fc2ブログ

2023.05.09.08.40

つみとばつがあらわしているもの

拙稿を綴るにあたって、ああでもないこうでもないとしていたら、ラスコーリニコフ症候群 (The Raskolnikov Syndrome) と謂う語句に遭遇する。
その小説の主人公、ラスコーリニコフ (Rodion Romanovitch Raskolnikov) から命名したモノだと謂う。
ある現象やある症例を語るに、虚構の人物名を充てる事自体を問題視する訳ではないが、それとは逆、その虚構の人物こそがその現象や症例に該当するのだと看做すのはどうなのかなぁ、いやだなぁと思う。
と、謂うのは、その症候群がそのままその人物なのだとしたら、彼が登場するその小説の理解は著しく片面的なモノとなってしまう様に思われるからだ。
仮にもしもそうであるのならば、その小説にソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ (Sofya Semyonovna Marmeladova) と謂う少女の存在は必要なのだろうか、とぼくは思うのである。

恐らく、その症候群は、その小説『罪と罰 (Prestupleniye i nakazaniye)』 [フョードル・ドストエフスキー ( Fyodor Dostoevsky) 作 1866年 ロシア報知 (Russkiy Vestnik) 連載] の中で主人公ラスコーリニコフ (Rodion Romanovitch Raskolnikov) がナポレオン・ボナパルト (Napoleon Bonaparte) に自身を比して語っているからであろう。その人物の独裁者 (Dictator) 然としたふるまい、征服者 (Conqueror) 然とした行動、そこへの自己同一化 (Identification) を謀ろうとする彼の言動だけを問題視しているのだ。
だけれども、それをもって、その小説の主題がその様な人物の行動とその顛末を語ったモノと理解し、それで良しとして良いのだろうか、とぼくは思う。
つまり、野心に満ちた青年が、自身を過信するがあまりに破滅してしまう、そんな認識で良いのだろうか、と謂う疑義がぼくにはあるのだ。
寧ろ、その破滅からの逸脱、もしくは救済こそがその小説の主題である様に、いまのぼくには思えるのだ。

そして、その小説に於いて、その登場人物のくちからナポレオン・ボナパルト (Napoleon Bonaparte) と謂う人物が語られるのには、もう少し別の理由がある様な気が、ぼくにはするのだ。

と、謂うのは ... とこのまま続けてしまいたい欲求にそのまま従っても良いのだけれども、ここで少し迂回してみようとぼくはおもう。

例えば、ヴィクトル・ユーゴー (Victor Hugo) はこの小説を読んだのだろうか、と謂う様な事である。
否、勿論、読んではいたのではあろう。だが、それだけなのだろうか。そんな疑問である。

小説『レ・ミゼラブル (Les Miserables)』 [ヴィクトル・ユーゴー (Victor Hugo) 作 1862年刊行] にはジャヴェール (Javert) 警部 (inspecteur de police) と謂う人物が登場する。冷酷な法の番人 (The Officer Of The Court) たる彼は、小説『罪と罰 (Prestupleniye i nakazaniye)』に於ける予審判事 (juge d'instruction) のポルフィーリー・ペトローヴィチ (Porfiry Petrovitch) が彷彿とされる。彼がその小説に於いてラスコーリニコフ (Rodion Romanovitch Raskolnikov) の犯罪を追及する様に、ジャヴェール (Javert) 警部 (inspecteur de police) もその小説の主人公ジャン・ヴァルジャン (Jean Valjean) を追求していく。
と、謂う様な指摘は、どこにでも散見する事が出来るだろう。
だが、ぼくが考えている事はそれだけではない。
ラスコーリニコフ (Rodion Romanovitch Raskolnikov) が犯罪を犯す理由を、自身は社会に理由があると看做す。もしくはこの様な社会に於けるが故に自身が犯罪を犯さざる所以があるとする。その様にして、自身が犯す犯罪、さらには自分自身をも正当化させていく。
そんな物語をほんの少し、主人公に対する設定に修正を加え、彼が否応なく犯罪者にならざるを得ない環境にある人物としたら、一体、どの様な物語となるであろうか。しかも、その犯さざるを得ない犯罪をあたかも予審判事 (juge d'instruction) のポルフィーリー・ペトローヴィチ (Porfiry Petrovitch) がラスコーリニコフ (Rodion Romanovitch Raskolnikov) に対する様に、執拗に追求する人物がいたら、一体、どうなるのだろうか。そんな思考過程を経れば、ジャン・ヴァルジャン (Jean Valjean) と謂う主人公、そしてその犯罪を追求するジャヴェール (Javert) 警部 (inspecteur de police) が生成しないだろうか [勿論、それと同時にその様な環境を納得させ得る舞台設定や状況描写は必須なのだろうが、それは少なくとも当時の現実社会を冷酷に観ていけばいくらでも可能の様に思える]。
小説『レ・ミゼラブル (Les Miserables)』に於ける、少なくともジャン・ヴァルジャン (Jean Valjean) とジャヴェール (Javert) 警部 (inspecteur de police)、このふたりの物語はそうして形成されていったのではないだろうか。
と、同時に、ラスコーリニコフ (Rodion Romanovitch Raskolnikov) によるナポレオン・ボナパルト (Napoleon Bonaparte) への関心は、小説『レ・ミゼラブル (Les Miserables)』に於けるマリユス・ポンメルシー (Marius Pontmercy) をも誕生せし得るのだろうし、彼の恋人コゼット (Cosette) はラスコーリニコフ (Rodion Romanovitch Raskolnikov) に対するソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ (Sofya Semyonovna Marmeladova) とも看做し得るのかもしれない。
だけれども、ここで言及してきたふたつの小説とそこにそれぞれに登場する総計7名の人物の相関関係が必ずしも等号で結合出来てはいない。
しかし、それこそある創作物から巧妙に異なる創作物が生成されたからだろう。
さもなければ、後者が前者の創る作品とその世界、そしてそこに棲まう登場人物達を本歌取 (Honkadori) し、自身が語りたい物語、もしくは語るべき物語へと誘うのだ。そうすれば、否応もなく前者の作品世界の登場人物達も新たなるその世界に於いて、振る舞うべき行動と思考を行うのに違いない。小説『レ・ミゼラブル (Les Miserables)』は、その様にして小説『罪と罰 (Prestupleniye i nakazaniye)』から生成されたのではないだろうか。と、ぼくはおもうのだ。
否、例えそうではなくとも、その小説には、ナポレオン・ボナパルト (Napoleon Bonaparte) と謂う人物自身と彼の業績、そしてその成果やらその失敗やらの残骸の中、すなわち当時のフランス (France) と謂う社会から誕生した様な物語なのである。
それをもってして、ナポレオン・ボナパルト (Napoleon Bonaparte) に対してフョードル・ドストエフスキー ( Fyodor Dostoevsky) が自身の小説に与えた役割、すなわち彼と謂う人物はおろか彼がもたらしたモノを知らない若い世代に於ける認識を、そうではないかたちでヴィクトル・ユーゴー (Victor Hugo) はフランス (France) と謂う社会やそこに暮らす人々への影響として顕してみた、と看做す事は出来ないだろうか。

つまり、ふたりの作家のふたつの作品に登場するナポレオン・ボナパルト (Napoleon Bonaparte) と謂う存在を介して、フョードル・ドストエフスキー ( Fyodor Dostoevsky) からヴィクトル・ユーゴー (Victor Hugo) への影響と謂うモノ、もしくは小説『罪と罰 (Prestupleniye i nakazaniye)』から小説『レ・ミゼラブル (Les Miserables)』への影響と謂うモノがぼくにはなんとなく伺えてしまうのではあるが、実際はどうなのだろうとおもう。
本来ならばそこからさらにその可能性を追求すべき事なのかもしれないが、実はぼくにはもうひとつの疑問が控えている。
それはつまり、こう謂う事なのだ。

例えば、フョードル・ドストエフスキー ( Fyodor Dostoevsky) は短編小説『モルグ街の殺人 (The Murders In The Rue Morgue)』 [エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) 作 1841 年 グレアムズ・マガジン (Graham's Magazine) 掲載] を読んでいたのだろうか、と。

何故ならば、その短編小説の被害者2人、レスパネエ夫人 (Madame L'Espanaye) とカミイユ・レスパネエ嬢 (Camille L'Espanaye) の設定をほんの少しだけ操作すれば、例えば先に綴った様なヴィクトル・ユーゴー (Victor Hugo) が行ったかもしれない作業を厭わなければ、小説『罪と罰 (Prestupleniye i nakazaniye)』の被害者アリョーナ・イワーノヴナ (Alyona Ivanovna) が生成し得るからである。
その短編小説に於ける意外な犯人像、その動機 [と呼んで良いのだろうか] の異常性を濾過し、純粋に被害者 [達] の財産を狙った巧妙にしてかつ緻密に企まれた犯罪だとしたら、一体、どの様な犯罪行為が想定され、そしてそこにどこまで具体的な動機を発見する事が出来、さらにはその様な犯罪を成し得る人物とは一体どの様な人物だろうか、と。つまり、推理小説と謂う枠組みからその短編小説で語られてある物語を逸脱させてしまうのである。
もしかしたら、小説『罪と罰 (Prestupleniye i nakazaniye)』はその様なところから生成したのではないだろうか、そんな妄想がぼくには働くのだ。
そうそう、もうひとつだけ。大事なことを忘れていました [と、だれかの常套手段を真似てこう切り出す]。
その短編小説にも、ナポレオン・ボナパルト (Napoleon Bonaparte) の治世、その果実と謂うモノも登場しているのです。どうしてでしょうねぇ、と。

拙稿は混乱をきたしているし、と、同時に破綻も犯している。
だけれども、それと同時に、こんな事もぼくは考えているし、それをこそここに綴っておきたいのだ。

小説『罪と罰 (Prestupleniye i nakazaniye)』が執筆された時季、その当時のフランス (France) はナポレオン3世 (Charles Louis Napoleon Bonaparte) の治世下にあったのだ。彼と謂う人物を介して当時のヨーロッパ (Europe) には、ナポレオン・ボナパルト (Napoleon Bonaparte) と謂う名の亡霊が復活していたのかもしれない、と。ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル (Georg Wilhelm Friedrich Hegel) がナポレオン・ボナパルト (Napoleon Bonaparte) を観て「馬に乗っている世界精神を見た (Napoleon die Weltseele zu Pferde)」と考察した様に、それとはまったく異なる相貌をした、ナポレオン3世 (Charles Louis Napoleon Bonaparte) とその背後に控えるナポレオン・ボナパルト (Napoleon Bonaparte) [の亡霊] を、フョードル・ドストエフスキー ( Fyodor Dostoevsky) もみていたのかもしれないのだ。
それ故にこそ、ラスコーリニコフ (Rodion Romanovitch Raskolnikov) のナポレオン・ボナパルト (Napoleon Bonaparte) に対する自己同一化 (Identification) と謂う意思とその発露としての犯罪行為も説得力があったのではないだろうか、と。
つまり、彼がみたモノは決して彼個人の視点、そしてそこから発展させた野心的な青年特有の病理的な性格の発露にとどまらず、時代的な共感 [それは好悪含めてのモノだ] をも得るモノだったのかもしれない。
そして、小説『罪と罰 (Prestupleniye i nakazaniye)』は、その明快な解答だったともぼくにはおもえるのだ。
[そしてそれとはまた違う意味、もしくは違う形でヴィクトル・ユーゴー (Victor Hugo) も観、そしてそれへの解答として小説『レ・ミゼラブル (Les Miserables)』を著したのだろう。]

images
"Last Days Of Napoleon In St-Helena" 1866 by Vincenzo Vela (Private Collection)

上掲作品の制作年は小説『罪と罰 (Prestupleniye i nakazaniye)』と同年である。何故、この時代にその当時のナポレオン・ボナパルト (Napoleon Bonaparte) を模した作品が登場したのだろうか、そして何故、セントヘレナ (St-Helena) [彼がこの流刑地にいたのは死去するまで18141821年である。] にいる彼と謂う人物を主題にしたのだろうか、と考える事は決して無意味ではないと思う。

次回は「」。

附記 1. :
小説『罪と罰 (Prestupleniye i nakazaniye)』はラスコーリニコフ (Rodion Romanovitch Raskolnikov) の犯罪を描き、と同時に名探偵としての予審判事 (juge d'instruction) のポルフィーリー・ペトローヴィチ (Porfiry Petrovitch) の活躍を描く倒叙ミステリー (Inverted Mystery) であると解読する読み方がある。そして、それを素直に実行し、それを自身の創作品として再構成したモノに短編小説『心理試験 (The Psychological Test)』 [江戸川乱歩 (Edogawa Ranpo) 作 1925新青年掲載] がある。
逆に謂えば、小説『罪と罰 (Prestupleniye i nakazaniye)』は倒叙ミステリー (Inverted Mystery) の祖型である、そんな認識を呈示する事も可能だ [拙稿本文での思考を前提とすれば、短編小説『モルグ街の殺人 (The Murders In The Rue Morgue)』から小説『罪と罰 (Prestupleniye i nakazaniye)』への転換を今度はそれをそっくりそのままひっくり返すかたちで短編小説『心理試験 (The Psychological Test)』が誕生したのだ]。
その視点をさらに徹底してしまえば、その形式の推理小説 (Mystery) の恐らく最も著名な作品群であるTV映画シリーズ『刑事コロンボ (Columbo)』 [リチャード・レヴィンソン (Richard Levinson)、ウィリアム・リンク (William Link) 原案 19681978NBC放映] に於ける主人公、コロンボ (Columbo) 警部 (Lieutenant) [演:ピーター・フォーク (Peter Falk)] は予審判事 (juge d'instruction) のポルフィーリー・ペトローヴィチ (Porfiry Petrovitch) の手法をそのまま踏襲している様にもみえてしまう。あの風采の上がらないみすぼらしい中年刑事のどこに予審判事 (juge d'instruction) のポルフィーリー・ペトローヴィチ (Porfiry Petrovitch) が潜んでいるのだろうか、そう思う向きはそのシリーズのパイロット版 (Television Pilot) にして第1話『殺人処方箋 (Prescription : Murder)』 [リチャード・アーヴィング (Richard Irving) 監督作品 1968年放映] を観てみると良いだろう。コロンボ (Columbo) 警部 (Lieutenant) と謂う人物のその外観にはそぐわない彼の本質が具体的なかたちで描かれている [と、謂う様な事はこちらで綴ってある]。
つまり、 個々の物語に於ける、ラスコーリニコフ (Rodion Romanovitch Raskolnikov) と予審判事 (juge d'instruction) のポルフィーリー・ペトローヴィチ (Porfiry Petrovitch) の関係はそのまま、蕗屋清一郎 (Sei-ichiro Fukiya) と明智小五郎 (Kogoro Akechi) との関係でもあると同時に、レイ・フレミング (Dr. Ray Flemming) [演:ジーン・バリー (Gene Barry)] とコロンボ (Columbo) 警部 (Lieutenant) の関係でもある。また、それぞれの人物設定や性格づけもそのまま比類し得るのかもしれない。

附記 2. :
小説『罪と罰 (Prestupleniye i nakazaniye)』を考える際に、決して看過出来ない作品がぼくにはある。マンガ『罪と罰 (Crime And Punishment)』 [フョードル・ドストエフスキー ( Fyodor Dostoevsky) 原作 手塚治虫 (Osamu Terzuka) 作画 1953年刊行] である。だけれども、そのマンガでみるべきは、そこで語られている物語を如何にマンガと謂う表現形態に変換できるだろうかと謂う実験でもあり、そしてそれ故に、その点ばかりがぼくにもみえてしまう。いきおい、技術論にならざるを得ない [その視点に関しては、漫画評論『手塚治虫の冒険 (Osamu Tezuka No Boken :The Adventures By Osamu Tezuka) 』夏目房之介 (Fusanosuke Natsume) 著 1995筑摩書房刊行] で語られてある]。
だからこの作品に関しては宿題とさせて頂く。
関連記事

theme : ふと感じること - genre :

i know it and take it | comments : 0 | trackbacks : 0 | pagetop

<<previous entry | <home> | next entry>>

comments for this entry

only can see the webmaster :

tackbacks for this entry

trackback url

https://tai4oyo.blog.fc2.com/tb.php/3768-9ec84a4d

for fc2 blog users

trackback url for fc2 blog users is here