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2023.01.10.07.32

ぼう

その物語は「駅前のデパートの屋上」で始まっている。

いまのそこがどの様な意味を持つのかは知らない。
だけれどもぼく達にとってのそこは、街中にあって寂寥を堪能出来る数少ない場所である。学生時代、もしくは社会人になってまもなくは、女性とふたりっきりになる場所であった。ふたりにとっての休日、映画観劇や展覧会鑑賞のあと、もしくは昼餉の後に、そこにいる。階下にむかえば喧騒があるばかりだが、そこだけはひっそりとしている。売店、遊興施設、どこも閑散としている。尤も無人ではない。ささやかな会話や幼児達の嬌声が聴こえるのだ。ぼく達ふたりは、自販機で購入した飲料水を手にして、はなすでもなく、みつめあうでもなく、休日のほんのみじかい時間をすごすのだ。
そこがふたりにとって居心地のよい場所であるのは、そこの全盛期を知っているからかもしれない。おさない頃、そのときよりももっとおさない頃の日曜日、両親につれられて、そこでおやつを喰べ、そこであそび惚けていたのだ。しかも、そのあとには階下のレストランで楽しい夕食が待っているのかもしれないし、彼等の機嫌と財布が許せば、欲しいおもちゃのひとつは買ってもらえたであろう。
もののあわれと謂うと大袈裟だが、そんな記憶といまのその場所との差異を、ふたりはみていたのである。

そして蛇足を承知でつけくわえるのであるのならば、その場所にぼくにはこんな体験があるのであった。
小学校の高学年の頃である。ぼくは3歳下の弟とふたりっきりでに映画を観にいく。ロードショー公開されたばかりの大作、話題作、さもなければ長期休暇にあてこんだ家族むけの作品である。運がよければ、割引券もある。午前中の日曜日、最初の上映回にむかうのだ。観終わると丁度、昼食の時間である。ぼく達は、そこに出向き、母親が用意してくれたむすびをほおばるのだ。
そこは既に凋落が始まっていた。日曜日の昼食時、繁華街のどこもひとであふれかえっているところをよそに、だれが邪魔するでもなく、ぼく達2人はのんびりと握り飯を喰っているのだった。

そんな記憶をもたどりながら、ぼくはその女性がさしだす烟草に火をつける。

「駅前のデパートの屋上」で幕をあける小説『 (A Stick)』 [安部公房 (Kobo Abe) 作 1955文藝 (Bungei) 掲載] とは随分と隔たりのある状況だ。
その小説は、高校現代国語の授業で出逢ったのだが、その時には既に、もう昔話でしかなかったのだ [だからこそ教科書に掲載されているとも謂える]。
それ故に、そんな時代のへだたりを前提の上で、読まなければならないとおもうのだ。

images
上掲画像 [こちらより] は映画『東京暗黒街・竹の家 (House Of Bamboo)』 [サミュエル・フラー (Samuel Fuller) 監督作品 1955年制作] での光景、浅草松屋 (Matsuya In Asakusa) の屋上だ。
その作品の終盤はここが舞台となる。
画像左上にみえる土星 (Saturn) 状の施設は、水平観覧車 (The Horizontal Observation Wheel) であり、クライマックスは回転するここで銃撃戦が行われるのである。

映画は、小説が発表された同年の作品だ。その映画で観られるそこは騒然としていると同時に、混沌が支配している様にみえる。勿論、映像的な作為、劇的効果を狙っての過剰な演出は施されてもいるだろう。
だけれども、作品発表当時のヒトビトの認識の上では、小説に登場する「駅前のデパートの屋上」とは、この様な場所と看做しても問題はないだろう。

そこからひとり、「私」は「墜落」し、「一本の棒」になってしまうのである。

その発端が「駅前のデパートの屋上」なのだ。

ここですこし、こんな事を考えてみる。何故、そこなのだろうか、と。
と、謂うのは、仮にそこではなく、階下に職場のあるビルの屋上ならば、全然異なる物語となってしまう様に、ぼくにはおもえるからだ。
何故ならばその場合、彼が墜落した理由はあまりにも明らかなのである。逃避、この1語で総てが終わってしまう様なのだ。そして、その背景に、仕事とか責任とか人間関係とか、いくらでも明瞭な口実を発見できてしまうのだ。つまり、労働者、企業人、社会人と謂う、堅牢な枠組みに捕えられている人物の行動なのである。

ところが、その様な枠組みから一旦、解放されてしまうのが「駅前のデパートの屋上」なのである。
親子連れ、家族連れの一員として行動すべき父親は、そこでは希薄な存在だ。そこでの主人公は子供達であり、彼等の行動を担保すると同時に監視する役割は母親のモノだ。本来ならば、その日その時の彼等の所作を経済的に保障しているのは、その世帯唯一の収入源である父親である筈なのだが、彼は財布ですらない。その実権も彼の妻、母親が握っている。彼ならでは役割があるとしたら、恐らくそれは苦力、彼等がその日購入した幾つもの品々を運搬する事だけなのかもしれない。
しかも、その日は日曜日、1週間に1度訪れるその日は彼の唯一の休日なのだ [週休2日制 (A Five‐day Workweek) は1965年、パナソニック株式会社 (Panasonic) が嚆矢。一般的になるのは1980年代になってから]。にも関わらずに、彼自らが判断し行動する機運はまずないのだ。ただひたすら家族の他のモノに隷属するしかない。
さらに謂えば、彼の存在は男性ですらない。この小説に「二人の子供」の母親、彼にとっての妻が登場しないのはそこに理由がある。小説の設定上、妻は自宅で留守番をしているのでもなく、階下で買物に勤しでいるのでもなく、とうのむかしに彼をみかぎって離縁したのでもない。物語を語る上では全く不必要な存在なのだ。「駅前のデパートの屋上」に於いて、彼は性すら剥奪されているのだ。小説に女性が一切登場しない理由はそこにある。

ところで、「私」は自身の周囲をみまわして、「特別なことではなかった」と思う。自分とおなじ様な大人、同類がここに居るとして安寧をえようとする。だが果たしてそうなのか。
「手すりにへばりついている<中略>大人」の幾許かは、自身の子供達から解放されているのではないか。そして、その子供達は「私」の「二人の子供」と違って飽きてはいないのだろう。「大人」は子供達に小遣銭を与える等して、彼等に幾許かの娯楽を補填すると同時に、父親としての最低限の責務をはたしているのではないだろうか。それができない大人の子供が「たいていすぐ飽きてしまって、帰ろうとせがみ出す」のである。
しかもそれ以上に「私」は「今度は自分が夢中になって」いるのである。彼はただ自身の子供達を「順に抱き上げてやったりしている」だけで充足している上に、その子供達もそれで充足する筈だとおもっているのである。

さらに謂えば、もうすこし画面をひいてよぉく考えてみてほしい。
1週間に1度の日曜日、「私」は「二人の子供」を連れて「駅前のデパートの屋上」に行く。しかし、他に選択肢はないのだろうか。あまりにも安易ぢゃあないだろうか。どこか他所、ここよりも贅沢、そして他の父親達とは異なる場所の選択、娯楽の提供を「二人の子供」にしてやれないのだろうか。
もしかしたら、先週もこの場所、来週もこの場所、そんな可能性すらも否定出来ないのだ。

それだからこそ、「上の子供」の「父ちゃん。」が物語の発端となるのだ。

そして、「父ちゃん。」は小説の掉尾に再度、登場する。
この発話の意味こそ、この小説が呈示する問題の根底なのではないだろうか。
果たして、この「父ちゃん。」は「上の子供」が発したモノなのだろうか。仮に同一人物のモノだとしても、「墜落」前のそれとおなじ意図がそこにあるのだろうか。
考える事、考えられる事、考えるべき事はいくらでもある。

結末として「私」が提示している認識は、どうみても小説の冒頭に彼が提示した「特別なことではなかった」と謂う見解を超えていない。
それ故に、「私」が「一本の棒」になった理由はそこにあると、ぼくはおもう。

次回は「」。

附記:
上にも綴った様に、この小説をぼくは教科書の単元として出逢った。
その教科書が配布された春、例年の様に、そこに掲載されている作品を、興味本意で読み潰してしまう。
その際におもったのは、ああ小説 [これは文学と換言しても良い] でもこんな事が出来るんだなと謂う事だった。と、謂うのは、同種の指向をもった映画や漫画を幾つか体験していたからなのだった。
そこにあるのは現実にはありえない事だ。と、同時に現実からまったく乖離したモノでもない。すぐそば、となりあわせになって併行してはいるが、交差する可能性は決してない。だから、想像力をいたく刺激する。だからと謂って、寓話と謂う便利至極な語句を起用してそれで済ましてしまうには、いささか勿体ないのだ。
だけれども、読了して数ヶ月後、ぼくは残念なおもいをしてしまう。
授業時間に提示されるモノの殆どどれもがつまらない。
何故、「一本の棒」なのか。その「一本の棒」に発見される様相のひとつひとつは何を顕しているのか。「三人連れ」の正体は何者か。そんな些事にばかり拘泥している。
しかもその一方で、幾つかの事象を疑いもなき事実として、小説の大前提であるとしてしまう認識がまかりとおる。本当に「私」は「墜落」したのか。その記述を鵜呑みにして良いのだろうか。それどころか、生徒の殆どが、それをもって「私」の死と看做しているではないか。そこに何故、疑義を投じようとはしないのだろうか。
さらに、授業中に披露されるひとつの解釈、それに準じて読んでしまうと、たったのひとつの結論にしか辿りつけない。しかもその結論は微動だにしないのだ [それ故に教科書に採用されたのだろう]。
だから仮に、その結論に準じて読書感想文を綴らなければならないとしたら、同時期に倫理社会 の時間に学習した [筈の] 疎外 (Entfremdung) と謂う概念を弄べば良いだけだ。その結果、この小説をよむ事によって得られる可能性、それが悉く摘まれてしまった様におもえる。
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