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2022.09.20.08.09

まっちうりのしょうじょ

拙稿は、件名として掲げた童話への罵倒、もしくは呪詛の様なモノである。
あらかじめ、御了解して頂きたい。

童話『マッチ売りの少女The Little Match-Seller / Den lille Pige med Svovlstikkerne)』 [ハンス・クリスチャン・アンデルセン (Hans Christian Andersen) 作 1845年 『1846年版デンマーク民話カレンダー (Dansk Folkekalender fra 1846)』掲載 スザンナ・メアリー・ポール (Mrs. H. B. Paull) 英訳 1846年 『デンマークの御伽噺 (Hans Andersen's Fairy Tales)』所収 大久保ゆう (You Okubo) 訳 1999青空文庫 (Aozora Bunko) 所蔵] を初めて体験したのは、ぼくの保育園時代。当時の保母、しんむらせんせいがぼくたちのまえで読み聴かせてくれたモノである [当然の如く翻訳者は不明である。青空文庫 (Aozora Bunko) にあるその翻訳を先にリンク先として指定したのは、単純に今すぐに無料で誰もが読めるからである]。

しんむらせんせいが読み語るその童話を聴いて当時、ぼくがなにを感じたのかは当然、憶えていない。ただ、読んでくれた時季は12月、クリスマス (Christmas) 間近の頃だったとおもう。その年、もしくはその前年乃至翌年、しんむらせんせいはイエス・キリスト (Iesus) 降誕 (Nativitas Iesu) の逸話を読んでくれたとおもう。ぼくはその様にして、毎年やってくるその時季の意義 [単純にケーキを喰べてプレゼントをもらう日ぢゃあないんだよ] を学んだのだとおもう。

あらためて綴れば、当時、ぼくがなにを感じたのかは確かに、憶えていない。だけれども、忘れた頃にその童話には遭遇する。極端な表現をすれば、冬、クリスマス (Christmas)、もしくは降雪が囁かれる時季 [ぼくが当時暮らしていたところは極端に降雪が少ない地域だが、ここでは全国的にと解しておいてもらいたい] だ。
そして、その度に蓄積される読後感が徐々にこれから綴る様な感慨を形成したとおもってくれても良い。

ただ、ここで一言、こんな事を指摘しておいてもいいだろう。それは、当時のぼく達が馴染んだ幾つもの物語 [TV番組等も含めて] に、主人公もしくはそれに匹敵する重要な登場人物達が、不慮の死を迎えるモノが多かったと謂う事だ。自死もあれば事故死もある。不治の病もあれば、名誉の戦死もあれば、狂死もあるだろう。その理由がなんであれ、物語中に死は当然の様に我がもの顔で往来していたのだ。つまり、敢えて謂えば、ぼく達は主人公が死ぬ物語に半ば、うんざりとしていた事も否定は出来ないのだ。

童話はひとりの少女の死を語っている。
冬の早朝、積雪のあった路上で死んでいる。死因はみるまでもなくあきらかである。
そして屍体の許には幾本もの燐寸 (Match) の燃えかすがある。
だから、その発見者のひとりがそこに憐憫を感じるのは当然である。だけれども、それが屍体発見者の総意となるとは限らない。
例えば、何故、帰宅しなかったのか、と謂う様な。そして、そこに彼女が帰宅しない理由をまで鑑みるモノはごく少数であろう。
中には、マリー・アントワネット (Marie-Antoinette d'Autriche) が発したとされる有名な語句「パンがなければお菓子をたべればいいじゃない! (Qu'ils mangent de la brioche! )」、その顰みに倣ってこんな発言をするモノもいないとは限らない。
"お家を燃やせばいいぢゃない (Let Her Burn Houses)"と、でも。
これでは程度の低いブラック・ユーモア (Black Joke) にもならない。そこにどうだ明るくなったろう (It Will Be Bright, Isn't It?) [ 漫画『成金栄華時代 (Nouveau Riches' Prosperity Age)』 [和田邦坊 (Kunibo Wada) 作 1928年頃] と謂って自身の札びらを燃やす成金 (Nouveau Riche) の様な批評性は皆無なのだ。

ぼくが謂いたいのはそうではない。
ひとりの少女の死、そこに至るまでの1夜を厳格に客観的に描写すれば、それはそのまま自然主義文学 (Naturalisme) になるのだろう、そんな事だ。
だけれどもそこにある物語は決して自然主義文学 (Naturalisme) たり得ない。
何故ならば、これは童話だからだ。

だから、死すべき少女の過ごしたその1夜は、彼女の主観としてしか述べられてはいない。
そして、その結果、ぼく達は一体、なにを得るのだろうか。
ぼくが問いたいのはそこなのだ。

この童話を読み、もしくは聴いて、情操が揺さぶられる少年少女がいないとは限らない。そして、その結果、直ちに、もしくは長じたその後に、なんらかの行動を起こさないとは限らない。だけれども、それがその童話を感受する少年少女達のどの程度を占めるのであろうか [こおゆう場合、ぼくは楽観主義者 (Optimist) にはならないのだ]。

と、同時にこんな事も考えられもする。
童話の少女と同様な境遇にいる少年少女達は、決してこの童話に接する事なぞ、ない筈なのだ。そんな暇がある訳がない。そして、物語同様の死を迎えるのだ。
さもなければ、迎えるべき死から逃れるべく、ありとあらゆる手段を講ずるのに違いない。悪に手を染めるのは勿論、自身の肉体をもってして売る事が可能なモノがない訳はない、春を鬻げば良いのだ [それが少女ならば無論の事、少年であっても完全に不可能とは謂えないだろう、ジャン・ジュネ (Jean Genet) をおもいだせばいい]。

もしかしたら、この童話の作者は、上述の2種類の少年少女達とは異なる階層、階級を想定していたのかもしれない。経済的な立場で謂うと、この2種類の中間に彼等は位置するだろう。そして、彼等こそが、作者の童話の最も大事な読者達だったのかもしれない。

だけれども、そんな彼等がこの童話を読み聴きして、一体なにを彼等は育むのであろうか。憐憫だろうか、哀惜だろうか、それとも来世への逃避願望だろうか。ぼくにはどうしても肯定出来るモノがおもい浮かばない。

と、謂うよりも、この童話を感受する少年少女達の感興以前に、この童話を提供しようとする大人達の真意や本意がみえてしまうのだ。
彼等はなにをもって、なにをおもい、なにを期待して、ぼく達にこの童話を提出するのだろう。
どう考えても、ぼくには、彼等自身にとっての、よく謂えば贖罪、わるく謂えば救済でしかない様に思えてならない。
単純に、自身への慰撫、さもなくば、自身が負うた負債を次世代での返済に委ねようと画策している様にしかおもえないのである。

images
the illustration 1845 for the fairy tale "Den lille Pige med Svovlstikkerne" by Johan Thomas Lundbye for "Dansk Folkekalender fra 1846"

次回は「」。

附記 1. :
グリム童話 (Grimms Marchen)』[ヤーコプ・グリム (Jacob Grimm)、ヴィルヘルム・グリム (Wilhelm Carl Grimm) 編 18121815年刊行] を評して『本当は恐ろしいグリム童話 (Actually Scary Grimms' Fairy Tales)』 桐生操 (Misao Kiryu) 著 19981999年刊行] と謂う言説がまかりとおっているが、その顰みに倣えば、本当は狡いアンデルセン童話 (Actually cunning Andersen's Fairy Tales)とでも謂いたくなるのだ。その代表例が本童話である。

附記 2. :
貧者が来世に於いて救済される物語のひとつに映画『ミラノの奇蹟 (Miracolo a Milano)』 [ヴィットリオ・デ・シーカ (Vittorio De Sica) 監督作品 1951年制作] がある。ここに登場する貧者達はだれもが逞しく、そして彼等が昇天する際の、その描写が痛快なのである。ぼく達に必要な童話とは、この様な物語であるとおもう。
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