくりそのままなぞらえたのである。
そして、それはそのまま、その小説を原作とする映画『どですかでん (Dodes'ka-den)』 [山本周五郎 (Shugoro Yamamoto) 原作 黒澤明 (Akira Kurosawa) 監督作品 1970年制作] にも登場する。
乞食の父親 (Beggar) [演:三谷昇 (Noboru Mitani)] と乞食の子 (Beggar's Son) [演:川瀬裕之 (Hiroyuki Kawase)] である。

この映画を観てぼくはこのふたりの逸話、その描写がとても納得出来なかった事を憶えている。
乞食の父親 (Beggar) は先のマンガでの竹熊健太郎 (Kentaro Takekuma) さながらに、自身の妄想を乞食の子 (Beggar's Son) に語り続けていく。そしてそれを聴く乞食の子 (Beggar's Son) は同じく相原弘治 (Koji Aihara) さながらに乞食の父親 (Beggar) の発言を諾もしくは了としながらも、単に聴き流している。
だけれども不思議な事に、乞食の父親 (Beggar) の妄想が次から次へと顕現していくのだ。それがマンガと全く違う。但し、顕現するのはあくまでも彼の妄想として、であって、それは絶対に現実のモノではない。ぼく達観客は、ひたすら彼の妄想をさも実際にそこに存在しているかの様に観ていなければならないのだ。
そこにぼくは納得がいかない。

何故、彼が語る妄想がそのまま、具体的にそこに出現しなければならないのか。それ以外に、ここでの演出もしくは映像表現はあり得ないのだろうか。
だってあまりに短絡で幼稚な発想だろう? ぼくはそうおもうのだ。
そして同じ映画監督のその後の作品、映画『 (Dreams)』 [黒澤明 (Akira Kurosawa) 監督作品 1990年制作] を想い出すのだ。あの映画も、映画監督自身に擬せられる主人公、私 (I) [演:寺尾聰 (Akira Terao)] の観たまま、聴いたままがそのまま、具体的に、しかも必要以上に現実的に描写、映像化されているのだ。
何故、それをぼくが忌み嫌うのかと謂うと、その結果、ぼく達には想像を働かせる余地が一切、認められていないからなのだ。
この監督の徹底したリアリズム (Realism) への肯定、否、拘泥が、ここに来て、限界を来たしてしまった様にぼくにはおもえてもしまう。
もしかしたら、幻想と謂うヴィジョンの存在を彼は知らないのではないか、否、少なくともそれに関する、彼とぼくとのあいだに相当な隔たりがあるのではないか、そんな気さえするのだ。

だけれども。
そんなおもいとは、全く別の事も考える。
その映画の冒頭は六ちゃん (Roku-chan) [演:頭師佳孝 (Yoshitaka Zushi)] の物語から始まる。彼が、実際には存在しない路面電車 (Tram)、彼の妄想の中だけにある路面電車 (Tram) を起動するシーンだ。映画の題名はそこでの彼の擬音、疾走する路面電車 (Tram) の音である。
画面上には勿論、そんなモノは登場しない。だからぼく達は彼のパントマイム (Pantomime) だけをずっと見守る。しかも真剣に喰い入る様に観る、観なければならないところまで追い込まれる。

そう、六ちゃん (Roku-chan) [演:頭師佳孝 (Yoshitaka Zushi)] の妄想と乞食の父親 (Beggar) の妄想では描写が真逆なのである。
そして、ぼく達が投げかける、2人の妄想への視線も全く逆なのである。
一方へは何故か、微笑み、他方へは、蔑んでいる。
ぼく達はみえもしないモノをみようと必死になる一方で、あからさまにみえているモノは決してみたくはないのだ。
それは2人の妄想の質の違いなのか、それともそこでの演出乃至映像表現の違いなのか。
いまのぼくはその点に関して悩んでいる。

閑話休題 (To Return To Our Subject)。

乞食の親子、この2人の親子の逸話には、乞食の子 (Beggar's Son) の死と謂うモノが待っている。 (Mackerel) にあたってしまったのだ。
ぼくはここで吃驚する。何故ならば、いつ死んでもおかしくないのは彼ではなくて彼、乞食の父親 (Beggar) の方だからだ。
妄想ばかりを語ってばかりいる彼、つまり地に足がついていない彼、すこし表現を変えてしまえば、己の理想ばかりを追求する彼には、いつまで経っても救いはない。否、救いがない事こそそれ自体が彼への救いである。その一方で、乞食の子 (Beggar's Son) は現実に徹している様にみえるからだ。彼の眼にも乞食の父親 (Beggar) の言動に誤りがあるのは眼にみえている。だからと謂ってそれをあからさまに指摘はしない。それを前提、そんな乞食の父親 (Beggar) を前提として逞しく生き延びている様にぼくにはみえたのだ。その彼が死んでしまう。おかしいぢゃないか。

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例えばマンガ『オモライくん (Omorai-kun)』[永井豪 (Go Nagai)1972週刊少年マガジン連載] の主人公、オモライくん (Omorai-kun) は天涯孤独である。彼の隣にはおこもちゃん (Okomo-chan) とコジじい (Kojiji) がいるが、彼等は彼の肉親でもなんでもない。同僚と謂えば同僚だし、商売仇と謂えば商売仇だ。
だからこそ、そのマンガを離れて、マンガ『バイオレンスジャック 関東スラム街編 (Violence Jack Kanto Slum Chapter)』 [永井豪 (Go Nagai)19731974年頃 週刊少年マガジン連載] にも、全く同じ姿で登場する。後者には幾人も幾人も永井豪 (Go Nagai) 作品の登場人物達が登場するが関東地獄地震 (Hellquake) [1973年頃] を経た彼等は誰もが、それまでとは全く異なった境遇、全く異なった性格をもって登場する。なのに、オモライくん (Omorai-kun)、おこもちゃん (Okomo-chan) そしてコジじい (Kojiji) 達3人だけはなにも変わっていないのだ。ただ、日頃の実入が激減してしまった事だけを嘆く。
何故なら、そのマンガに登場する誰もが彼等3人と同じ境遇になってしまったのだから [しかし、彼等はその事実に気づいてはいない。物語に登場しながらも彼等3人だけはその物語の外にいる]。
[上掲画像はマンガ『バイオレンスジャック 関東スラム街編 (Violence Jack Kanto Slum Chapter)』での彼等、左からおこもちゃん (Okomo-chan)、オモライくん (Omorai-kun) そしてコジじい (Kojiji)。こちらより]

そんな認識をぼくが持っているからこそ、その小説での乞食の子 (Beggar's Son) が呆気なく死んでしまった事、その事に驚かされたのだ。

次回は「」。


附記 1. :
作劇術としての、乞食の子 (Beggar's Son) が死んでしまった理由を次の様に考えている。彼の父親、乞食の父親 (Beggar) の唯一の、所有物、つまり現実にあるモノとしてのそれが乞食の子 (Beggar's Son) だったからだ。だからこその哀しみであり、それ故の可笑しみなのである [ぼくはこの小説を喜劇として読んでいる]。
そしてもしも仮に、その逆、乞食の子 (Beggar's Son) を遺して乞食の父親 (Beggar) が死んでしまっても、そこにはなんの物語も発生しないだろう。おそらくはその翌日、もしくは既にその当日にそんな事を一切忘れて彼は生きていくのに違いない。
だって、子供と謂う生物自体がそういう存在ぢゃあないか。

附記 2. :
その小説の作者には同趣向の作品に、小説『青べか物語 (The Tale Of Blue Beka Boat)』 [山本周五郎 (Shugoro Yamamoto) 作 1970 (Nami : Wave) 連載] がある。こちらには作者自身と思われる主人公が登場し、その彼の眼を通して悲喜交々 [と謂うがこれも、実態は喜劇の方に近い] が演じられていく。
そんな小説と本小説を融合させると、何故かぼくには小説『死線を越えて (Crossing The Deathline)』 [賀川豊彦 (Toyohiko Kagawa) 作 1920改造社刊行] がおもいおこされてならない。賀川豊彦 (Toyohiko Kagawa) 自身の、貧民街での伝道 (Evangelism) を題材とした自伝的な作品である。

附記 3. :
と、同時に本小説の隣町の物語の様な佇まいのマンガ『大場電気鍍金工業所 (Oba's Electroplate Factory)』 [つげ義春 (Yoshiharu Tsuge) 作 1973年 別冊・漫画ストーリー掲載] も存在している。
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