2023.04.04.09.07
とは、いしかわじゅん (Jun Ishikawa) の事である。高信太郎 (Shintaro Koh) が命名した。そして、その別称に対照するかの様に、吾妻ひでお (HIdeo Azuma) はビッグ・マイナー (Big Minor) と命名される。
そして、この命名に従順するかの様に、ふたりの漫画家の間で討論の様な、批判合戦の様な、泥仕合の様な ... そして掛け合い漫才の様な応酬が呈されるのである。
1981年頃の事だ。

上掲画像はまんが情報誌『ふゅーじょんぷろだくと (Fusion Puroduct)』[1981年 8月号] でのいしかわじゅん特集 (Feature Jun Ishikawa) の1頁として掲載されたモノだ [こちらから]。
画面上部2/3を占めているのは、あじましでおこと吾妻ひでお (Shideo Ajima aka Hideo Azuma) による『いしかわ先生像 (A Portrait Of Jun Ishikawa, the cartoonist) 』、その右下にいる人物がその肖像画の作者、吾妻ひでお (HIdeo Azuma) である。
そしてその直下、頁1/3にあるのはいしかわじゅん (Jun Ishikawa) による吾妻ひでお (HIdeo Azuma) 像と自身の肖像である。
当時の彼等の作品の幾つかに、それぞれの敵対者? と自画像が登場しては、そこで描かれている筈の物語に混乱をもたらしていたのだ。
つまり、その当時、2人の漫画家本人自身を含め、3人のいしかわじゅん (Jun Ishikawa) と3人の吾妻ひでお (HIdeo Azuma) が、幾つもの漫画のうちとそとであらそっていた? のである。
そして、それはなにもこの漫画家2人の間だけでおさまるものではなかった。
まるで場外乱闘の様なかたちで、マンガ『七色いんこ (Rainbow Parakeet)』 [手塚治虫 (Osamu Tezuka) 作 1981〜1982年 週刊少年チャンピオン連載] の第29話『三文オペラ (The Threepenny Opera)』にいしかわじゅん (Jun Ishikawa) の様な相貌をした石河ジュン (Jun Ishikawa) と吾妻ひでお (HIdeo Azuma) の様な相貌をした吾島校長 (Goto, The Head Teacher) が登場するのだ。しかも、この作品の2人は、漫画家2人のあらそいをそのまんま反映するかの様に、犬猿の仲 (Like Cat And Dog) なのである。
そして、第29話では、主人公七色いんこ (Rainbow Parakeet) の活躍によって? いつのまにやら和解するどころか相思相愛の関係となって、遂には結婚へと至る。
と、綴ると、まるで、2人の漫画家の間に軋轢や確執があったかの様に感ずるかもしれないが、そうではない。
単純に彼等2人は互いにそれを面白がっていただけのふしがある。
勿論、この2人の漫画家には、才能も作風も全く異なったところにあるが、それを前提にして、相互がその存在意義を認めていたのだ。
問題はマンガ『七色いんこ (Rainbow Parakeet)』の第29話の方にこそあるのだろう。果たして、その作者手塚治虫 (Osamu Tezuka) はこの騒動をどの様に理解していたのであろうか。
だけれども、その挿話のどこをとっても、それを嗜めようとしていたとか、あらそう2人の仲介をかって出ようと謂うおせっかいの顕れではないだろう。
彼は単に、その騒動の神輿を担ぎたかった (Being Art In) だけなのだ。
いや、もしかすると、御先棒を担ぐ (Being A Willing Cats-paw) だけでなく、その土俵に自らも上がり (On A Equal Footing With)、三つ巴のあらそい (Three-cornered Battle) を演じてみたかったのかもしれない。
何故なら手塚治虫 (Osamu Tezuka) は、常に現場、マンガと謂う戦場の最前線で戦う事を好む漫画家なのだから [漫画評論『手塚治虫の冒険 (Osamu Tezuka No Boken :The Adventures By Osamu Tezuka) 』夏目房之介 (Fusanosuke Natsume) 著 1995年 筑摩書房刊行] 参照の事]。
ところで、高信太郎 (Shintaro Koh) 命名のリトル・メジャー (Lirttle Major) = いしかわじゅん (Jun Ishikawa) vs ビッグ・マイナー (Big Minor) = 吾妻ひでお (HIdeo Azuma) とは一体なんなのだろうか。
その文字面に騙されて、人気や知名度、そして作品の評価と謂うところに眼を向けてしまいがちだが、きっとそうではないだろう。連載作品掲載誌の発行部数や単行本の実売実績、もしくは年収と謂う経済的な視点でも、きっとない。
と、謂うのは以下に述べる図表を考えてみれば立ち処に理解出来る筈である。
マイナー (Minor) →メジャー (Major) と謂う直線をx軸 (X Axis) と考える事が出来れば、それに垂直に交わる直線であるy軸 (Y Axis) はリトル (Little) →ビッグ (BIg) として設定出来る。その結果、ここにひとつの平面 (Plane) が出来る。
そうすると、リトル・メジャー (Lirttle Major) = いしかわじゅん (Jun Ishikawa) はその平面 (Plane) の第4象限 (The Forth Orthant) のどこかに位置している筈だろう。そして、それと対称となるビッグ・マイナー (Big Minor) = 吾妻ひでお (HIdeo Azuma) は、第2象限 (The Second Orthant) のどこかに位置している事になる。そうすると恐らく、手塚治虫 (Osamu Tezuka) をビッグ・メジャー (Big Major) と命名すれば彼は第1象限 (The First Orthant) に位置する事となる。
と、なると、第3象限 (The Third Orthant) はなんなのか。リトル・マイナー (Little Mior) と謂う名称を抱ける人物はどの様な人物なのだろうか。
例えば、上に綴った"人気や知名度、そして作品の評価" や "連載作品掲載誌の発行部数や単行本の実売実績、もしくは年収"がこれらの名称の命名の根拠となるのならば、そこに位置するヒトは恐らく無名の漫画家、もしくは短命に終わった漫画家と謂う事になる。
それで果たして、良いのだろうか。
と、謂うのは、発表した作品こそ少ないが、もしくは、殆ど誰にも知られていないのだが、逆にそれが高じて一部に熱狂を呼ぶ漫画家乃至作品と謂うものがない訳ではないからだ。一言をもってすればそれはカルト (Cult) と呼んでも良い。
そしてそれらの漫画家乃至作品はそれ故に、リトル・マイナー (Litltle Minor) であるどころかいつの間にやら、ビッグ・メジャー (Big Major) とでも評せざるを得ない場所に位置してしまう可能性がないでもないのだ。
だから、マイナー (Minor) →メジャー (Major) もしくはリトル (Little) →ビッグ (Big) と謂う尺度は、その様なモノを指数 (Index) とはしていないのではないだろうか。
だから、ぼくはこう思う。リトル・メジャー (Lirttle Major) = いしかわじゅん (Jun Ishikawa) vs ビッグマイナー (Big Minor) = 吾妻ひでお (HIdeo Azuma) と謂う構図は、単にオルタナティヴ (Alternative) なあり方、そのなかのさらなるふたつ、異なるふたつのあり方を示しているだけではないだろうか、と。
[そして、もしかしたら、オルタナティヴ (Alternative) なあり方に関して、先に示した様な平面 (Plane) が存在するとしたら、どうなるのだろうか。そこでも、マイナー (Minor) →メジャー (Major) と謂うx軸 (X Axis) と、リトル (Little) →ビッグ (Big) と謂うy軸 (Y Axis)、このふたつの尺度が存在し、それが直行しているとする。でも、それは決して数量的なモノとしては存在してはいないのだ。その結果、手塚治虫 (Osamu Tezuka) と謂う漫画家こそが、リトル・マイナー (Little Mior) と謂う評価を得てしまうのかもしれない、そんな平面 (Plane) が存在し得るかもしれないのだ。]
ふたりの漫画家にそれぞれ漫画家自身を主役とした作品が幾つかある。
吾妻ひでお (HIdeo Azuma) は、おのれの外部にあるモノを自身の胎内に包摂していく。そしてそれの熟成もしくは腐敗したその結果を作品として発表している様に思える。
その一方で、いしかわじゅん (Jun Ishikawa) は、あくまでも内部と外部は決して交わらない。彼はあくまでも観察者に徹している (自身の行動や思考をも観察の対象である)。
ここまでの手法の違いは、例えば前者はつげ義春 (Yoshiharu tsuge) の手法を思わせる一方で、後者は谷口ジロー (Jiro Tanigucgu) のそれを思わせもする。
しかもこの2人の漫画家とは異なり、彼等2人はそれをギャグ漫画と謂う文脈に則って、行なっているのだ。
次回は「や」。
附記 1. :
いしかわじゅん (Jun Ishikawa) に、漫画批評集『漫画の時間 (Times For Comicks)』 [1995年 晶文社刊行] があり、その1篇に吾妻ひでお (HIdeo Azuma) を評した1節『ビッグ・マイナーが潜む場所 (The Place Where The Big MInor Lurks)』がある。
そこで彼はこんな独語を発している。
「かつて、そう、ざっと十年ほど前、高信太郎によって、ぼくと吾妻はキャッチフレーズをつけられた。
ぼくは"リトル・メジャー"と、そして、吾妻は"ビッグ・マイナー"と。今だからいうが、ぼくは密かに、吾妻の呼称を羨んでいた。」
そして、それに続いてこう綴るのだ。
「ぼくは後に、うつつと夢の境に踏み惑い、しばらくしてこの世界にもどってきてからは、なるべくスタンスを拡げ、文筆業から編集者から役者まで興味の方向を分散して、かつて遠くに見た暗く狭い場所に入ることを、極力避けてきた。そこは恐らく寒く辛く、その上居心地がよく、そして、充足感と破滅感の両方を得られる場所でもあったろう。<中略>そして、ぼくはついにその場所に入っていかないだろうことも。」
吾妻ひでお (HIdeo Azuma) を語る素振りを示しながらもここで語っているのは、まさに自身の手法である。猶、引用文中にある代名詞「そこ」は、漫画もしくはギャグ漫画と謂う名詞を代入して読めば良いのだろう。
また、引用文中、<中略>としてあるのはそれに対しての吾妻ひでお (HIdeo Azuma) の選択乃至行動を論したモノだ。
この1節そのものが、いしかわじゅん (Jun Ishikawa) の視点からみた吾妻ひでお (HIdeo Azuma) の手法を語っている。だけれども、上の引用文に対応させる様なかたちで以下を引用してみよう。
「本来、作者本人と作品とは、別々の人格を持っているはずだ。もちろんおたがい表裏一体影響しあっていることは当たり前だが、決して同一ではないはずだ。<中略>はずではあるが、しかし、吾妻の場合、その作品に、設定に、登場人物に、言葉の端々に、吾妻自身の影を尋常でなく、色濃く見てしまうのは、ぼくだけではないだろう」
附記 2. :
その漫画評論で綴られてあるのは、幾人モノ漫画家、そして彼等の作品に関してではあるのだが、上の附記1. 同様に、問わず語りに自身の手法、もしくは作風について語ってしまったモノがない訳ではない。ある意味、いしかわじゅん (Jun Ishikawa) 自身によるいしかわじゅん (Jun Ishikawa) 批評と読めなくもないのだ。
例えば、柴門ふみ (Fumi Saimon) を糾弾する様な意図をもって書かれたふたつの同名の2節『愚かだぞ柴門ふみ (Fumi Saimon, You Foolish)』を読めば、そこにあるのは彼の漫画と謂う表現に対する信仰告白である。
附記 1. で紹介した引用文に於いて「かつて遠くに見た暗く狭い場所に入ることを、極力避けてきた」と綴ってあるのにも関わらず、彼は漫画と謂う表現の可能性、他の表現形態に決して劣るものではない事を信じているのである。
附記 3. :
手塚治虫 (Osamu Tezuka) にも、その漫画家自身が出演する作品は少なからずある。だが、そこに登場する手塚治虫 (Tezuka Osamu) と謂う存在は、その漫画家創案のスターシステム (The Star System) に則った、存在でしかない。つまり、ある作品に登場する手塚治虫 (Tezuka Osamu) は、その作品に登場する他の登場人物とは完全に等価である [その作品の中での設定に応じて、当該作品での露出量やそこで語られる物語に於ける比重の多寡と謂うのは勿論あるが]。
と、謂う事は自ずと、いしかわじゅん (Jun Ishikawa) や吾妻ひでお (HIdeo Azuma) それぞれの作品に於ける、漫画家自身がそこに登場すると謂う意味合いとは、全く異なった機能がそこに働いているのだ。
そして、偏った視点からその光景を眺めると、自身の作品に於ける漫画家自身が登場する価値や意味は、手塚治虫 (Osamu Tezuka) のそれは彼等2人よりも希釈されたモノと看做す事が出来る。
上で示した"手塚治虫 (Osamu Tezuka) と謂う漫画家こそが、リトル・マイナー (Little Mior) と謂う評価を得てしまう"、その可能性を孕んだ1例としてここに綴っておこう。
そして、この命名に従順するかの様に、ふたりの漫画家の間で討論の様な、批判合戦の様な、泥仕合の様な ... そして掛け合い漫才の様な応酬が呈されるのである。
1981年頃の事だ。

上掲画像はまんが情報誌『ふゅーじょんぷろだくと (Fusion Puroduct)』[1981年 8月号] でのいしかわじゅん特集 (Feature Jun Ishikawa) の1頁として掲載されたモノだ [こちらから]。
画面上部2/3を占めているのは、あじましでおこと吾妻ひでお (Shideo Ajima aka Hideo Azuma) による『いしかわ先生像 (A Portrait Of Jun Ishikawa, the cartoonist) 』、その右下にいる人物がその肖像画の作者、吾妻ひでお (HIdeo Azuma) である。
そしてその直下、頁1/3にあるのはいしかわじゅん (Jun Ishikawa) による吾妻ひでお (HIdeo Azuma) 像と自身の肖像である。
当時の彼等の作品の幾つかに、それぞれの敵対者? と自画像が登場しては、そこで描かれている筈の物語に混乱をもたらしていたのだ。
つまり、その当時、2人の漫画家本人自身を含め、3人のいしかわじゅん (Jun Ishikawa) と3人の吾妻ひでお (HIdeo Azuma) が、幾つもの漫画のうちとそとであらそっていた? のである。
そして、それはなにもこの漫画家2人の間だけでおさまるものではなかった。
まるで場外乱闘の様なかたちで、マンガ『七色いんこ (Rainbow Parakeet)』 [手塚治虫 (Osamu Tezuka) 作 1981〜1982年 週刊少年チャンピオン連載] の第29話『三文オペラ (The Threepenny Opera)』にいしかわじゅん (Jun Ishikawa) の様な相貌をした石河ジュン (Jun Ishikawa) と吾妻ひでお (HIdeo Azuma) の様な相貌をした吾島校長 (Goto, The Head Teacher) が登場するのだ。しかも、この作品の2人は、漫画家2人のあらそいをそのまんま反映するかの様に、犬猿の仲 (Like Cat And Dog) なのである。
そして、第29話では、主人公七色いんこ (Rainbow Parakeet) の活躍によって? いつのまにやら和解するどころか相思相愛の関係となって、遂には結婚へと至る。
と、綴ると、まるで、2人の漫画家の間に軋轢や確執があったかの様に感ずるかもしれないが、そうではない。
単純に彼等2人は互いにそれを面白がっていただけのふしがある。
勿論、この2人の漫画家には、才能も作風も全く異なったところにあるが、それを前提にして、相互がその存在意義を認めていたのだ。
問題はマンガ『七色いんこ (Rainbow Parakeet)』の第29話の方にこそあるのだろう。果たして、その作者手塚治虫 (Osamu Tezuka) はこの騒動をどの様に理解していたのであろうか。
だけれども、その挿話のどこをとっても、それを嗜めようとしていたとか、あらそう2人の仲介をかって出ようと謂うおせっかいの顕れではないだろう。
彼は単に、その騒動の神輿を担ぎたかった (Being Art In) だけなのだ。
いや、もしかすると、御先棒を担ぐ (Being A Willing Cats-paw) だけでなく、その土俵に自らも上がり (On A Equal Footing With)、三つ巴のあらそい (Three-cornered Battle) を演じてみたかったのかもしれない。
何故なら手塚治虫 (Osamu Tezuka) は、常に現場、マンガと謂う戦場の最前線で戦う事を好む漫画家なのだから [漫画評論『手塚治虫の冒険 (Osamu Tezuka No Boken :The Adventures By Osamu Tezuka) 』夏目房之介 (Fusanosuke Natsume) 著 1995年 筑摩書房刊行] 参照の事]。
ところで、高信太郎 (Shintaro Koh) 命名のリトル・メジャー (Lirttle Major) = いしかわじゅん (Jun Ishikawa) vs ビッグ・マイナー (Big Minor) = 吾妻ひでお (HIdeo Azuma) とは一体なんなのだろうか。
その文字面に騙されて、人気や知名度、そして作品の評価と謂うところに眼を向けてしまいがちだが、きっとそうではないだろう。連載作品掲載誌の発行部数や単行本の実売実績、もしくは年収と謂う経済的な視点でも、きっとない。
と、謂うのは以下に述べる図表を考えてみれば立ち処に理解出来る筈である。
マイナー (Minor) →メジャー (Major) と謂う直線をx軸 (X Axis) と考える事が出来れば、それに垂直に交わる直線であるy軸 (Y Axis) はリトル (Little) →ビッグ (BIg) として設定出来る。その結果、ここにひとつの平面 (Plane) が出来る。
そうすると、リトル・メジャー (Lirttle Major) = いしかわじゅん (Jun Ishikawa) はその平面 (Plane) の第4象限 (The Forth Orthant) のどこかに位置している筈だろう。そして、それと対称となるビッグ・マイナー (Big Minor) = 吾妻ひでお (HIdeo Azuma) は、第2象限 (The Second Orthant) のどこかに位置している事になる。そうすると恐らく、手塚治虫 (Osamu Tezuka) をビッグ・メジャー (Big Major) と命名すれば彼は第1象限 (The First Orthant) に位置する事となる。
と、なると、第3象限 (The Third Orthant) はなんなのか。リトル・マイナー (Little Mior) と謂う名称を抱ける人物はどの様な人物なのだろうか。
例えば、上に綴った"人気や知名度、そして作品の評価" や "連載作品掲載誌の発行部数や単行本の実売実績、もしくは年収"がこれらの名称の命名の根拠となるのならば、そこに位置するヒトは恐らく無名の漫画家、もしくは短命に終わった漫画家と謂う事になる。
それで果たして、良いのだろうか。
と、謂うのは、発表した作品こそ少ないが、もしくは、殆ど誰にも知られていないのだが、逆にそれが高じて一部に熱狂を呼ぶ漫画家乃至作品と謂うものがない訳ではないからだ。一言をもってすればそれはカルト (Cult) と呼んでも良い。
そしてそれらの漫画家乃至作品はそれ故に、リトル・マイナー (Litltle Minor) であるどころかいつの間にやら、ビッグ・メジャー (Big Major) とでも評せざるを得ない場所に位置してしまう可能性がないでもないのだ。
だから、マイナー (Minor) →メジャー (Major) もしくはリトル (Little) →ビッグ (Big) と謂う尺度は、その様なモノを指数 (Index) とはしていないのではないだろうか。
だから、ぼくはこう思う。リトル・メジャー (Lirttle Major) = いしかわじゅん (Jun Ishikawa) vs ビッグマイナー (Big Minor) = 吾妻ひでお (HIdeo Azuma) と謂う構図は、単にオルタナティヴ (Alternative) なあり方、そのなかのさらなるふたつ、異なるふたつのあり方を示しているだけではないだろうか、と。
[そして、もしかしたら、オルタナティヴ (Alternative) なあり方に関して、先に示した様な平面 (Plane) が存在するとしたら、どうなるのだろうか。そこでも、マイナー (Minor) →メジャー (Major) と謂うx軸 (X Axis) と、リトル (Little) →ビッグ (Big) と謂うy軸 (Y Axis)、このふたつの尺度が存在し、それが直行しているとする。でも、それは決して数量的なモノとしては存在してはいないのだ。その結果、手塚治虫 (Osamu Tezuka) と謂う漫画家こそが、リトル・マイナー (Little Mior) と謂う評価を得てしまうのかもしれない、そんな平面 (Plane) が存在し得るかもしれないのだ。]
ふたりの漫画家にそれぞれ漫画家自身を主役とした作品が幾つかある。
吾妻ひでお (HIdeo Azuma) は、おのれの外部にあるモノを自身の胎内に包摂していく。そしてそれの熟成もしくは腐敗したその結果を作品として発表している様に思える。
その一方で、いしかわじゅん (Jun Ishikawa) は、あくまでも内部と外部は決して交わらない。彼はあくまでも観察者に徹している (自身の行動や思考をも観察の対象である)。
ここまでの手法の違いは、例えば前者はつげ義春 (Yoshiharu tsuge) の手法を思わせる一方で、後者は谷口ジロー (Jiro Tanigucgu) のそれを思わせもする。
しかもこの2人の漫画家とは異なり、彼等2人はそれをギャグ漫画と謂う文脈に則って、行なっているのだ。
次回は「や」。
附記 1. :
いしかわじゅん (Jun Ishikawa) に、漫画批評集『漫画の時間 (Times For Comicks)』 [1995年 晶文社刊行] があり、その1篇に吾妻ひでお (HIdeo Azuma) を評した1節『ビッグ・マイナーが潜む場所 (The Place Where The Big MInor Lurks)』がある。
そこで彼はこんな独語を発している。
「かつて、そう、ざっと十年ほど前、高信太郎によって、ぼくと吾妻はキャッチフレーズをつけられた。
ぼくは"リトル・メジャー"と、そして、吾妻は"ビッグ・マイナー"と。今だからいうが、ぼくは密かに、吾妻の呼称を羨んでいた。」
そして、それに続いてこう綴るのだ。
「ぼくは後に、うつつと夢の境に踏み惑い、しばらくしてこの世界にもどってきてからは、なるべくスタンスを拡げ、文筆業から編集者から役者まで興味の方向を分散して、かつて遠くに見た暗く狭い場所に入ることを、極力避けてきた。そこは恐らく寒く辛く、その上居心地がよく、そして、充足感と破滅感の両方を得られる場所でもあったろう。<中略>そして、ぼくはついにその場所に入っていかないだろうことも。」
吾妻ひでお (HIdeo Azuma) を語る素振りを示しながらもここで語っているのは、まさに自身の手法である。猶、引用文中にある代名詞「そこ」は、漫画もしくはギャグ漫画と謂う名詞を代入して読めば良いのだろう。
また、引用文中、<中略>としてあるのはそれに対しての吾妻ひでお (HIdeo Azuma) の選択乃至行動を論したモノだ。
この1節そのものが、いしかわじゅん (Jun Ishikawa) の視点からみた吾妻ひでお (HIdeo Azuma) の手法を語っている。だけれども、上の引用文に対応させる様なかたちで以下を引用してみよう。
「本来、作者本人と作品とは、別々の人格を持っているはずだ。もちろんおたがい表裏一体影響しあっていることは当たり前だが、決して同一ではないはずだ。<中略>はずではあるが、しかし、吾妻の場合、その作品に、設定に、登場人物に、言葉の端々に、吾妻自身の影を尋常でなく、色濃く見てしまうのは、ぼくだけではないだろう」
附記 2. :
その漫画評論で綴られてあるのは、幾人モノ漫画家、そして彼等の作品に関してではあるのだが、上の附記1. 同様に、問わず語りに自身の手法、もしくは作風について語ってしまったモノがない訳ではない。ある意味、いしかわじゅん (Jun Ishikawa) 自身によるいしかわじゅん (Jun Ishikawa) 批評と読めなくもないのだ。
例えば、柴門ふみ (Fumi Saimon) を糾弾する様な意図をもって書かれたふたつの同名の2節『愚かだぞ柴門ふみ (Fumi Saimon, You Foolish)』を読めば、そこにあるのは彼の漫画と謂う表現に対する信仰告白である。
附記 1. で紹介した引用文に於いて「かつて遠くに見た暗く狭い場所に入ることを、極力避けてきた」と綴ってあるのにも関わらず、彼は漫画と謂う表現の可能性、他の表現形態に決して劣るものではない事を信じているのである。
附記 3. :
手塚治虫 (Osamu Tezuka) にも、その漫画家自身が出演する作品は少なからずある。だが、そこに登場する手塚治虫 (Tezuka Osamu) と謂う存在は、その漫画家創案のスターシステム (The Star System) に則った、存在でしかない。つまり、ある作品に登場する手塚治虫 (Tezuka Osamu) は、その作品に登場する他の登場人物とは完全に等価である [その作品の中での設定に応じて、当該作品での露出量やそこで語られる物語に於ける比重の多寡と謂うのは勿論あるが]。
と、謂う事は自ずと、いしかわじゅん (Jun Ishikawa) や吾妻ひでお (HIdeo Azuma) それぞれの作品に於ける、漫画家自身がそこに登場すると謂う意味合いとは、全く異なった機能がそこに働いているのだ。
そして、偏った視点からその光景を眺めると、自身の作品に於ける漫画家自身が登場する価値や意味は、手塚治虫 (Osamu Tezuka) のそれは彼等2人よりも希釈されたモノと看做す事が出来る。
上で示した"手塚治虫 (Osamu Tezuka) と謂う漫画家こそが、リトル・マイナー (Little Mior) と謂う評価を得てしまう"、その可能性を孕んだ1例としてここに綴っておこう。
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