2023.04.18.08.45
「手拭を吉原かぶりにして、粋な物ぎれいなこしらへの売子が『すしや、こはだのすーし』といつてやつて来る。舟の形をした菓子折のしつかりしたやうなものを積み重ねて、これを肩にのせて、草履がけか何んかでいゝ声で売りに来るのである。<中略>当時まぐろも、もとよりあつたが、寿司の代表はこはだ、これが一番となつてゐたので『寿司やこはだの寿司』とふれた。<後略>」
と、あるのは随筆『味覚極楽 (Mikaku Gokuraku : Tasting In Paradise』 [子母澤寛 (Kan Shimozawa) 著 1927年 東京日日新聞 (Tokyo Nichi Nichi Shimbun) 連載] の中の1篇『四谷馬方蕎麦 (Umakatasoba In Yotsuya)』、そこで紹介されている「彫刻家高村光雲 (Koun Takamura) 翁の話」からだそうである。
だそうである、と伝聞のかたちを採った理由は単純で、ぼくはその随筆を読んではいない。
上掲引用文は、書籍『彩色 江戸物売図絵 (Saishoku Edo Monouri Zue : The Book Of Çoloured Paintings For Street Vendors In Edo)』 [ 1996年 中公文庫 (Rippu Shobo Publishing Co., Ltd.) 刊行] の中の1節、『鮨売り (Sushi-vender)』で紹介されているのだ。
つまり、引用 (Quote) の引用 (Quote)、孫引き (Quote At The Second Hand) と謂う奴である [高村光雲 (Koun Takamura) に起点を置けば、引用 (Quote) の引用 (Quote) の引用 (Quote)、曽孫引き (Quote From Quote At Second Hand) になるのであろうか?]。
その書籍には「鮨売り (Sushi-vender)」の図が掲載されている。
『略画職人尽 (Ryakuga shokunin zukushi : Sketches of All Types Of Craftsmen)』 [葛飾文々舎 (Katsushika Bunbunsha) 篇 岳亭岳山 (Gakutei Gakusan) 画 1826年刊行 大英博物館 (The British Museum) 所蔵] から筆者が模写したものである。

上掲画像は『狂歌四季人物 (Picture Album Of People With Kyoka)』 [天明老人尽語楼内匠 (Tenmei Rojin Jingoro Takumi) 編 歌川広重 (Utagawa Hiroshige) 画 1855年刊行 メトロポリタン美術館 (Metropolitan Museum Of Art) 所蔵] に掲載されてある「鮨屋 (Sushi-vender)」。
こちらの歌川広重 (Utagawa Hiroshige) 画の「鮨屋 (Sushi-vender)」も三谷一馬 (Kazuma Mitani) に模写されて、書籍『江戸商売図絵 (Edo Shobai Zue : The Book Of Paintings For Business Scens In Edo)』 [1986年 立風書房 (Rippu Shobo Publishing Co., Ltd.) 刊行] の「鮨屋 (Sushi-vender)」の項で掲載されている。
その図の解説として掲載されてある文章は以下の通りである。
「絵の鮨売りは正月姿のこはだの鮨売りです
<中略>
鮨箱を重ねた蓋の上に紅木綿をかけて、肩に担っています。豆絞りの手拭の吉原かぶり、黒襟の唐桟の半纏、盲縞の腹掛、股引、足袋、麻裏草履という正月の粋な出で立ちです。
売り声は『すしヤァー、こはだのすしー』。鮨はのり巻、鉄砲、おぼろ、蛤剥き身、こはだ、きりするめの七種で、担っている箱一つに二十四個詰めてあります。」
と、ここまで綴ってはみたモノの、拙稿の主題は「鮨売り (Sushi-vender)」もしくは「鮨屋 (Sushi-vender)」の図象に関するモノでもない。
また、そこを発端として、三谷一馬 (Kazuma Mitani) の幾つかの書籍を検証するモノでも読み比べるモノでもない。
表題として掲げてあるのは、短編小説集『顎十郎捕物帳 (The Detective Memories By Juro)』 [久生十蘭 (Juran Hisao) 作 1939~1940年 奇譚 (Kitan) 連載] の1篇『小鰭の鮨 (Sushi Of Kohada)』 [1940年 奇譚 (Kitan) 掲載] なのである。
物語は谷中 (Yanaka) は薮下 (Yabushita) で毎秋、開催されている谷中菊祭 (Yanaka Kiku Matsuri ) から始まる。
その雑踏の中に、アコ長 (Ako-cho) こと仙波阿古十郎 (Ako-juro Senba)、とど助 (Todosuke)、そしてひょろ松 (Hyoro-matsu) の3人がいる。
仙波阿古十郎 (Ako-juro Senba) は本小説集での名探偵役、その稀代な風貌から顎十郎 (Juro Ago) と影で蔑まれている。とど助 (Todosuke) は彼の同僚、とは謂うモノの犯罪捜査のそれではない。仙波阿古十郎 (Ako-juro Senba) またの名は顎十郎 (Juro Ago) は身をやつして今や駕籠舁き (Kago Carrier) を本業としている。だから、ここでは仙波阿古十郎 (Ako-juro Senba) あらためアコ長 (Ako-cho) と名乗っている。彼の担ぐ相方がとど助 (Todosuke) だ。このふたりが今、谷中菊祭 (Yanaka Kiku Matsuri) にいるのは、祭見物に集う観客達が目当てなのである。
ひょろ松 (Hyoro-matsu) はアコ長 (Ako-cho) の部下の様な弟子の様な地位を占める目明かし (Meakashi : Police Assistant)、難事件や怪事件が出来する度に、アコ長 (Ako-cho) に相談にいく。
勿論、彼が谷中 (Yanaka) は薮下 (Yabushita) に参上したのも、いつもと同様の難題を抱えての事なのである。
少女達の失踪事件が江戸 (Edo) を騒がせている。
居なくなるのはどれも良家の子女、すなわち箱入り娘 (Girl Brought Up With Tender Care) 達である。
そして、彼女の行方が不明となるその前に鮨売り (Sushi-vender) が顕れる。「……小鰭の鮨や、小鰭の鮨……」と呼ばわる声が聴こえるのだ。
ひょろ松 (Hyoro-matsu) が切り出した謎がこれなのである。
失踪事件の影に鮨売り (Sushi-vender) が存在している、そう彼が疑われるのには訳がある。
小説には、こんな文章が並んでいるのだ。
「小鰭の鮨売といえば、そのころは鯔背の筆頭。」
「小鰭の鮨売といえば、声がいいことにきまったようなもの。いずれも道楽者のなれの果、新内や常磐津できたえた金のかかった声だから、いいのには無理はない。」
「鮨や小鰭のすうし……と細い、よく透る、震いつきたいようないい声でふれて来ると、岡場所や吉原などでは女たちが大騒ぎをする」
つまり犯罪云々がそこにあろうがなかろうが、腐女子 (Slasher) もとい箱入り娘 (Girl Brought Up With Tender Care) 達と謂えども、ただでは放っておけない様な存在なのである。そして、その一方で鮨売り (Sushi-vender) もそんな女性達を黙ってみている筈がない。
そして、謎と謂えば、ここで展示されている菊人形 (Chrysanthemum Figure) にも謎がある。鮨売り (Sushi-vender) を模した人形が出品されているのである。
鮨売り (Sushi-vender) の売り声にある小鰭 (Kohada : Dotted Gizzard Shad) の旬は7月から9月、菊 (Florists’ Daisy) のそれと同時季である。だから、ぼく達はその季節ならではの風情を読み込んだモノだろうと看做してしまうが、実はそうではない。
菊人形 (Chrysanthemum Figure) の題材は全て、歌舞伎 (Kabuki) 等の演目から翻案されたモノなのである、だからと謂って、鮨売り (Sushi-vender) を題材とした演目はこれまでにはなかったのだ。
菊人形 (Chrysanthemum Figure) の謎というのはこの事なのである。
だが、ある噂によると、鮨売り (Sushi-vender) を主人公に据えた新作が公開予定だと謂う。
そしてその主人公を演ずるのは当代きっての美男俳優と名高い大和屋三津五郎 (Yamatoya Mitsugoro) なのだ。美男と謂うのだから女性達が贔屓にする。いまで謂えば、アイドル (Idol) の様な存在だ。その彼が鮨売り (Sushi-vender) を演ずるのは、アイドル (Idol) が人気ホスト (High Demand Host) の役を演ずるのにも等しいだろう。それをみこしてか、大和屋三津五郎 (Yamatoya Mitsugoro) は役作りの為、もしくは新作宣伝の為に、鮨売り (Sushi-vender) に扮して江戸 (Edo) を触れ歩いていると謂うのだ。
もしかすると、行方知れずになった少女達は、大和屋三津五郎 (Yamatoya Mitsugoro) が扮した鮨売り (Sushi-vender) 目当てに彼の行方を追い、その結果として拐かされてしまったのではないだろうか。
思考 / 試行の錯誤や、捜査の迷走を経て、アコ長 (Ako-cho) 達は疑惑の人物、大和屋三津五郎 (Yamatoya Mitsugoro) に会見を申し込む。
そして、彼の語る台詞こそが、この短編のクライマックスとなる。
彼は謂う。
先ず、現場不在証明 (Alibi) がある。
そして、それ以上に、自身が役作りをするのならば、決してその様な行動を起こさないだろう、と。
その際の彼の台詞が事件急展開の発端となったのは、その短編の作者が久生十蘭 (Juran Hisao) だからだ。
と、謂うのは、彼が小説家 (Novelist) となる以前、彼は劇作家 (Playwrighter) を目指していたからなのである。
そう、もしも、彼にその様な経歴がなければ恐らく大和屋三津五郎 (Yamatoya Mitsugoro) はその台詞を発する事もなかっただろうし、また、仮に発したとしてもアコ長 (Ako-cho) はその発言から大和屋三津五郎 (Yamatoya Mitsugoro) の無実を認定する事は決してなかった筈なのだ。
つまり、探偵が演劇とは何か演技とは何か、それを知っているからこその俳優のその台詞への応答が可能であった訳であり、それはとりもなおさず、作家自身が演劇とは何か、演技とは何か、それを知っているからこそ、その応酬が顕現した訳なのである。
ある意味で、その台詞は離れ技 (Stunt) の様な、視点を変えれば御都合主義 (Opportunism) の様なモノでしかない。物語が異なれば、登場人物の設定が異なれば、そして描かれてある時代が異なれば、その応酬は全く異なる結果を導くだけだ。
それ故に、離れ技 (Stunt) だからこそ、御都合主義 (Opportunism) だからこそ、効果を最大限に顕現するときも、逆にあり得るのだ。例えば、奇術師 (Magician) の公演はその際たるモノだろう。つまり、その様なモノが横行して然るべきの場所、虚構の物語やそれが演じられる舞台ならば、逆にそれらが最大の効果を発揮するのだ。
しかも、それを可能とする舞台がこの小説にはあらかじめ用意されているのだ。
次回は「し」。
附記:
久生十蘭 (Juran Hisao) のナラトロジー (Narratology) こそが、上に綴った [あらかじめ用意された] 舞台の正体である。
端的に謂えば、久生十蘭 (Juran Hisao) の作品はどれも、小説である以前に舞台公演である。濃密にト書き (Stage Directions) が施された台本 (Script) と謂っても良い程に。それだけ演劇的な展開、演劇的な所作、演劇的な演出効果がそこかしこに登場する。
黙読よりも音読の方が相応しい様に思える。連ねられた語句ひとつひとつから発せられる音韻の心地よさや、その心地よさに促されて、そこで語られている物語が加速され、これを読むモノはそれに追従するだけで精一杯となり、ようやく追いついた、そう思う瞬間に、その物語は終わっているのだ。それを否応なく理解させる余韻はある。では、そこで何が語られていたのか、そう悩み出すと実はよく解ってはいない様なのだ。ある意味、呆気にとられてしまっているのだ。確かにそこで犯人は逮捕され犯罪の謎は解明した。その心地良さの隣に、おおきな疑問がなぜかそこにある。もしかしたらそれをヒトは余情と呼ぶのかもしれない。終演、幕はとっくに降りたのだ。自身の中にあるのは、その実感だけなのである。久生十蘭 (Juran Hisao) の小説を読む事は、それを体感する事でもある。
そんな久生十蘭 (Juran Hisao) 独自の文体、架構を捕物帳 (The Detective Memories) と謂う手法を駆使して語りきったのが、この短編小説集であるのだ。その中で本作は作家の出自と謂うモノをおもいおこしてくれるのである。
と、あるのは随筆『味覚極楽 (Mikaku Gokuraku : Tasting In Paradise』 [子母澤寛 (Kan Shimozawa) 著 1927年 東京日日新聞 (Tokyo Nichi Nichi Shimbun) 連載] の中の1篇『四谷馬方蕎麦 (Umakatasoba In Yotsuya)』、そこで紹介されている「彫刻家高村光雲 (Koun Takamura) 翁の話」からだそうである。
だそうである、と伝聞のかたちを採った理由は単純で、ぼくはその随筆を読んではいない。
上掲引用文は、書籍『彩色 江戸物売図絵 (Saishoku Edo Monouri Zue : The Book Of Çoloured Paintings For Street Vendors In Edo)』 [ 1996年 中公文庫 (Rippu Shobo Publishing Co., Ltd.) 刊行] の中の1節、『鮨売り (Sushi-vender)』で紹介されているのだ。
つまり、引用 (Quote) の引用 (Quote)、孫引き (Quote At The Second Hand) と謂う奴である [高村光雲 (Koun Takamura) に起点を置けば、引用 (Quote) の引用 (Quote) の引用 (Quote)、曽孫引き (Quote From Quote At Second Hand) になるのであろうか?]。
その書籍には「鮨売り (Sushi-vender)」の図が掲載されている。
『略画職人尽 (Ryakuga shokunin zukushi : Sketches of All Types Of Craftsmen)』 [葛飾文々舎 (Katsushika Bunbunsha) 篇 岳亭岳山 (Gakutei Gakusan) 画 1826年刊行 大英博物館 (The British Museum) 所蔵] から筆者が模写したものである。

上掲画像は『狂歌四季人物 (Picture Album Of People With Kyoka)』 [天明老人尽語楼内匠 (Tenmei Rojin Jingoro Takumi) 編 歌川広重 (Utagawa Hiroshige) 画 1855年刊行 メトロポリタン美術館 (Metropolitan Museum Of Art) 所蔵] に掲載されてある「鮨屋 (Sushi-vender)」。
こちらの歌川広重 (Utagawa Hiroshige) 画の「鮨屋 (Sushi-vender)」も三谷一馬 (Kazuma Mitani) に模写されて、書籍『江戸商売図絵 (Edo Shobai Zue : The Book Of Paintings For Business Scens In Edo)』 [1986年 立風書房 (Rippu Shobo Publishing Co., Ltd.) 刊行] の「鮨屋 (Sushi-vender)」の項で掲載されている。
その図の解説として掲載されてある文章は以下の通りである。
「絵の鮨売りは正月姿のこはだの鮨売りです
<中略>
鮨箱を重ねた蓋の上に紅木綿をかけて、肩に担っています。豆絞りの手拭の吉原かぶり、黒襟の唐桟の半纏、盲縞の腹掛、股引、足袋、麻裏草履という正月の粋な出で立ちです。
売り声は『すしヤァー、こはだのすしー』。鮨はのり巻、鉄砲、おぼろ、蛤剥き身、こはだ、きりするめの七種で、担っている箱一つに二十四個詰めてあります。」
と、ここまで綴ってはみたモノの、拙稿の主題は「鮨売り (Sushi-vender)」もしくは「鮨屋 (Sushi-vender)」の図象に関するモノでもない。
また、そこを発端として、三谷一馬 (Kazuma Mitani) の幾つかの書籍を検証するモノでも読み比べるモノでもない。
表題として掲げてあるのは、短編小説集『顎十郎捕物帳 (The Detective Memories By Juro)』 [久生十蘭 (Juran Hisao) 作 1939~1940年 奇譚 (Kitan) 連載] の1篇『小鰭の鮨 (Sushi Of Kohada)』 [1940年 奇譚 (Kitan) 掲載] なのである。
物語は谷中 (Yanaka) は薮下 (Yabushita) で毎秋、開催されている谷中菊祭 (Yanaka Kiku Matsuri ) から始まる。
その雑踏の中に、アコ長 (Ako-cho) こと仙波阿古十郎 (Ako-juro Senba)、とど助 (Todosuke)、そしてひょろ松 (Hyoro-matsu) の3人がいる。
仙波阿古十郎 (Ako-juro Senba) は本小説集での名探偵役、その稀代な風貌から顎十郎 (Juro Ago) と影で蔑まれている。とど助 (Todosuke) は彼の同僚、とは謂うモノの犯罪捜査のそれではない。仙波阿古十郎 (Ako-juro Senba) またの名は顎十郎 (Juro Ago) は身をやつして今や駕籠舁き (Kago Carrier) を本業としている。だから、ここでは仙波阿古十郎 (Ako-juro Senba) あらためアコ長 (Ako-cho) と名乗っている。彼の担ぐ相方がとど助 (Todosuke) だ。このふたりが今、谷中菊祭 (Yanaka Kiku Matsuri) にいるのは、祭見物に集う観客達が目当てなのである。
ひょろ松 (Hyoro-matsu) はアコ長 (Ako-cho) の部下の様な弟子の様な地位を占める目明かし (Meakashi : Police Assistant)、難事件や怪事件が出来する度に、アコ長 (Ako-cho) に相談にいく。
勿論、彼が谷中 (Yanaka) は薮下 (Yabushita) に参上したのも、いつもと同様の難題を抱えての事なのである。
少女達の失踪事件が江戸 (Edo) を騒がせている。
居なくなるのはどれも良家の子女、すなわち箱入り娘 (Girl Brought Up With Tender Care) 達である。
そして、彼女の行方が不明となるその前に鮨売り (Sushi-vender) が顕れる。「……小鰭の鮨や、小鰭の鮨……」と呼ばわる声が聴こえるのだ。
ひょろ松 (Hyoro-matsu) が切り出した謎がこれなのである。
失踪事件の影に鮨売り (Sushi-vender) が存在している、そう彼が疑われるのには訳がある。
小説には、こんな文章が並んでいるのだ。
「小鰭の鮨売といえば、そのころは鯔背の筆頭。」
「小鰭の鮨売といえば、声がいいことにきまったようなもの。いずれも道楽者のなれの果、新内や常磐津できたえた金のかかった声だから、いいのには無理はない。」
「鮨や小鰭のすうし……と細い、よく透る、震いつきたいようないい声でふれて来ると、岡場所や吉原などでは女たちが大騒ぎをする」
つまり犯罪云々がそこにあろうがなかろうが、腐女子 (Slasher) もとい箱入り娘 (Girl Brought Up With Tender Care) 達と謂えども、ただでは放っておけない様な存在なのである。そして、その一方で鮨売り (Sushi-vender) もそんな女性達を黙ってみている筈がない。
そして、謎と謂えば、ここで展示されている菊人形 (Chrysanthemum Figure) にも謎がある。鮨売り (Sushi-vender) を模した人形が出品されているのである。
鮨売り (Sushi-vender) の売り声にある小鰭 (Kohada : Dotted Gizzard Shad) の旬は7月から9月、菊 (Florists’ Daisy) のそれと同時季である。だから、ぼく達はその季節ならではの風情を読み込んだモノだろうと看做してしまうが、実はそうではない。
菊人形 (Chrysanthemum Figure) の題材は全て、歌舞伎 (Kabuki) 等の演目から翻案されたモノなのである、だからと謂って、鮨売り (Sushi-vender) を題材とした演目はこれまでにはなかったのだ。
菊人形 (Chrysanthemum Figure) の謎というのはこの事なのである。
だが、ある噂によると、鮨売り (Sushi-vender) を主人公に据えた新作が公開予定だと謂う。
そしてその主人公を演ずるのは当代きっての美男俳優と名高い大和屋三津五郎 (Yamatoya Mitsugoro) なのだ。美男と謂うのだから女性達が贔屓にする。いまで謂えば、アイドル (Idol) の様な存在だ。その彼が鮨売り (Sushi-vender) を演ずるのは、アイドル (Idol) が人気ホスト (High Demand Host) の役を演ずるのにも等しいだろう。それをみこしてか、大和屋三津五郎 (Yamatoya Mitsugoro) は役作りの為、もしくは新作宣伝の為に、鮨売り (Sushi-vender) に扮して江戸 (Edo) を触れ歩いていると謂うのだ。
もしかすると、行方知れずになった少女達は、大和屋三津五郎 (Yamatoya Mitsugoro) が扮した鮨売り (Sushi-vender) 目当てに彼の行方を追い、その結果として拐かされてしまったのではないだろうか。
思考 / 試行の錯誤や、捜査の迷走を経て、アコ長 (Ako-cho) 達は疑惑の人物、大和屋三津五郎 (Yamatoya Mitsugoro) に会見を申し込む。
そして、彼の語る台詞こそが、この短編のクライマックスとなる。
彼は謂う。
先ず、現場不在証明 (Alibi) がある。
そして、それ以上に、自身が役作りをするのならば、決してその様な行動を起こさないだろう、と。
その際の彼の台詞が事件急展開の発端となったのは、その短編の作者が久生十蘭 (Juran Hisao) だからだ。
と、謂うのは、彼が小説家 (Novelist) となる以前、彼は劇作家 (Playwrighter) を目指していたからなのである。
そう、もしも、彼にその様な経歴がなければ恐らく大和屋三津五郎 (Yamatoya Mitsugoro) はその台詞を発する事もなかっただろうし、また、仮に発したとしてもアコ長 (Ako-cho) はその発言から大和屋三津五郎 (Yamatoya Mitsugoro) の無実を認定する事は決してなかった筈なのだ。
つまり、探偵が演劇とは何か演技とは何か、それを知っているからこその俳優のその台詞への応答が可能であった訳であり、それはとりもなおさず、作家自身が演劇とは何か、演技とは何か、それを知っているからこそ、その応酬が顕現した訳なのである。
ある意味で、その台詞は離れ技 (Stunt) の様な、視点を変えれば御都合主義 (Opportunism) の様なモノでしかない。物語が異なれば、登場人物の設定が異なれば、そして描かれてある時代が異なれば、その応酬は全く異なる結果を導くだけだ。
それ故に、離れ技 (Stunt) だからこそ、御都合主義 (Opportunism) だからこそ、効果を最大限に顕現するときも、逆にあり得るのだ。例えば、奇術師 (Magician) の公演はその際たるモノだろう。つまり、その様なモノが横行して然るべきの場所、虚構の物語やそれが演じられる舞台ならば、逆にそれらが最大の効果を発揮するのだ。
しかも、それを可能とする舞台がこの小説にはあらかじめ用意されているのだ。
次回は「し」。
附記:
久生十蘭 (Juran Hisao) のナラトロジー (Narratology) こそが、上に綴った [あらかじめ用意された] 舞台の正体である。
端的に謂えば、久生十蘭 (Juran Hisao) の作品はどれも、小説である以前に舞台公演である。濃密にト書き (Stage Directions) が施された台本 (Script) と謂っても良い程に。それだけ演劇的な展開、演劇的な所作、演劇的な演出効果がそこかしこに登場する。
黙読よりも音読の方が相応しい様に思える。連ねられた語句ひとつひとつから発せられる音韻の心地よさや、その心地よさに促されて、そこで語られている物語が加速され、これを読むモノはそれに追従するだけで精一杯となり、ようやく追いついた、そう思う瞬間に、その物語は終わっているのだ。それを否応なく理解させる余韻はある。では、そこで何が語られていたのか、そう悩み出すと実はよく解ってはいない様なのだ。ある意味、呆気にとられてしまっているのだ。確かにそこで犯人は逮捕され犯罪の謎は解明した。その心地良さの隣に、おおきな疑問がなぜかそこにある。もしかしたらそれをヒトは余情と呼ぶのかもしれない。終演、幕はとっくに降りたのだ。自身の中にあるのは、その実感だけなのである。久生十蘭 (Juran Hisao) の小説を読む事は、それを体感する事でもある。
そんな久生十蘭 (Juran Hisao) 独自の文体、架構を捕物帳 (The Detective Memories) と謂う手法を駆使して語りきったのが、この短編小説集であるのだ。その中で本作は作家の出自と謂うモノをおもいおこしてくれるのである。
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