fc2ブログ

2023.05.30.07.44

たいせんらんごのこくさいへいわ

拙稿の主題は表題として掲げた語句の1文字、"たいせん (Taisen)" とはなにか、と謂う事である。
勿論、同じ様な発想をもって、"へいわ (Heiwa)" とはなにか、と謂う事こそ考えるべき事なのかもしれないが、流石にそれは掌にあまる。
至って表層、うわっつらの事だけに拘泥してしまうのが拙稿だ。

本連載の随分昔の記事、こちらに綴ってある事だがここ数年、青空文庫 (Aozora Bunko) [1997年設立] の蔵書をずっと読んでいた。就寝する前の数時間、文量にして薄い文庫本 (Small-format Paperback Books) 程度を毎日だ。それを、作家別リストの五十音順にである。
それが昨年後半に完遂してしまった。そのリストの冒頭にあるワシントン・アーヴィング (Washington Irving) から始まって末尾のマリ=エスプリ・レオン・ワルラス (Marie-Esprit Leon Walras) まで。
そこにある書物を総て読了したと謂えば随分偉そうに聴こえるが、なぁに、飛ばし読み (Skip Readng) の流し読み (Skim Reading) の斜め読み (Digonal Reading) だから、おさとが知れる。そこの蔵書の幾つかは本連載の題材とさせてもらったが、そこに綴られてあるモノを読めば、自ずとその程度と謂うのがしれてしまうだろう。それらはぼくとしては、あくまでも丹念に丁寧に読んだ結果のつもりだから、尚更だ。
尤も、作家別五十音リストをぼくが網羅したつもりであっても、それだけでは実は遺漏がある。と、謂うのは、ぼくがそこに挑んでいる間にも、新規公開作品が随時、収蔵されていくのだ。例えて謂えば、ぼくが夢野久作 (Yumeno Kyusaku) 作品を読んでいる間に、新たな江戸川乱歩 (Edogawa Ranpo) 作品が補充されているのである。だから、マリ=エスプリ・レオン・ワルラス (Marie-Esprit Leon Walras) 作品の掉尾を飾る『純粋経済学要論上巻 (Elements D'Economie Politique Pure Ou Theorie De La Richesse Sociale 01)』 [1874年刊行 手塚壽郎 (Juro Tezuka) 1953年訳] を読了したと謂っても、そこで満足していては青空文庫 (Aozora Bunko) 完全制覇と謂う訳にはいかないのだ。
それに気づいてしまったぼくは、その日以降、新着情報 (What's New) に記載されている作品群を公開日を遡る様にして読んでいく。
そして遂に先日、ぼくにとっては補遺であるその作品群を総て読み終えた様なのである。勿論、中には思わぬかたちで重複して読んでしまった作品もあるし、それとは逆に、やっぱり読み逃してしまった作品もあるだろう。だけれどもその事実確認をしていくのも手間だから、以降は最新の新規公開作品を、新着情報 (What's New) が随時更新されていく度に、読んでいくつもりだ。
これらの蔵書を読み始めた際は、絶対に無理だろうとおもってはいたが、どういう訳か追いついてしまった。恐らくその原因理由は環太平洋パートナーシップ協定 (Trans-Pacific Partnership Agreement) [2016年署名] にあるのだろう。もしそうであるのならば、それのおかげと謂うべきなのか、それとも、それのせいと謂うべきなのか。喜ぶべきところなのか嘆かわしむべきところなのか、とんと、ぼくにはわからない。

と、ここまでが落語 (Rakugo) で謂うところの (Pillow) である。
そして恐らく、 (Pillow) の方が大きい。

さてその様な理由をもって、ぼくは青空文庫 (Aozora Bunko) の新着情報 (What's New) を遡って、ぼくにとっては補遺となる作品群を読んでいった。
そうすると、幾人かの作家の幾つかの作品に何度も何度も遭遇する。そのひとりに大隈重信 (Shigenobu Okuma Shigenobu) がある。

ぼくにとっての補遺となる大隈重信 (Shigenobu Okuma Shigenobu) の作品は、講演もしくは演説の記録である事が殆どの様だ。
しかも、そこで語られる主題の幾つかは重複して何度も彼が語る。そんな印象がある。
そのひとつが世界情勢 (World Situation) だ。

拙稿表題に掲げたのはそのうちのひとつ、『大戦乱後の国際平和 (International Peace After The Disturbances Of World War)』 [大隈重信 (Shigenobu Okuma Shigenobu)1915年『民族的僻見の除去「平和時報 第3巻第10号」』掲載] である。

それを議題とした彼の作品を読むと、一体、いつの時代の事なのだろう、そう思う時がある。
例えて謂えば、そこで謂う戦争 (War) とはなにを指して謂っているのだろう、と謂う事だ。
まさか、この講演は第2次世界大戦 (World War II) [19391945年] 終結後の事ぢゃあないよなぁ、そんな疑義に囚われてもしまう。念の為にここに綴っておくと大隈重信 (Shigenobu Okuma Shigenobu) の没年は1922年である。
ぢゃあ、第1次世界大戦 (World War I) [19141918年] 直後のモノだろうとおもっていると、彼の発言に登場するその語句は日露戦争 (Russo-Japanese War) [19041905年] だったと謂う事が判明する。流石に戊辰戦争 (Boshin War) [18681869年] と謂う事はないだろうが、だからと謂ってその可能性を完全には否定は出来ない。大隈重信 (Shigenobu Okuma Shigenobu)1838年の生誕だからだ。
尤も、調べるのは簡単だ。青空文庫 (Aozora Bunko) に記載されてある初出等を眺めれば良い。
だけれども、飛ばし読み (Skip Readng) の流し読み (Skim Reading) の斜め読み (Digonal Reading) のぼくの事だからつい、読む前にすべきその労を看過してしまっているのだ。

否、綴るべき事はぼくの不注意や不調法の事ではない。自身の失態を綴ってあっけらかんとしている程にぼくは人間は出来ていない。

そうではない。
大隈重信 (Shigenobu Okuma Shigenobu) が語る戦争 (War) が、どの戦争 (War) なのかいつも不鮮明なのは、恐らくその原因や結果がいつもおなじ事によるからだろう。
欧州 (Europe) でも良い、東亜 (Asia) でも良い、いついかなる時でも、その発端となる要因はかねてから潜伏し、そしていつもおなじ様な問題を出来させるのだ。そして、その解決の手段がいついかなる時でも戦争 (War) であり、その戦禍を踏まえた上で、平和 (Peace) が高声されようと、要因も問題もいずれも未解決のままなのだ。それに拘う国家群の、それぞれの国家体制や経済体制に変化が訪れようと、なんらも変更を来していないのだ。

[猶、表題でもある『大戦乱後の国際平和 (International Peace After The Disturbances Of World War)』にはその様な誤解を生じさせる様な装置は起動しないとはおもう。いつの時代の彼の発言なのかは普通に読み耽っていけば、誰にも解るに違いない。だから本来ならば、拙稿表題には相応しからざるモノではあるが、本連載規定に従ったまでの事ではある。この事を今回、綴っておきたかった。そして、それを可能とする書物がそこにあったのだ。と、同時に、その表題に誤読を起動させる「大戦 (Great War)」と謂う語句があるから、と謂う謂い訳もあるにはある。]

images
チェスに興じる兵士 (Soldat jouant aux echecs [Soldier At A Game Of Chess ])』 [ジャン・メッツァンジェ (Jean Metzinger) 作 19141915年 スマート美術館 (Smart Museum Of Art) 所蔵]

そうして、もしかしたらいつの日にか勃発するかもしれない第3次世界大戦 (World War III) も、既にあったふたつの大戦 (Great War) と同根であろう、とぼくは暗澹するのであった。

次回は「」。

附記 1. :
大隈重信 (Shigenobu Okuma Shigenobu) が語る戦争 (War) がいつもその様なかたちで不鮮明なのは、先に綴ってある様に、講演もしくは演説の記録である事にも起因するのだろう。つまり、その場、その時に彼の発言を体験する聴衆にとっては、彼の謂う戦争 (War) があるひとつの事だけを指しているのだ。そしてそれは当然の事でもある。
そんな語句を、時代も状況も異なるぼくがそのまま体験したら、理解が及ばない事もまた当然なのである。
単純に謂えば、聴衆はなかにいてぼくはそとにいる。

附記 2. :
失言や失態の殆どは、そんななかとそとの錯誤に起因するのだろう。
勿論、その錯誤には意図的なモノもあるのは当然だ。さして難しい事でもな。

附記 3. :
最も大事な点として、この事も綴っておこう。大隈重信 (Shigenobu Okuma Shigenobu) に於ける戦争 (War) の様な、ぼくにとっての装置は青空文庫 (Aozora Bunko) には至るところにある。それは、論文や随筆の様なモノばかりではなく、小説の様な完全なる創作作品に於いても、である。
と、謂うのはその作品が記述された当時に横臥する常識や日常が、いまを生きるぼくには理解できない場合があるからだ。
なぜ、どうして、そんな事態が出来するのだろう、なぜ、どうして、その問題を解決するためにそんな行動や思考をするのだろう、そんな疑問がありとあらゆるところに発生するのだ。
だから、極端な話、青空文庫 (Aozora Bunko) の蔵書のどれにも、不条理な逸話、不合理な挿話ばかりが綴られてある様にさえおもう。
ぼくにとってはどこを斬ってもフランツ・カフカ (Franz Kafka) なのである。
関連記事

theme : ふと感じること - genre :

i know it and take it | comments : 0 | trackbacks : 0 | pagetop

<<previous entry | <home> | next entry>>

comments for this entry

only can see the webmaster :

tackbacks for this entry

trackback url

https://tai4oyo.blog.fc2.com/tb.php/3782-b146fa44

for fc2 blog users

trackback url for fc2 blog users is here