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2022.06.28.08.44

がねーしゃ

は、ヒンドゥー教 (Hinduism) に登場する神々のひとり。
頭人身 (Human Body With Elephant Head)、4本の腕をもち、 (Rat) に騎乗する。そして、1対の象牙 (Ivory) のうち、その1本は欠損している。
現世利益 (Benefits Gained In This World) をもたらす神であって、それ故に、その宗教の主神達、ブラフマー (Brahma) やヴィシュヌ (Vishnu) やシヴァ (Shiva) よりも一般的な人気はたかく、彼への信仰はあついと謂う。

現世利益 (Benefits Gained In This World) 云々と謂う点から、我が国に於ける大黒天 (Daikokuten) や恵比寿天 (Ebisuten) の様なモノが想定されるし、象牙 (Ivory) の欠損から、北欧神話 (Norse Mythology) でのオーディン (Odin) が想い起こされもする。その神は隻眼なのである。

と、謂う様な雑駁な知識、否、知識と謂う程のモノでもない。
彼に関しているそんな記憶が蓄積されるきっかけとなったのは、1片の挿絵である。

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ムック『世界妖怪図鑑 (The Picture Book Of Yokai In The World)』 [佐藤有文 (Arihumi Sato) 著 1973ジャガーバックス (Jagar Backs) 刊行] に、『ガネーシア (Ganesha)』と謂う表記で、その書籍の見開き2頁で掲載されていたのが、上の作品だ [上掲画像はこちらから]。描いたのは柳柊二 (Shuuji Yanagi) である。

インド (India) に関する歴史や地理や文明や文化、そこに伝播している信仰や宗教を題材とするTV番組 [その多くは学術的もしくは学際的と謂うより紀行番組や報道番組の一端であるとおもう] 等で、ガネーシャ (Ganesha) と謂う名称が囁かれる度に、上の作品を想い描く。そして、それと今、画面上に展開されている映像との落差にぼくは落胆するのだ。

その落胆は、自身が愉しんでいた漫画や小説がある日突然に実写作品や映像作品として顕れた際のモノとよく似ている。
つまり、[ぼくの大好きな、もしくは、ぼくの知っている] ○○○○は、これぢゃあない、と謂う様な、独りよがりの解釈だ。
メディアが異なれば、同じ作品を原典としたモノであっても、多少なりともそこに差異は生じる。今では、それをごく自明のモノとして、寧ろ、その差異があるからこそ愉しめるのだろうが、当時のぼくは、そこまで達観してはいなかった。

それに第一に、ぼくの親しんだモノこそ翻案された後のモノであって、あそこに映じているモノこそが原典、もしくはそれに限りない程に近似しているモノなのである。
発生する感情こそ同様であっても、互いに似て非なるモノがそこにはあるのだ。

ところで、あらためて上掲作品を眺めていると、 [当時は見過ごしていた] 幾つもの事に気づく。
ひとつは、描かれているガネーシャ (Ganesha) と彼が騎乗している (Rat) の大きさが、あやふやだと謂う事だ。
つまり、頭 ( Elephant Head) の人物が騎乗するのが可能な程の巨大 (Giant Rat) である、と謂う可能性がある一方で、1匹の (Rat) に騎乗する程の矮小な、頭 ( Elephant Head) の人物であると謂う可能性があるのだ。
どちらだろう [尤も、ガネーシャ (Ganesha) が (Rat) に騎乗する頭人身 (Human Body With Elephant Head) の人物である、この説明を読んだり聴いたりした時点で、本来ならばこの疑義は発動されて然るべきである。だが、そうならないのは、その人物がある宗教の中に登場する神である、と謂う前提があるからなのだ。この作品は、そんな前提を無効化した地点に立っているのだ]。
そして、その問いに真剣に悩み始めると、今度は背景の建築物の大きさとその位置が不確かなモノとなる。
寺院もしくは城郭の様な佇まいのその建築の向こう側に、 (Rat) の尾の一部が隠れている。と、すれば、 (Rat) とそれを騎る頭 ( Elephant Head) の人物は、その建築の向こう側からこちら側へと跳躍しているのに違いない。だとすると、その人物並びに (Rat) は、観るモノが思い描いているモノ、それ以上に巨大である可能性がある。少なくとも、建築と同等、さもなければそれを凌駕するに余る巨体を誇る可能性がある [或いは、 (Rat) の身体が実物大のそれであり、建築を含むそこに存する総ての素材が極小である、と謂う視点も放棄され得ない]。
だから、彼らをぐるりと囲っている円は、満腔の月 (Full Moon) 以外の何者でもない筈なのに、それ以外の可能性も求めたくもなってくるのだ。例えば、彼に投じられたサーチライト (Searchlight)、それが描く円弧である、と謂う様な。
微細に立ち入って描かれている、リアリズム (Realism) に典拠して克明に描かれている、しかも、ガネーシャ (Ganesha) のアトリビュート (Attribute) には一切の反故もない [1対の象牙 (Ivory) のうちの片方はみえないが恐らく欠損している筈だと信じられ得る]。しかし、それ故に猶、よって立つ基盤の上でありとあらゆるモノがぐらぐらとその存在を危うくしているのだ。

ムック『世界妖怪図鑑 (The Picture Book Of Yokai In The World)』には、有象無象 (The Rabble) でかつ森羅万象 (All Things In Nature) の画像がひしめき合っているが、その中で幾つかの怪異が、発刊当時の気鋭画家達によって描き下ろされた作品が幾つかある [例えばこちらこちら]。
それらは徒に恐怖心を煽るが為のモノだったり、只ひたすら嫌悪感のみを抱かしむるばかりのモノだったり、違和感だけが遺る [と、謂うのはそこに描かれている怪異が、他の作家や作品によって読者であるぼくが既知であるから、つまり、[ぼくの大好きな、もしくは、ぼくの知っている] ○○○○は、これぢゃあないと謂う感情がそこで起動してしまっているのだ] だけのモノばかりである。そして、そんな作品群が横行する中で、この作品はそれらとは少し異なる地点に到達してしまっている様に、おもえる。
何故ならば、ガネーシャ (Ganesha) と謂う神と、彼が存在する宗教、彼に向けられた信仰と隔絶したところに、この作品はあるのだ [だから、信奉者達や帰依者達からは批判されるばかりなのかもしれない]。そして、それは本作に挿れられた紹介文 [こちらを参照する事] が、ガネーシャ (Ganesha) の実際と隔たりがあると謂う点からのみ、発生しているモノではない筈だ。
つまり、純粋な幻想画 (Fantastic Art)としての、評価や批評が為されるべき作品ではないだろうかと、ぼくはおもっているのだ。

次回は「」。
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