2022.12.20.09.00
様々な登場人物達とその結果、構築される幾つもの対立軸の中の、その最もおおきなものは、藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) と酒呑童子 (Shuten-doji) である。
前者をどの様な人物として設定するかはかなり自由だと思う。当時の実質的な最高権力者である。如何様にもなるだろうし、如何様な物語も紡ぎ出せる。それを演ずるのは小沢栄太郎 (Eitaro Ozawa) だ。その時点で、そこで描かれる藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) と謂う人物の趨勢は殆ど決してしまう。逆に謂えば、それだけ癖の強い俳優である。
だが、後者は極悪非道の悪鬼である。だからこそ、その討伐者として源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) 以下、彼が率いる頼光四天王 (The Four Devas) の活躍は必定のモノとなる。
その悪鬼を長谷川一夫 (Kazuo Hasegawa) が演ずると謂う。
そこが先ず、おかしい。この映画『大江山酒天童子 (The Demon Of Mount Oe)』 田中徳三 (Tokuzo Tanaka) 監督作品 1960年制作] の構造は、伝説として語られている、源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) による酒呑童子 (Shuten-doji) 退治の物語からおおきく逸脱しているのだ。
そして、それがさも大前提であるかの様に、その映画は開幕する。
源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) 以下、頼光四天王 (The Four Devas) がそれぞれ名乗り上げて、悪鬼酒呑童子 (Shuten-doji) を急襲する。その描写はある意味で正攻法で正統的だが、ある意味で大仰で時代がかった時代錯誤と思える様な演出である。
だが、語り手はそれは伝承にあるモノでしかなく、実際のその物語はまったく異なると謂う趣旨を主張する。
映画はそこから始まるのである。
冒頭、語られるのは、藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) の栄華とそれを裏付ける / それによって裏付けられる横暴であり、それに叛意を顕すかの様に、都にあるのは酒呑童子 (Shuten-doji) 郎党の略奪行為である。
これが先ず、物語の舞台、その状況説明である。
そして、その影でもあるかの様に、悲劇の主人公として渚の前 (Princess Nagisa) [演:山本富士子 (Fujiko Yamamoto)] が登場する。彼女は藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) に籠絡された女性であり、その彼女が源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) [演:市川雷蔵 (Ichikawa Raizo)] に下賜されるその日、藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) の邸宅に怪異が顕現する。酒呑童子 (Shuten-doji) 配下の鬼童丸 (Kidomaru) [演:千葉敏郎 (Toshio Chiba)] が推参したのだ。彼は彼女の略奪を試みるが、彼女を迎えに来た、頼光四天王 (The Four Devas) のひとり、坂田金時 (Sakata-no-Kintoki) [演:本郷功次郎 (Kojiro Hongo)] によって阻まれてしまう。
この逸話から、物語の最主要の3人、藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) と源頼光 (Minamoto No Yorimitsu)、そして酒呑童子 (Shuten-doji) の関係が、おおきな対立図として構築され、その中心に渚の前 (Princess Nagisa) と謂う女性を据える事が出来る。

ところが、物語はおもわぬ側に舵を切る。
ここで、茨木童子 (Ibaraki-doji) [演:左幸子 (Sachiko Hidari)] と頼光四天王 (The Four Devas) のひとり、渡辺綱 (Watanabe No Tsuna) [演:勝新太郎 (Shintaro Katsu)] との因縁、前者の左腕をめぐる逸話が語られ始めるのだ [上掲画像は、茨木童子 (Ibaraki-doji) [演:左幸子 (Sachiko Hidari) : 左奥] に応ずる渡辺綱 (Watanabe No Tsuna) [演:勝新太郎 (Shintaro Katsu) : 右手前]。こちらより]。
この映画を観ていたぼくは奇異におもう。
何故ならば、左腕の逸話は、酒呑童子 (Shuten-doji) 討伐の後日譚 (The Sequel)、つまり、茨木童子 (Ibaraki-doji). にとっての首領、酒呑童子 (Shuten-doji) が、渡辺綱 (Watanabe No Tsuna) を含む源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) 郎党によって、なきものにされた後の物語なのだ。
いや、ここから翻って回想として酒呑童子 (Shuten-doji) 討伐が語られるのではない。映画の中で、茨木童子 (Ibaraki-doji) と渡辺綱 (Watanabe No Tsuna) が闘うのは、映画冒頭に描かれた様に、酒呑童子 (Shuten-doji) 郎党が都をわがものの様にしていた時の事である。
つまり、このふたりの闘いは、前哨戦 (The Skirmish) になるのだ。
そして、そんな構成の作品だからこそ、映画を観ているぼくは気になって気になって仕方がない。
もしかしたら、この映画の真の主人公は、渡辺綱 (Watanabe No Tsuna) ではないだろうか。そんな気さえする [尤も、そんな解釈を許す構成ではある、決して誤った解釈ではないとおもう]。
だけれども、この構成の不思議は、物語が最高潮となった時点で一切が瓦解する。
酒呑童子 (Shuten-doji) の本拠地である大江山 (Oeyama) へ酒呑童子 (Shuten-doji) 討伐へと向かった源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) 郎党は、酒呑童子 (Shuten-doji) 郎党の反撃になすすべがない。ひとつには、その地形にある。大江山 (Oeyama) は天然の難攻不落の城砦として、彼等のまえに聳えているのだ。
そこで彼等は一計を講ずる。源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) 自身と頼光四天王 (The Four Devas) を含むごく少数の人員が修験者 (Shugenja) 姿に身をやつして、酒呑童子 (Shuten-doji) 暗殺を企てる。
そこで初めて、敵対する2者が正面から相対立するのだ。
酒呑童子 (Shuten-doji) 自らが修験者 (Shugenja) に扮装した源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) を尋問する。彼等の宗旨や教義に関して、である。源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) は、酒呑童子 (Shuten-doji) からの連打される尋問を悉く説破するが、最後の最後になって、いい澱んでしまう。それまでは事前に取得した知識を開陳すれさえすればよかったのだがそれに対してはそうもいかない。何故ならば、その問いにもって応えるには、身をもって実際に行動しなければならないからだ。
それを救うのが、渡辺綱 (Watanabe No Tsuna) なのである [この場面、どことなく歌舞伎 (Kabuki)『勧進帳 (Kanjincho)』 [三代目並木五瓶 (Namiki Gohei III) 作 1840年 河原崎座 (Kwarazaki-za : Theater Kawarazaki) 初演] が想起される]。
だがその時に、酒呑童子 (Shuten-doji) 面前に控える修験者 (Shugenja) 達の正体を看破したのが、茨木童子 (Ibaraki-doji) なのである。何故ならば、その修験者 (Shugenja) のひとりとして控えているのはおのれの仇敵、渡辺綱 (Watanabe No Tsuna)、その顔を忘れる訳はない。
つまり、左腕の逸話は、ここに至る伏線として構築されていたのである。
ここから物語最大の見世場が連射される。
しかし、それは物語の登場人物達のそれと謂うよりも、それを演ずる個々の俳優自身のそれである様におもえるのだ。
何故、酒呑童子 (Shuten-doji) を演ずるのは、長谷川一夫 (Kazuo Hasegawa) なのか。何故、茨木童子 (Ibaraki-doji) を演ずるのが女優、左幸子 (Sachiko Hidari) なのか、そんな疑問への解答がこの場面で、容赦なく顕れているのである。
そこから翻って、映画を最初から体験しなおすと、幾らでも、納得出来る事象が出来する筈だ。
次回は「じ」。
附記 1. :
物語冒頭に、藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) に謁見する大和守一正 (Yamato No Kami) [演:中村鴈治郎 (Nakamura Ganjiro)] の逸話がある。藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) への朝見の場面である。多くの貴族達が、自国領内からの宝物等を献ずる中で、彼のそれは1振の刀剣のみである。それを糺す藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) に対し、彼は自国の不作とその結果としての窮乏を告げる。が、しかし、藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) は納得しない。この場面を観るだけで、彼と謂う人物の卑しさが判明する。
そして、そんな人物描写が為の大和守一正 (Yamato No Kami) の登場かと、その時はおもう。
しかしながら、彼の存在意義は、彼の死をもってして、判明する。
彼の邸宅を襲撃した配下を、酒呑童子 (Shuten-doji) は、罵倒するのだ。しかも罵倒するばかりではない。そこで初めて、自身の野心を物語るのだ。大和守一正 (Yamato No Kami) と謂う人物は、それを起動する装置として、ここで初めて機能する。
そして、酒呑童子 (Shuten-doji) が語るそれこそがこの映画の最大の骨子でもあるのだ。
附記 2. :
映画には3人の主要な女性が登場する。渚の前 (Princess Nagisa)、茨木童子 (Ibaraki-doji)、そしてこつま (Kotsuma) [演:中村玉緒 (Tamao Nakamura)] である。
渚の前 (Princess Nagisa) は、橘致忠 (Bizennosuke Tachibana) [演:長谷川一夫 (Kazuo Hasegawa)] の妻ではあったが、藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) に強奪される。その結果、橘致忠 (Bizennosuke Tachibana) は酒呑童子 (Shuten-doji) へと顚落する。
物語冒頭で、酒呑童子 (Shuten-doji) の配下、鬼童丸 (Kidomaru) が渚の前 (Princess Nagisa) の略奪を試みるのはそれが為であるし、渚の前 (Princess Nagisa) が、藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) から源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) に下賜されるのもそれが為である。酒呑童子 (Shuten-doji) と化した橘致忠 (Bizennosuke Tachibana) の報復を恐れての事だ。そして渚の前 (Princess Nagisa) はなすがまま、おのれの運命に翻弄されそれに唯々諾々とするだけなのである。
渚の前 (Princess Nagisa) は、源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) 邸で彼と暮らすうちにいつしか愛情を抱く事になる。と、同時にかつての夫、橘致忠 (Bizennosuke Tachibana) への想いも捨てられない。それゆえに、なにもできない彼女は、愛するふたりの対決を前に、自刃するしかない。
一方で、茨木童子 (Ibaraki-doji) は自身が抱く野望を叶える為に、橘致忠 (Bizennosuke Tachibana) を自身の首領として戴く。酒呑童子 (Shuten-doji) が誕生したのが、その時だ。それ以降、茨木童子 (Ibaraki-doji) は、彼の腹心として暗躍する。渚の前 (Princess Nagisa) との違いはそこにある。能動的であるその姿勢は、物語上では悪役ではあるがある意味に於いて、戦うヒロインと看做せなくもない [少なくとも、ぼくの中では彼女こそがこの映画の真の主役である]。
しかしながら、それとは離れたところ、酒呑童子 (Shuten-doji) に対してはどうなのか。自身が戴いた首領ではあるがいつしか、ひとりの男性として彼女の眼には映じている様なのだ。彼女は彼への想いを育むが、それを明かすのは、自身の死、その直前である。
こつま (Kotsuma) は渡辺綱 (Watanabe No Tsuna) の妹にして源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) の許嫁である。彼女は、左腕の逸話に於ける兄の失策をもって、坂田金時 (Sakata-no-Kintoki) との大江山 (Oeyama) 潜入を志願する。そしてその結果として、酒呑童子 (Shuten-doji) 郎党に捕縛された彼女は酒呑童子 (Shuten-doji) の人格、人間としての魅力をまのあたりにする。結果、彼女もまた、渚の前 (Princess Nagisa) 同様に、ふたりの男性のあいだにたって苦悶する。しかし、こつま (Kotsuma) は渚の前 (Princess Nagisa) とは異なり、ふたりの直接対決の場面で、意を決し、行動に移すのだ。
と、3人は文字通りに3者3様である。と、同時に同病相憐むとも謂える。にも関わらずに、そこに生死の境界が存在する。その境界を描く事もまた、この映画の主題なのかもしれない。少なくとも、藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) と酒呑童子 (Shuten-doji) と源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) との3者が描く構図の中心に渚の前 (Princess Nagisa) があるのとは全くの逆、渚の前 (Princess Nagisa) と茨木童子 (Ibaraki-doji) とこつま (Kotsuma) との3者が描く構図の中心に酒呑童子 (Shuten-doji) を据える事が出来るのだ。
附記 3. :
大江山 (Oeyama) に存する伝説を鵜呑みにすれば、それは源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) と謂う人物の英雄譚 (Heroic Tale) である筈だ。だが、この映画での彼は精彩を喪っている。
土蜘蛛甚内 (Tsuchigumo Jinnai) [演:澤村宗之助 (Sonosuke Sawamura )] の呪詛によって疾病するのは英雄譚 (Heroic Tale) にもあるのだが、それを除外しても、だ。
公けにあっては"上司"藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) の難題を解決せねばならぬ一方で、私しにあっては、渚の前との恋慕に懊悩しなければならない。英雄色を好む (Great Men Are Fond Of Sensual Pleasures) と謂えば済むのかもしれない事ではあるが、この映画の唯一の濡れ場 (The Love Scene) はそこにしかない。伝説上の彼との落差に驚かされもする。そして、そんな役だからこそ、市川雷蔵 (Ichikawa Raizo) と謂う配役が生きてくるのだろう。
附記 4. :
この映画での酒呑童子 (Shuten-doji) の人物設定をおもえば、これは大江山 (Oeyama) に存する伝説の翻案ではないのかもしれない。寧ろ、108人の英雄譚『水滸伝 (Water Margin)』[15世紀頃成立] の翻案なのかもしれない。さしずめ、大江山 (Oeyama) こそが梁山泊 (Mount Liang) なのだ。
附記 5 :
映画が制作された1960年は安保闘争 (Anpo Protests) [1959~1960年] があった。それを起点として学生運動 (Campus Activism) 等が活発化していく。この映画の終幕は、なぜかその後の時代を暗示している様な趣きがある。この映画は当時の時代風潮、反権力的な新たな躍動を求める不穏な蠢き、その様なモノを酒呑童子 (Shuten-doji) に仮託している様でもある。
少なくとも、酒呑童子 (Shuten-doji) や茨木童子 (Ibaraki-doji) の主張や思考には、反政府勢力的な集団に於ける動機や主張、そしてその発露としての手法とどう同種のモノが散見されるし、同時にまた、その結果がもたらすモノに対する危惧も、よく似たモノなのだ。
映画の中では武家勢力の擡頭とその結果としての鎌倉幕府 (Kamakura Shogunate) [1185~1333年] の成立をさしているのではあろう。しかし、極論を謂えばこの映画、連合赤軍 (United Red Army) の興亡史、そのアナロジーとして解読する事も可能とさえ、ぼくにはおもえるのだ。
附記 6. :
おのれの煩悩のままに行動し、そしてそれが為に破滅せねばならない、愛すべき袴垂保輔 (Hakamadare No Yasusuke) [演:田崎潤 (Jun Tazaki)] について綴る余裕がなくなってしまった [そんな彼の言動は、ぼく達が想像する酒呑童子 (Shuten-doji)、そのままを反映している様にはおもえるのだが]。
前者をどの様な人物として設定するかはかなり自由だと思う。当時の実質的な最高権力者である。如何様にもなるだろうし、如何様な物語も紡ぎ出せる。それを演ずるのは小沢栄太郎 (Eitaro Ozawa) だ。その時点で、そこで描かれる藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) と謂う人物の趨勢は殆ど決してしまう。逆に謂えば、それだけ癖の強い俳優である。
だが、後者は極悪非道の悪鬼である。だからこそ、その討伐者として源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) 以下、彼が率いる頼光四天王 (The Four Devas) の活躍は必定のモノとなる。
その悪鬼を長谷川一夫 (Kazuo Hasegawa) が演ずると謂う。
そこが先ず、おかしい。この映画『大江山酒天童子 (The Demon Of Mount Oe)』 田中徳三 (Tokuzo Tanaka) 監督作品 1960年制作] の構造は、伝説として語られている、源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) による酒呑童子 (Shuten-doji) 退治の物語からおおきく逸脱しているのだ。
そして、それがさも大前提であるかの様に、その映画は開幕する。
源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) 以下、頼光四天王 (The Four Devas) がそれぞれ名乗り上げて、悪鬼酒呑童子 (Shuten-doji) を急襲する。その描写はある意味で正攻法で正統的だが、ある意味で大仰で時代がかった時代錯誤と思える様な演出である。
だが、語り手はそれは伝承にあるモノでしかなく、実際のその物語はまったく異なると謂う趣旨を主張する。
映画はそこから始まるのである。
冒頭、語られるのは、藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) の栄華とそれを裏付ける / それによって裏付けられる横暴であり、それに叛意を顕すかの様に、都にあるのは酒呑童子 (Shuten-doji) 郎党の略奪行為である。
これが先ず、物語の舞台、その状況説明である。
そして、その影でもあるかの様に、悲劇の主人公として渚の前 (Princess Nagisa) [演:山本富士子 (Fujiko Yamamoto)] が登場する。彼女は藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) に籠絡された女性であり、その彼女が源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) [演:市川雷蔵 (Ichikawa Raizo)] に下賜されるその日、藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) の邸宅に怪異が顕現する。酒呑童子 (Shuten-doji) 配下の鬼童丸 (Kidomaru) [演:千葉敏郎 (Toshio Chiba)] が推参したのだ。彼は彼女の略奪を試みるが、彼女を迎えに来た、頼光四天王 (The Four Devas) のひとり、坂田金時 (Sakata-no-Kintoki) [演:本郷功次郎 (Kojiro Hongo)] によって阻まれてしまう。
この逸話から、物語の最主要の3人、藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) と源頼光 (Minamoto No Yorimitsu)、そして酒呑童子 (Shuten-doji) の関係が、おおきな対立図として構築され、その中心に渚の前 (Princess Nagisa) と謂う女性を据える事が出来る。

ところが、物語はおもわぬ側に舵を切る。
ここで、茨木童子 (Ibaraki-doji) [演:左幸子 (Sachiko Hidari)] と頼光四天王 (The Four Devas) のひとり、渡辺綱 (Watanabe No Tsuna) [演:勝新太郎 (Shintaro Katsu)] との因縁、前者の左腕をめぐる逸話が語られ始めるのだ [上掲画像は、茨木童子 (Ibaraki-doji) [演:左幸子 (Sachiko Hidari) : 左奥] に応ずる渡辺綱 (Watanabe No Tsuna) [演:勝新太郎 (Shintaro Katsu) : 右手前]。こちらより]。
この映画を観ていたぼくは奇異におもう。
何故ならば、左腕の逸話は、酒呑童子 (Shuten-doji) 討伐の後日譚 (The Sequel)、つまり、茨木童子 (Ibaraki-doji). にとっての首領、酒呑童子 (Shuten-doji) が、渡辺綱 (Watanabe No Tsuna) を含む源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) 郎党によって、なきものにされた後の物語なのだ。
いや、ここから翻って回想として酒呑童子 (Shuten-doji) 討伐が語られるのではない。映画の中で、茨木童子 (Ibaraki-doji) と渡辺綱 (Watanabe No Tsuna) が闘うのは、映画冒頭に描かれた様に、酒呑童子 (Shuten-doji) 郎党が都をわがものの様にしていた時の事である。
つまり、このふたりの闘いは、前哨戦 (The Skirmish) になるのだ。
そして、そんな構成の作品だからこそ、映画を観ているぼくは気になって気になって仕方がない。
もしかしたら、この映画の真の主人公は、渡辺綱 (Watanabe No Tsuna) ではないだろうか。そんな気さえする [尤も、そんな解釈を許す構成ではある、決して誤った解釈ではないとおもう]。
だけれども、この構成の不思議は、物語が最高潮となった時点で一切が瓦解する。
酒呑童子 (Shuten-doji) の本拠地である大江山 (Oeyama) へ酒呑童子 (Shuten-doji) 討伐へと向かった源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) 郎党は、酒呑童子 (Shuten-doji) 郎党の反撃になすすべがない。ひとつには、その地形にある。大江山 (Oeyama) は天然の難攻不落の城砦として、彼等のまえに聳えているのだ。
そこで彼等は一計を講ずる。源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) 自身と頼光四天王 (The Four Devas) を含むごく少数の人員が修験者 (Shugenja) 姿に身をやつして、酒呑童子 (Shuten-doji) 暗殺を企てる。
そこで初めて、敵対する2者が正面から相対立するのだ。
酒呑童子 (Shuten-doji) 自らが修験者 (Shugenja) に扮装した源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) を尋問する。彼等の宗旨や教義に関して、である。源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) は、酒呑童子 (Shuten-doji) からの連打される尋問を悉く説破するが、最後の最後になって、いい澱んでしまう。それまでは事前に取得した知識を開陳すれさえすればよかったのだがそれに対してはそうもいかない。何故ならば、その問いにもって応えるには、身をもって実際に行動しなければならないからだ。
それを救うのが、渡辺綱 (Watanabe No Tsuna) なのである [この場面、どことなく歌舞伎 (Kabuki)『勧進帳 (Kanjincho)』 [三代目並木五瓶 (Namiki Gohei III) 作 1840年 河原崎座 (Kwarazaki-za : Theater Kawarazaki) 初演] が想起される]。
だがその時に、酒呑童子 (Shuten-doji) 面前に控える修験者 (Shugenja) 達の正体を看破したのが、茨木童子 (Ibaraki-doji) なのである。何故ならば、その修験者 (Shugenja) のひとりとして控えているのはおのれの仇敵、渡辺綱 (Watanabe No Tsuna)、その顔を忘れる訳はない。
つまり、左腕の逸話は、ここに至る伏線として構築されていたのである。
ここから物語最大の見世場が連射される。
しかし、それは物語の登場人物達のそれと謂うよりも、それを演ずる個々の俳優自身のそれである様におもえるのだ。
何故、酒呑童子 (Shuten-doji) を演ずるのは、長谷川一夫 (Kazuo Hasegawa) なのか。何故、茨木童子 (Ibaraki-doji) を演ずるのが女優、左幸子 (Sachiko Hidari) なのか、そんな疑問への解答がこの場面で、容赦なく顕れているのである。
そこから翻って、映画を最初から体験しなおすと、幾らでも、納得出来る事象が出来する筈だ。
次回は「じ」。
附記 1. :
物語冒頭に、藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) に謁見する大和守一正 (Yamato No Kami) [演:中村鴈治郎 (Nakamura Ganjiro)] の逸話がある。藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) への朝見の場面である。多くの貴族達が、自国領内からの宝物等を献ずる中で、彼のそれは1振の刀剣のみである。それを糺す藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) に対し、彼は自国の不作とその結果としての窮乏を告げる。が、しかし、藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) は納得しない。この場面を観るだけで、彼と謂う人物の卑しさが判明する。
そして、そんな人物描写が為の大和守一正 (Yamato No Kami) の登場かと、その時はおもう。
しかしながら、彼の存在意義は、彼の死をもってして、判明する。
彼の邸宅を襲撃した配下を、酒呑童子 (Shuten-doji) は、罵倒するのだ。しかも罵倒するばかりではない。そこで初めて、自身の野心を物語るのだ。大和守一正 (Yamato No Kami) と謂う人物は、それを起動する装置として、ここで初めて機能する。
そして、酒呑童子 (Shuten-doji) が語るそれこそがこの映画の最大の骨子でもあるのだ。
附記 2. :
映画には3人の主要な女性が登場する。渚の前 (Princess Nagisa)、茨木童子 (Ibaraki-doji)、そしてこつま (Kotsuma) [演:中村玉緒 (Tamao Nakamura)] である。
渚の前 (Princess Nagisa) は、橘致忠 (Bizennosuke Tachibana) [演:長谷川一夫 (Kazuo Hasegawa)] の妻ではあったが、藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) に強奪される。その結果、橘致忠 (Bizennosuke Tachibana) は酒呑童子 (Shuten-doji) へと顚落する。
物語冒頭で、酒呑童子 (Shuten-doji) の配下、鬼童丸 (Kidomaru) が渚の前 (Princess Nagisa) の略奪を試みるのはそれが為であるし、渚の前 (Princess Nagisa) が、藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) から源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) に下賜されるのもそれが為である。酒呑童子 (Shuten-doji) と化した橘致忠 (Bizennosuke Tachibana) の報復を恐れての事だ。そして渚の前 (Princess Nagisa) はなすがまま、おのれの運命に翻弄されそれに唯々諾々とするだけなのである。
渚の前 (Princess Nagisa) は、源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) 邸で彼と暮らすうちにいつしか愛情を抱く事になる。と、同時にかつての夫、橘致忠 (Bizennosuke Tachibana) への想いも捨てられない。それゆえに、なにもできない彼女は、愛するふたりの対決を前に、自刃するしかない。
一方で、茨木童子 (Ibaraki-doji) は自身が抱く野望を叶える為に、橘致忠 (Bizennosuke Tachibana) を自身の首領として戴く。酒呑童子 (Shuten-doji) が誕生したのが、その時だ。それ以降、茨木童子 (Ibaraki-doji) は、彼の腹心として暗躍する。渚の前 (Princess Nagisa) との違いはそこにある。能動的であるその姿勢は、物語上では悪役ではあるがある意味に於いて、戦うヒロインと看做せなくもない [少なくとも、ぼくの中では彼女こそがこの映画の真の主役である]。
しかしながら、それとは離れたところ、酒呑童子 (Shuten-doji) に対してはどうなのか。自身が戴いた首領ではあるがいつしか、ひとりの男性として彼女の眼には映じている様なのだ。彼女は彼への想いを育むが、それを明かすのは、自身の死、その直前である。
こつま (Kotsuma) は渡辺綱 (Watanabe No Tsuna) の妹にして源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) の許嫁である。彼女は、左腕の逸話に於ける兄の失策をもって、坂田金時 (Sakata-no-Kintoki) との大江山 (Oeyama) 潜入を志願する。そしてその結果として、酒呑童子 (Shuten-doji) 郎党に捕縛された彼女は酒呑童子 (Shuten-doji) の人格、人間としての魅力をまのあたりにする。結果、彼女もまた、渚の前 (Princess Nagisa) 同様に、ふたりの男性のあいだにたって苦悶する。しかし、こつま (Kotsuma) は渚の前 (Princess Nagisa) とは異なり、ふたりの直接対決の場面で、意を決し、行動に移すのだ。
と、3人は文字通りに3者3様である。と、同時に同病相憐むとも謂える。にも関わらずに、そこに生死の境界が存在する。その境界を描く事もまた、この映画の主題なのかもしれない。少なくとも、藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) と酒呑童子 (Shuten-doji) と源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) との3者が描く構図の中心に渚の前 (Princess Nagisa) があるのとは全くの逆、渚の前 (Princess Nagisa) と茨木童子 (Ibaraki-doji) とこつま (Kotsuma) との3者が描く構図の中心に酒呑童子 (Shuten-doji) を据える事が出来るのだ。
附記 3. :
大江山 (Oeyama) に存する伝説を鵜呑みにすれば、それは源頼光 (Minamoto No Yorimitsu) と謂う人物の英雄譚 (Heroic Tale) である筈だ。だが、この映画での彼は精彩を喪っている。
土蜘蛛甚内 (Tsuchigumo Jinnai) [演:澤村宗之助 (Sonosuke Sawamura )] の呪詛によって疾病するのは英雄譚 (Heroic Tale) にもあるのだが、それを除外しても、だ。
公けにあっては"上司"藤原道長 (Fujiwara No Michinaga) の難題を解決せねばならぬ一方で、私しにあっては、渚の前との恋慕に懊悩しなければならない。英雄色を好む (Great Men Are Fond Of Sensual Pleasures) と謂えば済むのかもしれない事ではあるが、この映画の唯一の濡れ場 (The Love Scene) はそこにしかない。伝説上の彼との落差に驚かされもする。そして、そんな役だからこそ、市川雷蔵 (Ichikawa Raizo) と謂う配役が生きてくるのだろう。
附記 4. :
この映画での酒呑童子 (Shuten-doji) の人物設定をおもえば、これは大江山 (Oeyama) に存する伝説の翻案ではないのかもしれない。寧ろ、108人の英雄譚『水滸伝 (Water Margin)』[15世紀頃成立] の翻案なのかもしれない。さしずめ、大江山 (Oeyama) こそが梁山泊 (Mount Liang) なのだ。
附記 5 :
映画が制作された1960年は安保闘争 (Anpo Protests) [1959~1960年] があった。それを起点として学生運動 (Campus Activism) 等が活発化していく。この映画の終幕は、なぜかその後の時代を暗示している様な趣きがある。この映画は当時の時代風潮、反権力的な新たな躍動を求める不穏な蠢き、その様なモノを酒呑童子 (Shuten-doji) に仮託している様でもある。
少なくとも、酒呑童子 (Shuten-doji) や茨木童子 (Ibaraki-doji) の主張や思考には、反政府勢力的な集団に於ける動機や主張、そしてその発露としての手法とどう同種のモノが散見されるし、同時にまた、その結果がもたらすモノに対する危惧も、よく似たモノなのだ。
映画の中では武家勢力の擡頭とその結果としての鎌倉幕府 (Kamakura Shogunate) [1185~1333年] の成立をさしているのではあろう。しかし、極論を謂えばこの映画、連合赤軍 (United Red Army) の興亡史、そのアナロジーとして解読する事も可能とさえ、ぼくにはおもえるのだ。
附記 6. :
おのれの煩悩のままに行動し、そしてそれが為に破滅せねばならない、愛すべき袴垂保輔 (Hakamadare No Yasusuke) [演:田崎潤 (Jun Tazaki)] について綴る余裕がなくなってしまった [そんな彼の言動は、ぼく達が想像する酒呑童子 (Shuten-doji)、そのままを反映している様にはおもえるのだが]。
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