this night wounds time, さるのて
fc2ブログ

2023.03.21.09.15

さるのて

神話 (Mythology)、民話 (Folktale) 、伝承 (Folkore) にみられる物語の類型 (Narrative Techniques) のひとつに、『みっつの願い (Three Wishes) 』がある。それに対する悪意あるオマージュ (Hommage) である。
と、謂う様な事はこちらで既に指摘してある。拙稿はその続編、もしくはそこでの約束の履行である。

この物語を知ったのは小学生 (Elementary School Student) の時、同級生宅での事。
彼が定期購入しているある雑誌掲載の読切短編マンガ (One-shot Comic) として接したのだ。
怖かった。
一人息子が老いた両親のもとを訪う。扉の向こうで叩く音がする。ふたりは怯え怖れる。何故なら、彼は既に故人 (The Deceased) なのだから。そして、彼の復活を乞い願ったのも彼等である。母親は震えながらも息子の帰還を受け入れようとする。彼女が扉を開ける瞬間、彼女の夫が祈念する。扉の向こうには誰もいない。彼の祈願が成就されたのだ。
ここまでの描写、実はほんの一瞬の光景である。
扉の向こうにいる筈の死者 [だったもの] (The "ex." Dead) の気配は確か、そこには描かれていた。
しかし、それよりも怖かったのは、その物語が終わった際の余韻の方なのである。

半世紀近い昔の事を想い出しながら、綴ってみた。実際の作品に描かれているモノとは違うかもしれない。
だけれども、その時の体験がこの様な記憶としてぼくのなかに遺っているのだ。

images
検索すると、その時ぼくが読んだ作品は短編マンガ『猿の手 (The Monkey's Paw)』[W・W・ジェイコブズ (William Wymark Jacobs) 原作 石原春彦 (Haruhiko Ishihara) 作画 1972希望の友掲載] である様だ [上掲画像はこちらから]。

その短編マンガの原作である短編小説『猿の手 (The Monkey's Paw)』[W・W・ジェイコブズ (William Wymark Jacobs) 作 1902年発表] を読んだのは、それから数年後であろうか。
やはり怖かった。
と、謂うよりも、それまでに読み耽っていた怪奇小説 (Ghost Novel) や恐怖小説 (Horror Novel) とはすこし異なるモノがそこにある様な気がする。
それ故に怖いのだ。

この物語は一体、なにが、もしくは、どこが怖いのだろう。
死者 (The Dead) が復活する。
題名にある"猿の手 (The Monkey's Paw)" が不気味である。
願いはみっつ (Three Wishes) しか叶えられない。
その願いは必ず成就する。
しかし、それには必ず大いなる代償がついてくる。
読者それぞれには幾つでもいくらでも挙げられるだろう。
だけれども、その殆どが些事、そこで語れている物語のごく一部、もしくは酷く矮小化したモノの様な気がする。

"猿の手 (The Monkey's Paw)" と謂う呪物がある。それはみっつの願い (Three Wishes)、否、願いをみっつだけ (Three Wishes Only)、必ずききとどけると謂う。
それを譲り受けたホワイト家 (The Whites) の3人は、200ポンドの入手を祈願する。彼等にとってはささやかなモノ、そしてこれがひとつめ (The First Wish) だ。
200ポンドは支払われた。しかしそれは、家族のひとり、息子ハーバート (Herbert, The Son) の死をもって購われたモノだ。

ここまでを受けて、物語のその後、すなわち遺るふたつの願い (The Other Two Wishes) の行方をみてみよう。
どちらの願い (Each Wishes) も成就している。
と、なると、ふたつの願い (The Other Two Wishes) にも、200ポンドに対する息子の死と同様のモノが要求されるのではないだろうか。
しかし、物語は最後の願い (The Last Wish) が完遂された時点で終わっている。
もしも、作家がそれ以降のホワイト家 (The Whites) の物語を紡いだとしたら、彼等のどの様な災厄が語られたであろうか。
そう考えると、背筋が凍るばかりだ。

否、そればかりではない。

だが、その前にもしかしたら、こんな疑義を抱く諸氏がいるかもしれない。
ふたつめの願い (The Second Wish) は、みっつめの願い (The Third Wish) によって抹消 (Erasure) されたのではないか、と。だからこれ以降、彼等に不幸がもたらされる気遣いはいらないのではなかろうか、と。ただ愚かな自己の行為によって息子が喪われた、その事実から永遠に苛まされて生きていくのだ、と。
それに対してはぼくはこう、こたえよう。
いいかい、きみ達。ふたつめの願い (The Second Wish) は抹消 (Erasure) されたのではない。ふたつめの願い (The Second Wish) が成就された後で、あらたにふたつめの願い (The Second Wish) を否定、もしくは拒否せんが為に、みっつめの願い (The Third Wish) が祈念されたのだ。
ふたつめ (The Second Wish)、みっつめ (The Third Wish)、それぞれは独立して祈願され、そして独立して成就された。だから、それに対する応報も独立して存在し、彼等にそれを要求してくる筈だ。
遺された老夫婦には、必ずひとつめの願い (The First Wishes) の際のモノと同等、もしくはそれを上回る災厄が顕れる筈なのである。
作家がなんらかの意図をもって、それ以降の描写をそこで放擲しただけなのである。

ここまで綴った思考もしくは試考は単純に、論理学 (Logic) の問題、もしくは法学 (Jurisprudence) に於ける取消 (Voidable) と撤回 (Revocation) の差異に横臥する問題である。

これとは異なる観点から考えてみたいことが、だからぼくにはあるのだ。

ひとつめの願い (The FIrst Wish) をもう一度読んでみよう。
一家の願いは200ポンドの入手である。
それが授受されて、200ポンドを得ると同時に、一人息子ハーバート (Herbert, The Son) を喪う。
事象の結果だけをみれば、200ポンドとハーバート (Herbert, The Son) を交換した事になる。より単純に謂えば、一人息子を200ポンドで売却したと看做せる筈だ。
無論、祈願した彼等にそんな考えは毛頭ない。
だが、彼等の心象を度外視して、現象として顕れた事だけを眺めれば、ハーバート (Herbert, The Son) の生命の売却代金が200ポンドなのである。
もしかしたら、そう、ほんとうにもしかしたら、彼等の誰かの心の片隅でそれを願っていたのではないだろうか。その200ポンドと謂う金員は、息子の生命を危うくしてまでも入手したいのだ、と。
否、そんな馬鹿な、そうおもうかもしれない。
だが、そんな思考に彼等自身が横着して、おのれのどこかにあるあさはかさやおろかさを糾弾しないとも限らない。
つまり、祈願とその成就、そしてそれに対する応報を客観視すれば、祈願者の内心にくすぶるモノがあからさまにも暴露されてしまうのだ。これがおまえの本心だ、と。
だから、遺るふたつの願い (The Other Two Wishes) の成就とそれへの応報がこの小説に綴られてあるとしたら、この老夫婦の正体、それはいじましいばかりにみじめなモノであろう、それらがあらわになっていくのではないだろうか。
人間性 (Humanity)、時にその語句によってある行為やある思考を寿ぐことばだ。だがこの小説であかされる人間性 (Humanity) とはそれとは真逆なモノを指し示す事になるだろう。その正体を暴露するのがこの小説なのだ。
そして、その点をもって、この小説を怖いとぼくはおもうのだ。

次回は「」。

附記:
ところで、"猿の手 (The Monkey's Paw)" と謂う呪物はどこから顕れたのであろうか。この語句で検索すると登場するのはその名称を掲げた小説に関するモノばかりである。と、謂う事は"猿の手 (The Monkey's Paw)" と謂う存在は、作者の完全なる創作なのだろうか。だとすると、作者は一体、どこからその発想を得たのであろうか。
考えるべきは栄光の手 (Hand Of Glory) である。刑死者 (Executioner) の手首を切断し、それをミイラ化 (Mummified) させたモノだ。マンガ『悪魔くん復活 千年王国 (Sennen Oukoku : Millenarism)』[水木しげる (Shigeru Mizuki) 作 1970週刊少年ジャンプ連載] では悪魔召喚 (Evocation) の際に用いるとされているが、それは完全なるそのマンガ家の創作であろう。だけれどもそんな発想が納得されかねないモノでもある。
もうひとつ考えるべきは、兎の足 (The Rabbit's Foot) である。幸運を呼ぶモノとして、珍重されている。後肢 (Hindlimb) が前肢 (Forelimb) へと転換されたのは、おそらく、幸運から不幸への転換を意味させる為だからだろう。だが、 (Rabbit) から (Monkey) への転換、その発想を裏付けてくれるモノがいまのぼくにはない。
但し、こんな事は謂っても良いだろう。野生の (Wild Monkey) はヨーロッパ圏 (Europe) には生息していない。だから、 (Monkey) と謂う生物そのものは非ヨーロッパ (Non-European) なのだ。そして、それはそのまま非キリスト教 (Non-Christianity)と看做す事も出来るだろう。だから"猿の手 ( The Monkey's Paw)" は否応もなく、異郷・異教の呪物と謂う心象を育ませる事が出来る。つまり、ホワイト家 (The Whites) に"猿の手 ( The Monkey's Paw)" をもたらした人物、モリス曹長 (Sergeant Major Morris) をインド (India) からの帰還者であると言明する必要もない筈なのである。
と、同時に、その印象をあっさりと裏切りかねない思考も実はぼくにはあるのだ。だからその両者の間で右顧左眄している事をあらかじめあきらかにしておこう。
それは、ゾンビ (Zombie) と謂う存在に関してである。
ゾンビ (Zombie) とは本来、ヴードゥー教 (Voodoo) と謂う信仰の中にのみ存在するモノであった。と、謂うよりも、そこでのゾンビ (Zombie) とぼく達がいま親しみ馴染んでいるゾンビ (Zombie) とは全く異なるモノだ。ゾンビ (Zombie) と謂う存在に2種類ある、もしくは、ヴードゥー教 (Voodoo) のゾンビ (Zombie) から経脈を切断したところにいまのゾンビ (Zombie) がある。それは総て、ジョージ・A・ロメロ (George A. Romero) の発案とその実行結果である映画『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド ( Night Of The Living Dead)』 [ジョージ・A・ロメロ (George A. Romero) 監督作品 1968年制作] に起因する。そこでかつての宗教観とは異なるモノとして恐怖の表徴、ゾンビ (Zombie) が登場したのだ。つまり、キリスト教的 (Christianity) な思考や嗜好、ヨーロッパ (Europe) 共通の認識や概念と異なるところに彼等は誕生したのだ。
それと同種のモノをぼくは短編小説『猿の手 (The Monkey's Paw)』にみているのである。
そこに宗教も信仰も介在しない。原因があってその結果があるだけだ。そして、そこにいる誰もがその結果を畏怖する。
その単純な構造が、この物語での恐怖の骨子、ぼくはそうおもう。
関連記事

theme : ふと感じること - genre :

i know it and take it | comments : 0 | trackbacks : 0 | pagetop

<<previous entry | <home> | next entry>>

comments for this entry

only can see the webmaster :

tackbacks for this entry

trackback url

https://tai4oyo.blog.fc2.com/tb.php/3737-8a9199c1

for fc2 blog users

trackback url for fc2 blog users is here