2023.03.14.08.58
「きちがいじゃが仕方が無い。 (It Can't Be Helped Because The Crazy Has Done. / It Can't Be Helped Because It Is Out Of The Season.)」 [小説『獄門島 (Death On Gokumon Island )』 [横溝正史 (Seishi Yokomizo) 作 1947〜1948年 宝石連載] より]
いや、ただ謂ってみたかっただけなんだけど。
拙稿の公開日時と件名として掲げた文字にある季節がちょうど真反対、ただそれだけの理由である。
だからと謂って、拙稿は本連載のルールの都合上、どうしても今日と謂う日でなければならず [本当は文頭に "こ" がくる文言が思いつかなかっただけであるんだけど]、そして件名に表示されている季節はその時季以外のモノを認めてくれなさそうなのだから。
そう、ちょっと考えてみてくれ。
"こうしゅうかいどうはもうはるなのさ"、または "こうしゅうかいどうはもうなつなのさ"、さもなければ "こうしゅうかいどうはもうふゆなのさ"、そんなもの謂いが許されるや否やを。
RCサクセション (RC Succession) の第3作『シングル・マン (Single Man)』 [1976年発表] にこの楽曲『甲州街道はもう秋なのさ (Koushukaidouwa Mou Akinanosa : Already Autumn Comes At Koshukaido)』[忌野清志郎 (Kiyoshiro Imawano) 作詞 』肝沢幅一 (Fukuichi Kimosawa) 作曲] は収録されている。みんなの大好きな楽曲『スローバラード (Slow Ballad)』[忌野清志郎 (Kiyoshiro Imawano) みかん (Mikan) 作詞作曲] のひとつ前、アルバムの最後からの2番目の楽曲である。
忌野清志郎 (Kiyoshiro Imawano) の物憂げな歌唱によって、その歌詞にある語句の様に「半分夢の中 (Having One Foot In The Dream)」に誘われてしまうと、それを突然裏切る様な、彼の絶唱がはじまる。
聴いているモノはあまりに突然の事なので、なにがなんだか解らない。さっきまで浸りきっていたある感傷が突然、その感傷へと誘導してくれた歌手自身によって断罪されてしまうのだ。
だけれども、これはこの楽曲に限っての事だけではない。
ダブル・ミーニング (Double Entendre) に二律排反 (Antinomy)、そしてそこから同時に韜晦と純真が同時にそこに存在しているのは、この楽曲を収録したアルバムのそこらかしこにみられるのだ。
だから、そのアルバムを聴くぼく達は、そこで発せられている言葉のひとつひとつを吟味して、その上で、その歌詞の真意に辿り着こうとしなければならない。端的な表現をすれば、行間を読め (Read Between The Lines)、そう突きつけられていると謂う事にはなるのだろう。
とは謂え、そんな労作を行う必要は必ずしもある訳ではない。そこに綴られている文字面だけ、すなわち上っ面だけを舐めてそれで良しとする事も充分に可能なのだ。つまり、ひとつの愛の歌 (A Love Song) として堪能してしまう事も許されているのである。
だけれども、そうやって、いいとこ取りだけをしていても、ふと立ち停まらざるを得ない時がくる。と、謂うのは、ひとつの愛の歌 (A Love Song) である筈のそれが、いつしか矛盾を孕み、齟齬をきたしてくるからだ。しかもその殆どの場合、苦々しい。傷ましくもある。
おそらく、そのときになって歌詞にある真意を探らざるを得ない、そんな立場に追い込まれるときが来るのではないだろうか [それは一体いつ、どんなときなのか、その問いに対しては応える事も出来ないし、例え出来たとしてもそれをきみに告げようとはぼくは思わないのだ。なぜってそれは純粋にきみだけの問題だからさ、そう、ぼくはぼく個人の事で精一杯なんだ]。逆に謂えば、苦々しくも痛ましい、そんな体験を経る事によって、ひとつの愛の歌 (A Love Song) がまったく異なった相貌をもって、おのれの前に顕れるのだ。
歌詞の構成をすこし丁寧にみてみよう。
この楽曲は3部で構成されている様にみえる。しかしもっとよく眺めてみれば、そこで描かれている世界はふたつあるだけだ。"物憂げな歌唱"が冒頭と末尾にあり、それに挟まれて"絶唱"がある。
その結果、音楽が時間芸術であるのを良い事にその時間系列に忠実に楽曲で歌われている内容が起こっている、と考える。
だが、果たして、それで良いのだろうか [上に綴った様にそれで良しとしても何ら問題はないのだが]。
楽曲の構成がすなわち楽曲内に流れる時間系列と同様であると看做すのを前提にして、この歌詞を吟味すれば、絶唱とは「半分夢の中 (Having One Foot In The Dream)」での事として理解する事が可能だ。そこにあるのは現実と夢想の差異、しかも、現実の方が安閑であり夢想の方が峻烈なのである。
逆だろ? 通常は。そう考えるだろうか。
だからと謂って、まぁ、あり得ない噺ではない。茫洋とした日中がおわればぼくだって、毎晩のようにうなされているばかりなのだから。
それはそう、その様な解釈はあり得るのかもしれないが、だけれどもこう、ぼくは考えるのだ。
"絶唱"は回想である、と。勿論、それは現実にあった事実であり、そこから逃避するかの様に、歌の主人公は「半分夢の中 (Having One Foot In The Dream)」にいるのである。それはもしかしたら、"絶唱"として回想されている時よりも前、歌詞の内容に即して謂えば、「うそばっかり (Lying About Everything.)」のたったのひとつでさえも嘘ともみぬけず、それを実直に真実として受容していた時季、そしてそれは幸福な時代の事であったのかもしれないのだが、そこへと逃亡しようとしている様にもみえる。だが、実際のところはどうなのであろうか。「うそばっかり (Lying About Everything.)」と断罪した自身の発言がもたらしたその結果、もしくはその重積に耐えられないのではないのだろうか。それ故に、「半分夢の中 (Having One Foot In The Dream)」にいるのだ。
何故、こんな妄想めいた発想をするのかと謂うと、この楽曲の後に続く楽曲『スローバラード (Slow Ballad)』があるからだ。
そこにある言葉は、多幸感でみちた安息の瞬間を表現してある様に一見、おもえる。だけれども、ぼくにはそこにあるモノをそのまま信じてしまって良いのだろうかと謂うおもいがある。
それは、その歌詞にある「あの娘のねごと (Talking In Her Sleep)」とは一体、なんなのだろう。なにをそこで彼女が囁いていたのだろうか、そんな疑問がぼくにあるからだ。
「悪い予感のかけらもない」その語句をそのまま信ずれば、「あの娘のねごと (Talking In Her Sleep)」はそれを保証するモノとなる。
だけれども、歌詞の読み方をすこし捻じれば、「悪い予感のかけらもない (I Never Have A Bad Feeling This.)」、その瞬間に聴いた「あの娘のねごと (Talking In Her Sleep)」はそれを一気に裏切る内容となる可能性もある。そして、そんな無茶な解釈をしても、この楽曲の世界観は揺るがないのだ。何故ならば、最後にこう歌われている。「ぼくら夢を見たのさ (We Had A Dream.)」と [ここでも夢 (A Dream) がある装置として稼働しているのだ]。
すなわち、そこで謂う「夢 (A Dream)」が瑞夢 (Aspicious Dream) なのか悪夢 (Nightmere) なのか、そのいずれであっても、この楽曲の存在は許し得るからである。
それだからぼくはこうも考えてしまうのだ。
もしかしたら、時系列的にはアルバムの収録順と逆、楽曲『スローバラード (Slow Ballad)』の後に楽曲『甲州街道はもう秋なのさ (Koushukaidouwa Mou Akinanosa : Already Autumn Comes At Koshukaido)』が続くのではなかろうか、と。
この順番で構成すれば、ひとつの愛に生じたちっぽけな疑念がその愛の終局をもたらせたと看做せてしまえるのだ。前者ではその疑念を一旦、打ち消してはみたものの、後者ではその疑念が再度、頭をもたげ、その結果としての今が描かれている、そう解釈出来るのだ。
だから、この2楽曲を収録したアルバムの歌詞を丹念に読んでいけば、もしかすると、ひとつの愛の芽生え(楽曲『大きな春子ちゃん (Ohkina Harukochan : Long Tall Harukochan)』 』[忌野清志郎 (Kiyoshiro Imawano) 作詞 』肝沢幅一 (Fukuichi Kimosawa) 作曲])からその破局までもが語られたコンセプト・アルバムである、そんな解釈も可能となるのかもしれない。
とは謂え、そこまで断定出来る自信は今のぼくにはない。
その代わりに、こんな事を指摘しておこう。
この楽曲の季節が「秋 (Autumn)」なのは和歌 (Waka) の技法のひとつ、掛詞 (Kakekotoba) が機能しているからではないのだろうか、と。
つまり、季節の「秋 (Autumn)」の他に、言外に"飽き (Get Bored)"が潜んでいるのである。
そんな解釈をしてしまえば、この楽曲が別離を主題とした作品であると看做すのも、然程、無謀とは謂えないのではないだろうか [冒頭で提示した疑問はこれを前提としたモノなのである、実は]。
[だからこそ、純情丸出しで素朴にも告白するその相手が「春子ちゃん (Haruko-chan : A Girl Spring Child)」 なのだ、なぁんて。]

the photography "Liv Tyler, Times Square" 1995 by Lara Rossignol
次回は「さ」。
附記 1. :
上掲画像は、ここまで綴ってきたぼくの解釈を、客観的なヴィジョンにおさめる事が出来るのであるのならば、この様な光景なんだろうか、そうおもって選択してみたモノだ。
但し、歌の主人公の視点ではない、その人物の"絶唱"を促した人物に焦点をあてている。
附記 2. :
仮に、このアルバムがコンセプト・アルバムであると仮定するのならば、何故、時系列に沿わない収録曲順なのか、そんな疑問が発生するとおもう。
単純に考えれば、ふたつの楽曲のなかにある世界観の広狭であろう。本楽曲が個人的な独白からさらに普遍性を得るのは多難である様にみえて、一方の楽曲はその真逆の位置にある。すなわち、普遍的な題材でありながらも、個々人の心象にすんなりと侵入していける可能性があるからだ。つまり、だれにもあるであろう感情、感覚がそこに綴られてあるのだ。愛を信ずる事、愛する人を信ずる事、果たしてそれは一体なにか? 楽曲『スローバラード (Slow Ballad)』の主題は一言をもってすれば、そこに横着するであろう。
と、同時に、現行の収録順に編成したのは、RCサクセション (RC Succession) の『やさしさ (Yasashisa : Considerate)』 [忌野清志郎 (Kiyoshiro Imawano) 作詞 』肝沢幅一 (Fukuichi Kimosawa) 作曲] の発露でもあるのだろう。持っていき様のない魂の表白でもって作品が終結するよりも、ほんの一瞬でもいい、自身と他者を許せるがままで終焉を迎えた方が、作品を聴く誰もが自身の日常にかえっていけるだろう、とでも謂う様な。
附記 3. :
だけれども良いかい? 仮に附記 2. で綴った様な事が真実だとしても、その楽曲の歌詞にはこうあるのだ。
「ぼくはやさしくない (I'm Not Cosiderate)」と。
いや、ただ謂ってみたかっただけなんだけど。
拙稿の公開日時と件名として掲げた文字にある季節がちょうど真反対、ただそれだけの理由である。
だからと謂って、拙稿は本連載のルールの都合上、どうしても今日と謂う日でなければならず [本当は文頭に "こ" がくる文言が思いつかなかっただけであるんだけど]、そして件名に表示されている季節はその時季以外のモノを認めてくれなさそうなのだから。
そう、ちょっと考えてみてくれ。
"こうしゅうかいどうはもうはるなのさ"、または "こうしゅうかいどうはもうなつなのさ"、さもなければ "こうしゅうかいどうはもうふゆなのさ"、そんなもの謂いが許されるや否やを。
RCサクセション (RC Succession) の第3作『シングル・マン (Single Man)』 [1976年発表] にこの楽曲『甲州街道はもう秋なのさ (Koushukaidouwa Mou Akinanosa : Already Autumn Comes At Koshukaido)』[忌野清志郎 (Kiyoshiro Imawano) 作詞 』肝沢幅一 (Fukuichi Kimosawa) 作曲] は収録されている。みんなの大好きな楽曲『スローバラード (Slow Ballad)』[忌野清志郎 (Kiyoshiro Imawano) みかん (Mikan) 作詞作曲] のひとつ前、アルバムの最後からの2番目の楽曲である。
忌野清志郎 (Kiyoshiro Imawano) の物憂げな歌唱によって、その歌詞にある語句の様に「半分夢の中 (Having One Foot In The Dream)」に誘われてしまうと、それを突然裏切る様な、彼の絶唱がはじまる。
聴いているモノはあまりに突然の事なので、なにがなんだか解らない。さっきまで浸りきっていたある感傷が突然、その感傷へと誘導してくれた歌手自身によって断罪されてしまうのだ。
だけれども、これはこの楽曲に限っての事だけではない。
ダブル・ミーニング (Double Entendre) に二律排反 (Antinomy)、そしてそこから同時に韜晦と純真が同時にそこに存在しているのは、この楽曲を収録したアルバムのそこらかしこにみられるのだ。
だから、そのアルバムを聴くぼく達は、そこで発せられている言葉のひとつひとつを吟味して、その上で、その歌詞の真意に辿り着こうとしなければならない。端的な表現をすれば、行間を読め (Read Between The Lines)、そう突きつけられていると謂う事にはなるのだろう。
とは謂え、そんな労作を行う必要は必ずしもある訳ではない。そこに綴られている文字面だけ、すなわち上っ面だけを舐めてそれで良しとする事も充分に可能なのだ。つまり、ひとつの愛の歌 (A Love Song) として堪能してしまう事も許されているのである。
だけれども、そうやって、いいとこ取りだけをしていても、ふと立ち停まらざるを得ない時がくる。と、謂うのは、ひとつの愛の歌 (A Love Song) である筈のそれが、いつしか矛盾を孕み、齟齬をきたしてくるからだ。しかもその殆どの場合、苦々しい。傷ましくもある。
おそらく、そのときになって歌詞にある真意を探らざるを得ない、そんな立場に追い込まれるときが来るのではないだろうか [それは一体いつ、どんなときなのか、その問いに対しては応える事も出来ないし、例え出来たとしてもそれをきみに告げようとはぼくは思わないのだ。なぜってそれは純粋にきみだけの問題だからさ、そう、ぼくはぼく個人の事で精一杯なんだ]。逆に謂えば、苦々しくも痛ましい、そんな体験を経る事によって、ひとつの愛の歌 (A Love Song) がまったく異なった相貌をもって、おのれの前に顕れるのだ。
歌詞の構成をすこし丁寧にみてみよう。
この楽曲は3部で構成されている様にみえる。しかしもっとよく眺めてみれば、そこで描かれている世界はふたつあるだけだ。"物憂げな歌唱"が冒頭と末尾にあり、それに挟まれて"絶唱"がある。
その結果、音楽が時間芸術であるのを良い事にその時間系列に忠実に楽曲で歌われている内容が起こっている、と考える。
だが、果たして、それで良いのだろうか [上に綴った様にそれで良しとしても何ら問題はないのだが]。
楽曲の構成がすなわち楽曲内に流れる時間系列と同様であると看做すのを前提にして、この歌詞を吟味すれば、絶唱とは「半分夢の中 (Having One Foot In The Dream)」での事として理解する事が可能だ。そこにあるのは現実と夢想の差異、しかも、現実の方が安閑であり夢想の方が峻烈なのである。
逆だろ? 通常は。そう考えるだろうか。
だからと謂って、まぁ、あり得ない噺ではない。茫洋とした日中がおわればぼくだって、毎晩のようにうなされているばかりなのだから。
それはそう、その様な解釈はあり得るのかもしれないが、だけれどもこう、ぼくは考えるのだ。
"絶唱"は回想である、と。勿論、それは現実にあった事実であり、そこから逃避するかの様に、歌の主人公は「半分夢の中 (Having One Foot In The Dream)」にいるのである。それはもしかしたら、"絶唱"として回想されている時よりも前、歌詞の内容に即して謂えば、「うそばっかり (Lying About Everything.)」のたったのひとつでさえも嘘ともみぬけず、それを実直に真実として受容していた時季、そしてそれは幸福な時代の事であったのかもしれないのだが、そこへと逃亡しようとしている様にもみえる。だが、実際のところはどうなのであろうか。「うそばっかり (Lying About Everything.)」と断罪した自身の発言がもたらしたその結果、もしくはその重積に耐えられないのではないのだろうか。それ故に、「半分夢の中 (Having One Foot In The Dream)」にいるのだ。
何故、こんな妄想めいた発想をするのかと謂うと、この楽曲の後に続く楽曲『スローバラード (Slow Ballad)』があるからだ。
そこにある言葉は、多幸感でみちた安息の瞬間を表現してある様に一見、おもえる。だけれども、ぼくにはそこにあるモノをそのまま信じてしまって良いのだろうかと謂うおもいがある。
それは、その歌詞にある「あの娘のねごと (Talking In Her Sleep)」とは一体、なんなのだろう。なにをそこで彼女が囁いていたのだろうか、そんな疑問がぼくにあるからだ。
「悪い予感のかけらもない」その語句をそのまま信ずれば、「あの娘のねごと (Talking In Her Sleep)」はそれを保証するモノとなる。
だけれども、歌詞の読み方をすこし捻じれば、「悪い予感のかけらもない (I Never Have A Bad Feeling This.)」、その瞬間に聴いた「あの娘のねごと (Talking In Her Sleep)」はそれを一気に裏切る内容となる可能性もある。そして、そんな無茶な解釈をしても、この楽曲の世界観は揺るがないのだ。何故ならば、最後にこう歌われている。「ぼくら夢を見たのさ (We Had A Dream.)」と [ここでも夢 (A Dream) がある装置として稼働しているのだ]。
すなわち、そこで謂う「夢 (A Dream)」が瑞夢 (Aspicious Dream) なのか悪夢 (Nightmere) なのか、そのいずれであっても、この楽曲の存在は許し得るからである。
それだからぼくはこうも考えてしまうのだ。
もしかしたら、時系列的にはアルバムの収録順と逆、楽曲『スローバラード (Slow Ballad)』の後に楽曲『甲州街道はもう秋なのさ (Koushukaidouwa Mou Akinanosa : Already Autumn Comes At Koshukaido)』が続くのではなかろうか、と。
この順番で構成すれば、ひとつの愛に生じたちっぽけな疑念がその愛の終局をもたらせたと看做せてしまえるのだ。前者ではその疑念を一旦、打ち消してはみたものの、後者ではその疑念が再度、頭をもたげ、その結果としての今が描かれている、そう解釈出来るのだ。
だから、この2楽曲を収録したアルバムの歌詞を丹念に読んでいけば、もしかすると、ひとつの愛の芽生え(楽曲『大きな春子ちゃん (Ohkina Harukochan : Long Tall Harukochan)』 』[忌野清志郎 (Kiyoshiro Imawano) 作詞 』肝沢幅一 (Fukuichi Kimosawa) 作曲])からその破局までもが語られたコンセプト・アルバムである、そんな解釈も可能となるのかもしれない。
とは謂え、そこまで断定出来る自信は今のぼくにはない。
その代わりに、こんな事を指摘しておこう。
この楽曲の季節が「秋 (Autumn)」なのは和歌 (Waka) の技法のひとつ、掛詞 (Kakekotoba) が機能しているからではないのだろうか、と。
つまり、季節の「秋 (Autumn)」の他に、言外に"飽き (Get Bored)"が潜んでいるのである。
そんな解釈をしてしまえば、この楽曲が別離を主題とした作品であると看做すのも、然程、無謀とは謂えないのではないだろうか [冒頭で提示した疑問はこれを前提としたモノなのである、実は]。
[だからこそ、純情丸出しで素朴にも告白するその相手が「春子ちゃん (Haruko-chan : A Girl Spring Child)」 なのだ、なぁんて。]

the photography "Liv Tyler, Times Square" 1995 by Lara Rossignol
次回は「さ」。
附記 1. :
上掲画像は、ここまで綴ってきたぼくの解釈を、客観的なヴィジョンにおさめる事が出来るのであるのならば、この様な光景なんだろうか、そうおもって選択してみたモノだ。
但し、歌の主人公の視点ではない、その人物の"絶唱"を促した人物に焦点をあてている。
附記 2. :
仮に、このアルバムがコンセプト・アルバムであると仮定するのならば、何故、時系列に沿わない収録曲順なのか、そんな疑問が発生するとおもう。
単純に考えれば、ふたつの楽曲のなかにある世界観の広狭であろう。本楽曲が個人的な独白からさらに普遍性を得るのは多難である様にみえて、一方の楽曲はその真逆の位置にある。すなわち、普遍的な題材でありながらも、個々人の心象にすんなりと侵入していける可能性があるからだ。つまり、だれにもあるであろう感情、感覚がそこに綴られてあるのだ。愛を信ずる事、愛する人を信ずる事、果たしてそれは一体なにか? 楽曲『スローバラード (Slow Ballad)』の主題は一言をもってすれば、そこに横着するであろう。
と、同時に、現行の収録順に編成したのは、RCサクセション (RC Succession) の『やさしさ (Yasashisa : Considerate)』 [忌野清志郎 (Kiyoshiro Imawano) 作詞 』肝沢幅一 (Fukuichi Kimosawa) 作曲] の発露でもあるのだろう。持っていき様のない魂の表白でもって作品が終結するよりも、ほんの一瞬でもいい、自身と他者を許せるがままで終焉を迎えた方が、作品を聴く誰もが自身の日常にかえっていけるだろう、とでも謂う様な。
附記 3. :
だけれども良いかい? 仮に附記 2. で綴った様な事が真実だとしても、その楽曲の歌詞にはこうあるのだ。
「ぼくはやさしくない (I'm Not Cosiderate)」と。
- 関連記事
-
- てこのげんり (2023/03/28)
- さるのて (2023/03/21)
- こうしゅうかいどうはもうあきなのさ (2023/03/14)
- かげおとこ (2023/03/07)
- びか (2023/02/28)