2022.02.22.09.17
その物語から敢えて教訓めいたモノを引き出そうとすればそれは、約束を違えてはいけない、信頼を裏切る行為は慎むべきだ、と謂う様なモノになるのであろうか。
さらに注釈を加え得るのならば、特に男女のあいだでのそれに於いてを、と。つまり、恋人を裏切ってはいけないのだ、と。
だが、その様な解釈をしようとするモノは、恐らく殆どどこにもいないであろう。
その代わりにこう思えてくる。この物語は、読むモノの性別によって、その理解が全く異なるのではないか、と。
文学作品集『怪談 (Kwaidan: Stories And Studies Of Strange Things)』 [小泉八雲 (Lafcadio Hearn) 著 1904年刊行] の1篇を為す物語『雪女 (Yuki-Onna)』をその物語の構造上の観点で分類すれば、異類婚姻譚 (Human–animal Marriage) であろうし、そしてそこにみるなの禁忌 (The Taboo Of "Don't Look") [厳密に謂えばその亜種、いうなの禁忌 (The Taboo Of "Don't Tell") なのだが] が横臥している。
だから、その物語の展開の主要部を成すその禁忌 (Taboo) に着目すれば、冒頭で言及した教訓が登場するのは至極、当然の事なのである。
物語の主人公たる青年が、ある怪異 (Orphic) に遭遇する。そして、その怪異 (Orphic) なる存在は、そこでの体験を他者に物語る事を生涯に渡って禁ずる。その実行を以て、その生命の危機が回避、生存が保障されるのだ。
その後の彼は、そこでの約束を愚鈍に従って暮らす事となる。
しばらくすると青年はある女性と出逢い、彼女を自身の妻 (Wife) として迎える。貧しいながらも幸福なふたりの生活が築かれる。子供を設ける事も出来た。
そんな暮らしが続く中、青年はふと、かつて体験した恐怖の一夜を妻 (Wife) に語ってしまう。
しかし、愛すべきその妻 (Wife) こそ、その夜に遭遇した怪異そのモノ (Orphic Itself) だったのである。
彼は決して語ってはいけない自身の体験を、怪異 (Orphic) に語ってしまったのだ。語るに落ちる (Let The Cat Out Of The Bag) とは正にこの事である。
しかし、自身の正体を明かした彼女は彼の殺害を躊躇い、彼にこう告げるのだ。
本来ならば、その生命を奪うべきところだが、ここにはふたりの間にある子供がいる、と。そしてそれを理由に、彼女は彼の許から姿を消してしまうのだ。
物語『雪女 (Yuki-Onna)』とは以上の様なモノである。要約する必要もない程に単純な構造のその物語は、上の様な陳腐に纏めてしまうよりも、全文を掲載すべきなのかもしれない [だが、そうもいくまい]。
この作品を読んで、ぼくが最も不思議に思うのは、何故、妻 (Wife) である雪女 (Yuki- Onna) が、我が子を夫 (Husband) = 父親 (Father) の許に遺していったのか、と謂う点である。
それは、この作品と同様の、異類婚姻譚 (Human–animal Marriage) である羽衣伝説 (Swan Maiden) の事が、ぼくの念頭にあるからである。
この伝説には幾つものヴァリアントが存在し、そこでの登場人物である1組の男女 [女性が天女 (Tennyo : Heavenly Woman) である事は謂うわずもがであろう] に、子供が誕生しないヴァージョンもあれば、誕生するヴァージョンもあるからである。しかも、その後者に於いては、物語『雪女 (Yuki-Onna)』同様に子供を地上に遺して天女 (Tennyo : Heavenly Woman) が昇天するモノもあれば、それとは逆の、子供を従えて天女 (Tennyo : Heavenly Woman) が昇天するモノもあるからなのである。
また、羽衣伝説 (Swan Maiden) とは別の、異類婚姻譚 (Human–animal Marriage) のひとつでありしかもみるなの禁忌 (The Taboo Of "Don't Look") をも稼働する民話『鶴女房 (The Story Of The White Crane)』 [戯曲『夕鶴 (Yuzuru : Twilight Crane)』 [木下順二 (Junji Kinoshita) 1949年初演] の原典である] では、そこに登場する男女 [女性が鶴 (Crane) の化身である事は謂うを待たない] には、ふたりの子供は登場しない。尤もそれは、その民話の亜種である民話『鶴の恩返し (Tsuru No Ongaeshi : Crane's Return Of A Favor)』に於いて、結婚適齢期の男性すらそこに登場しない事になんらかの影響があるのかもしれない。鶴 (Crane) である女性は、老いたる夫婦 (Married Couple) の許に顕れ、彼等の養女然 (Likle A Adopted Daughter) とした行動をするだけなのだ [もしかすると、そこに物語『竹取物語 (The Tale Of The Bamboo Cutter)』[作者不詳 10世紀半ば成立] との類縁を見出すべきなのかもしれない]。
と謂う様な事柄を思い出すと異類婚姻譚 (Human–animal Marriage) もしくはみるなの禁忌 (The Taboo Of "Don't Look") が起動する物語に於いては、そこに登場する主たる夫婦間 (Between Maried Couple) に、子供の存在の有無はさして重要な問題ではないのではないか、と思えてくる。
逆に謂えば、物語『雪女 (Yuki-Onna)』に於いて、産まれた子供を妻 ( Wife) = 母親 (Mother) = 雪女 (Yuki- Onna) が、夫 (Husband) = 父親 (Father) = 人間 (Mankind) の許に遺すのは、その物語特有の要請に従ったからではないか、とも考えられる。
尤も、その物語の中では、彼女はその理由を夫 (Husband) でもある父親 (Fafther) に明確に告げているのである。
そして、その彼女の発言が如何様にも解釈可能なのだ。そして、その発言の理解が、その物語の読者の属する性別によって、異なるモノとなるのではないか、ぼくはそう思っているのだ。

"Yuki-Onna, The Lady Of The Snow" 1912 by Evelyn Paul
例えば、夫 (Husband) であり父親 (Father) である男性の立場で彼女の発言はこう理解され得るだろう。
一生、自身を彼女は監視しているのだ。その為の手段、口実が我々の子供なのだ、と。
そう理解してしまえば、この物語は正しく『怪談 (Kwaidan: Stories And Studies Of Strange Things)』である。彼女の発言の真意にあるのは、怨 (Grudge)、その1文字だけなのだ。
ところが、妻 (Wife) であり母親 (Mother) である雪女 (Yuki- Onna) の立場に立てば、俄然、そこにある真意は裏返る。
夫 (Husband) であり父親 (Father) である彼の方こそ、我が子を人質 (Hostage) にとった様なモノなのだ。その子がいる以上、わたしは一切、手出しが出来ない。
そしてだからこそ、そこに怨 (Grudge) と謂う1文字が滲み出てくるのである。
外形的には全く同じ感情の帰結に横着している様にみえるが、雪女 (Yuki- Onna) の視点でのその1文字は、母 (Mother) であり、妻 (Wife) であり、女 (Woman) であるからこそである。
物語上で語られているのは、子供への愛情ばかりだが、その裏側にはべったりと夫 (Husband) である父親 (Father) への愛憎がひしめいているのである。だからこそ、彼女はこれからずっと、彼等をみまもりつづけていく。否、つづけざるを得ないのだ。
そして、恐らく彼女の愛憎はその男自身も気づいているだろう。あいつが愛しているのは子供ばかりではない、この俺もだ、と。だから、あの女は子供を口実にしてこのおれをずっとみているのだ、これからずっと、ずっと ...。
怨 (Gudge) が呪縛 (Curse) となって彼を束縛し続けるのだ。
この物語の怖さと謂うモノは、その様な解釈をする事によって、より倍増する様に思えるのだが、如何であろうか。
そして、怖ろしさが明白になるにつれて、それより以上にあからさまになるのは、雪女 (Yuki- Onna) の抱く哀しみであると思えるのだが。
次回は「な」。
附記 1.
古来からある我が国の、家 (Ie) と謂う制度を鑑みるに、婚姻 (Marriage) 並びにその結果としての出生 (Birth) は、家 (Ie) と謂う有機的な組織 (Organic Organization) を維持、成長せしめる制度として機能している様に思える。従って、その許で夫婦 (Married Couple) と謂う契約下 (Under Contracut) にある男女がその契約を破棄 (Cancellation Of Contract) せざるを得ない場合は、妻 (Wife)である女性の放擲 (Expell) として行われるであろう。すなわち、離縁した妻 (Divorced Wife) はその身ひとつで、そことの係累一切が切断されるのである。ふたりのあいだにできた子供は家 (Ie) のモノとなる。何故ならば、彼ないし彼女はその家 (Ie) の継続に必要な因子 (Element) であると同時に、その家 (Ie) の経済を支える重要な労働力 (Labor Pool) として先ずは必要とされるからだ [成長した女性が他家との姻戚関係 (Marry Into Another Ie) になるのは、労働力 (Labor Poor) とはまた異なった財貨 (Commodity) として機能するのだろう]。
そして、大事な点は離縁 (Divorced) を主張する権利を有しているのは、一方的に男性側、すなわち家 (Ie) にある事だ。その結果、子供が妻 (Wife) = 母親 (Mother) = 女 (Woman) 側に引き継がれ得る可能性は、殆どないだろう。
尤も、女性の側から離縁 (Divorce) を申し立てる機会は一切、ないではない。最も有名にして有効であるのは、彼女自身が縁切寺 (Temple In Which Women Seeking Release From Marriage Could Take Refuge) に身を投ずる事だ。だが、我が子を伴って、その実行が可能なのだろうか? [実際問題、どうであろう? 調査不足、認識不足で申し訳ないが]
と、謂う様な事に思いを馳せると、これらの諸事象を背景として、我が子を遺して行かざるを得ない物語として、物語『雪女 (Yuki-Onna)』が成立している、そう理解する事が出来てしまう。
附記 2. :
羽衣伝説 (Swan Maiden) に於ける1ヴァージョン、我が子を地上に遺したまま昇天する天女 (Tennyo : Heavenly Woman) の物語では、遺された父子を主人公として語られる後日談 (Sequel) のヴァージョンが幾つかある。
では、この『雪女 (Yuki-Onna)』には後日談 (Sequel) があるのだろうか。あるべきだろうか。
勿論、小泉八雲 (Lafcadio Hearn) を語り部として興されているこの物語は、近代的な物語としての装いが施されているが故に、後日談 (Sequel) の生存の可能性は殆どない。
だが、それにも関わらずに、ふたつの特撮TV番組に於いては、雪女 (Yuki- Onna) の忘れ形見 (Child Of The Late Of Yuki-onnna) と看做される女性が登場する物語が語られている。
特撮TV番組『ウルトラマン
(Ultraman)』 [1966~1967年 TBS系列放映] の第30話『まぼろしの雪山
(Phantom Of The Snow Mountain)』 [脚本:金城哲夫 監督:樋口祐三 特技監督:高野宏一] と、特撮TV番組『怪奇大作戦 (Operation : Mystery!)』 [1968~1969年 TBS系列放映] の最終話『ゆきおんな
(Yukionna)』 [脚本:藤川桂介 監督:飯島敏宏 特技監督:佐川和夫] である [この2作品に関しては、主に前者に重きを置いてはいるが、既にこちらで言及している]。
附記 3. :
文学作品集『怪談 (Kwaidan: Stories And Studies Of Strange Things)』を原作とする映画『怪談 (Kwaidan)』 [小林正樹 (Masaki Kobayashi) 監督作品 1965年制作] は、よっつの怪異譚で構成されている。『雪女 (Yuki-Onna)』を原作とする短編映像作はその第2話である。そして、他の3篇同様に、原作である文学作品を忠実に映像化する事を最優先にしている模様である。でもだからと謂って、その文学作品集が、小泉八雲 (Lafcadio Hearn) が採集民話から小説 {と呼んでも問題ないと思うが] へと転生せしめた様には、その小説を映画へと昇華出来た様には思えない。ぼくには、あたかも劇場中継を観ている様な気がしてしまうのである。映像ならばこそ産み出し得る恐怖もしくは怪異 (Orphic) がそこには一向に登場しないのである。だからと謂って全くの駄作だとは断罪も出来ないのだ。言余って言葉足らず、ではないが、制作者側の意図するモノが唯ひたすら空回りしているだけの様な気がしないでもない。そこが非常にもったいないのだ。
唯、唯一の救いが、物語の背景となる空の描写が異様に恐ろしくも印象的である点だ。この空の下で展開される物語が、現実性を喪い、幻想の世界である事を如実に物語っているである [但し、この様な叙景描写が映画独特の手法であると主張出来ないのが悔やまれる、つまりこの描写をこそ以て、演劇的表現とも喝破出来てしまうのも事実ではあるのだ]。
さらに注釈を加え得るのならば、特に男女のあいだでのそれに於いてを、と。つまり、恋人を裏切ってはいけないのだ、と。
だが、その様な解釈をしようとするモノは、恐らく殆どどこにもいないであろう。
その代わりにこう思えてくる。この物語は、読むモノの性別によって、その理解が全く異なるのではないか、と。
文学作品集『怪談 (Kwaidan: Stories And Studies Of Strange Things)』 [小泉八雲 (Lafcadio Hearn) 著 1904年刊行] の1篇を為す物語『雪女 (Yuki-Onna)』をその物語の構造上の観点で分類すれば、異類婚姻譚 (Human–animal Marriage) であろうし、そしてそこにみるなの禁忌 (The Taboo Of "Don't Look") [厳密に謂えばその亜種、いうなの禁忌 (The Taboo Of "Don't Tell") なのだが] が横臥している。
だから、その物語の展開の主要部を成すその禁忌 (Taboo) に着目すれば、冒頭で言及した教訓が登場するのは至極、当然の事なのである。
物語の主人公たる青年が、ある怪異 (Orphic) に遭遇する。そして、その怪異 (Orphic) なる存在は、そこでの体験を他者に物語る事を生涯に渡って禁ずる。その実行を以て、その生命の危機が回避、生存が保障されるのだ。
その後の彼は、そこでの約束を愚鈍に従って暮らす事となる。
しばらくすると青年はある女性と出逢い、彼女を自身の妻 (Wife) として迎える。貧しいながらも幸福なふたりの生活が築かれる。子供を設ける事も出来た。
そんな暮らしが続く中、青年はふと、かつて体験した恐怖の一夜を妻 (Wife) に語ってしまう。
しかし、愛すべきその妻 (Wife) こそ、その夜に遭遇した怪異そのモノ (Orphic Itself) だったのである。
彼は決して語ってはいけない自身の体験を、怪異 (Orphic) に語ってしまったのだ。語るに落ちる (Let The Cat Out Of The Bag) とは正にこの事である。
しかし、自身の正体を明かした彼女は彼の殺害を躊躇い、彼にこう告げるのだ。
本来ならば、その生命を奪うべきところだが、ここにはふたりの間にある子供がいる、と。そしてそれを理由に、彼女は彼の許から姿を消してしまうのだ。
物語『雪女 (Yuki-Onna)』とは以上の様なモノである。要約する必要もない程に単純な構造のその物語は、上の様な陳腐に纏めてしまうよりも、全文を掲載すべきなのかもしれない [だが、そうもいくまい]。
この作品を読んで、ぼくが最も不思議に思うのは、何故、妻 (Wife) である雪女 (Yuki- Onna) が、我が子を夫 (Husband) = 父親 (Father) の許に遺していったのか、と謂う点である。
それは、この作品と同様の、異類婚姻譚 (Human–animal Marriage) である羽衣伝説 (Swan Maiden) の事が、ぼくの念頭にあるからである。
この伝説には幾つものヴァリアントが存在し、そこでの登場人物である1組の男女 [女性が天女 (Tennyo : Heavenly Woman) である事は謂うわずもがであろう] に、子供が誕生しないヴァージョンもあれば、誕生するヴァージョンもあるからである。しかも、その後者に於いては、物語『雪女 (Yuki-Onna)』同様に子供を地上に遺して天女 (Tennyo : Heavenly Woman) が昇天するモノもあれば、それとは逆の、子供を従えて天女 (Tennyo : Heavenly Woman) が昇天するモノもあるからなのである。
また、羽衣伝説 (Swan Maiden) とは別の、異類婚姻譚 (Human–animal Marriage) のひとつでありしかもみるなの禁忌 (The Taboo Of "Don't Look") をも稼働する民話『鶴女房 (The Story Of The White Crane)』 [戯曲『夕鶴 (Yuzuru : Twilight Crane)』 [木下順二 (Junji Kinoshita) 1949年初演] の原典である] では、そこに登場する男女 [女性が鶴 (Crane) の化身である事は謂うを待たない] には、ふたりの子供は登場しない。尤もそれは、その民話の亜種である民話『鶴の恩返し (Tsuru No Ongaeshi : Crane's Return Of A Favor)』に於いて、結婚適齢期の男性すらそこに登場しない事になんらかの影響があるのかもしれない。鶴 (Crane) である女性は、老いたる夫婦 (Married Couple) の許に顕れ、彼等の養女然 (Likle A Adopted Daughter) とした行動をするだけなのだ [もしかすると、そこに物語『竹取物語 (The Tale Of The Bamboo Cutter)』[作者不詳 10世紀半ば成立] との類縁を見出すべきなのかもしれない]。
と謂う様な事柄を思い出すと異類婚姻譚 (Human–animal Marriage) もしくはみるなの禁忌 (The Taboo Of "Don't Look") が起動する物語に於いては、そこに登場する主たる夫婦間 (Between Maried Couple) に、子供の存在の有無はさして重要な問題ではないのではないか、と思えてくる。
逆に謂えば、物語『雪女 (Yuki-Onna)』に於いて、産まれた子供を妻 ( Wife) = 母親 (Mother) = 雪女 (Yuki- Onna) が、夫 (Husband) = 父親 (Father) = 人間 (Mankind) の許に遺すのは、その物語特有の要請に従ったからではないか、とも考えられる。
尤も、その物語の中では、彼女はその理由を夫 (Husband) でもある父親 (Fafther) に明確に告げているのである。
そして、その彼女の発言が如何様にも解釈可能なのだ。そして、その発言の理解が、その物語の読者の属する性別によって、異なるモノとなるのではないか、ぼくはそう思っているのだ。

"Yuki-Onna, The Lady Of The Snow" 1912 by Evelyn Paul
例えば、夫 (Husband) であり父親 (Father) である男性の立場で彼女の発言はこう理解され得るだろう。
一生、自身を彼女は監視しているのだ。その為の手段、口実が我々の子供なのだ、と。
そう理解してしまえば、この物語は正しく『怪談 (Kwaidan: Stories And Studies Of Strange Things)』である。彼女の発言の真意にあるのは、怨 (Grudge)、その1文字だけなのだ。
ところが、妻 (Wife) であり母親 (Mother) である雪女 (Yuki- Onna) の立場に立てば、俄然、そこにある真意は裏返る。
夫 (Husband) であり父親 (Father) である彼の方こそ、我が子を人質 (Hostage) にとった様なモノなのだ。その子がいる以上、わたしは一切、手出しが出来ない。
そしてだからこそ、そこに怨 (Grudge) と謂う1文字が滲み出てくるのである。
外形的には全く同じ感情の帰結に横着している様にみえるが、雪女 (Yuki- Onna) の視点でのその1文字は、母 (Mother) であり、妻 (Wife) であり、女 (Woman) であるからこそである。
物語上で語られているのは、子供への愛情ばかりだが、その裏側にはべったりと夫 (Husband) である父親 (Father) への愛憎がひしめいているのである。だからこそ、彼女はこれからずっと、彼等をみまもりつづけていく。否、つづけざるを得ないのだ。
そして、恐らく彼女の愛憎はその男自身も気づいているだろう。あいつが愛しているのは子供ばかりではない、この俺もだ、と。だから、あの女は子供を口実にしてこのおれをずっとみているのだ、これからずっと、ずっと ...。
怨 (Gudge) が呪縛 (Curse) となって彼を束縛し続けるのだ。
この物語の怖さと謂うモノは、その様な解釈をする事によって、より倍増する様に思えるのだが、如何であろうか。
そして、怖ろしさが明白になるにつれて、それより以上にあからさまになるのは、雪女 (Yuki- Onna) の抱く哀しみであると思えるのだが。
次回は「な」。
附記 1.
古来からある我が国の、家 (Ie) と謂う制度を鑑みるに、婚姻 (Marriage) 並びにその結果としての出生 (Birth) は、家 (Ie) と謂う有機的な組織 (Organic Organization) を維持、成長せしめる制度として機能している様に思える。従って、その許で夫婦 (Married Couple) と謂う契約下 (Under Contracut) にある男女がその契約を破棄 (Cancellation Of Contract) せざるを得ない場合は、妻 (Wife)である女性の放擲 (Expell) として行われるであろう。すなわち、離縁した妻 (Divorced Wife) はその身ひとつで、そことの係累一切が切断されるのである。ふたりのあいだにできた子供は家 (Ie) のモノとなる。何故ならば、彼ないし彼女はその家 (Ie) の継続に必要な因子 (Element) であると同時に、その家 (Ie) の経済を支える重要な労働力 (Labor Pool) として先ずは必要とされるからだ [成長した女性が他家との姻戚関係 (Marry Into Another Ie) になるのは、労働力 (Labor Poor) とはまた異なった財貨 (Commodity) として機能するのだろう]。
そして、大事な点は離縁 (Divorced) を主張する権利を有しているのは、一方的に男性側、すなわち家 (Ie) にある事だ。その結果、子供が妻 (Wife) = 母親 (Mother) = 女 (Woman) 側に引き継がれ得る可能性は、殆どないだろう。
尤も、女性の側から離縁 (Divorce) を申し立てる機会は一切、ないではない。最も有名にして有効であるのは、彼女自身が縁切寺 (Temple In Which Women Seeking Release From Marriage Could Take Refuge) に身を投ずる事だ。だが、我が子を伴って、その実行が可能なのだろうか? [実際問題、どうであろう? 調査不足、認識不足で申し訳ないが]
と、謂う様な事に思いを馳せると、これらの諸事象を背景として、我が子を遺して行かざるを得ない物語として、物語『雪女 (Yuki-Onna)』が成立している、そう理解する事が出来てしまう。
附記 2. :
羽衣伝説 (Swan Maiden) に於ける1ヴァージョン、我が子を地上に遺したまま昇天する天女 (Tennyo : Heavenly Woman) の物語では、遺された父子を主人公として語られる後日談 (Sequel) のヴァージョンが幾つかある。
では、この『雪女 (Yuki-Onna)』には後日談 (Sequel) があるのだろうか。あるべきだろうか。
勿論、小泉八雲 (Lafcadio Hearn) を語り部として興されているこの物語は、近代的な物語としての装いが施されているが故に、後日談 (Sequel) の生存の可能性は殆どない。
だが、それにも関わらずに、ふたつの特撮TV番組に於いては、雪女 (Yuki- Onna) の忘れ形見 (Child Of The Late Of Yuki-onnna) と看做される女性が登場する物語が語られている。
特撮TV番組『ウルトラマン
附記 3. :
文学作品集『怪談 (Kwaidan: Stories And Studies Of Strange Things)』を原作とする映画『怪談 (Kwaidan)』 [小林正樹 (Masaki Kobayashi) 監督作品 1965年制作] は、よっつの怪異譚で構成されている。『雪女 (Yuki-Onna)』を原作とする短編映像作はその第2話である。そして、他の3篇同様に、原作である文学作品を忠実に映像化する事を最優先にしている模様である。でもだからと謂って、その文学作品集が、小泉八雲 (Lafcadio Hearn) が採集民話から小説 {と呼んでも問題ないと思うが] へと転生せしめた様には、その小説を映画へと昇華出来た様には思えない。ぼくには、あたかも劇場中継を観ている様な気がしてしまうのである。映像ならばこそ産み出し得る恐怖もしくは怪異 (Orphic) がそこには一向に登場しないのである。だからと謂って全くの駄作だとは断罪も出来ないのだ。言余って言葉足らず、ではないが、制作者側の意図するモノが唯ひたすら空回りしているだけの様な気がしないでもない。そこが非常にもったいないのだ。
唯、唯一の救いが、物語の背景となる空の描写が異様に恐ろしくも印象的である点だ。この空の下で展開される物語が、現実性を喪い、幻想の世界である事を如実に物語っているである [但し、この様な叙景描写が映画独特の手法であると主張出来ないのが悔やまれる、つまりこの描写をこそ以て、演劇的表現とも喝破出来てしまうのも事実ではあるのだ]。
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