2022.06.07.08.13
ならったのは保育園 (Day Nursery)、お遊戯の時間だったのだろうか。
みなで掌を繋ぎ、円陣を組む。そして、その中央に鬼 (It) と呼ばれる子供がなかにはいる。彼は、そこにしゃがみ、両眼をつぶり、さらにそれを両掌で多い隠さねばならない。その間、円陣を組んだ子供たちは、その歌を歌い、くるくると鬼 (It) の周りを廻るのだ。そして、歌い終わった瞬間が、双方にとって勝負の時間となる。鬼 (It) は、自身の後方にいる友人の名を告げなければならない。
特に難しい事ではない。その間に、やらなければならない事は単純だ。
名をあてなければならない。名をあてられてはならない、そのときがきたときに。何故ならば、鬼 (It) はモノの見事に正解を告げられれば鬼 (It) から解放されるのであり、その逆、告げられた方は鬼 (It) にならなければならないからだ。
だから、鬼 (It) が四苦八苦する点は実は単純だ。彼がなすべきは、円陣にある参加者個々の発話を聴き分ける事であり、そしてそれぞれの声がどこから聴こえるのか、それにしくはない。
一方で、鬼 (It) ではない方、円陣の一員に加わる子供達それぞれにとっては考えなければならない事はいくらでもある。ひとつは、鬼 (It) に名を告げられない事、ひとつは、鬼 (It) の後方にいない事である。前者に関しては自身の仮想敵 (Hypothetical Enemy) が鬼 (It) であるのに対し、後者に関しては、自身と共に円陣を組むモノ達が仮想敵 (Hypothetical Enemy) だ。だから、奇想天外な発声を試みるモノもいると同時に、ある人物の声色を真似るモノもでてくるばかりか、円陣の廻るスピードを調節して鬼 (It) 後方の位置を回避する事に専念するモノもでてくる。
だから、その遊戯に勤しんでいる時、その歌の意味を斟酌する余裕等なかったのである。歌われている意味は難しい、だけれども、それがそのまま、その遊戯の難易や勝敗を左右する、そんな事は決してない。
でも、幼児期のぼくは病弱だった。季節の変わる度に、発熱をする。吐瀉する。そして、その度に、母親が狼狽える。
その間、ぼくはずっと夢の様な、まぼろしの様な、そんな得体のしれないモノに襲われていたのだ。
いままでみしっているモノ、馴染んでいるモノが突然、なにがなにやらわからなくなる。
仰向けに寝かされているぼくには天井がみえる。それがえらく遠い。ものの距離感がそこでは喪われている。そして、枕上にある頭を横にむければ、みえてくるのはいつもみなれている室内、その筈だ。それが横倒しになっている。だけれども、それが理解できない。眼に飛び込んでくるいくつもの事物が皆、不気味な色彩となって顕れる。
そして、これまで歌い慣れていた歌、聴き慕っていた曲が、何度も何度も繰り返して聴こえてくる。しかも、そこでうたわれている事柄が一体、なんのことやらさっぱりわからなくなってしまう。
今のぼくの知識から謂えば、それはゲシュタルト崩壊 (Gestaltzerfall) とも、意味飽和 (Semantic Satiation) とも解釈して、安易な結末におとしこむのだろう。
だけれども、小学校 (Primary School) にさえ達していない当時のぼくは、ひたすらそれらにうなされるばかりなのであった。
その際の1曲が、童謡『かごめかごめ (Kagome Kagome)』なのである。
その1節♪鶴と亀と滑った (The Crane And Turtle Slipped)♪が怖くて怖くて仕方がない。
何故なのだろう。
ひとつには、♪滑った (Slipped)♪と謂う語句が、その童謡の韻律のなかでは異様な響きをもっているからなのだ。つまり、その語句は、日常の会話に登場する際、決してその様な強弱をもって発音されないのだ。その結果、そこにあるべき♪滑った (Slipped)♪と謂う意味がいつのまにか、剥奪されているのである。
もうひとつには、そこに登場する1羽と1匹の生物、鶴 (Crane) と亀 (Turtle) が登場する必然性が皆無である事だ。
そこまでの歌唱部分では、ある用具で捕獲された生物がいつそこから解放されるのか、その問いがあるだけだ。曲名でもある♪かごめ (Kagome)♪とは一体、何か、恐らく当時のぼくには不可解な事物ではあっただろう。だが、そこで歌われている内容は今、ぼくが戯れている遊戯の、その叙景の描写であるのに違いない。その歌に歌われている♪鳥 (Bird)♪は、今、この円陣の中にいる鬼 (It) の事なのだ。そういう決着は恐らく、当時のぼくにも出来たのに違いない。
ぢゃあ、鶴 (Crane) と亀 (Turtle) とは一体なんなのか。それに対する説明はまったくない。
鳥 (Bird) の解放になんらかのかたちでこの1羽と1匹は関与するのだろうか、それも解らない。
そして、この1羽1匹のその後についてなんら触れる事もないまま、もうひとつの謎が登場するのである。
♪後ろの正面だあれ? (Who Is Behind You Now)♪
その遊戯ではその歌唱部分は、鬼 (It) の後方にいる人物と謂う事になっている。だから、遊戯の最中は、それをあてなければならない。
だけれども、どうも妙なのだ。
それは先ず、♪後ろ (Behind)♪と謂う語句の反意語 (Antonum) としての意味をもつ♪正面 (Front)♪ [英訳詞には顕れない] と謂う語句がそこにある事に起因している。
だから、鬼 (It) が非常に稚い場合は、自身の後方にいる人物ではなくて、自身の前方、すなわち正面にいる人物名を解答してしまう場合すらあるのだ。
だけれども、そんな誘導を誘発させんが為に、その童謡の歌詞が設定されている事はあり得ないだろう。
[ここまで綴って来たくせに今更なのだが、歌詞の英語版はこちらに掲載されてあるモノをそのまま引用しているが、果たして、この訳で良いのだろうか、とおもえてはいる。]
だから今、ぼくはこんな事を考えている。
もしかしたら、その歌詞の部分は、正しくは "あなたのうしろにいる人物の正面にいるのはだれなのか (Who Is In Front Of The Who Behind You Now)" と謂う疑問ではないのだろうか、そうおもえるのだ。
そうすると、具体的にどういう事になるのか。
この歌詞のこの疑問は、遊戯に参加している当事者達にむけてのモノだとしてみよう。
鬼 (It) からみれば、鬼の "うしろの人物の正面にいる (In Front Of The Who Behind)" のは、謂うまでもなく、鬼自身 (Itself) の事である。
鬼 It) 以外の遊戯の参加者からみれば、"あなたのうしろにいる人物 (The Who Behind)" が具体的に誰なのかは解答出来ないが 、その彼等がこの遊戯をみまもっている存在があるのならば [例えば、教師 (School Teacher) や保育士 (Nursery Teacher)、父兄 (Parents) や保護者 (Guardian) 達]、その正面にいるのは、自分自身 (HImself) の事となる。
つまり、いずれの場合であっても、解答は自分自身 (Own Self) と謂う事になってしまう。
なぜ、その様な、自己言及 (Self-Reference) まがいの疑問が投じられるのだろうか。
この点に於ける解答を、ぼくはまだ用意出来てはいない。
ところが、そうではない、もうひとつの解答の可能性がある事をぼくは知っているのである。
それは、その遊戯の場に、鬼 (It) でもない、円陣を組む人物達でもない、もうひとりの人物の存在の可能性を糺しているのである。
鬼 (It) の視点にたてば、"あなたのうしろで [円陣を組んでいる] 人物の正面にいるのはだれなのか (Who Is In Front Of The Who Forms A Circle Behind You Now) " と、それはなる。
そして、鬼 (It) にはなぜだか、その人物の名前を既に知っているのだ。しかし、その名は決して告げてはならない名前なのだ。
その名前を回避する目的をもって、敢えて、"あなたのうしろの人物 (The Who Behind)" の名を解答する。
童謡『かごめかごめ (Kagome Kagome)』とそれを歌唱して行う遊戯の本来の意図は、そんなところにはないだろうか。

"Spirit Of Lycabettus XXI, Mount Lycabettus, Athens, Greece, 1937" by Herbert List
次回は「れ」。
附記 1. :
童謡『かごめかごめ (Kagome Kagome)』の構成を整理する。
籠 (Basket) の中に捕獲されている鳥 (Bird) がいる。この鳥 (Bird) はいつ解放されるのか? これが第1の疑問である。
♪後ろの正面だあれ? (Who Is Behind You Now)♪これが第2の疑問である。
いずれに関しても解答は用意されていない。そして、解答に努めるのは遊戯上は、第2の疑問に関してのみである。
ふたつの疑問を接続する挿話の様な風情で、鶴 (Crane) と亀 (Turtle) が登場するが、この件がふたつの疑問にどの様に左右されるのか、もしくはそれぞれの解答としてどう関わるのか、一切が不明である [解決案のひとつとしては、鬼 (It) を取り囲んで円陣を組み、彼の周囲をくるくると廻る人物達の描写、はあるだろう]。
その結果、この童謡の解釈として様々な説がこれまでにも登場してきたし、また、今後ともするであろう。
怪異譚 (Mysterious Incidents)、恐怖譚 (Horror Stories)、幻想譚 (Fantasy Stories) はいくらでも誕生するだろうし、珍説奇説 (Novel Idea, Strange Theory) は無論、陰謀論 (Conspiracy Theory) を囁く事だって自由自在だ。
拙稿もそのひとつである。
附記 2. :
では、決して告げてはならないその名とは、一体、なんであろうか。
解として提出出来るモノのひとつとして、妖怪 (Yokai) 座敷童子 (Zashiki Warashi) を挙げる事はできよう [この妖怪に関してはここで既に触れている]。
だが、そこにいるのは本当に、それなのであろうか。
みなで掌を繋ぎ、円陣を組む。そして、その中央に鬼 (It) と呼ばれる子供がなかにはいる。彼は、そこにしゃがみ、両眼をつぶり、さらにそれを両掌で多い隠さねばならない。その間、円陣を組んだ子供たちは、その歌を歌い、くるくると鬼 (It) の周りを廻るのだ。そして、歌い終わった瞬間が、双方にとって勝負の時間となる。鬼 (It) は、自身の後方にいる友人の名を告げなければならない。
特に難しい事ではない。その間に、やらなければならない事は単純だ。
名をあてなければならない。名をあてられてはならない、そのときがきたときに。何故ならば、鬼 (It) はモノの見事に正解を告げられれば鬼 (It) から解放されるのであり、その逆、告げられた方は鬼 (It) にならなければならないからだ。
だから、鬼 (It) が四苦八苦する点は実は単純だ。彼がなすべきは、円陣にある参加者個々の発話を聴き分ける事であり、そしてそれぞれの声がどこから聴こえるのか、それにしくはない。
一方で、鬼 (It) ではない方、円陣の一員に加わる子供達それぞれにとっては考えなければならない事はいくらでもある。ひとつは、鬼 (It) に名を告げられない事、ひとつは、鬼 (It) の後方にいない事である。前者に関しては自身の仮想敵 (Hypothetical Enemy) が鬼 (It) であるのに対し、後者に関しては、自身と共に円陣を組むモノ達が仮想敵 (Hypothetical Enemy) だ。だから、奇想天外な発声を試みるモノもいると同時に、ある人物の声色を真似るモノもでてくるばかりか、円陣の廻るスピードを調節して鬼 (It) 後方の位置を回避する事に専念するモノもでてくる。
だから、その遊戯に勤しんでいる時、その歌の意味を斟酌する余裕等なかったのである。歌われている意味は難しい、だけれども、それがそのまま、その遊戯の難易や勝敗を左右する、そんな事は決してない。
でも、幼児期のぼくは病弱だった。季節の変わる度に、発熱をする。吐瀉する。そして、その度に、母親が狼狽える。
その間、ぼくはずっと夢の様な、まぼろしの様な、そんな得体のしれないモノに襲われていたのだ。
いままでみしっているモノ、馴染んでいるモノが突然、なにがなにやらわからなくなる。
仰向けに寝かされているぼくには天井がみえる。それがえらく遠い。ものの距離感がそこでは喪われている。そして、枕上にある頭を横にむければ、みえてくるのはいつもみなれている室内、その筈だ。それが横倒しになっている。だけれども、それが理解できない。眼に飛び込んでくるいくつもの事物が皆、不気味な色彩となって顕れる。
そして、これまで歌い慣れていた歌、聴き慕っていた曲が、何度も何度も繰り返して聴こえてくる。しかも、そこでうたわれている事柄が一体、なんのことやらさっぱりわからなくなってしまう。
今のぼくの知識から謂えば、それはゲシュタルト崩壊 (Gestaltzerfall) とも、意味飽和 (Semantic Satiation) とも解釈して、安易な結末におとしこむのだろう。
だけれども、小学校 (Primary School) にさえ達していない当時のぼくは、ひたすらそれらにうなされるばかりなのであった。
その際の1曲が、童謡『かごめかごめ (Kagome Kagome)』なのである。
その1節♪鶴と亀と滑った (The Crane And Turtle Slipped)♪が怖くて怖くて仕方がない。
何故なのだろう。
ひとつには、♪滑った (Slipped)♪と謂う語句が、その童謡の韻律のなかでは異様な響きをもっているからなのだ。つまり、その語句は、日常の会話に登場する際、決してその様な強弱をもって発音されないのだ。その結果、そこにあるべき♪滑った (Slipped)♪と謂う意味がいつのまにか、剥奪されているのである。
もうひとつには、そこに登場する1羽と1匹の生物、鶴 (Crane) と亀 (Turtle) が登場する必然性が皆無である事だ。
そこまでの歌唱部分では、ある用具で捕獲された生物がいつそこから解放されるのか、その問いがあるだけだ。曲名でもある♪かごめ (Kagome)♪とは一体、何か、恐らく当時のぼくには不可解な事物ではあっただろう。だが、そこで歌われている内容は今、ぼくが戯れている遊戯の、その叙景の描写であるのに違いない。その歌に歌われている♪鳥 (Bird)♪は、今、この円陣の中にいる鬼 (It) の事なのだ。そういう決着は恐らく、当時のぼくにも出来たのに違いない。
ぢゃあ、鶴 (Crane) と亀 (Turtle) とは一体なんなのか。それに対する説明はまったくない。
鳥 (Bird) の解放になんらかのかたちでこの1羽と1匹は関与するのだろうか、それも解らない。
そして、この1羽1匹のその後についてなんら触れる事もないまま、もうひとつの謎が登場するのである。
♪後ろの正面だあれ? (Who Is Behind You Now)♪
その遊戯ではその歌唱部分は、鬼 (It) の後方にいる人物と謂う事になっている。だから、遊戯の最中は、それをあてなければならない。
だけれども、どうも妙なのだ。
それは先ず、♪後ろ (Behind)♪と謂う語句の反意語 (Antonum) としての意味をもつ♪正面 (Front)♪ [英訳詞には顕れない] と謂う語句がそこにある事に起因している。
だから、鬼 (It) が非常に稚い場合は、自身の後方にいる人物ではなくて、自身の前方、すなわち正面にいる人物名を解答してしまう場合すらあるのだ。
だけれども、そんな誘導を誘発させんが為に、その童謡の歌詞が設定されている事はあり得ないだろう。
[ここまで綴って来たくせに今更なのだが、歌詞の英語版はこちらに掲載されてあるモノをそのまま引用しているが、果たして、この訳で良いのだろうか、とおもえてはいる。]
だから今、ぼくはこんな事を考えている。
もしかしたら、その歌詞の部分は、正しくは "あなたのうしろにいる人物の正面にいるのはだれなのか (Who Is In Front Of The Who Behind You Now)" と謂う疑問ではないのだろうか、そうおもえるのだ。
そうすると、具体的にどういう事になるのか。
この歌詞のこの疑問は、遊戯に参加している当事者達にむけてのモノだとしてみよう。
鬼 (It) からみれば、鬼の "うしろの人物の正面にいる (In Front Of The Who Behind)" のは、謂うまでもなく、鬼自身 (Itself) の事である。
鬼 It) 以外の遊戯の参加者からみれば、"あなたのうしろにいる人物 (The Who Behind)" が具体的に誰なのかは解答出来ないが 、その彼等がこの遊戯をみまもっている存在があるのならば [例えば、教師 (School Teacher) や保育士 (Nursery Teacher)、父兄 (Parents) や保護者 (Guardian) 達]、その正面にいるのは、自分自身 (HImself) の事となる。
つまり、いずれの場合であっても、解答は自分自身 (Own Self) と謂う事になってしまう。
なぜ、その様な、自己言及 (Self-Reference) まがいの疑問が投じられるのだろうか。
この点に於ける解答を、ぼくはまだ用意出来てはいない。
ところが、そうではない、もうひとつの解答の可能性がある事をぼくは知っているのである。
それは、その遊戯の場に、鬼 (It) でもない、円陣を組む人物達でもない、もうひとりの人物の存在の可能性を糺しているのである。
鬼 (It) の視点にたてば、"あなたのうしろで [円陣を組んでいる] 人物の正面にいるのはだれなのか (Who Is In Front Of The Who Forms A Circle Behind You Now) " と、それはなる。
そして、鬼 (It) にはなぜだか、その人物の名前を既に知っているのだ。しかし、その名は決して告げてはならない名前なのだ。
その名前を回避する目的をもって、敢えて、"あなたのうしろの人物 (The Who Behind)" の名を解答する。
童謡『かごめかごめ (Kagome Kagome)』とそれを歌唱して行う遊戯の本来の意図は、そんなところにはないだろうか。

"Spirit Of Lycabettus XXI, Mount Lycabettus, Athens, Greece, 1937" by Herbert List
次回は「れ」。
附記 1. :
童謡『かごめかごめ (Kagome Kagome)』の構成を整理する。
籠 (Basket) の中に捕獲されている鳥 (Bird) がいる。この鳥 (Bird) はいつ解放されるのか? これが第1の疑問である。
♪後ろの正面だあれ? (Who Is Behind You Now)♪これが第2の疑問である。
いずれに関しても解答は用意されていない。そして、解答に努めるのは遊戯上は、第2の疑問に関してのみである。
ふたつの疑問を接続する挿話の様な風情で、鶴 (Crane) と亀 (Turtle) が登場するが、この件がふたつの疑問にどの様に左右されるのか、もしくはそれぞれの解答としてどう関わるのか、一切が不明である [解決案のひとつとしては、鬼 (It) を取り囲んで円陣を組み、彼の周囲をくるくると廻る人物達の描写、はあるだろう]。
その結果、この童謡の解釈として様々な説がこれまでにも登場してきたし、また、今後ともするであろう。
怪異譚 (Mysterious Incidents)、恐怖譚 (Horror Stories)、幻想譚 (Fantasy Stories) はいくらでも誕生するだろうし、珍説奇説 (Novel Idea, Strange Theory) は無論、陰謀論 (Conspiracy Theory) を囁く事だって自由自在だ。
拙稿もそのひとつである。
附記 2. :
では、決して告げてはならないその名とは、一体、なんであろうか。
解として提出出来るモノのひとつとして、妖怪 (Yokai) 座敷童子 (Zashiki Warashi) を挙げる事はできよう [この妖怪に関してはここで既に触れている]。
だが、そこにいるのは本当に、それなのであろうか。
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