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2022.03.29.10.42

ちゃわんのなか

小泉八雲 (Lafcadio Hearn) の4作品を原作とする映画『怪談 (Kwaidan)』 [小林正樹 (Masaki Kobayashi) 監督作品 1965年制作] は4篇の物語でもって構成されている。その最終話、第4話『茶碗の中 (In A Cup Of Tea) 』が拙稿の主題である。
第4話は、他のみっつの物語とあきらかに違う。

ひとつは、他の3作と比べて極端に短い。だが、これは原作である4篇の、小泉八雲 (Lafcadio Hearn) の作品を比較すれば、致し方ない事でもある。つまり、原作自身が極端に短いのだ。
勿論、差異はその長さだけにあるのではない。

他の3作品は、時に一瞬、映像作品である事を忘れてしまった様に思われる。それはまるで舞台中継 (Televised Broadcast Of A Stage Performance) であるかの様であったり、描かれた絵画作品である筈の絵巻物 (Emakimono) の様でもあったりするのだ。だからその際、視点をちょいとずらせば、それは映画としての敗北宣言であるかの様にも思える時がある。ぼくがこの映画を観る度に、もやもやとした居心地の悪さを感ずるのはその為だ。しかも、たちの悪い事に、それ以外の点は只管、リアリズム (Realism) に徹しているのである。それは舞台中継 (Televised Broadcast Of A Stage Performance) の箇所も絵巻物 (Emakimono) の箇所も同様で、否、そうではない、もしかしたら、そこでは必要以上に、執拗にリアリズム (Realism) である事に厳格である様にも思える。その為にかえって、そこにある種の衝突が生じているのかもしれない。
だが、第4話は何故か、その様な執拗とも思える拘泥が希薄であるかの様にも思える。寧ろ、一般的な時代劇 (Jidaigeki) の話法に殉じている様にも思える。そして、それ故に、観ているぼく達は現実の世界に還って来る事が出来るのかもしれない。何故ならば、第4話を除く3篇は、現実にあるぼく達の生活とはある種の断絶した世界を描いているのだから。

そしてもうひとつ大切な差異を指摘しなければならない。

第4話を除く3篇には、そこに登場する怪異から発現する恐怖とは別に、もうひとつの感情が表出されている。哀しみである。怪異に襲われる人物達が抱く感情とはまったく別、怪異がそこに顕現する動機がそれであると謂っても良い。そして多くの怪気譚、恐怖譚ではそれが怨や恨とかたちを変える事になる筈のモノである。
[この3篇では怨や恨と生成されるそれ以前、すなわち哀しみのままとして存在し、それ故の怪異や恐怖である様に思われる。]
だけれども、第4話には哀しみと謂う動機は存在しない。
しかもその一方で、恐怖の裏返しである笑いが其処にあるのでもない [恐怖と笑いは常に表裏一体のモノである。恐怖譚はいつの間にやら滑稽譚に転ずる事は決して少なくはないし、その逆も同様である。小泉八雲 (Lafcadio Hearn) 作品を例に挙げれば小説『 (Mujina)』 [作品集『怪談 (Kwaidan)』 所収 1904年刊行] をその様な物語として評価出来るであろう。そこに顕れる怪異はその物語の当事者にとっては恐怖そのものではあるが、それを読むぼく達からみれば、彼の慌てふためく様は笑いの対称としか映らない]。
だから、ぼく達は第4話をどう評価すれば良いのか、どう理解すればいいのか、その基準が一切呈示されないまま、映画はそこで [文字通りに] 幕切れとなる。
そして、なんだかわけのわからないうやむやとした感情だけが遺されてしまう。

ある意味で、3篇の物語で必要以上に執拗に描写してきた世界観が、その短い最終話でもって、覆されてしまった様にも思わされる。
みかたによっては、あの3篇にある世界は既に喪われてしまった世界で2度とぼく達が取り戻せない様なものなのかもしれない。
ぼく達にあるのは第4話にある様な、不条理 (Absurde) 極まりない世界ばかりではないのか。そんな心象にもなってしまう。

images
そしてもしかしたら、その心象は、その物語に顕れる怪異の主体、式部平内 (Shikibu Heinai) を中谷昇 (Noboru Nakaya) が演じているからかもしれない [上掲画像はこちらから]。
ぼくの中では、この俳優には妖怪 (Yokai) ぬらりひょん (Nurarihyon) の様な、得体のしれなさ、つかみどころのなさと同居している様な認識がある。
と、謂うのは、ぼくはこの俳優をTV時代劇ドラマ『天下御免 (Tenka Gomen』 [19711972 NHK総合テレビジョンにて放映] で知ったからだ。彼はその作品の中で、若き田沼意次 (Tanuma Okitsugu) を演じている。その物語に登場する幾人もの実在の人物達、歴史上の人物達がその物語が舞台とする時代を必死に生きていく中で、彼だけが飄々としているのだ。その彼が箸になるのか棒になるのか一向に解らない。だが、世に田沼時代 (Tanuma Era) と呼ばれる、彼が政権を握る時代の胎動がそこにある筈なのだ。彼 [と謂うのは中谷昇 (Noboru Nakaya) 自身の事だ] はそれを知ってか知らずか、のらりくらりとその物語のなかに佇んでいるだけなのである。
そんな印象の許で、第4話をみればみるほど、この短い物語はその後、どうなるのか解ったモノでもない。否、どうにでも転んでいけそうな気がしてしまうのである [しかも、映画はそこで突然、幕となる]。

だから、その映画の中に於ける第4話の役割、もしくはその物語の中心となる人物、式部平内 (Shikibu Heinai) こと中谷昇 (Noboru Nakaya) の役割は、この映画を不可解で終わらせる事にあるのだろう。
そして、それは、その映画を単なる恐怖映画としても幻想映画としても位置付けされる事を嫌った制作者達の意図によるのだろう。
少なくとも、小泉八雲 (Lafcadio Hearn) が日本にみた幻想 (Japanese Illusion) とか、喪われつつある日本の美 (Beauty In Japan) の結晶といった様な、とってつけた様な解った素振りをされるのを嫌ったのだ。

ぢゃあ、原作である小説『茶碗の中 (In A Cup Of Tea)』 [作品集『骨董 (Kotto)』 所収 1902年刊行] とは果たしてなんなのか。

何度も読んだ事がある小説だから、こんな事を思い返しながら拙稿の為に、改めて再読してみた。

例えば、小泉八雲 (Lafcadio Hearn) と同時代の作家、その短編小説の様な表徴を伴っていると謂えば、謂えなくもない。
アンブローズ・ビアス (Ambrose Bierce) やサキ (Saki) ならば、似た様な物語を書いていそうな気もする。
だけれども、物語の発端が、表題にある様に茶碗の中 (In A Cup Of Tea) である事に執着してしまうと、この物語は付喪神 (Tsukumogami) もしくは器物の怪 (Mononoke)、すなわちアニミズム (Animism) が主題である様に思われる。そうすると、同時代の作家には、そこに着想を得る事は相当に困難である様に思える。欧米的な発想、キリスト教 (Christianity) 観に準じてしまえば、そこに善悪の対立の様な視点が導入される筈なのだが、その小説にはその様な2項対立は存在していない。それ以前にそこに顕現する怪異の真意すら、明らかにされてもいないのだ。
一方で、夏目漱石 (Natsume Soseki) の連作小説『夢十夜 (Ten Nights Of Dreams)』 [1908東京朝日新聞連載] の1篇にあってもおかしくない様な気がしないでもない。だけれども、その10篇の小説が夢を題材としている以上、そこには主観の存在が絶対である。夢である事によって、もしくは、夢であるからこそ、そこに登場する主観、その根幹が脅かされるのだ。そして、その様な物語でなければ、夏目漱石 (Natsume Soseki) は作品を書き得ない。彼の作品制作の動機には自我 (Ego) と謂う絶対的な指針が必要なのである。そしてそれが絶えず揺れ動くからこそ、作品が産まれるのだ。と、謂う事は、小説『茶碗の中 (In A Cup Of Tea)』を彼が執筆するいわれは先ずないのだ。
では、泉鏡花 (Izumi Kyoka) は ...。

と、謂う様な事を考えながら、その短い作品を読んでいると、いつの間にか、最終行に横着してしまう。
そして、その最末尾にある、文章の中断を意味する 「 .... 」に横着すると、背筋に寒気がほんの一瞬はしる。
では、この感覚は一体、どこから沸き起こるのだろうか、それが皆目わからない。わからないがゆえに、そこがまたこわい。

次回は「」。

附記:
この小説を怪異にまみえた関内 (Sekinai) の視点のみに立って眺めてみる。
最初の、茶碗 (Chawan ; Tea Bowl) に映じた他人の顔は、自身のみにみえる幻覚とおもいこみ、その様にして対処する。つまり無視を決め込んだのだ。
すると、その幻覚と思われた人物、式部平内 (Shikibu Heinai) が彼の許に顕れ、さきの茶碗 (Chawan ; Tea Bowl) でみた映像の幻覚性を否定する様なことばを発する。しかし、彼の発言の真意、その実証を確認しようとすると、会話は成立しない。式部平内 (Shikibu Heinai) はただ自身のおもうがままを発し、先の彼の応対にある非を糺すのみである。そして、彼は不意に消える。
だから、己がもとに顕れた式部平内 (Shikibu Heinai) もまた先の茶碗 (Chawan ; Tea Bowl) の中と同じ、つまり幻影であろうと解釈しようとする。第一に彼の許に式部平内 (Shikibu Heinai) が尋ねきたる事は物理的に不可能なのである。
すると、式部平内 (Shikibu Heinai) の実在を前提とした複数の人物達が彼を訪い、先の彼の応対の非を難ずる。
事態は複雑になるばかりで、悪戯に繰り返される応対はそれに拍車をかけるばかり悪化と混迷の一途を辿る。事態の回収には決して向かってくれないのだ。また視点を変えれば、現実の世界に幻覚の世界が侵食されているばかりなのだ。後者は前者をおもうがままに蹂躙するが、前者はそれに対して為す術がない。そして、いつしか現実と幻覚の境界が危うくなってくるのだ。その上さらに、彼の身の安全すらも [これは確実に現実的に] 脅かされる様になったその刹那、不意に物語は中断されてしまう。
こうやってぼく自身の視点でこの物語を綴りなおしていくと、フランツ・カフカ (Franz Kafka) の作品にある様な世界が出来する。
だが、その様な世界観もしくは作品観でもってその小説を断罪し得るのかと謂うと、いささか心許ない。決して割り切れないモノが遺るのだ。そして、その割り切れないモノが得体のしれないモノ、端的な表現をすれば恐怖として自己主張を開始し始める。
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