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2023.05.23.08.20

りょうきうた

まず、言葉の定義から始めたい。
怪奇 (Freaky) とは、ある状況もしくは状態を指し示す語句である。
恐怖 (Terror) とは、そこから喚起される感興もしくは感情である。
そして猟奇 (Bizarre) とは、その様な状況もしくは状態、乃至は、その様な感興もしくは感情への指向であり、と同時にそれらへの嗜好でもある。
異論はあるかもしれないが、この定義を前提として、拙稿を綴っていきたい。

だから、仮に怪奇王 (The King Of Freaky) と恐怖王 (The King Of Terror) と猟奇王 (King Of Bizarre) が、向三軒両隣 (Good neighbourhood) に棲んでいたとする。
ある事件の発端もしくはその立案を画策するのは、先ず怪奇王 (The King Of Freaky) である事は間違いない。そしてそれをもってその事件を増長もしくは拡大せしめるのが恐怖王 (The King Of Terror) なのである。尤も、時にはこれと逆の場合もあるかも知れぬ。恐怖王 (The King Of Terror) がある種の事件の可能性を仄めかし、それを具体的に実行するのが怪奇王 (The King Of Freaky)である場合もあるに違いない。
だが、いずれにしろ、猟奇王 (King Of Bizarre) がことを起こすのは、それから後になっての事なのである。マンガ『猟奇王 (King Of Bizarre)』 [川崎ゆきお (Yukio Kawasaki) 作 1972ガロ不定期掲載] の主人公である彼が常日頃、無為徒食 (Idle His Time Away) に明け暮れているのはそこに理由がある。
さらに謂えば、その恐怖王 (The King Of Terror) が小説『恐怖王 (The King Of Terror)』 [江戸川乱歩 (Edogawa Ranpo) 作 19311932講談倶楽部掲載] に登場する彼ならばいざ知らず、同じ作者による小説『仮面の恐怖王 (The Masked King Of Terror)』 [江戸川乱歩 (Edogawa Ranpo) 作 1959 少年連載] に登場する彼であるのならば、苦笑をもってその行動を眺めているだけなのかも知れない。況や、怪奇王 (The King Of Freaky) がマンガ『少年怪奇王 (The King Of Freaky In His Boyhood)』 [森本サンゴ (Sango Morimoto) 作 20112013ケロケロエース連載] に登場する彼に於いてをや。
彼の無為徒食(Idle His Time Away) はさらに徒らに日々を重ねるばかりで、彼の求めている猟奇 (Bizarre) はいつまで経っても走ろうとはしないのだ。

と、前書きとは謂え、空意空論 (Empty Theory) を弄んでしまった。
と、謂うのは、拙稿の主題たる歌集『猟奇歌 (Ryoki-uta : Bizzarre Poems)』 [夢野久作 (Yumeno Kyusaku) 作 19271935猟奇探偵趣味ぷろふいる掲載] をどう評価して良いのか、悩んでいるからである。

こちらによれば、”猟奇歌 (Bizarre Poems)" とは、必ずしも夢野久作 (Yumeno Kyusaku) が詠んだ一連の短歌 (Tanka Poem) やそれを所収したその歌集の事を示すのではない様だ。
雑誌『猟奇 (Ryoki : Bizarre Magazine)』 [19281933年刊行] の企画記事のひとつで、その雑誌に作品を寄せる作家達が寄稿した、作品群を指しての事だと謂う。
だが、結果的に評価、乃至は批評に足る作品を制作し得たのが夢野久作 (Yumeno Kyusaku) だけだった、と謂う事なのだ。よって、彼の専売特許 (Having Monopoly) の様なかたちでその歌集が編まれているのである。

確かに、一例としてこちらに紹介されている他の作家作品は、おはなしにならない代物だ。
そして、ぼくが思うには、彼等の作品が皆、低調なのは、猟奇 (Bizarre) と謂う語句の理解が及んでいない、もしくは猟奇 (Bizarre) と謂う語句を誤読した結果によるのではないだろうか。

直裁で単純、そこに歌もしくは詩として存在する為のひろがりがないのだ。つまり、読者にその作品が、余韻も余情も想像も創造も空想も妄想も働かきかける装置が存在しないのである。

歌集『猟奇歌 (Ryoki-uta : Bizzarre Poems)』を読んでみよう。
それらの殆どの作品にあるのは、ある実景が導き出す心象だ。さもなければ要求や欲求、乃至は欲望である。
つまり、ある事件や事象にまつわる作者のこころのゆらぎが詠まれてあるだけなのだ。そして、それ故に、それらの作品を読むモノも、作者同様のゆらぎを抱く事になる。
勿論、そのゆらぎとは、反社会的であり非常識であり、残忍であり残酷である。そして時には哄笑もあれば嘲笑もある。
なかには、犯罪行為を題材とした様に読めるモノがないではないが、だがよくその作品を読んでみると、犯罪行為のそのまえ、もしくはそのあとが綴られているばかりなのである。予兆もしくは余波だけがそこに綴られているのだ。
謂ってみれば、犯罪者が自らの犯罪を詠んだのではなく、彼もしくは彼女に仮託して、作者が彼もしくは彼女になりかわったつもりで詠んだ作品なのである。それらは想像の産物でしかないのだ。
だからこそ、それを読むぼく達は、犯罪者に同調する作者に促されるままに、犯罪者の心象をもって、そこにある犯罪の痕跡もしくは無惨な被害者を認め得るのだ。

images
"Oko [Z Cyklu Cas Trva]" 1932 by Jaromir Funke

その点をもってこそこの歌集を評価すべきだろう、そうぼくはおもうのだ。
だが、果たしてそこにのみ踏みとどまっていていいのだろうか、とも悩む。
と、謂うのは、この歌集の一群にあってこそ、その様な作品であると看做し得るのは勿論だが、そうではない場所にその作品を据えても、なんら不思議ではないと思われる作品が幾つかあるのだ。
もってまわった、胡乱な迂回の様な表現をしてしまったが、所謂 "猟奇 (Bizarre)" 的な文脈から離れて読む事が出来る作品がないではない様におもえるのだ。仮に、その歌を他の作家の作品集に紛れ込ませてみれば、一風変わった作風、もしくは幻想譚 (Fantasy) めいた感興を得さしめる作品がある。そして、もしかしららそれとは逆、他の歌人 (Poet) のある種の作品をひとつふたつ、この歌集のどこかに紛れ込ませても、何の違和も齟齬も見出せない様な作品がないわけではないだろう、とぼくはおもうのだ。

一体、 なにを謂いたいのかと謂えば、実は単純だ。この歌集を所謂歌壇 (The Word Of Tanka Poem) や所謂詩壇 (The World Of Poetry) と謂う土壌の上に据えてみるとすると、一体、どうみえるのだろうか、と謂う事なのだ。
つまり、この歌集を "猟奇歌 (Bizarre Poems) " と謂う極めて狭い域内でのみ、語ってしまっても良いのだろうか、そうおもっているだけなのである。

と、こんな事を綴ってしまうと、あたかも木々高太郎 (Kigi Takataro) と甲賀三郎 (Saburo Koga) の間に起こった『探偵小説芸術論争 (Does Detective Story Is Art Or Not)』 [19341936新青年ぷろふいるにて] を、木々高太郎 (Kigi Takataro) の立場に依って、この歌集について主張している様にもみえてしまうだろう。

だけれども、その論争が意味や価値をもったのは、その当時だからこそなのだ。その後の推理小説 (Detactive Novel) や犯罪小説 (Crime Novel) の拡がりをみれば、どちらの立場に与する事も、今となっては無意味ではある様にぼくにはおもえる。
それに第一に、この歌集の作者の他の作品群自体、推理小説 (Detactive Novel) や犯罪小説 (Crime Novel) と謂う枠内で語る事の意義は今や、殆ど喪失しているのではないだろうか。
だからこそ、その様な立脚点にたって、歌集『猟奇歌 (Ryoki-uta : Bizzarre Poems)』の評価を問うてみたいのだ。

次回は「」。

附記 1. :
あたかもこの歌集を顕彰したモノの様に拙稿は読めてしまうのかも知れないが、実はぼく自身、必ずしもそんなつもりはないのではあった。
何故ならば、この歌集に未収録であって、にも関わらずに "猟奇歌 (Bizarre Poems) " の一翼を担うに足る、否、それどころか少なくとも作者にとっての最高傑作であろう作品の存在を知っているからである。
それは小説『ドグラ・マグラ (Dogra Magra)』 [夢野久作 (Yumeno Kyusaku) 作1935年刊行] の冒頭、巻頭歌 (Opening Poem) と冠されたあの歌の事である。
胎児よ/ 退治よ / 何故躍る/ 母親の心がわかって / おそろしいのか (Unborn Child! / Unborn Child! / Why Do You Dance? / Have You Read Your Mother’s Heart, / And Was It Terrifying?)」
この歌の存在意義を考えれば考える程、巧妙さをみすかす事が出来るのだ。
何故ならば、その小説はどう読んでみても、父と息子の物語であって、母が介在する余地が殆どないのだから。
にも関わらずに巻頭歌 (Opening Poem) の主題のみは、母と子の歌なのである。この差異をぼく達はどう評価すべきなのだろうか。
少なくとも、小説の主題を誤読させるだけの機能はそこにはある。
と、同時に、その様な物語の存在を予感させるだけの力量がこの巻頭歌 (Opening Poem) にはあるのだ。それがある故に、ぼくは最高傑作と呼んでみたい。

附記 2. :
さらに重ねて綴れば、ある歌の背後に、怪奇 (Freaky) や恐怖 (Terror) が充満した物語、しかもおおきなそれを内包している様な歌こそが、ぼくの猟奇 (Bizarre) を刺激するのであり、その様な歌こそがぼくにとっての "猟奇歌 (Bizarre Poems) " なのであろう。

附記 3. :
小説『ドグラ・マグラ (Dogra Magra)』の巻頭歌 (Opening Poem) と同じ題材を詠んだ作品がこの歌集にもひとつだけ所収されている。
「水の底で / 胎児は生きて動いてゐる / 母体は魚に喰はれてゐるのに (On A Bottom Of Water / A Fetus Still Alive and Wriggling / The mother's Body Had Eaten By Fish Though)」
この作品をもって、拙稿に綴ってある事の証左、乃至は例示と看做してもらっても構わない。
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