fc2ブログ

2022.12.13.08.04

きいろいかお

シャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) はこの事件に関しては何もしていない。その解決はおろか、それを阻む謎の解明すらしていないのだ。
確かに、彼は現場に赴き、その化けの皮を剥いではいる。だが、それはその場に立ち遭った誰でもが出来る行為であり、しかも、そこにたちあった誰かがそれを行わければならなかった事なのだ。

結果的にみて、彼と謂う人物がこの物語に登場する必要性はない。これが事件と謂うのであるのならば、それは民事事件 (Civil Case) に関するモノであり、刑事事件 (Criminal Case) には決してならないであろう [無論、それが後に刑事事件 (Criminal Case) に発展する可能性は充分にはあるし、シャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) が依頼を受けた時点であれば、依頼者が語る証言の中に、刑事事件 (Criminal Case) の可能性がない訳ではないが、それはそれぞれの局面に於いての可能性である]。
ある意味で、シャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) がその物語の中で行った行為はどうみても、推理小説の中に登場する探偵 (Detective) としての役割と謂うよりも、現実社会にある探偵業 (Private Eyes) そのものである様にみうけられる。

シャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) と謂う私立探偵 (Private Detective) は、小説『黄色い顔 (The Adventure Of The Yellow Face)』 [アーサー・コナン・ドイル (Arthur Conan Doyle) 作 1893ストランド・マガジン (The Strand Magazine) 掲載 『シャーロック・ホームズの思い出 (The Memoirs Of Sherlock Holmes)』[1893年刊行] 所収] で語られてある、ある夫婦の物語に於いては、単なる動機付けでしかない。彼の依頼者グラント・マンロー (Grant Munro) は、仮令シャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) に出逢えなかったとしても、また、シャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) 以外の私立探偵 (Private Detective) に依頼ししたとしても [そしてしなかったとしても]、遅かれ早かれ、物語の舞台となっている家屋へと向かった筈だ。彼が欲したのは、その行為を決起する為の担保としての、忠告者もしくは発動者、さもなければその代行者なのである。
勿論、彼がそこに赴かない物語の可能性がない訳ではない。彼が自身の妻に抱く疑惑をそのまま抱え込んだまま、徒らにこれまでとおなじ生活を過ごす物語は、いろいろな場所、いろいろな時代に於いて、幾度となく語られてきた陳腐な物語であるし、そして、現実にもその様な生活を過ごさねばならぬ人物達は決してすくない数ではない筈だ。

ところで、ぼくはこの小説『黄色い顔 (The Adventure Of The Yellow Face)』を一体、何度読んだのだろうか。
その都度、おもうことはいつもおなじ様な気がする。
そしてそれとは別に、いつも不思議におもうのは、この小説がシャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) の失敗譚 (Failure Story) であるとしている点だ。

小説の冒頭で、物語の語り部たるジョン・H・ワトスン (John H. Watson) が記述している [そして、ここでの記述は、いつも以上に作者アーサー・コナン・ドイル (Arthur Conan Doyle) のそれである様にも読めてしまう。アーサー・コナン・ドイル (Arthur Conan Doyle) の本音、それに近いモノがそこに綴られているのである]。
そして小説の終結部に於いては、シャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) 自身がそれを自覚している。しかも、そればかりではなく、今後の戒めとしてそこで綴られた事件を記憶に留めておこうとする。「僕の耳元で『ノーベリ』とささやいてもらえないだろうか。 (Kindly Whisper "Norbury" In My Ear)」と。

ところが、そこで綴られている事件は、いとも容易くシャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) 自身の掌によって解決されてしまった様にも読めてしまう。何故ならば、冒頭に綴った様に、黄色い顔 (The Yellow Face) の正体を彼が実際にあかしたからだ。
だけれども、よく読んで欲しい。それによって謎を解明した事にはなるのかもしれない。しかし、実際にその事件を解決したのは、彼ではない。依頼者本人なのである。
そして、彼が身をもって示した解決策以外の解決はいくらでもあり得る。その内容如何によっては、この物語はまったく異なった物語としても成立が可能なのだ。
物語の鍵を握るのは、探偵でも彼の推理でも決してない、その依頼者自身、彼の行動そのものなのだ。

そしてそれをもって、この物語を失敗譚 (Failure Story) であるとする事も出来なくはないが、実はそうではない。

依頼者が自身の抱く疑念を証言し、その捜査を依頼して立ち去った後に、シャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) はジョン・H・ワトスン (John H. Watson) に、自身の"推理"を語る。
そして、それをジョン・H・ワトスン (John H. Watson) は次の言葉でそれを断罪する。
全部憶測だな (It Is All Surmise.)」と。

彼の失敗はここにあるのだ。

依頼者からの依頼、もしくは事件の概要を知った時点の後、彼が行う殆どの行為は、現場検証や証拠品の追求である。黙して語らず、行動があるのみなのだ。
そして、彼が推理を披露するのは犯罪者が確定した後、しかもその断定の際の殆どは予想外の彼の行動をもって明かされる。彼自らが自身の推理を披露するのは、その時になってようやく行われるのである。
しかし、この物語ではなぜか、依頼者自身による証言以外のモノがない時点で、自己の"推理"を披露しているのである。
彼が「僕の耳元で『ノーベリ』とささやいてもらえないだろうか。 (Kindly Whisper "Norbury" In My Ear)」とジョン・H・ワトスン (John H. Watson) に依頼ねばならない理由はそこにあるのだ。
[そして、彼がジョン・H・ワトスン (John H. Watson) に依頼したのは、ジョン・H・ワトスン (John H. Watson) が長年の親友である事よりも、ジョン・H・ワトスン (John H. Watson) が彼の関与した事件の記録者である事よりも、あの的確にしてかつ冷静な断罪の台詞「全部憶測だな (It Is All Surmise.)」があったが為と思われる。]

ところで、この小説と彼のジョン・H・ワトスン (John H. Watson) への依頼をすこし、異なる角度から眺めてみよう。つまり、物語内の登場人物の視点ではなく、その物語を創造した作家の視点で、である。

小説『白面の兵士 (The Adventure Of The Blanched Soldier)』 [アーサー・コナン・ドイル (Arthur Conan Doyle) 作 1926ストランド・マガジン (The Strand Magazine) 掲載 『シャーロック・ホームズの事件簿 (The Case-Book Of Sherlock Holmes)』[1927年刊行] 所収] に於いて、シャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) はこう独白している(こちらでも紹介済み)。

ああ、自分語りをすれば手の内をさらけ出さねばならない! ワトソンは、つながった鎖の中からいくつかの環を隠しておくことによって、物語の最後にとってつけた結末を持って来ることができたのか。 (Alas, that I should have to show my hand so when I tell my own story! It was by concealing such links in the chain that Watson was enabled to produce his meretricious finales. )」

この独語は、この小説がジョン・H・ワトスン (John H. Watson) による記述ではなく、シャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) 自身の記述である事に端を発したモノであって、この独白こそがシャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) の物語の構造を語ったモノなのである。だから、この発言はシャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) のモノである以上に、アーサー・コナン・ドイル (Arthur Conan Doyle) 自身の発言として読む事が出来るのだ。
シャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) の物語では彼の推理は伏せられたまま、彼の行動 [そしてその殆どが物語中の他者には勿論の事、読者にとっても不可解極まるモノだ] が綴られていく。だから彼の [その局面に於いては決して他言されない彼の推理に裏付けられた] 行動そのものが物語の伏線となっていく。だが、小説『黄色い顔 (The Adventure Of The Yellow Face)』に於いては、彼は当初から自身の"推理"を発言し、物語上に伏線を生成せしめる事が放棄されているのだ。そして伏線がないだけに、いつもの通りに物語が語られる事はなく、いつもとは異なった決着へと到達せしめられる。すなわち、それが彼の失敗である。
つまり、敢えてシャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) に「全部憶測 (All Surmise)」をさせる事によって、シャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) の物語の典型からの脱却、すなわち、彼の失敗譚 (Failure Story) として綴ってみせたモノなのである。

images
絵画『叫び (Skrik)』 [エドヴァルド・ムンク (Edvard Munch) 作 1893年制作 オスロ国立美術館 (Nasjonalmuseet for kunst, arkitektur og design) 所蔵]

本小説とその発表年を添付して画像検索をすると、そこに顕れる殆どが、シドニー・パジェット (Sidney Paget) 作画による、雑誌『ストランド・マガジン (The Strand Magazine)』にその小説が掲載された際の挿絵である。
だがその中に混じって、上掲画像が出てくる。
確かにここに描かれてあるのは黄色い顔 (The Yellow Face) であるし、その絵画の制作は、その小説が発表された1893年の事なのである。
恐らく、そこに上掲画像が登場したのは、それだけが理由であろう。
だけれども、いささかこじつけにしかならないが、上掲画像を本小説の挿絵と看做す事が出来ないでもない。
中央に描かれてあるのは、本小説に登場する様な、黄色い顔 (The Yellow Face) だ、そしてその人物の背後に、ふたりの黒い影が佇んでいる。これらをシャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) とジョン・H・ワトスン (John H. Watson) と看做す事が出来ないだろうか。
そして、上掲画像である絵画は、絵画『不安 (Angst)』 [エドヴァルド・ムンク (Edvard Munch) 作 1894年制作 ムンク美術館 (Munch Museum) 所蔵] と絵画『絶望 (Fortvilelse)』 [エドヴァルド・ムンク (Edvard Munch) 作 Edvard Munch) 作 18931894年制作 ムンク美術館 (Munch Museum) 所蔵] とよって3部作 (Trilogy) を形成していると謂う。そしてそれぞれの絵画に登場する男女は、依頼者グラント・マンロー (Grant Munro) とその妻と看做す事が出来ないだろうか。本小説で綴られた事件、その当事者ふたりの内心を描いたモノとみる事は不可能だろうか。
猶、上掲画像にある黄色い顔 (The Yellow Face) は、叫んでいるのではない。ナニモノかの叫びを聴いているのである。本小説に即して解釈してみれば、その人物は当事者ふたりの内心の叫びを聴いている事となる。

次回は「」。

附記 1. :
異形の相貌の中に、事件の核心に至る謎が潜んでいると謂えば、小説『犬神家の一族 (The Inugami Clan)』 [横溝正史 (Seishi Yokomizo) 作 19501951キング連載] がある。

附記 2. :
「その都度、おもうことはいつもおなじ様な気がする」と綴ったがそれを明確にするのは難しい。だけれども、シャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) の幾つかの物語を読むと時折、味わう感情ではある。
それは、物語が海外、特に英国 (U. K.) の植民地もしくは旧植民地に及んだ場合である。勿論、そこには合衆国 (U. S. A.) も含有される。また、海外云々と謂うのはそこが発端である場合もあればそこが結末である場合もあれば、そこになんらかの血縁や地縁、その因縁めいたモノで連携している場合もある。
そして、それ故に語られる [物語の登場者達の場合もあれば語り部による場合もある] その土地の生活や社会や制度に、妙な違和感を感ずるのだ。
勿論、それはそれらの小説が綴られた当時の時代が及ぼした結果でもあると同時にもしかしたら、綴り手である作家アーサー・コナン・ドイル (Arthur Conan Doyle) 個人の認識の結果であろう。だが、果たして、それがどこまで現実にその実態を反映したモノなのだろうか、とおもうのである。
例えば、本小説に於いては、エフィ (Effie) と彼女の前夫との恋愛はどこまで現実的なのだろうか、そしてその結果、彼女が置かれる社会的地位はどの様なモノなのだろうか、そしてその様な地位にある女性が英国 (U. K.) から渡米してきたグラント・マンロー (Grant Munro) と出逢って恋愛に陥る可能性はどれ程のモノなのだろうか、と謂う様なモノだ。つまり、本小説に描かれている事件の背景たる、ある男女の関係が成立するのは、単なる御伽噺なのだろうか、それとも現実的にあり得る逼迫した問題意識がそこに潜んでいるのだろうか、と謂うモノであり、そしてさらに、その様な物語を読んだ読者達はどの様な反応を示したのだろうか、ともおもうのだ。
関連記事

theme : ふと感じること - genre :

i know it and take it | comments : 0 | trackbacks : 0 | pagetop

<<previous entry | <home> | next entry>>

comments for this entry

only can see the webmaster :

tackbacks for this entry

trackback url

https://tai4oyo.blog.fc2.com/tb.php/3670-b982e4f4

for fc2 blog users

trackback url for fc2 blog users is here