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2023.02.21.08.18

うまとび

いま、ぼくのめのまえにすうにんのともだちが1れつ、とうかんかくにならんでいる。そのだれもがせなかをまるめ、こしをおとし、うつむいている。ぼくがいきおいよくはしりだしてそのせなかにてをつき、じゅんじゅんにとびこえていくために。
そして、ぜんいんのせなかをとびこしたあとは、こんどはぼくもともだちとおなじように、せなかをまるめ、こしをおとし、うつむかなければならない。なぜなら、だれもがぼくのせなかにどおっといきおいよくりょうてをつき、ぼくをおいこしてゆくのだから。

と、謂うのが遊戯としての馬跳び (Leapfrog) である。
遊戯として、と限定してみせたのは、体育の授業 (Physical Education Class) でもその動作を行なうのだが、冒頭に綴ったそれとは多少、趣きがちがうからだ。

2列縦隊となったぼく達は、となりの生徒とむかいあい、それぞれの背中を両手をつけて飛び越すのである。それを複数回おこなう。その数を教師 (Physical Education Teacher) が最初に指定し、規定数に達するまでおこなう場合もあれば、教師 (Physical Education Teacher) のカウントするタイミングにあわせておこなう場合もある。ただ、いずれも、とびこす生徒からみれば、たったひとりの背中を挟んで右往左往するだけ、とびこされる生徒からみれば、自分の背中に何度も何度も荷重がくわわるばかりなのである。
決しておもしろい動作ではない。右往左往する生徒はめがまわるばかりだし、荷重をうける生徒からみれば、それ自体が苦痛であるのは当然な上に、時に荷重以外のちからがくわわる事がない訳ではない、相対する生徒の両脚のどこかが自身にぶつかる場合もあれば、とびそこねた彼乃至彼女の肉体そのものが背中におおいかぶさる事だってあるのだ。
だから、この運動をする場合、ほとんどの生徒は、必要以上に背中をまるめて腰をおとす。それはまるで、相対する生徒に屈従する様でもあり、降参する様でもあるのだ。

勿論、それは冒頭に紹介した遊戯としての馬跳び (Leapfrog) でも同様だ。
次から次へと友達の背中を飛び越していく際の快感は否定できない。だけれども、それはほんの一瞬の出来事であって、この遊戯の大半の時間は、背中を丸め腰を落として俯いている時間なのだ。

と、呪詛にもちかい非難をこの遊戯に浴びせたぼくは、特におさない頃のぼくが、病気がちで身体も弱く、体育の授業 (Physical Education Class) は勿論、戸外での遊戯をも苦手としていたからなのであった。
だから、ヒトによっては、めのまえに幾つも並ぶ友人の背中をみて、ふと詩『道程 (Dotei : The Road)』 [高村光太郎 (Kotaro Takamura) 作 1914年 雑誌『美の廃墟 (Bi No Haikyo : The Ruins Of The Beauty)』掲載] の冒頭をおもいかえし、嗚呼、あれと正反対だと独語したりするモノもあれば、ごく一瞬の快感を得る為に、ながい隠忍自重を必要する点をもって、そこに人生の縮図をみいだすモノもあるのかもしれない。
そんな馬鹿な、とあなたはおもうかもしれない。それはそうだろう。ここに挙げた例示はいずれも、もうひとりのぼくでしかないのだから。

images
"Leapfrog" 1919 for The Saturday Evening Post" June 28, 1919 by Norman Rockwell

と、ここまでは 落語 (Rakugo) で謂うところの (Makura : The Pillow) である。
本題はこれからなのだ。

絵画『子供の遊戯 (Kinderspiele)』 [ピーテル・ブリューゲル (Pieter Bruegel de Oude) 画 1560年作 美術史美術館 (Kunsthistorisches Museum Wien) 所蔵] にもこの遊戯は描かれている。画面中央よりすこし右下、6人の男児によってそれがおこなわれている。
だからぼくはこの絵画に描かれた91もの遊戯ひとつひとつを分類検証した美術評論『ブリューゲルの「子供の遊戯」 - 遊びの図像学 ("Children's Games" By Pieter Bruegel de Oude : Iconography Of Play)』 [森洋子 (Yoko Mori)1989 未來社 (Mirai-sha Publishers) 刊行] を繙くのだ。
そして、かるい眩暈を感ずる。

その絵画に描かれている馬跳び (Leapfrog) は、その美術評論では「36. 兎跳び (Haasje-over)」 [括弧内冒頭にある数字は、当該美術評論に於ける分類番号、以下同じ] として分類される。この絵画を描いた画家の用いた言語、オランダ語 (Nederlands) ではその遊戯を兎跳び (Haasje-over) と呼ぶのだと謂う。
と、綴れば、ぼくの眩暈を理解してくれるヒトもいるのかもしれない。
何故ならば、日本語 (Japanese Language) で謂うところの兎跳び (Bunny Hops) は、この遊戯と全然異なる動作であるからだ。否、そればかりか、その動作の目的すらも異なる行為であるのだから [ここで兎跳び (Bunny Hops) と謂う運動について開陳すべきなのかもしれないが、それではきっと拙稿は明後日の方向へ跳んでいってしまうのに違いない]。

しかも、馬跳び (Leapfrog) と兎跳び (Bunny Hops) で感じた眩暈は、さらにつよくなるのだ。
美術評論では、ヨーロッパ (Europe) にある幾つかの言語でのその遊戯の名称を列挙していくのである。
フランドル (Vlaanderen) では 小さな身体を越えて(Over't Lijfken)、仏語 (Francais) では羊跳び (Saute-mouton)、独語 (Deutsche Sprache) では、牡山羊跳び (Bokspringen) 等、と。英語 (English Language) では既に拙稿に登場済み、蛙跳び (Leapfrog) である。
さらにそこに綴られている事は、地域によって異なるばかりではなく、同じ言語ではあっても時代によって変遷している場合もあるし、また、同じ言語ではあっても、遊戯の際の姿勢によってもその呼称が異なる場合もあるのだと謂う。

各国各地域に共通する遊戯がひとつある。何故、その遊戯が様々な場所でおこなわれてきたのか。あるひとつの地域で発明された遊戯が各地へと伝播したのだろうか。だとすると、何故、こうもその遊戯の名称が異なるのだろう。では偶然にも、同時に多数の場所で発明された遊戯がそれを産み出した地域それぞれ独自の呼称のそのままによばれ、何世代にもわたって、おこなわれてきたのだろうか。
一旦、不思議におもいだすと、そこにある謎は解明されるばかりか、寧ろ、ひろがり深まるばかりなのだ。

一見すると、この遊戯を動物に準えたモノが多くある様におもえる。おもえるが、何故、そんな比喩が登場するのだろうか。その視点の行方は、それぞれの言語の存在を裏付ける文化や風俗、産業に由来するのかもしれない。そう考える事は然程、難しくはないのだが、そこからさきへとはすすめさせてはくれないのだ。

例えば、日本語 (Japanese Language) では何度も何度も登場しているが、この遊戯を馬跳び (Leapfrog) と呼ぶのが一般的なモノだ。
だが、地域によっては蛙跳び (Leapfrog) とよび慣わしているところがあると謂う。
(Horse) と (Frog) ではあまりに違う。しかも、前者は飛び越される側を (Horse) と称しているのに対し、後者は飛び越す側を (Frog) と称しているのだ [ (Horse) の様に跳び越すと謂う発想がそこには働いているかもしれないが、その遊戯は、両脚を左右に開脚して跳び越すのだ。 (Horse) がその様な体型でその動作をしようとはおもえないし、その一方で馬乗り (Sit Aside) と謂う形容もあるではないか。この場合はどうみても乗る側が (Horse)、ではなくて、乗られる側こそが (Horse) である筈だ。そこから類推する限り、馬跳び (Leapfrog) も同様であると看做すのが自然な発想である]。
だから、単純に考えれば、蛙跳び (Leapfrog)と謂う語句は、英語 (English Language) でのそれを直訳したモノだろうかとも疑い得てしまうのだ [それの正否は解らない。どこかで誰かがそれを解説する、もしくはどこかで誰かが既に解説したものを発見するまでは、不問のまま放置しておこうと思う]。

その中で面白いのは、現在では廃れてしまった仏語 (Francais) の呼称だ。
17世紀、それを駅伝 (La Poste) と謂う。
それは、拙稿冒頭に綴った様に、背中を跳ぶ人物が次から次へと入れ替わっていくからである。その様を当時の郵便、通信手段に準えた結果が、その名称なのである。美術評論では、ジャック・ステラ Jacques Stella) の銅版画集『子供の遊戯と楽しみ (Les jeux et plaisirs de l'enfance)』[1657年刊行』の1点、銅版画『ポスト (La Poste)』を掲載して、その語句の登場理由を補強している。
跳ぶ側、もしくは跳ばれる側、そのいずれかの姿勢の比喩の様なかたちで、その名称が形成されているのと、おおいに異なる点がぼくには面白いのだ。

次回は「」。

附記:
絵画『子供の遊戯 (Kinderspiele)』での馬跳び (Leapfrog) ならぬ「36. 兎跳び (Haasje-over)」は、上に綴った様に「画面中央よりすこし右下」にある。そして、その遊戯は、作品がなす矩形の左上から同右下にはしる対角線上に位置し、その行方は、中央から右下端へと向かっている。
そして、画面中央にある「44. 花嫁行列ごっこ (Bruidsstoet)」を挟んで今度は、作品がなす矩形の右上から左下へとはしる対角線上に「38. 足蹴り (De Spityskar)」があり、こちらの行方も中央から左下へと向かっている。
「38. 足蹴り (De Spityskar)」は、美術評論によれば「子供たちは五人ずつ二列になって地面に坐り、両足を前に出す。そこを二人の男の子が通過しなければならないのだが、仲間たちはかなり乱暴に足蹴りをし、二人を前進させないように妨害する。そのため、二人はかなり高く、巧妙に跳ばねばならない」と謂う遊戯であり、いささか罰ゲーム (Penalty Game) 的な意味合いを含んではいる様だ [そしてそんな評価とは別に、バンブーダンス (Tinikling) の様な遊戯とみえなくもない]。
但し、次の様な事は最低限、断言しても良いのではないか。
画面中央に配された「44. 花嫁行列ごっこ (Bruidsstoet)」 が画面下方へと向かうべきであるのならば、その方向性を2分するかの様に、画面右には「36. 兎跳び (Haasje-over)」があり、画面左には「38. 足蹴り (De Spityskar)」がある。そして、そのどちらも、ひとりの参加者は、他の参加者が障害となってその行手を阻まれながらも、そこを越えていかなければならない。
ぼくは、ここになんらかの警句めいた言説を弄びたくなってしまう。
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