2022.05.17.08.40
それは観念の怪物なのかもしれない。
頭髪が蛇身である、それをもって視覚的な象徴と捉えるむきもあり得ようが、それ以前に、彼女をみてはならないのだ。みれば自身は石化する。だから、彼女の真の肢体はだれも知らない。我々が描く彼女の肖像は総て、想像の域をでてはいないのだ [そんな怪物の存在それ自体がそもそも想像の産物だろう、そんな揚げ足をここでとってはいけない]。
決してだれもみる事が出来ない、その点をもってメデューサ (Medusa) とはみるなの禁忌 (Don't Look Taboo)、その具体的な顕現ではないかとも考えらえる。
また、彼女を視覚に捉えるモノは必ず石化してしまうのは、もしかすると、ミダス王 (King Midas) の幾つもある伝説のひとつである『黄金の掌 (The Golden Touch)』、その女性版と看做す事も出来よう。
また、もしかすると、彼女のその魔力は邪眼 (The Evil Eyes)、すなわち、あるモノの眼力によって呪縛され、そのモノのおもいのままとなる、その象徴にもおもえる。
ぼくが、観念の怪物と彼女を呼ぶのはそんなところに理由がある。
また、彼女の頭髪が蛇身であると謂う点に於いても、それは女性のもつ頭髪に潜む呪術性を変転させたモノである様にも思え、そして、その点を拡大解釈すれば、前世紀末 (Fin De Siecle) に登場したある種の女性を名指す概念、すなわち宿命の女 (Femme Ftale)、その源流に彼女を位置付ける事も可能だろう。
そして、この2点をあげつらって、彼女を視覚の怪物と命名したいモノもいるのであろう。
だが、その理解には僕は与する事は出来ないのだ。
小学生時代 (My Elementary School Student Era)、こんな事がぼく達にはあった。

ムック『世界妖怪図鑑 (The Picture Book Of Yokai In The World)』 [佐藤有文 (Arihumi Sato) 著 1973年 ジャガーバックス (Jagar Backs) 刊行] に石原豪人 (Ishihara Gojin) 描く『蛇女ゴーゴン (Gorgon, The Snake Woman)』のイラストが見開き2頁、カラー口絵で掲載されている [上掲画像はこちらから] 。その書物は、当時のクラスの何名かが所有し、そして、それらを休み時間等を利用して回し読みしていたから、だれもが知っている書物なのである。そして勿論、誰もがその頁のそのイラストを知っているのだ。
だけれども、誰もその頁をみようとはしない。万が一に、その頁を開いてしまったら、大慌てで閉じてしまう。
「みてはいけない」
「いしにされてしまう」
勿論、だれも本気でその怪物の伝説を信じてはいない。だけれども、何故だかその頁だけは禁忌 (Taboo) の存在として位置付けれられていた。
怖いのではない。
怖いと謂うのであるのならば、おなじその書物に掲載されている蛇女 (The Reptile) [演:ジャクリーヌ・ビアス (Jacqueline Pearce)] [『蛇女の脅怖 (The Reptile)』 [ジョン・ギリング (John Gilling) 監督作品 1966年制作] に登場] の方が遥かに怖い。しかも、怖いが故に、魅入ってしまう。その頁に掲載されている、彼女の登場するその映画のたった1の枚のスチル写真を、じっくりと凝視してしまう。
ある意味で、『蛇女ゴーゴン (Gorgon, The Snake Woman)』 の怖さと蛇女 (The Reptile) の怖さとは全く異質のモノなのだ。
敢えて謂えば、『蛇女ゴーゴン (Gorgon, The Snake Woman)』のそのイラストの怖さは、蛇身と化した毛髪をもつ女性にあるのではなく、彼女に睨まれて石化していく男性の右腕にあるとも謂える。
だけれども、それをもって、その頁に対し、そんな態度をぼく達がとった理由とはならない様な気がする。
きっと、その行動原理は別のモノが起動させているのだとおもう。
さらに、メデューサ (Medusa) が視覚の怪物ではなくて観念の怪物であるその理由を検討してみたいと思う。
彼女を描いた作品は幾つもある。そして、幾つもあるが、そのどれもが彼女本来の恐怖を描写し得ていない様な気がぼくにはする。
例えば、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ (Michelangelo Merisi da Caravaggio) 描く絵画『メデューサ (Medusa)』 [1595~1596年頃制作 ウフィツィ美術館 (Galleria degli Uffizi所蔵] がある。蛇身の頭髪をもつ彼女の驚愕の表情は、確かにぼく達に訴えるモノはある。だが、それは彼女自身の恐怖を活写したモノであろうか。そこにあるのは、ある種の普遍、断末魔そのモノではないだろうか。自身の死を文字通りに身をもって体験したある人物の恐怖として抽象化されていないだろうか。
例えば、ピーテル・パウル・ルーベンス (Peter Paul Rubens) とフランス・スナイデルス (Frans Snyders) 共作による絵画『メデューサの頭部 (Haupt der Madusa)』 [1617~1618年頃制作 美術史美術館 (Kunsthistorisches Museum) 所蔵] がある。頭部だけの存在となった、蛇身の毛髪をもつそのモノの虚ろな表情は怖くないと謂えば嘘になる。しかし、真の怖さはその頭部自身が発しているのではない。屍体となった彼女に群がる幾匹モノ蟲達、彼等の本能的な蠢きが実は怖いのだ。それはある意味で、彼女でさえも死から逃れられない、そしてその先にある腐敗にも無防備だ、そんなメメント・モリ:死を想え (Memento Mori) の様な理解を誘発させるのモノなのである。
だが、絵画作品はまだいい。
石原豪人 (Ishihara Gojin) のイラストだって、ぼく達に「みてはいけない」、「いしにされてしまう」、そう思わせるのだから。
問題は、彼女を実写作品として映像化させた際に起きる。
ぼく達の世代では、特撮TV番組『変身忍者 嵐 (Henshin Ninja Arashi)』 [石森章太郎 (Shotaro Ishimori) 原作 1972~1973年 NETテレビ系列放映] に登場した、魔女ゴルゴン (Gorgon, The Witch) [演:原良子 (Yoshiko Hara)] [第 25話『恐怖怪談!魔女ゴルゴン呪いの城!! (The Ghost Story Of Terror, At The Castle Under The Curse By Gorgon, The Witch)』 [折田至 (Itaru Orita) 監督作品 伊上勝 (Masaru Igami) 脚本] に登場] と魔女メドーサ (Medusa, The Witch) [演;真理アンヌ (Annu Mari)] [第28話『殺しにやって来る 魔女メドーサ!! (She Comes To Kill You, Medusa, The Witch Does)』 [折田至 (Itaru Orita) 監督作品 伊上勝 (Masaru Igami) 脚本] に登場] の姉妹がある。時代劇 (Jidaigeki) であるのにも関わらず、その2人が純白のレオタード (Leotard) に漆黒のマント (Cape) を装備した姿である事からして、先ず、おかしい。しかし、それ以上におかしいのは、その2姉妹の最も視覚的な特徴である蛇身の毛髪が、失笑モノなのである。あれはどうみても、駄菓子屋 (Small-time Candy Store) で売っているゴム製の蛇のおもちゃ (Rubber Made Snake Toy) である。そんなモノならば、当時の小学生 (Elementary School Student) [男子 (Boys)] ならば誰でもが何匹ももっていた。ぼくだって玩具箱 (Toy Box) を漁れば、彼女達が抱いている蛇身の毛髪と同数程度のそれがそこに埋もれていた筈だ [何故なら、買ってそのまま、それを忘れてしまう様な存在だ]。あれを怖がるモノはだれもいない。嫌がる女子や毛嫌いする母親は勿論、いる。しかし、彼女達が示す拒否反応は恐怖とは別次元のモノなのである。
無論、そのTV番組のその2姉妹は、最も駄目な部類であろう。
だが、他の作品のどれをとっても、五十歩百歩 (Not Much Difference) なのだ [蛇 (Snake) なのに]。
先に挙げた映画『蛇女の脅怖 (The Reptile)』の前作と看做す事が出来る映画『妖女ゴーゴン (The Gorgon)』 [テレンス・フィッシャー (Terence Fisher) 監督作品 1964年制作] に於けるミゲーラ (Megeara, a Gorgon) [演:バーバラ・シェリー (Barbara Shelley)] の描写も、駄目な部類と然程変わらない。
だから、恐らく、当時の映像技術に於いては、毛髪をあたかも蛇 (Snake) であるかの様に動かし、そしてそれによって、恐怖を演出する事自体が不可能事であったのかもしれない。
だから、映画『豪勇ペルシウス大反撃 (Perseo l'invincibile)』 [アルベルト・デ・マルチーノ (Alberto de Martino) 監督作品 1963年制作] での彼女の様に、神話に忠実に従った描写は避ける様な事すら出来する。その映画に登場する彼女は、まるで怪奇植物グリーンモンス (Greenmons, Bizarre Plant) [特撮TV番組『 ウルトラマン (Ultraman) 』 [1966~1967年 TBS系列放映] 第4話『ミロガンダの秘密 (The Secret Of The Miroganda)』 [藤川桂介 (Keisuke Fujikawa) 脚本 飯島敏宏 (Toshihiro Iijima) 監督 的場徹 (Thoru Matoba) 徳義監督] に登場] の花弁に幾条もの触手を移植したモノの様にも、古代怪獣ツインテール (Twin Tail, Ancient Monster) [特撮TV番組『帰ってきたウルトラマン (Return Of Ultraman)』 [1971~1972年 TBS系列放映] 第5話『二大怪獣 東京を襲撃 (Two Giant Monsters Attack Tokyo)』[上原正三 (Shozo Uehara) 脚本 富田義治 (Yoshiharu Tomita) 監督 高野宏一 (Koichi Takano) 特技監督] に登場] の逆立つ尾部だけを抽出した様にも、みえる異様な怪物なのである。
だから、と謂って、その異様な怪物の造形によって、その物語が新たなる魅力を発揮したとは謂い難いのだ。
それは元来、メデューサ (Medusa) を末子とするゴーゴン3姉妹 (Gorgon) [ステンノー (Stheno)、エウリュアレー (Euryale) そしてメデューサ (Medusa)] に、男の兄弟があってはならない、と謂う様な感情があるからだ。蛇 (Snake) を属性とする怪物は、何故だか女性性を兼ね備えていなければならない、もしくはその逆、女性性の顕現、その象徴として蛇 (Snake) と謂う存在を欲している様な気分がそこにあるからではないだろうか。だからこそ、怪奇植物グリーンモンス (Greenmons, Bizarre Plant) の様な古代怪獣ツインテール (Twin Tail, Ancient Monster) の様な、性差を表出しない造形は、受け入れ難いのである。
またその一方で、レイ・ハリーハウゼン (Ray Harryhausen) のダイナメーション (Dynamation) による造形のメデューサ (Medusa) は映画『タイタンの戦い (Clash Of The Titans』 [デズモンド・デイヴィス (Desmond Davis) 監督作品 1981年制作] に登場するが、その肢体は蛇身である毛髪の描写を半ば放棄したかの様に思える。何故ならば、そこに登場する彼女は半人半蛇 (Half Man Half Snake) の、ラミア (Lamia) の様な肢体であるのだから。
そして、次の様な事を考えないでもない。かつての映像技術には彼女の描写には限界があった。
では、最新の映像技術ではどうだろうか、と。
そう謂って、先の映画『タイタンの戦い (Clash Of The Titans』のリメイク作である映画『タイタンの戦い (Clash Of The Titans』 [ルイ・レテリエ (Louis Leterrier) 監督作品 2010年制作] に於けるメデューサ (Medusa) [演:ナタリア・ヴォディアノヴァ (Natalia Vodianova)] を観てみても、何故だか、ぼくには納得出来ないモノがある。
もしかしたら、[女性の] 毛髪と謂うモノに対する認識に対して、それらの作品やそれの制作に拘った人物達と、ぼくとがまったくもって異なる観点を抱いているからなのぢゃあないだろうか、そんな気さえするのだ。
そしてもしかしたら、それは白人女性の毛髪と日本人女性の毛髪、そしてそこから起因する文化上の差異から引き起こされているのではないか、そんな事までかんがえが至ってしまう。
例えば、黄金色に輝く緩やかな曲線が放つ美と、黒色のするどい直線のみがたたえる美と、その違いである。そして、この1文に於ける「美」と謂う語句を「奇」とか「妖」とか「怖」とかに置換して読んでみる、そこから受ける印象の差異を考える事なのである。
と、謂うのは、こんな事をぼくは考えているからだ。
妖怪二口女 (Futakuchi-onna : Two-mouthed Woman) [『絵本百物語 (Ehon Hyaku Monogatari : Picture Book Of A Hundred Stories)』 [桃山人 (To Sanjin) 著 1841年刊行] の、主体的に自在に蠢く触手の様な黒髪は、なんら恐怖を生じせしめない。そこにあるのはつまみ喰い ( Steal A Taste) の表徴であるだけなのだから。
その一方で、妖怪濡女 (Nure-onna : Wet Woman) [画集『画図百鬼夜行 (Gazu Hyakki Yagyo : The Illustrated Night Parade Of A Hundred Demons)』 [鳥山石燕 (Toriyama Sekien) 作・画 1776年刊行] の、水に濡れ重々しいばかりに黒く蠢く髪は、なぜだか怖い。それがべっとりとぼくの肌に触れればさらに怖い。それは何故なのか。
そして、楳図かずお (Kazuo Umezu) のマンガ『へび少女 (Hebi Shojyo : A Snake Girl)』 [Ultraman) 』 [1966 週刊少女フレンド連載] は、どう考えてもあり得ない事があり得てしまうのに、荒唐無稽であるのにも拘らず、何故、ああも怖いのか。
その理由をじっくりと考えてみる。
そして、その反証として、蛇身と化した毛髪の、あやふやな存在が明らかになる様な気が、ぼくにはするのだ。
次回は「さ」。
附記:
それだから逆説的に、今後更なる映像技術の発展の結果、毛髪の1条1条を蛇 (Snake) の様に蠢かす事が出来たとしても、ぼくはそこに恐怖をみいだす事は決してないのではないか、と思うのだ。
頭髪が蛇身である、それをもって視覚的な象徴と捉えるむきもあり得ようが、それ以前に、彼女をみてはならないのだ。みれば自身は石化する。だから、彼女の真の肢体はだれも知らない。我々が描く彼女の肖像は総て、想像の域をでてはいないのだ [そんな怪物の存在それ自体がそもそも想像の産物だろう、そんな揚げ足をここでとってはいけない]。
決してだれもみる事が出来ない、その点をもってメデューサ (Medusa) とはみるなの禁忌 (Don't Look Taboo)、その具体的な顕現ではないかとも考えらえる。
また、彼女を視覚に捉えるモノは必ず石化してしまうのは、もしかすると、ミダス王 (King Midas) の幾つもある伝説のひとつである『黄金の掌 (The Golden Touch)』、その女性版と看做す事も出来よう。
また、もしかすると、彼女のその魔力は邪眼 (The Evil Eyes)、すなわち、あるモノの眼力によって呪縛され、そのモノのおもいのままとなる、その象徴にもおもえる。
ぼくが、観念の怪物と彼女を呼ぶのはそんなところに理由がある。
また、彼女の頭髪が蛇身であると謂う点に於いても、それは女性のもつ頭髪に潜む呪術性を変転させたモノである様にも思え、そして、その点を拡大解釈すれば、前世紀末 (Fin De Siecle) に登場したある種の女性を名指す概念、すなわち宿命の女 (Femme Ftale)、その源流に彼女を位置付ける事も可能だろう。
そして、この2点をあげつらって、彼女を視覚の怪物と命名したいモノもいるのであろう。
だが、その理解には僕は与する事は出来ないのだ。
小学生時代 (My Elementary School Student Era)、こんな事がぼく達にはあった。

ムック『世界妖怪図鑑 (The Picture Book Of Yokai In The World)』 [佐藤有文 (Arihumi Sato) 著 1973年 ジャガーバックス (Jagar Backs) 刊行] に石原豪人 (Ishihara Gojin) 描く『蛇女ゴーゴン (Gorgon, The Snake Woman)』のイラストが見開き2頁、カラー口絵で掲載されている [上掲画像はこちらから] 。その書物は、当時のクラスの何名かが所有し、そして、それらを休み時間等を利用して回し読みしていたから、だれもが知っている書物なのである。そして勿論、誰もがその頁のそのイラストを知っているのだ。
だけれども、誰もその頁をみようとはしない。万が一に、その頁を開いてしまったら、大慌てで閉じてしまう。
「みてはいけない」
「いしにされてしまう」
勿論、だれも本気でその怪物の伝説を信じてはいない。だけれども、何故だかその頁だけは禁忌 (Taboo) の存在として位置付けれられていた。
怖いのではない。
怖いと謂うのであるのならば、おなじその書物に掲載されている蛇女 (The Reptile) [演:ジャクリーヌ・ビアス (Jacqueline Pearce)] [『蛇女の脅怖 (The Reptile)』 [ジョン・ギリング (John Gilling) 監督作品 1966年制作] に登場] の方が遥かに怖い。しかも、怖いが故に、魅入ってしまう。その頁に掲載されている、彼女の登場するその映画のたった1の枚のスチル写真を、じっくりと凝視してしまう。
ある意味で、『蛇女ゴーゴン (Gorgon, The Snake Woman)』 の怖さと蛇女 (The Reptile) の怖さとは全く異質のモノなのだ。
敢えて謂えば、『蛇女ゴーゴン (Gorgon, The Snake Woman)』のそのイラストの怖さは、蛇身と化した毛髪をもつ女性にあるのではなく、彼女に睨まれて石化していく男性の右腕にあるとも謂える。
だけれども、それをもって、その頁に対し、そんな態度をぼく達がとった理由とはならない様な気がする。
きっと、その行動原理は別のモノが起動させているのだとおもう。
さらに、メデューサ (Medusa) が視覚の怪物ではなくて観念の怪物であるその理由を検討してみたいと思う。
彼女を描いた作品は幾つもある。そして、幾つもあるが、そのどれもが彼女本来の恐怖を描写し得ていない様な気がぼくにはする。
例えば、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ (Michelangelo Merisi da Caravaggio) 描く絵画『メデューサ (Medusa)』 [1595~1596年頃制作 ウフィツィ美術館 (Galleria degli Uffizi所蔵] がある。蛇身の頭髪をもつ彼女の驚愕の表情は、確かにぼく達に訴えるモノはある。だが、それは彼女自身の恐怖を活写したモノであろうか。そこにあるのは、ある種の普遍、断末魔そのモノではないだろうか。自身の死を文字通りに身をもって体験したある人物の恐怖として抽象化されていないだろうか。
例えば、ピーテル・パウル・ルーベンス (Peter Paul Rubens) とフランス・スナイデルス (Frans Snyders) 共作による絵画『メデューサの頭部 (Haupt der Madusa)』 [1617~1618年頃制作 美術史美術館 (Kunsthistorisches Museum) 所蔵] がある。頭部だけの存在となった、蛇身の毛髪をもつそのモノの虚ろな表情は怖くないと謂えば嘘になる。しかし、真の怖さはその頭部自身が発しているのではない。屍体となった彼女に群がる幾匹モノ蟲達、彼等の本能的な蠢きが実は怖いのだ。それはある意味で、彼女でさえも死から逃れられない、そしてその先にある腐敗にも無防備だ、そんなメメント・モリ:死を想え (Memento Mori) の様な理解を誘発させるのモノなのである。
だが、絵画作品はまだいい。
石原豪人 (Ishihara Gojin) のイラストだって、ぼく達に「みてはいけない」、「いしにされてしまう」、そう思わせるのだから。
問題は、彼女を実写作品として映像化させた際に起きる。
ぼく達の世代では、特撮TV番組『変身忍者 嵐 (Henshin Ninja Arashi)』 [石森章太郎 (Shotaro Ishimori) 原作 1972~1973年 NETテレビ系列放映] に登場した、魔女ゴルゴン (Gorgon, The Witch) [演:原良子 (Yoshiko Hara)] [第 25話『恐怖怪談!魔女ゴルゴン呪いの城!! (The Ghost Story Of Terror, At The Castle Under The Curse By Gorgon, The Witch)』 [折田至 (Itaru Orita) 監督作品 伊上勝 (Masaru Igami) 脚本] に登場] と魔女メドーサ (Medusa, The Witch) [演;真理アンヌ (Annu Mari)] [第28話『殺しにやって来る 魔女メドーサ!! (She Comes To Kill You, Medusa, The Witch Does)』 [折田至 (Itaru Orita) 監督作品 伊上勝 (Masaru Igami) 脚本] に登場] の姉妹がある。時代劇 (Jidaigeki) であるのにも関わらず、その2人が純白のレオタード (Leotard) に漆黒のマント (Cape) を装備した姿である事からして、先ず、おかしい。しかし、それ以上におかしいのは、その2姉妹の最も視覚的な特徴である蛇身の毛髪が、失笑モノなのである。あれはどうみても、駄菓子屋 (Small-time Candy Store) で売っているゴム製の蛇のおもちゃ (Rubber Made Snake Toy) である。そんなモノならば、当時の小学生 (Elementary School Student) [男子 (Boys)] ならば誰でもが何匹ももっていた。ぼくだって玩具箱 (Toy Box) を漁れば、彼女達が抱いている蛇身の毛髪と同数程度のそれがそこに埋もれていた筈だ [何故なら、買ってそのまま、それを忘れてしまう様な存在だ]。あれを怖がるモノはだれもいない。嫌がる女子や毛嫌いする母親は勿論、いる。しかし、彼女達が示す拒否反応は恐怖とは別次元のモノなのである。
無論、そのTV番組のその2姉妹は、最も駄目な部類であろう。
だが、他の作品のどれをとっても、五十歩百歩 (Not Much Difference) なのだ [蛇 (Snake) なのに]。
先に挙げた映画『蛇女の脅怖 (The Reptile)』の前作と看做す事が出来る映画『妖女ゴーゴン (The Gorgon)』 [テレンス・フィッシャー (Terence Fisher) 監督作品 1964年制作] に於けるミゲーラ (Megeara, a Gorgon) [演:バーバラ・シェリー (Barbara Shelley)] の描写も、駄目な部類と然程変わらない。
だから、恐らく、当時の映像技術に於いては、毛髪をあたかも蛇 (Snake) であるかの様に動かし、そしてそれによって、恐怖を演出する事自体が不可能事であったのかもしれない。
だから、映画『豪勇ペルシウス大反撃 (Perseo l'invincibile)』 [アルベルト・デ・マルチーノ (Alberto de Martino) 監督作品 1963年制作] での彼女の様に、神話に忠実に従った描写は避ける様な事すら出来する。その映画に登場する彼女は、まるで怪奇植物グリーンモンス (Greenmons, Bizarre Plant) [特撮TV番組『 ウルトラマン (Ultraman) 』 [1966~1967年 TBS系列放映] 第4話『ミロガンダの秘密 (The Secret Of The Miroganda)』 [藤川桂介 (Keisuke Fujikawa) 脚本 飯島敏宏 (Toshihiro Iijima) 監督 的場徹 (Thoru Matoba) 徳義監督] に登場] の花弁に幾条もの触手を移植したモノの様にも、古代怪獣ツインテール (Twin Tail, Ancient Monster) [特撮TV番組『帰ってきたウルトラマン (Return Of Ultraman)』 [1971~1972年 TBS系列放映] 第5話『二大怪獣 東京を襲撃 (Two Giant Monsters Attack Tokyo)』[上原正三 (Shozo Uehara) 脚本 富田義治 (Yoshiharu Tomita) 監督 高野宏一 (Koichi Takano) 特技監督] に登場] の逆立つ尾部だけを抽出した様にも、みえる異様な怪物なのである。
だから、と謂って、その異様な怪物の造形によって、その物語が新たなる魅力を発揮したとは謂い難いのだ。
それは元来、メデューサ (Medusa) を末子とするゴーゴン3姉妹 (Gorgon) [ステンノー (Stheno)、エウリュアレー (Euryale) そしてメデューサ (Medusa)] に、男の兄弟があってはならない、と謂う様な感情があるからだ。蛇 (Snake) を属性とする怪物は、何故だか女性性を兼ね備えていなければならない、もしくはその逆、女性性の顕現、その象徴として蛇 (Snake) と謂う存在を欲している様な気分がそこにあるからではないだろうか。だからこそ、怪奇植物グリーンモンス (Greenmons, Bizarre Plant) の様な古代怪獣ツインテール (Twin Tail, Ancient Monster) の様な、性差を表出しない造形は、受け入れ難いのである。
またその一方で、レイ・ハリーハウゼン (Ray Harryhausen) のダイナメーション (Dynamation) による造形のメデューサ (Medusa) は映画『タイタンの戦い (Clash Of The Titans』 [デズモンド・デイヴィス (Desmond Davis) 監督作品 1981年制作] に登場するが、その肢体は蛇身である毛髪の描写を半ば放棄したかの様に思える。何故ならば、そこに登場する彼女は半人半蛇 (Half Man Half Snake) の、ラミア (Lamia) の様な肢体であるのだから。
そして、次の様な事を考えないでもない。かつての映像技術には彼女の描写には限界があった。
では、最新の映像技術ではどうだろうか、と。
そう謂って、先の映画『タイタンの戦い (Clash Of The Titans』のリメイク作である映画『タイタンの戦い (Clash Of The Titans』 [ルイ・レテリエ (Louis Leterrier) 監督作品 2010年制作] に於けるメデューサ (Medusa) [演:ナタリア・ヴォディアノヴァ (Natalia Vodianova)] を観てみても、何故だか、ぼくには納得出来ないモノがある。
もしかしたら、[女性の] 毛髪と謂うモノに対する認識に対して、それらの作品やそれの制作に拘った人物達と、ぼくとがまったくもって異なる観点を抱いているからなのぢゃあないだろうか、そんな気さえするのだ。
そしてもしかしたら、それは白人女性の毛髪と日本人女性の毛髪、そしてそこから起因する文化上の差異から引き起こされているのではないか、そんな事までかんがえが至ってしまう。
例えば、黄金色に輝く緩やかな曲線が放つ美と、黒色のするどい直線のみがたたえる美と、その違いである。そして、この1文に於ける「美」と謂う語句を「奇」とか「妖」とか「怖」とかに置換して読んでみる、そこから受ける印象の差異を考える事なのである。
と、謂うのは、こんな事をぼくは考えているからだ。
妖怪二口女 (Futakuchi-onna : Two-mouthed Woman) [『絵本百物語 (Ehon Hyaku Monogatari : Picture Book Of A Hundred Stories)』 [桃山人 (To Sanjin) 著 1841年刊行] の、主体的に自在に蠢く触手の様な黒髪は、なんら恐怖を生じせしめない。そこにあるのはつまみ喰い ( Steal A Taste) の表徴であるだけなのだから。
その一方で、妖怪濡女 (Nure-onna : Wet Woman) [画集『画図百鬼夜行 (Gazu Hyakki Yagyo : The Illustrated Night Parade Of A Hundred Demons)』 [鳥山石燕 (Toriyama Sekien) 作・画 1776年刊行] の、水に濡れ重々しいばかりに黒く蠢く髪は、なぜだか怖い。それがべっとりとぼくの肌に触れればさらに怖い。それは何故なのか。
そして、楳図かずお (Kazuo Umezu) のマンガ『へび少女 (Hebi Shojyo : A Snake Girl)』 [Ultraman) 』 [1966 週刊少女フレンド連載] は、どう考えてもあり得ない事があり得てしまうのに、荒唐無稽であるのにも拘らず、何故、ああも怖いのか。
その理由をじっくりと考えてみる。
そして、その反証として、蛇身と化した毛髪の、あやふやな存在が明らかになる様な気が、ぼくにはするのだ。
次回は「さ」。
附記:
それだから逆説的に、今後更なる映像技術の発展の結果、毛髪の1条1条を蛇 (Snake) の様に蠢かす事が出来たとしても、ぼくはそこに恐怖をみいだす事は決してないのではないか、と思うのだ。
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