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2022.07.05.08.37

やましたくみ

[白井貴子 (Takako Shirai) を認めないと謂う訳ぢゃあないけど] 総立ちの女王 (Queen For All Audience In Arena Standing) は山下久美子 (Kumiko Yamashita)。
山下クミ (Kumi Yamashita) は、漫画『ブラック・ジャック (Black Jack)』 [手塚治虫 (Osamu Tezuka)19731983週刊少年チャンピオン連載] の第87話『満月病 (Full Moon Disease)』 [1975年発表] のヒロインである。

彼女が罹患したのは難病クッシング症候群 (Cushing's Syndrome) であり、その為に容姿が激変する。表題に掲げられた満月病 (Full Moon Disease) とはその別称であり、その変貌をものの見事に表出している。そして、それ故に、恋人、丸桐商一 (Shoichi Marukiri) も彼女の許を去ってしまう。傷心の彼女は以来、自室にひきこもったままで過ごす。そのマンガの主人公、ブラック・ジャック (Black Jack) は施術する事によって、彼女の肉体のみならず精神に負った傷の治療までも手掛けようとする。

ところで、手塚治虫 (Osamu Tezuka)スター・システム (Star System) をマンガ『ブラック・ジャック (Black Jack)』の視点から解読しようとした書籍に辞典『ブラック・ジャック 300スターズ エンサイクロペディア (Black Jack 300 Stars Encyclopedia)』 [手塚プロダクション (Tezuka Productions) 監修 山下敦司 (Atsushi Yamamoto) 編 2001年刊行] がある。その作品に登場した総ての登場人物達を分類し、彼等の経歴 [即ち過去の手塚治虫 (Osamu Tezuka) 作品での出演歴] の解読を試みようとした書物である。
そこでは、山下クミ (Kumi Yamashita) は「オリジナル・キャラクターズ・イン・ブラック・ジャック (Original Characters In Black Jack)」に分類されている。つまり、第87話が彼女の初登場作品であり、過去に他の作品、他の役名で登場してはいない、としている。

そうなのかなぁ?
その書籍を購入した際は、それをそのまま鵜呑みにしていた (Swallow Whole) が、その後に陸続として再版される漫画家の過去の作品群に触れるにつれ、そこでの山下クミ (Kumi Yamashita) の認識には、少し疑問が生じて来たのだ。

images
それは、マリア (Maria) と謂う存在である。マンガ『やけっぱちのマリア (Yakeppachi's Maria)』 [手塚治虫 (Osamu Tezuka)1970週刊少年チャンピオン連載] に登場する。
その正体はその作品の主人公、焼野矢八 (Yahachi Yakeno) から発せられたエクトプラズム (Ectoplasm) だ。通常はダッチワイフ (Dutch Wife) に憑依し、10代女性の姿として活躍する。
だが、なんらかの拍子で馬脚を顕わす (Reveal The True Nature)。エクトプラズム (Ectoplasm) として、ではなくて、ダッチワイフ (Dutch Wife) として、だ。
つまり、美少女が突然にビニール製の風船人形 (Plastic Baloon Doll) と化してしまう。
その自身の肉体が膨れたり萎んだりするするその形状が、山下クミ (Kumi Yamashita) をぼくに類推させるのだ。

だけれども、それをもって推断する事がぼくには出来ない。
と、謂うのは、山下クミ (Kumi Yamashita) もマリア (Maria) も、手塚治虫 (Osamu Tezuka) が描く美少女の類型に沿ってはいるけれども、ふたりの髪型が明らかに違うのだ。つまり、ふたりとも坊主頭 (Shaven Head) にしてしまえば同一人物なのかもしれないが、それ以外の、否、それ以上の外観上での類似点がみいだせないのも事実なのである。

いやそれ以前に、粗雑な論議をここでしてしまえば、難病患者と稚拙な性具を同一視するなと謂う、石礫が飛来しないとも限らない [もしかしたらそれを避けるが為の髪型の変更なのだろうか? と、自説を補完する為におもいたくもなる] 。
そう、そこのきみは既に、握り締めているだろう。しかし、それを投擲する以前に、次の様な事も考えてみてもらいたい。

山下クミ (Kumi Yamashita) は、ブラック・ジャック (Black Jack) の恩師である本間丈太郎 (Jotaro Honma) の娘である。そして、それだからこそ、彼女の治療に専心した様な趣きが作品にはある。だが、当の本人は、もう一方の当事者にも決してその事実を披露しようとはしない。
無報酬で彼女を治療した理由を、完治した彼女に尋ねられて彼はこう告げる。

きみが美しいからな (You Are So Beautiful)」と。

そしてその作品はその余韻でもって終了する。

だけれども、その弁明が意図しているところは果たして、どこにあるのだろうか。
ブラック・ジャック (Black Jack) は山下クミ (Kumi Yamashita) が罹患する前の容姿を知っている。そして、罹患した当時の彼女も知っている。そして、治療する。その結果、彼女はかつての容姿を回復し得た。
その経緯を知っているぼく達は、彼の発言を"あの頃は美しくなかった (You Weren't Beautifull In Those Days) "と聴く事も出来る。
そしてそれをもってすれば、丸桐商一 (Shoichi Marukiri) が彼女の変貌を理由に彼女から離れ、そして治癒した彼女を知っていま、またかつての関係を回復しようとする際に、丸桐商一 (Shoichi Marukiri) がその台詞を発しても何らの不思議もないのだ。つまり、このふたりのおとこはおなじ穴の貉 (Birds Of A Feather) である事になる。彼等の差異は、一方には治療する知識も技術も保持しているのに対し、遺る一方にはそんなモノが一切なかった、と謂う事だけだ。彼女の美醜、容姿の変貌に関する認識に関しては、五十歩百歩 (Six Of One And Half A Dozen Of The Other) なのである。
だから、仮に、このふたりのおとこが、ひとりのおんなに関して競っているのならば、この発言はなんら不自然ではない [つまり、ひとりのおんなをめぐってあらそうおとこふたりの物語としては常套句であるのと同時に、その勝者がおんなにむけてはなつ口説き文句としてはあまりに陳腐な言説なのである]。
だが、ぼく達は既に知っている [否、そうおもいたいだけなのかもしれないが]。ブラック・ジャック (Black Jack) にはそんな意図なぞないのだ、と。
だからこそ、この発言を極めてアクロバティックな解釈をしようと試みる。例えば、その発言にある「きみが美しいからな (You Are So Beautiful)」とは字義どおりのそれではないのだ、と。
と、同時に、この物語の終了時に感ずる余韻の正体は、おそらく、そこに起因するモノなのであろう。つまり、読者のなかにある理想像としてのブラック・ジャック (Black Jack) がそこに於いて、その発言をしているのだから。恐らく、個々人の読者から、共通した読解を得る事は困難なのではないだろうか。

と、ここまで綴ってきて、ぼく自身の論旨が混乱している事に気づく。
そう謂う事ではないのだ。
特に、石礫を握って身構えているきみに向かって謂うべき言葉は。

例えば、渡辺直美 (Naomi Watanabe) やリゾ (Lizzo) と謂う人物達の、それぞれの個性やそれに基づく活躍をみれば、いままで既得権を獲得していた美 [もしくは美とされてきたモノが有している既得権] が危うくなっていないだろうか、と謂う事なのである。
そんな認識の基にたてば、「きみが美しいからな (You Are So Beautiful)」と謂う発言の根拠の乏しさ、脆弱性に気付かされやしないだろうか、とおもうのだ。

そこに、ある人物が発症している、だから、治療をした。それで充分なのである、ひとりの医師としては。
それ以外の、[ロマンチックな (Romantic) ] 言説を弄ぶ必要性は、今は一切にないのだ。

次回は「」。

附記 1. :
第87話に限らず、ぼく達はマンガ『ブラック・ジャック (Black Jack)』に奇妙な美名を求めすぎてやいないだろうか。
その作品の雑誌連載は、「手塚治虫ワンマン劇場 (Osamu Tezuka Presents Authorative Theater)」と銘打ってひっそりと始まった。そして、その作品はある悪徳医師を主人公としたピカレスク・ロマン (Novela picaresca) として装っていた筈だ。だが、いつしか、外部の評価も手塚治虫 (Osamu Tezuka) 自身の位置付けも異なる方向へと展開し始める。それは、小説『赤ひげ診療譚 (The Tales Of Dr. Redbeard)』[山本周五郎 (Shugoro Yamamoto) 作 1959オール讀物連載] での、その物語の主人公保本登 (Noboru Yasumoto) による赤ひげこと新出去定 (Kyojo Ni-ide aka Dr. Redbeard) の評価が異なっていく様とよく似ている。そして、その結果、そのマンガの主人公には常に二面性が存在する事となり、その二面性を自在に出し入れする事によって、作品を多層化し得るにも関わらず、読者は [もしかしたら手塚治虫 (Osamu Tezuka) 自身も] 一方の側しかみようともしない、求めようともしなくなってしまう。
この作品の不幸な点 [と謂うモノがあるとしたら] は、まさにこの点に於いてだろう。
そして、それ故に、雑誌に掲載された全話のごく一部が単行本等で未収録となってしまってもいるのであろう。時間の経過もしくは時代の変転によって、第87話もそうならないとは限らないのだ。

附記 2. :
ちなみに、ぼくはリアルタイムでマンガ『やけっぱちのマリア (Yakeppachi's Maria)』を体験してはいない。その作品の存在は、予告頁としてのみみた記憶がある。恐らく、同じ雑誌で連載されていた短編連作集『ザ・クレーター (The Crater)』 [手塚治虫 (Osamu Tezuka)19691970週刊少年チャンピオン連載] の最終話『クレーターの男 (The Man In The Crater)』[1970年発表]、その最終頁の対向に掲載されていたのではなかっただろうか [何故、そんな些事を憶えているのかと謂うと、その最終話がそれだけ怖かったからなのだとおもう。いま、読んでもあれは怖い]。
そして、マンガ『やけっぱちのマリア (Yakeppachi's Maria)』に続く手塚治虫 (Osamu Tezuka) の連載作品はマンガ『アラバスター (Alabaster)』 [手塚治虫 (Osamu Tezuka)19701971週刊少年チャンピオン連載] なのである。
その雑誌での連載を時系列上に並べてみると、短編連作集『ザ・クレーター (The Crater)』、マンガ『やけっぱちのマリア (Yakeppachi's Maria)』、マンガ『アラバスター (Alabaster)』となる。その漫画家の作品としては異色作、もしくは問題作と看做される作品ばかりでなのである。
その延長線上、すなわち、現在まかり通っているその作品への認識とは違う路線上に、マンガ『ブラック・ジャック (Black Jack)』はあるのだ。
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