2022.08.02.08.49
読み始めてしばらくしてふとおもったのは、なんだかなつかしいな、と謂う事だった。
これまで親しんできた、幾つかの創作物の中の、決して少なくはない世界観と共通のモノを感じたのだ。
主人公の視点をもって語られると謂う点、その主人公の意にそぐわない事ばかりが起こると謂う点、しかもそれらのその殆どは、通常だったならばあり得ないところにその理由があり、しかも決して大事件ではないと謂う点、些細な齟齬、微妙な人間関係の軋轢から生じると謂う点、そして劣悪であり陰惨な世界を舞台にしているのにも関わらずに、どうみてもそれは喜劇でしかあり得ない点、....、と思い浮かぶ限りの事柄を思いつくままに論っていけば、あの作品にもこの作品にも共通する点ばかりなのだ。
ぼくが小説『機械 (Machine)』 [横光利一 (Riichi Yokomitsu) 作 1930年 改造掲載] を読みながら思った事は、その様な事でしかない。
解りやすく謂えば、安部公房 (Kobo Abe) の作品の幾つかの様でもあり、つげ義春 (Yoshiharu Tsuge) の作品の世界でもある。
そして、これを告げてしまえば、それを聴いた殆どのヒトの頭部に疑問符を沸かせる事になるのかもしれないが、映画『鉄男 (Tetsuo : The Iron Man)』 [塚本晋也 (Shinya Tsukamoto) 監督作品 1989年制作] がぼくの脳裏に浮かんだのだ。
あの映画の根本、肉体と機械の融合、もしくは身体への機械の侵食と謂う部分に眼を瞑ってみれば、そこにあるのは対立している2者の和解と和合である。そこを評価すれば、それはそのまま小説『機械 (Machine)』になるのだろう、と。
[逆に謂えば、こちら等で紹介されている、この小説発表当時に語られた論説の殆どがぼくには理解出来ていない。それは恐らく、この小説やその作家に影響を与えたであろう、先行作品や先行作家を体験していないからであろうし、と、同時に、ぼくはぼくで、少ない体験の中で出逢った作品群の、その上流の様な位置付けでこの小説を眺めているからであろう。そこからさらにある源流がぼくにはみえていないのだ。]
物語は、主人公である私 (I) が、ひょんな事から就職した、ちっぽけなネームプレート製作所 (Nameplates Factory) を舞台とする。
そこだけを取り上げれば、プロレタリア文学 (Proletarian Literature) のそれとあまり差異はない。だが決してプロレタリア文学 (Proletarian Literature) たり得ないのは、雇用者と労働者との対立が起き得ないからだ。何故ならば、雇用者である主人 (Master)、彼は無能であり、そして無能である事をもって、主人公の意識には擁護と憐憫の感情が芽生えるからだ。
そこに勤務するのは、主人公ともうひとり、軽部 (Karube) と謂う労働者がいる。そして、このふたりは対立関係にある。否、正しくは、軽部 (Karube) にはその対立軸が面前にたちはだかっているのだが、主人公は、それをとっくに越えてしまっている。彼を軽蔑する事、彼よりも自身の方が優秀であると看做す事によって。軽部 (karube) の彼に対する認識はとっくの昔に合理化 (Rationalization) されてしまっているのだ。このふたりの対立はよくある物語、長年就業によってのみ習得した熟練労働者と、経験こそ少ないがそれを埋めるに相応しい知識を備えた新米労働者の対立でもある [と、綴ってしまうと、再びプロレタリア文学 (Proletarian Literature) への帰還が可能な様な気がしないでもないが]。
そしてそこに第三の人物である、屋敷 (Yashiki) が介入する。大口契約を結び得たこの製作所が、決して充分とは謂えない短期間に大量の製品を納品せんが為に、臨時に雇用した職人、それが屋敷 (yashiki) なのだ。彼と謂う人物の登場によって、主人公と軽部 (Karube) との関係も微妙なモノとなり、結託して屋敷 (Yashiki) を排除する協調も芽生えようともする。だが、それも完全なモノとは謂えず、この3者の人間関係は常に不思議な緊張関係の中にある。
その時に、主人 (Master) は大失態をしでかすのである。しかも、その失態は、兼ねてから心配されていたモノであると同時に決して起こってはならないモノでもある。その回避の手段も講じていられたのにも関わらずに、事件は起きてしまうのだ。
ぼくが理解したまま、この小説の粗筋を綴ってはみた。だが、恐らく、この小説を読んだ読者の大半は、これをその粗筋とは受理出来ない可能性がない訳ではない。
と、謂うのは、綴った当人であるぼく自身、これを読んでみて、疑問におもう事だらけだからだ。
どこかがおかしい。
例えば、この小説には、上に綴った様に、3人の労働者が登場する。しかし、本当に3人いるのだろうか、とおもう。と、謂うのは、軽部 (Karube) を批判し否定する主人公自身が、軽部 (Karube) とおなじ心象を抱き、おなじ行動に移るからだ。そして、屋敷 (Yashiki) は屋敷 (Yashiki) で、まるで主人公が転移したかの様な言動を行うときもある。
ぼくは、この3人は実は同一人物、もしくはたったひとりの人物から派生した自己幻像 (Doppelganger) ではないだろうか、そうおもう場合さえもあるのだ。
そしてそれ故に、この小説の主題は疎外 (Entfremdung) ではないだろうか、と謂う気さえする [ここで謂う疎外 (Entfremdung) がプロレタリア文学 (Proletarian Literature) に於ける疎外 (Entfremdung) と同一のモノや否やと謂う点は、ぼくははっきりとはしていない。そして、していないからこそ、こんな事をおもう。この小説の作者はその文学潮流に叛意を告げる為をもって、その潮流の常套的な舞台と手法を援用したのではないだろうか、と]。
<ここでこの小説の手法や主題について幾つもの事柄を綴るべきなのだろうが、今回は無理そうだ。だから唐突に結論ぢみた事をこの後に綴る。>
小説の題名は機械 (Machine) と謂う。
その語感と本作品が書かれた時代をもって考慮すれば、自ずとそこにあるべき印象が生じる筈だ。つまり、その当時、機械 (Machine) と呼ばれるべきモノの姿、もしくはその語句が表現し得る実体が現出する筈なのだ [例えば、未来派 (Futurismo) とそこから派生する素朴な技術信仰、もしくはそれと真っ向から対立する自然回帰の指向等]。
にも関わらずに、その様な機械 (Machine) はここには登場しない。
工場が舞台ではあるが、巨大な設備も巨大な機械 (Machine) も登場しない。登場するのは薬品ばかりであり、それがあるが為に、主人公は常に、自身の脳機能への侵害、智識と記憶が侵食される可能性ばかりを危惧する。主人 (Master) が無能なのも、そこに原因があるのではないだろうか、と。
つまり、轟音もなければ怒号もない。その代わりに、淀んだナニカがのうのうとたたえられているのであり、そこになにかが深く静かに沈殿していくのだ。その様な停滞感と倦怠感が濃密な空間で、物語が語られているのである。
そして終幕。
とどのつまりとして、機械 (Machine) は登場する。だが、その機械 (Machine) とは果たしてなんなのか。一切は語られない。語られないがままに、主人公に対立する存在として登場する。彼を脅かすのだ。
その登場の仕方は、まるで小説『歯車 (Haguruma :Spinning Gears / Cogwheels)』 [芥川龍之介 (Ryunosuke Akutagawa) 作 1927年 文藝春秋掲載] に登場するそれである様に、ぼくにはおもえる。

"Cage" 1930 - 1931 by Alberto Giacometti
そして、それ故にこそ、この小説は、ミシェル・カルージュ (Michel Carrouges) 曰くの『独身者の機械 (Les Machines celibataires)』[1954年刊行] の系譜に連なり得るのかなぁと、おもうのであった。
次回は「い」。
附記 1. :
『独身者の機械 (Les Machines celibataires)』の命名の由来である『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも (La mariee mise a nu par ses celibataires, meme [The Bride Stripped Bare By Her Bachelors, Even])』 [マルセル・デュシャン (Marcel Duchamp) 1915年から1923年制作 フィラデルフィア美術館 (Philadelphia Museum Of Art) 所蔵] の系譜に連なり得る、この小説と同時代の作品と謂う認識でもって、『檻 (Cage)』[アルベルト・ジャコメッティ (Alberto Giacometti) 作 1930年から1931年 ストックホルム近代美術館 (Moderna Museet) 所蔵] を上に掲載してある。
附記 2. :
そして、その様な存在である機械 (Machine) が自己の存在を脅かす、主人公が [心身ともに] 危険を感じる点をもって、旧い時代の作品なのだなぁとおもえるのだ。
映画『鉄男 (Tetsuo : The Iron Man)』は、そんな存在から侵食されはじめた時点から語り始められ、そしてその融合が完了した時点をもって、その物語は最高潮に達するからだ。
だからこその、なんだかなつかしいなぁ、なのではあろう。
附記 3. :
いや、それよりもこの小説は身につまされる事ばかりが綴られている様な気がしないでもない。無知蒙昧な社長や上司の許で働いている社員は皆、先輩後輩等の上下関係やらいつの間にか組み込まれている派閥の無意味な抗争に翻弄されるがまま ...、そんな光景を綴った物語とこの小説を眺めてみれば、あまりにも自身の体験や現在と似ている事に気づかされるのだ。そして、そんな渦中を凌いでいる自身の心象や言動を分析しだすと、この小説の主人公がまったくの他人とはおもえなくもなるのである。
これまで親しんできた、幾つかの創作物の中の、決して少なくはない世界観と共通のモノを感じたのだ。
主人公の視点をもって語られると謂う点、その主人公の意にそぐわない事ばかりが起こると謂う点、しかもそれらのその殆どは、通常だったならばあり得ないところにその理由があり、しかも決して大事件ではないと謂う点、些細な齟齬、微妙な人間関係の軋轢から生じると謂う点、そして劣悪であり陰惨な世界を舞台にしているのにも関わらずに、どうみてもそれは喜劇でしかあり得ない点、....、と思い浮かぶ限りの事柄を思いつくままに論っていけば、あの作品にもこの作品にも共通する点ばかりなのだ。
ぼくが小説『機械 (Machine)』 [横光利一 (Riichi Yokomitsu) 作 1930年 改造掲載] を読みながら思った事は、その様な事でしかない。
解りやすく謂えば、安部公房 (Kobo Abe) の作品の幾つかの様でもあり、つげ義春 (Yoshiharu Tsuge) の作品の世界でもある。
そして、これを告げてしまえば、それを聴いた殆どのヒトの頭部に疑問符を沸かせる事になるのかもしれないが、映画『鉄男 (Tetsuo : The Iron Man)』 [塚本晋也 (Shinya Tsukamoto) 監督作品 1989年制作] がぼくの脳裏に浮かんだのだ。
あの映画の根本、肉体と機械の融合、もしくは身体への機械の侵食と謂う部分に眼を瞑ってみれば、そこにあるのは対立している2者の和解と和合である。そこを評価すれば、それはそのまま小説『機械 (Machine)』になるのだろう、と。
[逆に謂えば、こちら等で紹介されている、この小説発表当時に語られた論説の殆どがぼくには理解出来ていない。それは恐らく、この小説やその作家に影響を与えたであろう、先行作品や先行作家を体験していないからであろうし、と、同時に、ぼくはぼくで、少ない体験の中で出逢った作品群の、その上流の様な位置付けでこの小説を眺めているからであろう。そこからさらにある源流がぼくにはみえていないのだ。]
物語は、主人公である私 (I) が、ひょんな事から就職した、ちっぽけなネームプレート製作所 (Nameplates Factory) を舞台とする。
そこだけを取り上げれば、プロレタリア文学 (Proletarian Literature) のそれとあまり差異はない。だが決してプロレタリア文学 (Proletarian Literature) たり得ないのは、雇用者と労働者との対立が起き得ないからだ。何故ならば、雇用者である主人 (Master)、彼は無能であり、そして無能である事をもって、主人公の意識には擁護と憐憫の感情が芽生えるからだ。
そこに勤務するのは、主人公ともうひとり、軽部 (Karube) と謂う労働者がいる。そして、このふたりは対立関係にある。否、正しくは、軽部 (Karube) にはその対立軸が面前にたちはだかっているのだが、主人公は、それをとっくに越えてしまっている。彼を軽蔑する事、彼よりも自身の方が優秀であると看做す事によって。軽部 (karube) の彼に対する認識はとっくの昔に合理化 (Rationalization) されてしまっているのだ。このふたりの対立はよくある物語、長年就業によってのみ習得した熟練労働者と、経験こそ少ないがそれを埋めるに相応しい知識を備えた新米労働者の対立でもある [と、綴ってしまうと、再びプロレタリア文学 (Proletarian Literature) への帰還が可能な様な気がしないでもないが]。
そしてそこに第三の人物である、屋敷 (Yashiki) が介入する。大口契約を結び得たこの製作所が、決して充分とは謂えない短期間に大量の製品を納品せんが為に、臨時に雇用した職人、それが屋敷 (yashiki) なのだ。彼と謂う人物の登場によって、主人公と軽部 (Karube) との関係も微妙なモノとなり、結託して屋敷 (Yashiki) を排除する協調も芽生えようともする。だが、それも完全なモノとは謂えず、この3者の人間関係は常に不思議な緊張関係の中にある。
その時に、主人 (Master) は大失態をしでかすのである。しかも、その失態は、兼ねてから心配されていたモノであると同時に決して起こってはならないモノでもある。その回避の手段も講じていられたのにも関わらずに、事件は起きてしまうのだ。
ぼくが理解したまま、この小説の粗筋を綴ってはみた。だが、恐らく、この小説を読んだ読者の大半は、これをその粗筋とは受理出来ない可能性がない訳ではない。
と、謂うのは、綴った当人であるぼく自身、これを読んでみて、疑問におもう事だらけだからだ。
どこかがおかしい。
例えば、この小説には、上に綴った様に、3人の労働者が登場する。しかし、本当に3人いるのだろうか、とおもう。と、謂うのは、軽部 (Karube) を批判し否定する主人公自身が、軽部 (Karube) とおなじ心象を抱き、おなじ行動に移るからだ。そして、屋敷 (Yashiki) は屋敷 (Yashiki) で、まるで主人公が転移したかの様な言動を行うときもある。
ぼくは、この3人は実は同一人物、もしくはたったひとりの人物から派生した自己幻像 (Doppelganger) ではないだろうか、そうおもう場合さえもあるのだ。
そしてそれ故に、この小説の主題は疎外 (Entfremdung) ではないだろうか、と謂う気さえする [ここで謂う疎外 (Entfremdung) がプロレタリア文学 (Proletarian Literature) に於ける疎外 (Entfremdung) と同一のモノや否やと謂う点は、ぼくははっきりとはしていない。そして、していないからこそ、こんな事をおもう。この小説の作者はその文学潮流に叛意を告げる為をもって、その潮流の常套的な舞台と手法を援用したのではないだろうか、と]。
<ここでこの小説の手法や主題について幾つもの事柄を綴るべきなのだろうが、今回は無理そうだ。だから唐突に結論ぢみた事をこの後に綴る。>
小説の題名は機械 (Machine) と謂う。
その語感と本作品が書かれた時代をもって考慮すれば、自ずとそこにあるべき印象が生じる筈だ。つまり、その当時、機械 (Machine) と呼ばれるべきモノの姿、もしくはその語句が表現し得る実体が現出する筈なのだ [例えば、未来派 (Futurismo) とそこから派生する素朴な技術信仰、もしくはそれと真っ向から対立する自然回帰の指向等]。
にも関わらずに、その様な機械 (Machine) はここには登場しない。
工場が舞台ではあるが、巨大な設備も巨大な機械 (Machine) も登場しない。登場するのは薬品ばかりであり、それがあるが為に、主人公は常に、自身の脳機能への侵害、智識と記憶が侵食される可能性ばかりを危惧する。主人 (Master) が無能なのも、そこに原因があるのではないだろうか、と。
つまり、轟音もなければ怒号もない。その代わりに、淀んだナニカがのうのうとたたえられているのであり、そこになにかが深く静かに沈殿していくのだ。その様な停滞感と倦怠感が濃密な空間で、物語が語られているのである。
そして終幕。
とどのつまりとして、機械 (Machine) は登場する。だが、その機械 (Machine) とは果たしてなんなのか。一切は語られない。語られないがままに、主人公に対立する存在として登場する。彼を脅かすのだ。
その登場の仕方は、まるで小説『歯車 (Haguruma :Spinning Gears / Cogwheels)』 [芥川龍之介 (Ryunosuke Akutagawa) 作 1927年 文藝春秋掲載] に登場するそれである様に、ぼくにはおもえる。

"Cage" 1930 - 1931 by Alberto Giacometti
そして、それ故にこそ、この小説は、ミシェル・カルージュ (Michel Carrouges) 曰くの『独身者の機械 (Les Machines celibataires)』[1954年刊行] の系譜に連なり得るのかなぁと、おもうのであった。
次回は「い」。
附記 1. :
『独身者の機械 (Les Machines celibataires)』の命名の由来である『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも (La mariee mise a nu par ses celibataires, meme [The Bride Stripped Bare By Her Bachelors, Even])』 [マルセル・デュシャン (Marcel Duchamp) 1915年から1923年制作 フィラデルフィア美術館 (Philadelphia Museum Of Art) 所蔵] の系譜に連なり得る、この小説と同時代の作品と謂う認識でもって、『檻 (Cage)』[アルベルト・ジャコメッティ (Alberto Giacometti) 作 1930年から1931年 ストックホルム近代美術館 (Moderna Museet) 所蔵] を上に掲載してある。
附記 2. :
そして、その様な存在である機械 (Machine) が自己の存在を脅かす、主人公が [心身ともに] 危険を感じる点をもって、旧い時代の作品なのだなぁとおもえるのだ。
映画『鉄男 (Tetsuo : The Iron Man)』は、そんな存在から侵食されはじめた時点から語り始められ、そしてその融合が完了した時点をもって、その物語は最高潮に達するからだ。
だからこその、なんだかなつかしいなぁ、なのではあろう。
附記 3. :
いや、それよりもこの小説は身につまされる事ばかりが綴られている様な気がしないでもない。無知蒙昧な社長や上司の許で働いている社員は皆、先輩後輩等の上下関係やらいつの間にか組み込まれている派閥の無意味な抗争に翻弄されるがまま ...、そんな光景を綴った物語とこの小説を眺めてみれば、あまりにも自身の体験や現在と似ている事に気づかされるのだ。そして、そんな渦中を凌いでいる自身の心象や言動を分析しだすと、この小説の主人公がまったくの他人とはおもえなくもなるのである。
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