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2023.04.25.07.56

しんでぃしゃーまんあんたいとるど

その名前と存在、そして作品を知ったのは1980年代 (1980s) 中葉、ふたりのアーティストと並列されての事だった。

ふたりのアーティストとはリサ・ライオン (Lisa Lyon) とローリー・アンダーソン (Laurie Anderson) だ。
彼女達と拙稿の主題であるシンディ・シャーマン (Cindy Sherman) が同列なのは、ふたつの事由によるのだろう。
ひとつは女性である事、そしてひとつはその女性自身の身体での表現と謂う点に於いて。

リサ・ライオン (Lisa Lyon) はその存在自体が既に作品である。ボディビル (Bodybuilding) で鍛えれられた肉体と、あらかじめ約束されていた顔貌と。そして、それがヘルムート・ニュートン (Helmut Newton) やロバート・メイプルソープ (Robert Mapplethorpe) によって撮影され写真と謂う表現に於いて、さらに強化されて、ぼく達の眼に映える。撮影者にとっては、彼女はもしかしたら被写体以上の意義があるのかもしれず、彼女にとっては、撮影者達はおのれに傅くモノでしかないのかもしれない。少なくとも、モデルとカメラマンと謂う関係とは異なる位相がそこにある様な気がしないでもない。

ローリー・アンダーソン (Laurie Anderson) は、音楽、映像、舞台、それらを統合した新しい形での表現を行っている。現在では手垢にまみれて、単なるお義理立ての便法としか使用されない語句、パフォーマンス (Performance) と謂う語句で彼女の創作物は呼ばれていた。少なくともその語句は当時は極めて特殊な用法 [例えばヨーゼフ・ボイス (Joseph Beuys) のそれ、既成の表現や作品と謂う枠から外れたかたち / ところにある表現手法] だったが、すぐに摩耗してしまった。その過程に加担していたのは、実は彼女だったのかもしれない。それだけ彼女を語るに便利極まりない語句が パフォーマンス (Performance) であったのだ。彼女のアルバム [つまり音響面でのみ評価出来る創作物] は既に発表発売流通していてはいたが、それを聴いても、彼女の実像には決して辿りつけないのだ。そして大事な事は、ステージ上で当時のありとあらゆる技術を駆使して、観客を魅了していたその作品は、最終的にはそこでの彼女の身体に帰納してしまえると謂う事なのだ。だからこそ、リサ・ライオン (Lisa Lyon) やシンディ・シャーマン (Cindy Sherman) と同列化され得るのである。

その事例として、美術評論『裸体の森へ 感情のイコノグラフィー (Ratai No Mori E : Towards Forest Of Naked Bodies)』 [伊藤俊治 (Toshiharu Ito) 著 1985年刊行] を挙げておこう。
この書物の第6章『キネシクスとボディ・アート (Kinesikusu To Body Art : Kinesics And Body Art)』に於いて、リサ・ライオン (Lisa Lyon) とシンディ・シャーマン (Cindy Sherman) が、そして次章である第7章『電気の皮膚、電気の闇 (Denki No Hifu, Denki No Yami : Electricity Skins, Electricity Darkness)』でローリー・アンダーソン (Laurie Anderson) が紹介されている。

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"Untitled" 1982 by Cindy Sherman

上掲画像は、ぼくが観た初めての彼女の作品である。
当時のある雑誌で、この3人を語る記事の中で、その作品が掲載されていたのだ。
だけれども、それが彼女の作品であるとはぼくは気がつかなかった。と、謂うのは単に、その女性のプロフィール写真とばかり思っていたからだ。つまりそれ程に、彼女については疎かったのだ。

シンディ・シャーマン (Cindy Sherman) の経歴に関しては、上で言及してある美術評論で詳細が綴られてある。
そして、そこに幾つもの彼女の作品が掲載されている。
それを観てぼくにはある既視感が産まれる。産まれるがそれをどこで観たのかは解らない。恐らくぼくがよみとっているのは、そこにある雰囲気なのだろう。もう少し具体的に謂うと、それは物語の一断面なのだ。そこに佇む女性を写したモノではない。いま、そこに写っている女性のその前後 [過去や未来と謂っても良いのだろうか] がそこにある様なのだ。

上掲した作品名を別名『マリリン・モンロー (Marilyn Monroe)』として紹介しているサイトがあった。
本作品をそう命名して呼びたい向きが解らないではない。だけれども、それとは逆にこの作品の被写体の女性のどこがマリリン・モンロー (Marilyn Monroe) なのだろう、そんな疑問符が登場しないでもない。
その美術評論に掲載されてある彼女の作品群のびとつひとつ、そのどれを観ても、そんなあやふやで微妙な場所に追い込まれてしまう。なにかに似ているが決してそのなにかではない、と。

もしかすると、ロイ・リキテンスタイン (Roy Lichtenstein) の手法に近しいのではないか、とふとおもう。
彼の、コミック雑誌に掲載されたマンガのある一コマを拡大して模写した様な作品だ。ここで思わず模写と謂う語句を起用してしまったが、実は決して模写なぞはしてはいないのだった。勿論、もととしたモノはある。あるがそれがそのままではない。何らかの変換がそこにはたらいている。さもなければこうも謂える。実際にあるマンガの一コマを、彼はどこかで虚構化させているのだ、と。

そんな事をおもいだしていくと、もうひとりの画家がおもいおこされる。
リチャード・エステス (Richard Estes) である。スーパーリアリズム (Superrealism) と謂うジャンルの創始者、そのひとりと看做されている人物だ。スーパーリアリズム (Superrealism) と謂う語句が示す様に、彼の描く作品は、絵画と謂うよりも写真と断定してしまいたくなる程の、迫真性がある。だけれども、彼の作品はホンモノソックリでは決してないのだ。初期の作品はともかく、彼の作品に顕れる景物は、実は現実には存在しない。存在したとしても、その位置からその様な様相を拝む事は不可能である、もしくは、人間の知覚をも超えた様な位置でその景物が存在している。つまり、ロイ・リキテンスタイン (Roy Lichtenstein) 同様に、この画家も創作の過程で現実を変換させている、虚構化させている、そう看做す事が許されるのだ。

だからシンディ・シャーマン (Cindy Sherman) と謂う作家、そしてその作品も、その様な認識で観る事が出来ないだろうか。
被写体は常に作家自身、すなわち自画像と謂う表現手段を採っている。
その一方で、その被写体は、いつかどこかで出逢う / 出逢った女性、しかもその殆どが異なる創作上の作品に於いての女性の様に扮している。
だからと謂って、その作品と謂うモノの実体は儚いモノ、もしくは存在しないモノだ。もしかするとそれは、ぼく達が抱く幻想を統合した、極めて抽象化されたモノなのかもしれない。
それ故なのか、彼女の作品名は総てアンタイトルド (Untitled)、無題 (Titleless) である。本来ならば、無数にある無題 (Untitled)と命名された作品群をひろいあつめていけば、いつしか、シンディ・シャーマン (Cindy Sherman) と謂う人物そのモノに肉薄出来るかもしれない [さもなければ極めて抽象化された女性と謂う存在]。そうおもう。そうおもいたい。しかし、恐らく、それは決してありえない事だろう。おそらくそれとは逆に彼女の実像から遥かに遠くの場所を流離うだけなのだ。それはあまりに無意味。無駄な行為にしかすぎない。そう投棄したくなる様な雰囲気がそこかしこに溢れている。
それ故に、逆に謂えば、拙稿に登場する変換とか虚構化と謂う語句の、最も解りやすい事例なのかもしれない。

次回は「」。

附記 1.:
雑誌『太陽 (Taiyo) 1990年11月号 通巻348号』に於ける特集『世界を造った肖像写真 100枚:100人の写真家と100人の被写体でつづる二重の物語 (100 Epoch Making Photographic Portraits)』は、その表題が示しているとおり、100人に及ぶ人物が1頁につき1名、1点の写真でもって掲載されている。被写体となった人物は、有名無名を問わず、歴史上の人物から市井のひとりまで、なんの隔てもなく選択されている。とは謂え、その特集の主題は100人の人物にあるのではない。それを撮影した写真家、もしくはその肖像写真と謂う作品そのモノが主題である。だから、大きく掲載された作品の下で記述されているのはその写真家やその人物の作風や技法についての事なのである [中には撮影秘話や、被写体と撮影者との特殊な関係等への言及がない訳ではないが]。つまり、100人のカメラマンが自身が手掛けた1点の肖像写真と共に、紹介されているのである。
その100人のひとりとして、シンディ・シャーマン (Cindy Sherman) も1頁が割かれている。
作品は『アンタイトルド (Untitled #153)』 [1985年制作] だ。これまでの彼女の方法論はそのままに、これまでとは少し異なる方向性を指し示している作品である。
そこにあるのは、汚され穢されうつろとなった表情の女性だ。彼女が背とする土壌に塗れたのだろうか、濡れて汚れてそこからほりおこされた様にもみえる。暴力行為の被害者なのだろうか、陵辱もされているのかもしれない、そして、もしかすると、既にそれは屍なのかもしれない [実際の思考過程は寧ろそれとは逆だろう。死んでいる。そう思ったが、そんな思考を回避しようとして、いくつも考えられる原因や行為を論っていくのだ、ぼく達は。しかし、そこに躊躇いがある。何故ならそこに写る女性こそがその作品を撮影した人物だと知っているからだ。もしもそれが彼女の実生活に起こった出来事の断面だったら、やりきれないからだ。しかも、そんな作品ばかりを発表している作家は決して少なくはない事もぼく達は知っている。だからこそ、こうして、実際の思考とは逆のながれで文章を綴ってしまうのだ]。
そんな作品が掲載されている頁の下で、笠原美智子 (Michiko kasahara) は次の様な文章を綴っている。
「シンディ・シャーマンの作品の下敷きにあるものは<遊び>もしくは<夢想>ではないかと思う。」
「一九八五年以前の作品においてはメディアにおける女性のステロタイプを擬装する、という、非常に今日的な解釈上の便法があった。」
「ジャンキーやフリークス、はては屍体にまで変身する八五年以降の作品を前にして観る者は狼狽した。」
「しかし彼女にとって、いや多少の違いはあれ醜く朽ち果てる自分を想像しないではいられない現代人にとって、自ら屍体に擬装することほど楽しい夢想があるだろうか。<中略>等身大の屍体に擬装した自分の像と、屍体である気分を吸い込んだ自分が残る。究極の遊びである」
つまり、彼女の変化と同時に存在する彼女の普遍たるモノについて言及しようとしている。
寧ろ、シンディ・シャーマン (Cindy Sherman) の手法そのもの、その変わらなさの指摘である。
もし、そこに変化があるとしたら、それを受容するぼく達の方にこそあるのかもしれない。
すなわち、作品『アンタイトルド (Untitled #153)』にある彼女が屍体であろうとなかろうと、ぼく達は、それを"そこにある雰囲気"や"物語の一断面"として受容している、消費していると謂う事なのである。ぼく達の現実への認識 [それは虚構に対する認識に等しい] が、おおきくひろがっただけにすぎないのだ。

附記 2. :
先に登場した美術評論に、大きなストライプ柄の衣装 [それだけでそれを纏う人物が狂人である事を意味している] を着、うすら笑いを浮かべている写真が掲載されている。いまのぼくにはそちらの作品の方が薄気味悪い。
何故なら、逆に虚構としての屍体なぞ、いつでもどこでも観たいときにすきなだけ観る事ができるからなのだ。
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