2023.02.28.09.10
これもぼくが小学生 (Elementary School Student) だった頃のはなし。
そこでの生活が後半、つまり小学校4年生 (4th Grade Elementary School Student) になってからの事だ。毎学期事 (Each Semester) に学級委員 (Class Representative) が新たに選出される。男子2名、女子2名の計4名。同学年時に於いて、再選は許されてはいない様だから、1年間に12名の学級委員 (Class Representative) が登場する事になる。当時の1学級 (A Class) は40数名だったから、生徒の1人が学級委員 (Class Representative) に選出される確率は、計算すればすぐに解る。
と、学級委員 (Class Representative) と謂う、小学校 (Elementary School) 内に於ける1行政機関 (An Administrative Agenct) に関しては、まだまだ綴り続ける事はいくらでも出来そうだが、拙稿の主題はそれではない。
ちなみに当時、少なくともぼくが所属していた学級 (Class) では、その役職に立候補 (Candidacy) する人物は皆無だった。丸尾末男 (Sueo_Maruo) [ マンガ『ちびまる子ちゃん (Chibi Maruko-chan)』 [さくらももこ (Momoko Sakura) 作 1986~1996年 りぼん連載] 登場] の様な人物に、出逢った事は1度もなかったのだ [ぼく自身に彼の様な思考 / 嗜好が一切、なかったのは無論である]。
学級委員 (Class Representative) 4名が選出された後の学級 (Class) では行う事はひとつしかない。学級 (Class) 独自にある幾つかの役職に関しての選出である。彼等は〇〇委員 (xxxx Commissioner) もしくは〇〇係 (xxxx Charge) と呼ばれる。そしてその際の司会並びに議事進行、及びその記録は、選出された学級委員 (Class Representative) 達が行う。任命後、最初の業務がこれなのである。
幾つもある役職のそれぞれには、男子と女子が同数で1〜2名程が選出される。各役職の構成人数は2〜4名なのだ。もう一度、綴るがこの学級 (Class) は40数名で構成されている。一方で役職数は2桁前後はあるであろうか、しかも兼任は許されてはいない。と、なると無役でいる方が難しい。
だからこれらの役職の幾つかは立候補者 (Candidacy) がいない訳ではない。だからと謂って、率先してそれに就きたいとおもうモノは余程、特殊な役職もしくは立候補者 (Candidacy) に独特な嗜好がない限り存在しない。ここに登場する立候補者 (Candidacy) と謂うモノの殆どが消極的な選択、その顕れだろう。つまり、比較的負担の軽いモノ、比較的責任の少ないモノ、比較的労力を必要としないモノ、そんな役職に立候補 (Candidacy) が集中するのだ。
だからと謂って、ぢゃあ具体的にどんな職種があるのだろう、と自問しても直ちに挙げる事は困難だ。そのひとつには、どの役職も複数名選出されると謂う点がある。つまり、あいつと一緒ならいいだろう、さもなければその逆、あいつとは絶対に組みたくない、そんな発想が起動する事があるからだ。そして、その場合は時に、その役職の重要度、責任度、労働力は、逆に考慮されなくなってしまう事になる。つまり、なにをやるのか、ではなく、だれとやるのか、そちらの方が重視されるのである。実質や果実、それよりもそれを共有する人間関係の方が、重大なのである [そしてそんな物差 (Yardstick) は、この場合だけではないだろう]。
と、大雑把に小学生 (Elementary School Student) の学級 (Class) 内にある役職に関して綴った後に語るべきはぼく自身の事であろう。
通常は、なんとなく、いつの間にか、周囲のモノがこれが相応しいのだ、そんな身勝手な判断によって、ある役職に任命されてしまっている。つまり、立候補 (Candidacy) ではなくて、その次の段階、推薦 (Recommendation) と謂う選出手段によってぼくにお鉢がまわってくる (The Ball Is In My Court.) のだ。学級委員 (Class Representative) と謂うモノもそんなゆうにやまれぬ状況から、就任した事もある。その大任を上手く回避出来たとしても、無役でその学期 (That Semester) を過ごす事は誰も許してくれない。
あれやこれやそれやどれやを幾つかこなした。そんな記憶がある。
そのうちのひとつが美化委員 (Clean-up Committee) である。
その役職が実際に果たすべき職務は、実はよく解っていない。選出されて任命された当時も、その職務にあたっている時季も、そしていまとなっても、果たしてその時、ぼくはなにをしていたのだろうとばかりに思う。
但し、任命された直後、学級 (Class) 内の親しい友人達数名にこうもらした事だけは憶えている。
「がらでもねぇ (This Is Out Of Character For Me.)」
そうなのだ。小学校 (Elementary School) と謂う場で過ごしているあいだ、最も僕が役立たずな時間が掃除の時間 (Cleaning Time) だからだ [身体の弱い当時のぼくにはもうひとつ、それに匹敵するのが体育の授業 (Physical Education Class) である]。邪魔はしない。だからと謂って存在価値が殆どない。居ても居なくてもおんなじだ。そんな認識がぼくにはある。
と、謂うのはぼくと同様に美化委員 (Clean-up Committee) に抜擢されたひとりの女子生徒が孤軍奮闘 (Fight Alone) するからでもある。その時間、きまって彼女はこう叫ぶのだ。
「ちょっとだんしぃ。さぼってばかりいないで、ちゃんと掃除してよぉ。先生にいいつけるわよ (Hey Schoolboys! Don't Blow Off! Do It Clean! I'll Let Our Teacher Know About It!!)」
そんな彼女の咆哮を余所に、一体、ぼくはなにをしていたのであろうか。
と、ここまでは 落語 (Rakugo) で謂うところの枕 (Makura : The Pillow) である。
本題はこれからなのだ。
表題に掲げた美化 (Beautification)" は名詞 (Noun) である。
これに体言 (Nominal Sentence) を動詞化 (Vervalize) 出来る動詞 (Verb) "〜する (Do)" を添加すると、動詞 (Verb) "美化する (Beautify)" が生成する。
だけれども、名詞 (Noun) "美化 (Beautification)" と動詞 (Verb) "美化する (Beautify)" を並べてみると、多少の違和感が生じない訳でもない。前者にはない意味、その微妙なニュアンスが後者に於いては濃厚となっている様なのだ。
否、前者では隠微されていたその意味が後者ではより強調されている、そう謂うべきなのかもしれない。
と、ここまで綴ってはきたが、ぼくの謂いたい事を充分に汲んでもらえているのだろうか。
名詞 (Noun) "美化 (Beautification)" には、"美しくさせる (Make It Beautiful)"と謂う意味と"美しいものとおもわせる (Make That It Is Beauty)"と謂う2種類が備わっている様に思える。その2字熟語の後半を成す漢字"化 (Becoming To, Or Change To)"の解釈の違いだ。そして、名詞 (Noun) "美化 (Beautification)" は、前者の意味が濃厚に表出している様におもえるのだ。しかし、この名詞 (Noun) を動詞化 (Verbalize) させると、それまでとは逆に、後者の意味が濃厚に表出している様に、ぼくにはおもえてしまう。
そして実際には、どうなのだろうか、そして殆どのヒトはどう理解しているのだろうか。
と、謂うのは、マンガ『まんが道 あすなろ編 (Mmanga Michi Asunaro-hen : Manga Road Volume Of A Hiva)』 [藤子不二雄 A (FUJIKO Fujio (A)) 作 1970〜1972年 週刊少年チャンピオン連載] に於いてこんな発言があるからである。
「ただ 似顔のことだけど 相手の欠点を誇張して似させるより 相手の長所を誇張して似させるほうが描かれた本人はよろこぶと思うよ (On Drawing Someone's Portrait, I Think He Will Be Happier Drawing To Exaggerate His Good Points Than doing His Bad's.)」 [こちらで既に紹介済み]
この台詞はそのマンガの主人公、満賀道雄 (Michio Maga) と才野茂 (Shigeru Saino) の遭遇の逸話の中に登場する。
そのマンガの中で、満賀道雄 (Michio Maga) は同じ学級 (Class) の1生徒から自身の似顔を依頼される。その生徒は、藤子不二雄 A (FUJIKO Fujio (A)) が描く作品の登場人物に準えると例えば、番野 (Banno) [マンガ『怪物くん (Kaibutsu-kun)』 [1965~1969年 少年画報連載] 登場] にあたる人物だ。つまり、クラスのガキ大将 (Bully) なのである。
彼は、彼の日常での態度や性格をも考慮して彼そっくりの人物の似顔を描く。その場にいた生徒の誰でもよく似ている、と褒める。だが当の依頼者は全く評価しない。納得もしない。しないどころか、逆恨みで暴力に訴え様ともする。それをみかねた才野茂 (Shigeru Saino) が彼をひきとめるのだ。代わりに描く、と。
そして、その結果としての似顔とそれに対する依頼者からの好評の中、才野茂 (Shigeru Saino) が満賀道雄 (Michio Maga) に向けて語ったことばが上の引用文なのである。
満賀道雄 (Michio Maga) は正直に描きすぎたのだ。その結果、その人物の客観的な外観や客観的な印象が、より強調されたかたちをとって描出されたのである。そして、それを描かれた自身は受容する事が出来ない。つまり、みかたをちょいとずらせば、その人物を悪意をもって描いた作品と看做す事が可能だからだ。
だから、才野茂 (Shigeru Saino) は、依頼者自身が自己に内部に構築している理想像を描いてみせた。そして、その結果が彼からの好評と謂う成果を導き出せたのだ。
"美化 (Beautification)" とは何か、そう問われたのならば、そのマンガのその逸話をみせればよいのだ。
だけれどもぼくはこうもおもう。
才野茂 (Shigeru Saino) のその発言には極めて危ういモノが潜んでいないだろうか、と。
彼のその発言を一言に集約してみれば、それは忖度 (Reading Between The Lines) と謂う事が可能だ。それはその語句本来にある意味よりも、報道の場でかつて飛び交っていた語句、某政権下 ( Under The Rule Of A Certain Cabinet) でのそれを象徴し得る様な意味をもつ語句として、だ。
そして、それがより重視されれば、個人崇拝(Cult Of personality)や偶像化 (IUdolization) と謂う様な方向へと舵をきらないとは謂えない。
尤も、いま綴ったのは極端な視点でみて、それが極端な方向へと突出した場合のときの事である。
だから、才野茂 (Shigeru Saino) の発言を受けてそっくりそのまま、それに対する批判と謂うよりも、そこに潜むモノの正体、その可能性を指摘してみただけなのである。
つまり、名詞 (Noun) "美化 (Beautification)" ではない、動詞 (Verb) "美化する (Beautify)" とはどういう意味なのか、その点を ぼくはここで指摘しようとしてみたのだ。

"Cleaning Lady" 1972 by Duane Hanson
次回は「か」。
そこでの生活が後半、つまり小学校4年生 (4th Grade Elementary School Student) になってからの事だ。毎学期事 (Each Semester) に学級委員 (Class Representative) が新たに選出される。男子2名、女子2名の計4名。同学年時に於いて、再選は許されてはいない様だから、1年間に12名の学級委員 (Class Representative) が登場する事になる。当時の1学級 (A Class) は40数名だったから、生徒の1人が学級委員 (Class Representative) に選出される確率は、計算すればすぐに解る。
と、学級委員 (Class Representative) と謂う、小学校 (Elementary School) 内に於ける1行政機関 (An Administrative Agenct) に関しては、まだまだ綴り続ける事はいくらでも出来そうだが、拙稿の主題はそれではない。
ちなみに当時、少なくともぼくが所属していた学級 (Class) では、その役職に立候補 (Candidacy) する人物は皆無だった。丸尾末男 (Sueo_Maruo) [ マンガ『ちびまる子ちゃん (Chibi Maruko-chan)』 [さくらももこ (Momoko Sakura) 作 1986~1996年 りぼん連載] 登場] の様な人物に、出逢った事は1度もなかったのだ [ぼく自身に彼の様な思考 / 嗜好が一切、なかったのは無論である]。
学級委員 (Class Representative) 4名が選出された後の学級 (Class) では行う事はひとつしかない。学級 (Class) 独自にある幾つかの役職に関しての選出である。彼等は〇〇委員 (xxxx Commissioner) もしくは〇〇係 (xxxx Charge) と呼ばれる。そしてその際の司会並びに議事進行、及びその記録は、選出された学級委員 (Class Representative) 達が行う。任命後、最初の業務がこれなのである。
幾つもある役職のそれぞれには、男子と女子が同数で1〜2名程が選出される。各役職の構成人数は2〜4名なのだ。もう一度、綴るがこの学級 (Class) は40数名で構成されている。一方で役職数は2桁前後はあるであろうか、しかも兼任は許されてはいない。と、なると無役でいる方が難しい。
だからこれらの役職の幾つかは立候補者 (Candidacy) がいない訳ではない。だからと謂って、率先してそれに就きたいとおもうモノは余程、特殊な役職もしくは立候補者 (Candidacy) に独特な嗜好がない限り存在しない。ここに登場する立候補者 (Candidacy) と謂うモノの殆どが消極的な選択、その顕れだろう。つまり、比較的負担の軽いモノ、比較的責任の少ないモノ、比較的労力を必要としないモノ、そんな役職に立候補 (Candidacy) が集中するのだ。
だからと謂って、ぢゃあ具体的にどんな職種があるのだろう、と自問しても直ちに挙げる事は困難だ。そのひとつには、どの役職も複数名選出されると謂う点がある。つまり、あいつと一緒ならいいだろう、さもなければその逆、あいつとは絶対に組みたくない、そんな発想が起動する事があるからだ。そして、その場合は時に、その役職の重要度、責任度、労働力は、逆に考慮されなくなってしまう事になる。つまり、なにをやるのか、ではなく、だれとやるのか、そちらの方が重視されるのである。実質や果実、それよりもそれを共有する人間関係の方が、重大なのである [そしてそんな物差 (Yardstick) は、この場合だけではないだろう]。
と、大雑把に小学生 (Elementary School Student) の学級 (Class) 内にある役職に関して綴った後に語るべきはぼく自身の事であろう。
通常は、なんとなく、いつの間にか、周囲のモノがこれが相応しいのだ、そんな身勝手な判断によって、ある役職に任命されてしまっている。つまり、立候補 (Candidacy) ではなくて、その次の段階、推薦 (Recommendation) と謂う選出手段によってぼくにお鉢がまわってくる (The Ball Is In My Court.) のだ。学級委員 (Class Representative) と謂うモノもそんなゆうにやまれぬ状況から、就任した事もある。その大任を上手く回避出来たとしても、無役でその学期 (That Semester) を過ごす事は誰も許してくれない。
あれやこれやそれやどれやを幾つかこなした。そんな記憶がある。
そのうちのひとつが美化委員 (Clean-up Committee) である。
その役職が実際に果たすべき職務は、実はよく解っていない。選出されて任命された当時も、その職務にあたっている時季も、そしていまとなっても、果たしてその時、ぼくはなにをしていたのだろうとばかりに思う。
但し、任命された直後、学級 (Class) 内の親しい友人達数名にこうもらした事だけは憶えている。
「がらでもねぇ (This Is Out Of Character For Me.)」
そうなのだ。小学校 (Elementary School) と謂う場で過ごしているあいだ、最も僕が役立たずな時間が掃除の時間 (Cleaning Time) だからだ [身体の弱い当時のぼくにはもうひとつ、それに匹敵するのが体育の授業 (Physical Education Class) である]。邪魔はしない。だからと謂って存在価値が殆どない。居ても居なくてもおんなじだ。そんな認識がぼくにはある。
と、謂うのはぼくと同様に美化委員 (Clean-up Committee) に抜擢されたひとりの女子生徒が孤軍奮闘 (Fight Alone) するからでもある。その時間、きまって彼女はこう叫ぶのだ。
「ちょっとだんしぃ。さぼってばかりいないで、ちゃんと掃除してよぉ。先生にいいつけるわよ (Hey Schoolboys! Don't Blow Off! Do It Clean! I'll Let Our Teacher Know About It!!)」
そんな彼女の咆哮を余所に、一体、ぼくはなにをしていたのであろうか。
と、ここまでは 落語 (Rakugo) で謂うところの枕 (Makura : The Pillow) である。
本題はこれからなのだ。
表題に掲げた美化 (Beautification)" は名詞 (Noun) である。
これに体言 (Nominal Sentence) を動詞化 (Vervalize) 出来る動詞 (Verb) "〜する (Do)" を添加すると、動詞 (Verb) "美化する (Beautify)" が生成する。
だけれども、名詞 (Noun) "美化 (Beautification)" と動詞 (Verb) "美化する (Beautify)" を並べてみると、多少の違和感が生じない訳でもない。前者にはない意味、その微妙なニュアンスが後者に於いては濃厚となっている様なのだ。
否、前者では隠微されていたその意味が後者ではより強調されている、そう謂うべきなのかもしれない。
と、ここまで綴ってはきたが、ぼくの謂いたい事を充分に汲んでもらえているのだろうか。
名詞 (Noun) "美化 (Beautification)" には、"美しくさせる (Make It Beautiful)"と謂う意味と"美しいものとおもわせる (Make That It Is Beauty)"と謂う2種類が備わっている様に思える。その2字熟語の後半を成す漢字"化 (Becoming To, Or Change To)"の解釈の違いだ。そして、名詞 (Noun) "美化 (Beautification)" は、前者の意味が濃厚に表出している様におもえるのだ。しかし、この名詞 (Noun) を動詞化 (Verbalize) させると、それまでとは逆に、後者の意味が濃厚に表出している様に、ぼくにはおもえてしまう。
そして実際には、どうなのだろうか、そして殆どのヒトはどう理解しているのだろうか。
と、謂うのは、マンガ『まんが道 あすなろ編 (Mmanga Michi Asunaro-hen : Manga Road Volume Of A Hiva)』 [藤子不二雄 A (FUJIKO Fujio (A)) 作 1970〜1972年 週刊少年チャンピオン連載] に於いてこんな発言があるからである。
「ただ 似顔のことだけど 相手の欠点を誇張して似させるより 相手の長所を誇張して似させるほうが描かれた本人はよろこぶと思うよ (On Drawing Someone's Portrait, I Think He Will Be Happier Drawing To Exaggerate His Good Points Than doing His Bad's.)」 [こちらで既に紹介済み]
この台詞はそのマンガの主人公、満賀道雄 (Michio Maga) と才野茂 (Shigeru Saino) の遭遇の逸話の中に登場する。
そのマンガの中で、満賀道雄 (Michio Maga) は同じ学級 (Class) の1生徒から自身の似顔を依頼される。その生徒は、藤子不二雄 A (FUJIKO Fujio (A)) が描く作品の登場人物に準えると例えば、番野 (Banno) [マンガ『怪物くん (Kaibutsu-kun)』 [1965~1969年 少年画報連載] 登場] にあたる人物だ。つまり、クラスのガキ大将 (Bully) なのである。
彼は、彼の日常での態度や性格をも考慮して彼そっくりの人物の似顔を描く。その場にいた生徒の誰でもよく似ている、と褒める。だが当の依頼者は全く評価しない。納得もしない。しないどころか、逆恨みで暴力に訴え様ともする。それをみかねた才野茂 (Shigeru Saino) が彼をひきとめるのだ。代わりに描く、と。
そして、その結果としての似顔とそれに対する依頼者からの好評の中、才野茂 (Shigeru Saino) が満賀道雄 (Michio Maga) に向けて語ったことばが上の引用文なのである。
満賀道雄 (Michio Maga) は正直に描きすぎたのだ。その結果、その人物の客観的な外観や客観的な印象が、より強調されたかたちをとって描出されたのである。そして、それを描かれた自身は受容する事が出来ない。つまり、みかたをちょいとずらせば、その人物を悪意をもって描いた作品と看做す事が可能だからだ。
だから、才野茂 (Shigeru Saino) は、依頼者自身が自己に内部に構築している理想像を描いてみせた。そして、その結果が彼からの好評と謂う成果を導き出せたのだ。
"美化 (Beautification)" とは何か、そう問われたのならば、そのマンガのその逸話をみせればよいのだ。
だけれどもぼくはこうもおもう。
才野茂 (Shigeru Saino) のその発言には極めて危ういモノが潜んでいないだろうか、と。
彼のその発言を一言に集約してみれば、それは忖度 (Reading Between The Lines) と謂う事が可能だ。それはその語句本来にある意味よりも、報道の場でかつて飛び交っていた語句、某政権下 ( Under The Rule Of A Certain Cabinet) でのそれを象徴し得る様な意味をもつ語句として、だ。
そして、それがより重視されれば、個人崇拝(Cult Of personality)や偶像化 (IUdolization) と謂う様な方向へと舵をきらないとは謂えない。
尤も、いま綴ったのは極端な視点でみて、それが極端な方向へと突出した場合のときの事である。
だから、才野茂 (Shigeru Saino) の発言を受けてそっくりそのまま、それに対する批判と謂うよりも、そこに潜むモノの正体、その可能性を指摘してみただけなのである。
つまり、名詞 (Noun) "美化 (Beautification)" ではない、動詞 (Verb) "美化する (Beautify)" とはどういう意味なのか、その点を ぼくはここで指摘しようとしてみたのだ。

"Cleaning Lady" 1972 by Duane Hanson
次回は「か」。
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