2022.05.03.08.45
なんども読んだ。読まされたのかもしれない。絵本 (Picture Book) で、学年誌 (Grade Magazine) で、そして教科書 (School Book) で。その度にいやなおもいをする。解消される事もないし、解決が呈示されるわけでもない。
おさない時はまだよかった。
「ごん、かわいそう (Poor Gon, You Are)」
「へいじゅうのばかぁ (Heiju, You're Fool)」[本来、兵十 (Hyoju) と読むべきその名称は、ぼくの幼年時代には既にその表記は兵十 (Heiju) と発音される事となっていた。]
それでよかった。それがすべてを代弁してくれた。ぼくのなかにあるわだかまりがそんなことばで霧散されることは決してない。でも、これを読ませたモノはそれで納得してくれた。
一期一会 (Once-in-a-lifetime Opportunity) の書物ならばそれでいい。
しかし、冒頭に綴った様に、何度となく再会する。再会させられる。
そして、以前とおなじようにおもう。おなじように感ずる。しかも、後遺症 (After Affect) はさほどかわらない。あいかわらず、納得のいかない、未解決のままなのである。
だが、おなじ様な発露だけではだれも許してくれない。
「かわいそう (Poor)」や「ばかぁ (Fool)」のつづき、もしくはその掘り下げを強要される。
だから、しようがない。いやいやに、へどもどに、「かわいそう (Poor)」や「ばかぁ (Fool)」に代わる、他の語句をもちいて表現してその場を凌いでしまう。本人には、その自覚はあり、それらの語句では納得出来てはいない。
それでも、そんなその場凌ぎで大概のモノは納得してしまうのだ。
教育というものは所詮、その程度の事なのだ。ばかなはなしである。
そして無反省にそれを反復させるのだ。
童話『ごん狐 (Gon, The Little Fox)』 [新美南吉 (Niimi Nankichi) 赤い鳥 (Akai tori) 復刊3巻1月号 (Reissue Vol.3 January) 1932年掲載] を、音楽的な視点で眺めれば、ロンド形式 (Rondo) なのかもしれない。
6章にわけられたその物語は、どの章もおなじ様な構造、おなじ様な手順で語られている。
兵十 (Hyoju) がいる。彼の言動が語られる。それを凝視めるごん (Gon) の視線がある。その狐 (Fox) は彼の言動から内省をする。そして、その内省から得られた考察から狐 (Fox) の新たなる行動が開始される。
次の章では、その行動がもたらした結果と、それに関する兵十 (Hyoju) の言動が新たに語られるのだ。
その繰り返しである。
狐 (Fox) は彼の言動を監視し、そこから得られた推察が次の狐 (Fox) の行動への動機となる。だけれども、彼がそれを知る事はない。
彼がそれを知るのは、物語が終る時、すなわち、狐 (Fox) の死によって、である。
ぼく達の中に、煮凝りの様 (Like Jerried Fish) に遺されるいやな感じは、狐 (Fox) の死が冤罪 (Miscarriage Of Justice) であるからだ。しかもそれは不慮の事故の様に装っている様にもみえる。作者、新美南吉 (Niimi Nankichi) は周到に自己の責任を回避しようとしている様な面持ちすら、そこに感ずる。
例えば、狐 (Fox) の死が自らの意思によってもたらされたモノであったのならば、まだ、ぼく達には素直にその物語を受容する余地はある筈なのだ。
『玉虫厨子 (Tamamushi Shrine)』 [747年作] に描かれている『捨身飼虎図 (Shashin Shiko : The Bodhisattva And The Hungry Tiger)』の逸話の様な、一般的には法話『兎の布施 (The Rabbit In The Moon)』として知られる、『今昔物語集 (Konjaku Monogatarishu : Anthology Of Tales From The Past』 [11〜13世紀成立] のなかの説話『獣行菩薩道兎焼身語 (How The Three Beasts Practiced The Way Of The Bodhisattva And The Rabbit Roasted Himself)』 [巻5第13話 (Chapter 5-13)] の様な、自らを屠る事によって他者の救済を願う様な行為であったとしたら。
だから、敢えて謂えば、童話『ごん狐 (Gon, The Little Fox)』とは、逸話『捨身飼虎図 (Shashin Shiko : The Bodhisattva And The Hungry Tiger)』での虎 (Tiger) の視点、もしくは説話『獣行菩薩道兎焼身語 (How The Three Beasts Practiced The Way Of The Bodhisattva And The Rabbit Roasted Himself)』での帝釈天 (Sakra) の視点で、その狐 (Fox) の行動を眺める様なモノなのかもしれない。
嗚呼、順番が逆になった。
この童話は決して狐 (Fox) が主人公の物語ではない。彼、兵十 (Hyoju) の物語なのである。
[拙稿を綴る為に、何十年ぶりにか、再読してみた。物語の結末は嫌でも憶えている。だけれども、その逆、発端はいつも朧げだ。読み始めて、こんなはなしだったかしらん、こんなかたりくちだったのかしらん、とおもいつつ先へとすすめると、不意に不鮮明だったこの物語が豊穣な色彩に抱擁される瞬間に出逢ってしまう。それは「兵十だな (It's Hyoju.)」と謂う狐 (Fox) の発言なのだ。匿名の物語である筈のこの童話 (Fairy Tale) が不意に記名の物語、ある特定の人物を語る小説へと浮上するのが、この瞬間なのである。
この童話 (Fairy Tale) は新美南吉 (Niimi Nankichi) への、茂平 (Mohei) からの聴き語りであると謂う設定となっている。新美南吉 (Niimi Nankichi) は作者と謂う地位を放棄している。茂平 (Mohei) もおそらく匿名であろう。童話 (Fairy Tale) の舞台であるその村の住民達も。そして、勿論、狐 (Fox) の名称、ごん (Gon) も。だけれども匿名のその狐 (Fox) と関与する兵十 (Hyoju) と謂う人物だけが妙な記名性を獲得している様に、ぼくには思える。童話の中で綴られるのは、彼の言動、しかもそれは狐 (Fox) の視点を介在してのモノであるのにも関わらずに。だから逆に謂えば、兵十 (Hyoju) と謂う存在もしくは記名が存するが故に、この童話 (Fairy Tale) は、一般的な物語、普遍的な物語になり損なっている様におもえてしまう。そして、それが為に、逆説的に、不思議な存在感を獲得してしまっている様に、思えて仕方がないのだ。]
自身の周囲に時折、不可解な事象が出来している。それに否応なく自身が左右されてしまう。愉快なことがない訳でもないが、不合理なことの方がはるかに多い。それ故に、どこかのだれかの嫉みや憎しみがそこにあるのやもしれぬ。そうか、やっぱりあいつか、あいつのせいだ。だが、そのあいつは死んでしまった。おれが殺したのだ。しかも、あいつの行動にあったのは善意だけだったのだ。
童話『ごん狐 (Gon, The Little Fox)』とは、そんな解読をしなければならない物語、そんな解読をも迫られる物語なのである。
作品名として掲げられてもいるごん (Gon) と謂う狐 (Fox) はその為の媒介、装置なのだ。
だから、先に挙げた例示に準じて述べるのならば、その童話 (Fairy Tale) は、逸話『捨身飼虎図 (Shashin Shiko : The Bodhisattva And The Hungry Tiger)』を身を挺する薩埵太子 (Prince Sattva) の物語ではなく、供された薩埵太子 (Prince Sattva) の肉体を喰む虎 (Tiger) の物語として読む事であり、説話『獣行菩薩道兎焼身語 (How The Three Beasts Practiced The Way Of The Bodhisattva And The Rabbit Roasted Himself)』を焼身する兎 (Rabbit) の物語ではなく、死んだ彼の精神を月 (The Moon) へと昇天させる帝釈天 (Sakra) の物語として読む事なのである。
だが、薩埵太子 (Prince Sattva) や兎 (Rabbit) が自らを生贄としておのれに捧げたその理由は、虎 (Tiger) にも帝釈天 (Sakra) にも自認はあるのだ。薩埵太子 (Prince Sattva) や兎 (Rabbit) が死んだのは、虎 (Tiger) も帝釈天 (Sakra) も自身と謂う存在があればこそである、そう認識して筈である。
兵十 (Hyoju) が虎 (Tiger) や帝釈天 (Sakra) と異なるのはそこなのである。狐 (Fox) に死を招いたのは、自身である。火縄銃 (Matchlock) を撃った。しかし、自身が存するが故をもって、狐 (Fox) が死ぬべき宿命にあるとはその時が来るまではおもいも寄らない。
兵十 (Hyoju) の最後の発言「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは (Gon, It's By You, Give Me Chesnuts Every Time) 」とは、狐 (Fox) にとっての自身と謂う存在、その意義をおもいしらされたが故のモノなのである。
今後、彼はそれをひきうけていきていかなければならない。
虎 (Tiger) ならば、その骨まで彼の肉体の一切をむしゃぶり喰い尽くす事が出来る。 帝釈天 (Sakra) ならばその精神を月 (The Moon) まで誘う事が出来る。そして実際、彼等はそうする。その1匹、その1人にとっては造作もない事なのだから。
だが兵十 (Hyoju) にそれが出来るのであろうか。そのいずれが可能なのだろうか。
ぼく達の読後感におもくのしかかるのも、おそらく、それなのである。
しかも、ぼく達にはそれを投棄するすべも背負うすべもないのである。
ぼく達は虎 (Tiger) でも帝釈天 (Sakra) でもない。兵十 (Hyoju) の方が遥かに近い。否、もしかすると彼よりも劣っているのかもしれない。
しかも兵十 (Hyoju) と同様に、おのれが撃ち殺した狐 (Fox) の死骸が今、めのまえにある。
だからこそ、いやなのだ。そう考えれば考える程。きっと、そうなのだ。

小原古邨 (Ohara Koson) 画『月夜の池辺の狐 (Fox By The Moonlit Water)』[1928~1930年作]
次回は「ね」。
附記 1. :
順当? な解釈として、狐 (Fox) の視点で語れば次の様にその童話 (Fairy Tale) は読解できるのだろう。
上に綴った様に、自身の行動の成果を確認するかの様に、狐 (Fox) は彼の言動を監視する。その際の狐 (Fox) の内省を読めば、狐 (Fox) の底意は、自身の行動に対する報酬や好評を希求しているのが解る。彼の言動がそれを充足させるモノであれば良いのだが、実際にはそう巧くは進展しない。彼が不理解を呈示する場合もあれば、彼に不利益を提供する場合もある。だからこそ、狐 (Fox) は次なる行動を開始する事になる。
そして、あるモノ達はこう指摘するだろう。
自身の善意、善行に対し、報酬を求めてはならない、と。
さらにこう謂うのかもしれない。
それを求めている限り、自身の本願は決して達成されないのだ、と。
それが故に、この狐 (Fox) は死なねばならぬのだ、と。
そうかもしれない。
と、同時に、こうも謂うのかもしれない。
それだからこそ、死の直前、自身の行為を彼が理解してくれた点をもって、狐 (Fox) は救済されたのだ。成就したのだから。土間にある栗 (Chestnut) が兵十 (Hyoju) の許に遺された様に、自身の彼へのおもいもまた、彼の手許に遺されたのだ [めでたしめでたし]、と。
附記 2. :
この童話 (Fairy Tale) は以前にこちらで述懐しているが、拙稿はそこのつづきとはなっていない。
了解を願う次第である。
おさない時はまだよかった。
「ごん、かわいそう (Poor Gon, You Are)」
「へいじゅうのばかぁ (Heiju, You're Fool)」[本来、兵十 (Hyoju) と読むべきその名称は、ぼくの幼年時代には既にその表記は兵十 (Heiju) と発音される事となっていた。]
それでよかった。それがすべてを代弁してくれた。ぼくのなかにあるわだかまりがそんなことばで霧散されることは決してない。でも、これを読ませたモノはそれで納得してくれた。
一期一会 (Once-in-a-lifetime Opportunity) の書物ならばそれでいい。
しかし、冒頭に綴った様に、何度となく再会する。再会させられる。
そして、以前とおなじようにおもう。おなじように感ずる。しかも、後遺症 (After Affect) はさほどかわらない。あいかわらず、納得のいかない、未解決のままなのである。
だが、おなじ様な発露だけではだれも許してくれない。
「かわいそう (Poor)」や「ばかぁ (Fool)」のつづき、もしくはその掘り下げを強要される。
だから、しようがない。いやいやに、へどもどに、「かわいそう (Poor)」や「ばかぁ (Fool)」に代わる、他の語句をもちいて表現してその場を凌いでしまう。本人には、その自覚はあり、それらの語句では納得出来てはいない。
それでも、そんなその場凌ぎで大概のモノは納得してしまうのだ。
教育というものは所詮、その程度の事なのだ。ばかなはなしである。
そして無反省にそれを反復させるのだ。
童話『ごん狐 (Gon, The Little Fox)』 [新美南吉 (Niimi Nankichi) 赤い鳥 (Akai tori) 復刊3巻1月号 (Reissue Vol.3 January) 1932年掲載] を、音楽的な視点で眺めれば、ロンド形式 (Rondo) なのかもしれない。
6章にわけられたその物語は、どの章もおなじ様な構造、おなじ様な手順で語られている。
兵十 (Hyoju) がいる。彼の言動が語られる。それを凝視めるごん (Gon) の視線がある。その狐 (Fox) は彼の言動から内省をする。そして、その内省から得られた考察から狐 (Fox) の新たなる行動が開始される。
次の章では、その行動がもたらした結果と、それに関する兵十 (Hyoju) の言動が新たに語られるのだ。
その繰り返しである。
狐 (Fox) は彼の言動を監視し、そこから得られた推察が次の狐 (Fox) の行動への動機となる。だけれども、彼がそれを知る事はない。
彼がそれを知るのは、物語が終る時、すなわち、狐 (Fox) の死によって、である。
ぼく達の中に、煮凝りの様 (Like Jerried Fish) に遺されるいやな感じは、狐 (Fox) の死が冤罪 (Miscarriage Of Justice) であるからだ。しかもそれは不慮の事故の様に装っている様にもみえる。作者、新美南吉 (Niimi Nankichi) は周到に自己の責任を回避しようとしている様な面持ちすら、そこに感ずる。
例えば、狐 (Fox) の死が自らの意思によってもたらされたモノであったのならば、まだ、ぼく達には素直にその物語を受容する余地はある筈なのだ。
『玉虫厨子 (Tamamushi Shrine)』 [747年作] に描かれている『捨身飼虎図 (Shashin Shiko : The Bodhisattva And The Hungry Tiger)』の逸話の様な、一般的には法話『兎の布施 (The Rabbit In The Moon)』として知られる、『今昔物語集 (Konjaku Monogatarishu : Anthology Of Tales From The Past』 [11〜13世紀成立] のなかの説話『獣行菩薩道兎焼身語 (How The Three Beasts Practiced The Way Of The Bodhisattva And The Rabbit Roasted Himself)』 [巻5第13話 (Chapter 5-13)] の様な、自らを屠る事によって他者の救済を願う様な行為であったとしたら。
だから、敢えて謂えば、童話『ごん狐 (Gon, The Little Fox)』とは、逸話『捨身飼虎図 (Shashin Shiko : The Bodhisattva And The Hungry Tiger)』での虎 (Tiger) の視点、もしくは説話『獣行菩薩道兎焼身語 (How The Three Beasts Practiced The Way Of The Bodhisattva And The Rabbit Roasted Himself)』での帝釈天 (Sakra) の視点で、その狐 (Fox) の行動を眺める様なモノなのかもしれない。
嗚呼、順番が逆になった。
この童話は決して狐 (Fox) が主人公の物語ではない。彼、兵十 (Hyoju) の物語なのである。
[拙稿を綴る為に、何十年ぶりにか、再読してみた。物語の結末は嫌でも憶えている。だけれども、その逆、発端はいつも朧げだ。読み始めて、こんなはなしだったかしらん、こんなかたりくちだったのかしらん、とおもいつつ先へとすすめると、不意に不鮮明だったこの物語が豊穣な色彩に抱擁される瞬間に出逢ってしまう。それは「兵十だな (It's Hyoju.)」と謂う狐 (Fox) の発言なのだ。匿名の物語である筈のこの童話 (Fairy Tale) が不意に記名の物語、ある特定の人物を語る小説へと浮上するのが、この瞬間なのである。
この童話 (Fairy Tale) は新美南吉 (Niimi Nankichi) への、茂平 (Mohei) からの聴き語りであると謂う設定となっている。新美南吉 (Niimi Nankichi) は作者と謂う地位を放棄している。茂平 (Mohei) もおそらく匿名であろう。童話 (Fairy Tale) の舞台であるその村の住民達も。そして、勿論、狐 (Fox) の名称、ごん (Gon) も。だけれども匿名のその狐 (Fox) と関与する兵十 (Hyoju) と謂う人物だけが妙な記名性を獲得している様に、ぼくには思える。童話の中で綴られるのは、彼の言動、しかもそれは狐 (Fox) の視点を介在してのモノであるのにも関わらずに。だから逆に謂えば、兵十 (Hyoju) と謂う存在もしくは記名が存するが故に、この童話 (Fairy Tale) は、一般的な物語、普遍的な物語になり損なっている様におもえてしまう。そして、それが為に、逆説的に、不思議な存在感を獲得してしまっている様に、思えて仕方がないのだ。]
自身の周囲に時折、不可解な事象が出来している。それに否応なく自身が左右されてしまう。愉快なことがない訳でもないが、不合理なことの方がはるかに多い。それ故に、どこかのだれかの嫉みや憎しみがそこにあるのやもしれぬ。そうか、やっぱりあいつか、あいつのせいだ。だが、そのあいつは死んでしまった。おれが殺したのだ。しかも、あいつの行動にあったのは善意だけだったのだ。
童話『ごん狐 (Gon, The Little Fox)』とは、そんな解読をしなければならない物語、そんな解読をも迫られる物語なのである。
作品名として掲げられてもいるごん (Gon) と謂う狐 (Fox) はその為の媒介、装置なのだ。
だから、先に挙げた例示に準じて述べるのならば、その童話 (Fairy Tale) は、逸話『捨身飼虎図 (Shashin Shiko : The Bodhisattva And The Hungry Tiger)』を身を挺する薩埵太子 (Prince Sattva) の物語ではなく、供された薩埵太子 (Prince Sattva) の肉体を喰む虎 (Tiger) の物語として読む事であり、説話『獣行菩薩道兎焼身語 (How The Three Beasts Practiced The Way Of The Bodhisattva And The Rabbit Roasted Himself)』を焼身する兎 (Rabbit) の物語ではなく、死んだ彼の精神を月 (The Moon) へと昇天させる帝釈天 (Sakra) の物語として読む事なのである。
だが、薩埵太子 (Prince Sattva) や兎 (Rabbit) が自らを生贄としておのれに捧げたその理由は、虎 (Tiger) にも帝釈天 (Sakra) にも自認はあるのだ。薩埵太子 (Prince Sattva) や兎 (Rabbit) が死んだのは、虎 (Tiger) も帝釈天 (Sakra) も自身と謂う存在があればこそである、そう認識して筈である。
兵十 (Hyoju) が虎 (Tiger) や帝釈天 (Sakra) と異なるのはそこなのである。狐 (Fox) に死を招いたのは、自身である。火縄銃 (Matchlock) を撃った。しかし、自身が存するが故をもって、狐 (Fox) が死ぬべき宿命にあるとはその時が来るまではおもいも寄らない。
兵十 (Hyoju) の最後の発言「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは (Gon, It's By You, Give Me Chesnuts Every Time) 」とは、狐 (Fox) にとっての自身と謂う存在、その意義をおもいしらされたが故のモノなのである。
今後、彼はそれをひきうけていきていかなければならない。
虎 (Tiger) ならば、その骨まで彼の肉体の一切をむしゃぶり喰い尽くす事が出来る。 帝釈天 (Sakra) ならばその精神を月 (The Moon) まで誘う事が出来る。そして実際、彼等はそうする。その1匹、その1人にとっては造作もない事なのだから。
だが兵十 (Hyoju) にそれが出来るのであろうか。そのいずれが可能なのだろうか。
ぼく達の読後感におもくのしかかるのも、おそらく、それなのである。
しかも、ぼく達にはそれを投棄するすべも背負うすべもないのである。
ぼく達は虎 (Tiger) でも帝釈天 (Sakra) でもない。兵十 (Hyoju) の方が遥かに近い。否、もしかすると彼よりも劣っているのかもしれない。
しかも兵十 (Hyoju) と同様に、おのれが撃ち殺した狐 (Fox) の死骸が今、めのまえにある。
だからこそ、いやなのだ。そう考えれば考える程。きっと、そうなのだ。

小原古邨 (Ohara Koson) 画『月夜の池辺の狐 (Fox By The Moonlit Water)』[1928~1930年作]
次回は「ね」。
附記 1. :
順当? な解釈として、狐 (Fox) の視点で語れば次の様にその童話 (Fairy Tale) は読解できるのだろう。
上に綴った様に、自身の行動の成果を確認するかの様に、狐 (Fox) は彼の言動を監視する。その際の狐 (Fox) の内省を読めば、狐 (Fox) の底意は、自身の行動に対する報酬や好評を希求しているのが解る。彼の言動がそれを充足させるモノであれば良いのだが、実際にはそう巧くは進展しない。彼が不理解を呈示する場合もあれば、彼に不利益を提供する場合もある。だからこそ、狐 (Fox) は次なる行動を開始する事になる。
そして、あるモノ達はこう指摘するだろう。
自身の善意、善行に対し、報酬を求めてはならない、と。
さらにこう謂うのかもしれない。
それを求めている限り、自身の本願は決して達成されないのだ、と。
それが故に、この狐 (Fox) は死なねばならぬのだ、と。
そうかもしれない。
と、同時に、こうも謂うのかもしれない。
それだからこそ、死の直前、自身の行為を彼が理解してくれた点をもって、狐 (Fox) は救済されたのだ。成就したのだから。土間にある栗 (Chestnut) が兵十 (Hyoju) の許に遺された様に、自身の彼へのおもいもまた、彼の手許に遺されたのだ [めでたしめでたし]、と。
附記 2. :
この童話 (Fairy Tale) は以前にこちらで述懐しているが、拙稿はそこのつづきとはなっていない。
了解を願う次第である。
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