2022.04.12.09.03
「サドはサディスムにおいてシュルレアリストである。 (Sade est surréaliste dans le sadisme)」
評論書『シュールレアリスム宣言 (Manifeste du surrealisme)』 [アンドレ・ブルトン (Andre Breton) 著 巌谷國士 (Kunio Iwaya) 訳 1924年刊行] に於いて、著者が列挙するシュルレアリスム (Surreralisme) の錚々たる先駆者達に並んで、マルキ・ド・サド (Marquis de Sade) はそう賞賛されている。

そして、その傍証であるかの様な佇まいで、絵画『マルキドサドの架空の肖像画 (The Imaginary Portrait Of The Marquis De Sade)』[マン・レイ (Man Ray) 作 1938年制作 個人蔵 (Private Collection)] は存在している。
城壁の様な肌で描かれた、マルキ・ド・サド (Marquis de Sade) の彼方、画面右側に描かれているのは、バスティーユ牢獄 (Bastille Saint-Antoine) である。
彼は1784年から1789年の間、そこに収監されており、そこで閨房作家たる彼の処女作、小説『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校 (Les Cent Vingt Journées de Sodome ou l’École du libertinage)』 [マルキ・ド・サド (Marquis de Sade) 作 澁澤龍彦 (Tatsuhiko Shibusawa) 訳 1789年執筆 1931年刊行] が執筆されたのだ。
バスティーユ牢獄 (Bastille Saint-Antoine) と謂えば、仏革命 (Revolution francaise) [1789年から1795年] だ。
ぼくの中学歴史 (Learning History In Junior High-school) の教科書には、その歴史上の大事件の挿絵として、バスティーユ襲撃 (Prise de la Bastille) [1789年7月14日] を描く図版が掲載されていた。その図版は絵画『バスティーユ牢獄の襲撃 (Prise de la Bastille)』 [ジャン=ピエール・ウエル (Jean-Pierre Houel) 作 1789年制作] だと記憶している。
そして、仏革命 (Revolution francaise) 前夜を舞台としたマンガ『ベルサイユのばら (La Rose de Versailles)』 [池田理代子 (Riyoko Ikeda) 作 1972年から1973年 隔週刊雑誌『マーガレット』連載] では、そこでの戦闘が物語のクライマックスとなっている。
パリ (Paris) の民衆がその監獄を襲撃したのが、 (Revolution francaise) を勃発させたのである。
彼等がそこを襲撃した目的は、そこに収監されている多くの政治犯の解放が目的だったと謂う。
だから、視点を移せば、マルキ・ド・サド (Marquis de Sade) は自身が収監されている牢獄の中から、その事件を目撃し得たのであろうし、と同時に、政治犯のひとりとして解放される可能性があったのかもしれない。
だが、歴史はそう都合よく物語を執筆してはくれない。
彼は、襲撃直前に、そこに結集しつつある群衆を扇動しようとは試みたモノの、その10日前の7月4日、シャラントン精神病院 (Hopitaux de Saint-Maurice) へと移送されてしまうのだ。また、その際に、彼の私物一切がバスティーユ牢獄 (Bastille Saint-Antoine) に置き去りにされてしまった結果、小説の草稿はマルキ・ド・サド (Marquis de Sade) から喪われてしまい、彼がそれをみる事は2度とない [草稿が発見されるのは彼の死後、そしてそれが刊行されるのは1世紀半もの後、1931年になってからである]。
また、一方で、バスティーユ襲撃 (Prise de la Bastille) を成した民衆達がバスティーユ牢獄 (Bastille Saint-Antoine) の解放後に認めたのは、僅か7人の徒刑囚達ばかりであった。
つまり、襲撃本来の目的を達成する事は叶わなかった、と謂う事になる。
[仮にその当日、未だ彼がそこに収監されていた場合は、彼を8人目の徒刑囚と看做したのだろうか。それとも、唯一の政治犯と看做したのだろうか。彼がそこに収監される事となった彼の犯罪と、政治犯と謂う語句の定義次第の様な気がするが、どうなのだろうか? つまり、「自由、平等、友愛 (Liberte, Egalite, Fraternite)」に於ける「自由 (Liberte)」は一体、何を指し示すのか、と謂う意味に於いて、である。]
しかし、にも関わらずに、仏革命 (Revolution francaise) が成就したのは誰もが知る通りである。
そして、草稿が喪われてしまったが故に、それがその後のマルキ・ド・サド (Marquis de Sade) の執筆活動の動機ともなったのだ。小説『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え (l'Histoire de Juliette ou les Prosperites du vice)』 [マルキ・ド・サド (Marquis de Sade) 作 澁澤龍彦 (Tatsuhiko Shibusawa) 訳 1797年刊行] に代表される幾つもの彼の閨房小説の誕生は、小説『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校 (Les Cent Vingt Journées de Sodome ou l’École du libertinage)』の草稿の紛失にこそある、とも謂えるのだ。
仮に、シャラントン精神病院 (Hopitaux de Saint-Maurice) への移送が彼の草稿を伴ってのモノだしたら、彼が執筆し得た小説はその草稿のみであったかもしれず、と同時に、その草稿は彼の手許に永遠に死蔵される事となったのかもしれないのである。
冒頭に掲げた絵画『マルキドサドの架空の肖像画 (The Imaginary Portrait Of The Marquis De Sade)』に再び戻ってみるのならば、バスティーユ牢獄 (Bastille Saint-Antoine) こそ閨房作家たるマルキ・ド・サド (Marquis de Sade) 揺籃の地とも謂えるのだ。
次回は「ゆ」。
附記 1. :
バスティーユ襲撃 (Prise de la Bastille) の一報を聴いたルイ16世 (Louis XVI) の問い「暴動か? (C'est une revolte?)」に対して、ラ・ロシュフコー=リアンクール公爵 (Francois Alexandre Frederic, duc de La Rochefoucauld-Liancourt) は「いいえ陛下、これは暴動ではありません、革命でございます (Non sire, ce n'est pas une revolte, c'est une revolution.)」と解答したと謂う。
ぼく自身の観点から謂えば、仏革命 (Revolution francaise) の発端は、バスティーユ襲撃 (Prise de la Bastille) にあるのではなく、その報告時に際するラ・ロシュフコー=リアンクール公爵 (Francois Alexandre Frederic, duc de La Rochefoucauld-Liancourt) のこの発言にこそあるのだとおもう。この発言をもって始めて、暴動 (Revolte) は革命 (Revolution) へと昇格し得たのである。
と、謂うのは、体制に与するモノは、なにがあろうとも、自身の属する体制を打破しようとする勢力を、自身、すなわち、その体制と同等のモノと認めるべきではないからだ。その勢力が自身よりも遥かに巨大で凌駕する存在であろうとも、である。つまり、彼等の行動とその成果をあくまでも犯罪として処断すべきなのである。彼等の行動や言論に、正当性や政治的主張をみいだしてはならない、彼等は犯罪者である筈なのだ。
例えば、二・二六事件 (February 26 Incident) [1936年] が未遂に終わったのは、維新 (Revitalization) を主張する彼等をあくまでも叛乱軍 (Rebellion Army) として軍当局が鎮圧したからである。
[だから、アメリカ同時多発テロ事件 (September 11 Attacks) [2001年7月11日] に際し、ジョージ・W・ブッシュ (George W. Bush) 米合衆国大統領 (President 0f The United States) はテロとの戦い (Global War On Terrorism) と表明したが、それはぼくの視点からすれば、事件の首謀者と看做されているアルカイダ (Al-qaeda) と米合衆国 (The United States Of America) を対等な対立関係と評価する様なモノにみえるのだ。つまり、彼のその発言をもって、アルカイダ (Al-qaeda) は国家、もしくはそれに相応する勢力へと昇格した、 ... と思えるのだが。]
附記 2. :
だから、バスティーユ襲撃 (Prise de la Bastille) とそれによって発生した (Revolution francaise) と同じ様なモノを、ぼくはドイツ統一 (Deutsche Wiedervereinigung) [1990年] とそのはじまりであるベルリンの壁崩壊 (Mauerfall) [1989年] にみてしまうのだ。ベルリンの壁 (Berliner Mauer) [1961年から1989年] が物理的に崩壊したのは、ギュンター・シャボフスキー (Gunter Schabowski) ベルリン地区委員会第一書記 (Vorsitzender der Bezirkseinsatzleitung Berlin) の失言がその契機だからである。
附記 3. :
マルキ・ド・サド (Marquis de Sade) にとってバスティーユ牢獄 (Bastille Saint-Antoine) が揺籃の地であったのならば、壁で包囲されていた西ベルリン (West-Berlin) [1949年から1990年] をこそ揺籃の地とするアーティスト達もまた、数多くいるのだ [ここでは綴らない]。
評論書『シュールレアリスム宣言 (Manifeste du surrealisme)』 [アンドレ・ブルトン (Andre Breton) 著 巌谷國士 (Kunio Iwaya) 訳 1924年刊行] に於いて、著者が列挙するシュルレアリスム (Surreralisme) の錚々たる先駆者達に並んで、マルキ・ド・サド (Marquis de Sade) はそう賞賛されている。

そして、その傍証であるかの様な佇まいで、絵画『マルキドサドの架空の肖像画 (The Imaginary Portrait Of The Marquis De Sade)』[マン・レイ (Man Ray) 作 1938年制作 個人蔵 (Private Collection)] は存在している。
城壁の様な肌で描かれた、マルキ・ド・サド (Marquis de Sade) の彼方、画面右側に描かれているのは、バスティーユ牢獄 (Bastille Saint-Antoine) である。
彼は1784年から1789年の間、そこに収監されており、そこで閨房作家たる彼の処女作、小説『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校 (Les Cent Vingt Journées de Sodome ou l’École du libertinage)』 [マルキ・ド・サド (Marquis de Sade) 作 澁澤龍彦 (Tatsuhiko Shibusawa) 訳 1789年執筆 1931年刊行] が執筆されたのだ。
バスティーユ牢獄 (Bastille Saint-Antoine) と謂えば、仏革命 (Revolution francaise) [1789年から1795年] だ。
ぼくの中学歴史 (Learning History In Junior High-school) の教科書には、その歴史上の大事件の挿絵として、バスティーユ襲撃 (Prise de la Bastille) [1789年7月14日] を描く図版が掲載されていた。その図版は絵画『バスティーユ牢獄の襲撃 (Prise de la Bastille)』 [ジャン=ピエール・ウエル (Jean-Pierre Houel) 作 1789年制作] だと記憶している。
そして、仏革命 (Revolution francaise) 前夜を舞台としたマンガ『ベルサイユのばら (La Rose de Versailles)』 [池田理代子 (Riyoko Ikeda) 作 1972年から1973年 隔週刊雑誌『マーガレット』連載] では、そこでの戦闘が物語のクライマックスとなっている。
パリ (Paris) の民衆がその監獄を襲撃したのが、 (Revolution francaise) を勃発させたのである。
彼等がそこを襲撃した目的は、そこに収監されている多くの政治犯の解放が目的だったと謂う。
だから、視点を移せば、マルキ・ド・サド (Marquis de Sade) は自身が収監されている牢獄の中から、その事件を目撃し得たのであろうし、と同時に、政治犯のひとりとして解放される可能性があったのかもしれない。
だが、歴史はそう都合よく物語を執筆してはくれない。
彼は、襲撃直前に、そこに結集しつつある群衆を扇動しようとは試みたモノの、その10日前の7月4日、シャラントン精神病院 (Hopitaux de Saint-Maurice) へと移送されてしまうのだ。また、その際に、彼の私物一切がバスティーユ牢獄 (Bastille Saint-Antoine) に置き去りにされてしまった結果、小説の草稿はマルキ・ド・サド (Marquis de Sade) から喪われてしまい、彼がそれをみる事は2度とない [草稿が発見されるのは彼の死後、そしてそれが刊行されるのは1世紀半もの後、1931年になってからである]。
また、一方で、バスティーユ襲撃 (Prise de la Bastille) を成した民衆達がバスティーユ牢獄 (Bastille Saint-Antoine) の解放後に認めたのは、僅か7人の徒刑囚達ばかりであった。
つまり、襲撃本来の目的を達成する事は叶わなかった、と謂う事になる。
[仮にその当日、未だ彼がそこに収監されていた場合は、彼を8人目の徒刑囚と看做したのだろうか。それとも、唯一の政治犯と看做したのだろうか。彼がそこに収監される事となった彼の犯罪と、政治犯と謂う語句の定義次第の様な気がするが、どうなのだろうか? つまり、「自由、平等、友愛 (Liberte, Egalite, Fraternite)」に於ける「自由 (Liberte)」は一体、何を指し示すのか、と謂う意味に於いて、である。]
しかし、にも関わらずに、仏革命 (Revolution francaise) が成就したのは誰もが知る通りである。
そして、草稿が喪われてしまったが故に、それがその後のマルキ・ド・サド (Marquis de Sade) の執筆活動の動機ともなったのだ。小説『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え (l'Histoire de Juliette ou les Prosperites du vice)』 [マルキ・ド・サド (Marquis de Sade) 作 澁澤龍彦 (Tatsuhiko Shibusawa) 訳 1797年刊行] に代表される幾つもの彼の閨房小説の誕生は、小説『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校 (Les Cent Vingt Journées de Sodome ou l’École du libertinage)』の草稿の紛失にこそある、とも謂えるのだ。
仮に、シャラントン精神病院 (Hopitaux de Saint-Maurice) への移送が彼の草稿を伴ってのモノだしたら、彼が執筆し得た小説はその草稿のみであったかもしれず、と同時に、その草稿は彼の手許に永遠に死蔵される事となったのかもしれないのである。
冒頭に掲げた絵画『マルキドサドの架空の肖像画 (The Imaginary Portrait Of The Marquis De Sade)』に再び戻ってみるのならば、バスティーユ牢獄 (Bastille Saint-Antoine) こそ閨房作家たるマルキ・ド・サド (Marquis de Sade) 揺籃の地とも謂えるのだ。
次回は「ゆ」。
附記 1. :
バスティーユ襲撃 (Prise de la Bastille) の一報を聴いたルイ16世 (Louis XVI) の問い「暴動か? (C'est une revolte?)」に対して、ラ・ロシュフコー=リアンクール公爵 (Francois Alexandre Frederic, duc de La Rochefoucauld-Liancourt) は「いいえ陛下、これは暴動ではありません、革命でございます (Non sire, ce n'est pas une revolte, c'est une revolution.)」と解答したと謂う。
ぼく自身の観点から謂えば、仏革命 (Revolution francaise) の発端は、バスティーユ襲撃 (Prise de la Bastille) にあるのではなく、その報告時に際するラ・ロシュフコー=リアンクール公爵 (Francois Alexandre Frederic, duc de La Rochefoucauld-Liancourt) のこの発言にこそあるのだとおもう。この発言をもって始めて、暴動 (Revolte) は革命 (Revolution) へと昇格し得たのである。
と、謂うのは、体制に与するモノは、なにがあろうとも、自身の属する体制を打破しようとする勢力を、自身、すなわち、その体制と同等のモノと認めるべきではないからだ。その勢力が自身よりも遥かに巨大で凌駕する存在であろうとも、である。つまり、彼等の行動とその成果をあくまでも犯罪として処断すべきなのである。彼等の行動や言論に、正当性や政治的主張をみいだしてはならない、彼等は犯罪者である筈なのだ。
例えば、二・二六事件 (February 26 Incident) [1936年] が未遂に終わったのは、維新 (Revitalization) を主張する彼等をあくまでも叛乱軍 (Rebellion Army) として軍当局が鎮圧したからである。
[だから、アメリカ同時多発テロ事件 (September 11 Attacks) [2001年7月11日] に際し、ジョージ・W・ブッシュ (George W. Bush) 米合衆国大統領 (President 0f The United States) はテロとの戦い (Global War On Terrorism) と表明したが、それはぼくの視点からすれば、事件の首謀者と看做されているアルカイダ (Al-qaeda) と米合衆国 (The United States Of America) を対等な対立関係と評価する様なモノにみえるのだ。つまり、彼のその発言をもって、アルカイダ (Al-qaeda) は国家、もしくはそれに相応する勢力へと昇格した、 ... と思えるのだが。]
附記 2. :
だから、バスティーユ襲撃 (Prise de la Bastille) とそれによって発生した (Revolution francaise) と同じ様なモノを、ぼくはドイツ統一 (Deutsche Wiedervereinigung) [1990年] とそのはじまりであるベルリンの壁崩壊 (Mauerfall) [1989年] にみてしまうのだ。ベルリンの壁 (Berliner Mauer) [1961年から1989年] が物理的に崩壊したのは、ギュンター・シャボフスキー (Gunter Schabowski) ベルリン地区委員会第一書記 (Vorsitzender der Bezirkseinsatzleitung Berlin) の失言がその契機だからである。
附記 3. :
マルキ・ド・サド (Marquis de Sade) にとってバスティーユ牢獄 (Bastille Saint-Antoine) が揺籃の地であったのならば、壁で包囲されていた西ベルリン (West-Berlin) [1949年から1990年] をこそ揺籃の地とするアーティスト達もまた、数多くいるのだ [ここでは綴らない]。
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