2022.02.15.09.02
当時、ぼくが通っていた保育園 (Day Nursery) の蔵書の1冊としてあった。
あらかじめ、断っておくが、その絵本は宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) の作品ではない。それを幼児向けに翻案したモノである。
表紙の中央に、大きなヴァイオリン (Violin) を両脚で挟み込んだ男性がいる。このひとがゴーシュ(Gauche) なんだろう、そしてこのヴァイオリン (Violin) をセロ ( Cello) と謂うのだ。と、往時のぼくは思ったのかもしれない。
そして、彼の周囲に幾匹もの小動物等が楽しげに佇んでいる。まるで、童謡『山の音楽家 (Ich bin ein musikante)』 [ドイツ民謡 (Deutsche Volkslieder) 日本語詞 : 水田詩仙 (Shisen Mizuta) 歌唱:ダークダックス (Dark Ducks) 1964年 TV番組『みんなのうた (Minna no Uta : Everyone's Songs)』にて放映] だ、と。

[キンダーおはなしえほん (Kinder Tales And Pictures Book) 第1集第9号 First Series Vol. 9 『セロひきのゴーシュ (Gauche The Cellist)』 [宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) : 原作 三越左千夫 (Sachio Mitsukoshi) : 文 鈴木寿雄 (Toshio Suzuki) 1967年 フレーベル館刊行]
その時の読後感までは流石に憶えてはいない。
ぼくの記憶にあるのは、ある楽団の練習風景、そして、セロ ( Cello) にあるF型の穴 (F-hole) から放り込まれる小ねずみ (A Child Of Wild Mouse) の姿である。
少なくとも、表紙にある様な光景、童謡『山の音楽家 (Ich bin ein musikante)』の再演の様な光景は、本文には登場しなかったと思う。
その絵本の原作者である宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) を知ったのは、小学校2年生 (Second Year Student Of Elementary School) の時である。その夏休みに親が買い与えた児童書『せかいのいじん』[筆者、出版社等不明] に掲載されていた。題名にある様に古今東西の偉人等の、主に少年少女時代を描いた選集 (Anthology) である。
彼の生涯はその冒頭を飾る。いや、そればかりか彼の少年時での失態がカラー口絵として掲載されてあり、本文には、教壇に立つ彼の肖像写真 (His Portrait photography At His Teaching Platform) が掲載されている。そこには勿論、彼の代表作である小説『風の又三郎 (Matasaburo Of The Wind)』 [1934年 『宮沢賢治全集 (The Collected Edition Of Kenji MIyazawa)』所収 文圃堂書店刊行] や、拙稿の主題たる童話『セロ弾きのゴーシュ (Gauche The Cellist)』 [1934年 『宮沢賢治全集 (The Collected Edition Of Kenji MIyazawa)』所収 文圃堂書店刊行] の作者である事は言及されてはいたが、主題は寧ろ別のところにあるのだ。農業改革、農業教育に奮闘する、文学者ではない彼の姿であって、それはそのまま彼の詩『雨ニモマケズ (Ame Ni Mo Makezu : Be Not Defeated By The Rain)』[1934年 岩手日報掲載] へと集約されている。本文挿絵にあるのは、豪雨の中、雨合羽 (Rain Coat) を着て奔走する彼の姿なのだ [その児童書が想定する読書層が、もしくは彼等のその後をどう想定していたのだろうか、そんな観点が自ずと知れる]。
ところで、ぢゃあ、宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) の作たる童話『セロ弾きのゴーシュ (Gauche The Cellist)』をぼくはいつ、体験したのだろうか。とんと、記憶がない。だけれども、彼が独り、自身の楽器たるセロ ( Cello) を修練する深夜に、幾匹かの動物達が訪れ、彼の演奏によって慰撫されていく、と謂う様な骨子 [それが多分に間違ったモノであっても] は、いつの間にか、知っていたのである。
そして、それはこの童話ばかりの事ではなく、彼の他の作品、小説『風の又三郎 (Matasaburo Of The Wind)』や童話『銀河鉄道の夜 (Night On The Galactic Railroad)』 [1934年 『宮沢賢治全集 (The Collected Edition Of Kenji MIyazawa)』所収 文圃堂書店刊行] でも同様の現象が生じているのである。序でに敢えて補足すれば、後者に関しては、その翻案マンガ『銀河鉄道の夜 (Night On The Galactic Railroad)』 [ますむらひろし (Hiroshi Masumura) 1983年刊行] やその映像化作品である映画『銀河鉄道の夜 (Night On The Galactic Railroad)』 [杉井ギサブロー (Gisaburo Sugii) 監督作品 1985年制作] によるのではない。それらの翻案作の登場以前に、その物語は、読んでもいない筈のくせに既にぼくにとっては、体験済みの物語と化していたのである。
だから、もしかしたら数ヶ月前に青空文庫 (Aozora Bunko) の蔵書のひとつとして"再読"したのが、実はぼくにとってのその童話の初体験だったのかもしれない。
読んで思うのは、主人公であるゴーシュ (Gauche) と謂う人物のつまらなさだ。性格が悪い事この上ない。力量が伴わないくせに尊大に振る舞っている ... と、書き綴っていけば、いくらでも悪態が飛び出してしまう。そしてその殆どは、嫌になるくらいにぼく自身にも該当しているから、うんざりだ。
だから、彼についてはこれ以上に触れない。彼と謂う人物、彼の人格に関しては擱筆する。唯一、ぼくが言及すべきは、冒頭に紹介した絵本に登場するゴーシュ (Gauche) とは全く異なる人物像である様な気がする、と謂う様な事だ。
変な話だなぁ、と思う。
そして、一体、どこが変なのか、その説明が難しい。
と、謂うより、変と謂う印象自体が正しいモノなのか、それすらも怪しいのだ。
そんな奇妙な感覚ばかりが、いつまでも印象に遺っているのだ。
ウィキペディア (Wikipedia) の本作に関する頁には要約すると、次の様な指摘がある。
ゴーシュ (Gauche) の、自身が勤める金星音楽団 (The Venus Orchestra) での練習中に楽長 (His conductor) が指摘する彼の欠点は3点ある。そして、その3点は夜毎、彼を訪う動物達との応対でいつのまにか克服されていく、と。そして、彼等によって克服されていく欠点は1夜、1匹ないし1羽によってその中の1点のみである。総てが1対1対応 (One-to-one Correspondence) なのだ。
だけれども、そこだけを認じて、解った様な素振りはするべきではないと思う。
少なくとも、小説『クリスマス・キャロル (A Christmas Carol)』 [チャールズ・ディケンズ (Charles Dickens) 作 1843年刊行] の様な、御都合主義 (Deus Ex Machina) ばかりの横行を許してはいけないと思う。
例えば、民話『猿蟹合戦 (The Crab And The Monkey)』に、登場する仇討ちを目論む蟹 (Crab) の助太刀に賛助したモノ達だ。栗 (Chestnut) に蜂 (Bee) に糞 (Dung) に臼 (Mill)。一見すると、彼等がなんの役に立つのか解らない。相手は、海千山千 (Crafty Old Fox) の猿 (Macaque) なのだ。智慧もあれば力もある。
やたらと重そうな臼 (Mill) や、一撃必殺の武器をもつ蜂 (Bee) はともかく、栗 (Chestnut) に何が出来ようか。況や、糞 (Dung) に於いてをや。
ところがこの民話の作者の掌にかかれば、あたかもそれぞれがジグソーパズル (Jigsaw Puzzle) の1片であるかの様に、絶対的に必要な位置に於いて、絶対的な威力を猿 (Macaque) に対して発揮する [そういう観点から謂えば、糞 (Dung) は他のモノ達と比較して、相対的に、存在感が薄い。昨今、彼が登場しないヴァージョンがみられるのはそこに理由がある]。
だが、童話『セロ弾きのゴーシュ (Gauche The Cellist)』に登場する小動物達は決してその様な存在ではない、その様な役割を与えられてはいないと思う。また、そうあっては欲しくないとも思う。
何故ならば、小説『クリスマス・キャロル (A Christmas Carol)』や民話『猿蟹合戦 (The Crab And The Monkey)』のそれらに準ずる様にして、そんな理解をこの童話にしてしまうのは、アンコール (Encore) を求める観客等の前に送り出されたゴーシュ (Gauche) が、楽曲『印度の虎狩り (Tiger Hunt In India)』を演奏したのか、と謂う点に関して、思慮が足りないのではないか、と思えてしまうからだ。
素直に考えればここは、三毛猫 (Calico Cat) があの夜求めた様にピアノ曲『トロイメライ (Traumerei / Dreaming)』 [ロマチックシューマン (Robert "Romantik" Schumann) 1838作]を、もしくは、野ねずみのお母さん (A Mother Of Wild Mouse) があの夜求めた様に「何とかラプソディとかいうもの (LIke A Rhapsody Or Something)」を演奏する筈なのだ。観客が求めているモノこそを最期に改めて提供する、それがアンコール (Encore) と謂うモノだ。
ゴーシュ (Gauche) が楽曲『印度の虎狩り (Tiger Hunt In India)』をその夜、そこで披露出来たのは、ここ数夜の体験とそれによって自身が獲得したモノを一切、理解していないからだ。
彼があの夜の三毛猫 (Calico Cat) に抱いた感情と全く同じ感情を金星音楽団員 (Members Of The Venus Orchestra) や観客達に抱き、それへの発露を行ったのに過ぎない。
そして、それが何故、好評価を得たのかさえも理解していない。
物語の最文末で、ゴーシュ (Gauche) が三毛猫 (Calico Cat) に対し一言も言及していないのはその証左である。
それ故に、この物語の中で語られている経験が、彼に対して、総て有効であったとは謂えないだ。彼は気づいていない、そして、最も大事な事をみてはいない。
最文末での彼の独白は、それについて語らないが故に、その事について語っている様に、ぼくには思える。
つまり、結果論 [彼の欠点を動物達との交流によって改善された事自体、それ以前に彼等が彼を訪った事自体も、偶然の積み重ねでしかない] としてであり、決して、大団円 (Grand Finale) でも目出度目出度 (Happy Ever After) でもないのだ。
そして視点を変えれば、こうもまた謂える。
楽長 (His conductor) が指摘した彼の欠点は、リズム感の不足、不正確な調弦、感情の露出の不確からしさである。
だが、その3点は対等にあるのではない。また、1点の解決を待たなければ他点の解決が出来ないモノでもない。それぞれは独立した問題ではあり、しかも、演奏者やその教育者の視点でみれば、優先劣後が存在する上に、その判断基準は、個々人によって異なるであろう。
しかし、この童話に於いては、その順列は確かなモノとして位置付けられている様に思える。
作者、宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) の視点に立てば、最も重要なモノは最期の、感情の露出である筈なのだ。
だからこそ、三毛猫 (Calico Cat) との応酬とその結果としての怒りの発露が楽曲『印度の虎狩り (Tiger Hunt In India)』であったのと同様に、金星音楽団員 (Members Of The Venus Orchestra) と観客達への怒りの発露がその楽曲であり、だからこそ、彼の感情の、嘘偽りもない感情の爆発であるが故に、その対象たる観客達の感動を呼んだのである。[あらためてまた綴っておこう] 観客があらためて、最期に求めているモノを提供する、それがアンコール (Encore) である。彼はその夜、それが出来たのだ。
小説家であり詩人である宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) が最も重きを置いたのがきっと、ここなのだ。芸術もしくは創作が必須とするのは、技術ではないところにある、もしくは技術を習得する以前に存在している、作品へ向かう動機なのだ。
次回は「ゆ」。
附記 1. :
あまり考えたくはないのだが、三毛猫 (Calico Cat) こそが実は楽長 (His conductor) の化身した姿だった、と時に思いたくもなる。ゴーシュ (Gauche) にあるべき感情の発露を教育するが為に、その動物へと変化して、敢えて憎まれ役を引き受けたのだ、と。
少なくとも、楽長 (His conductor) の主張を最も正しく理解し、その主張を具体的にゴーシュ (Gauche) に指摘しているのは、三毛猫 (Calico Cat) なのである。
[そんな発想に引き摺られてしまうと、他の小動物達も楽長 (His Cpnductor) = 三毛猫 (Calico Cat) の采配によって登場する、ゴーシュ (Gauche) の同僚達の化身であって ... と謂う様なとてもちっぽけな改悪作が成立してしまう]。
附記 2. :
ああかっこう (Common Cuckoo)。それに狸 (Raccoon Dog)。今回はすまなかったなあ、ひとこともおまえたちについて綴らないで。おれは忘れたわけじゃなかったんだが。
あらかじめ、断っておくが、その絵本は宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) の作品ではない。それを幼児向けに翻案したモノである。
表紙の中央に、大きなヴァイオリン (Violin) を両脚で挟み込んだ男性がいる。このひとがゴーシュ(Gauche) なんだろう、そしてこのヴァイオリン (Violin) をセロ ( Cello) と謂うのだ。と、往時のぼくは思ったのかもしれない。
そして、彼の周囲に幾匹もの小動物等が楽しげに佇んでいる。まるで、童謡『山の音楽家 (Ich bin ein musikante)』 [ドイツ民謡 (Deutsche Volkslieder) 日本語詞 : 水田詩仙 (Shisen Mizuta) 歌唱:ダークダックス (Dark Ducks) 1964年 TV番組『みんなのうた (Minna no Uta : Everyone's Songs)』にて放映] だ、と。

[キンダーおはなしえほん (Kinder Tales And Pictures Book) 第1集第9号 First Series Vol. 9 『セロひきのゴーシュ (Gauche The Cellist)』 [宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) : 原作 三越左千夫 (Sachio Mitsukoshi) : 文 鈴木寿雄 (Toshio Suzuki) 1967年 フレーベル館刊行]
その時の読後感までは流石に憶えてはいない。
ぼくの記憶にあるのは、ある楽団の練習風景、そして、セロ ( Cello) にあるF型の穴 (F-hole) から放り込まれる小ねずみ (A Child Of Wild Mouse) の姿である。
少なくとも、表紙にある様な光景、童謡『山の音楽家 (Ich bin ein musikante)』の再演の様な光景は、本文には登場しなかったと思う。
その絵本の原作者である宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) を知ったのは、小学校2年生 (Second Year Student Of Elementary School) の時である。その夏休みに親が買い与えた児童書『せかいのいじん』[筆者、出版社等不明] に掲載されていた。題名にある様に古今東西の偉人等の、主に少年少女時代を描いた選集 (Anthology) である。
彼の生涯はその冒頭を飾る。いや、そればかりか彼の少年時での失態がカラー口絵として掲載されてあり、本文には、教壇に立つ彼の肖像写真 (His Portrait photography At His Teaching Platform) が掲載されている。そこには勿論、彼の代表作である小説『風の又三郎 (Matasaburo Of The Wind)』 [1934年 『宮沢賢治全集 (The Collected Edition Of Kenji MIyazawa)』所収 文圃堂書店刊行] や、拙稿の主題たる童話『セロ弾きのゴーシュ (Gauche The Cellist)』 [1934年 『宮沢賢治全集 (The Collected Edition Of Kenji MIyazawa)』所収 文圃堂書店刊行] の作者である事は言及されてはいたが、主題は寧ろ別のところにあるのだ。農業改革、農業教育に奮闘する、文学者ではない彼の姿であって、それはそのまま彼の詩『雨ニモマケズ (Ame Ni Mo Makezu : Be Not Defeated By The Rain)』[1934年 岩手日報掲載] へと集約されている。本文挿絵にあるのは、豪雨の中、雨合羽 (Rain Coat) を着て奔走する彼の姿なのだ [その児童書が想定する読書層が、もしくは彼等のその後をどう想定していたのだろうか、そんな観点が自ずと知れる]。
ところで、ぢゃあ、宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) の作たる童話『セロ弾きのゴーシュ (Gauche The Cellist)』をぼくはいつ、体験したのだろうか。とんと、記憶がない。だけれども、彼が独り、自身の楽器たるセロ ( Cello) を修練する深夜に、幾匹かの動物達が訪れ、彼の演奏によって慰撫されていく、と謂う様な骨子 [それが多分に間違ったモノであっても] は、いつの間にか、知っていたのである。
そして、それはこの童話ばかりの事ではなく、彼の他の作品、小説『風の又三郎 (Matasaburo Of The Wind)』や童話『銀河鉄道の夜 (Night On The Galactic Railroad)』 [1934年 『宮沢賢治全集 (The Collected Edition Of Kenji MIyazawa)』所収 文圃堂書店刊行] でも同様の現象が生じているのである。序でに敢えて補足すれば、後者に関しては、その翻案マンガ『銀河鉄道の夜 (Night On The Galactic Railroad)』 [ますむらひろし (Hiroshi Masumura) 1983年刊行] やその映像化作品である映画『銀河鉄道の夜 (Night On The Galactic Railroad)』 [杉井ギサブロー (Gisaburo Sugii) 監督作品 1985年制作] によるのではない。それらの翻案作の登場以前に、その物語は、読んでもいない筈のくせに既にぼくにとっては、体験済みの物語と化していたのである。
だから、もしかしたら数ヶ月前に青空文庫 (Aozora Bunko) の蔵書のひとつとして"再読"したのが、実はぼくにとってのその童話の初体験だったのかもしれない。
読んで思うのは、主人公であるゴーシュ (Gauche) と謂う人物のつまらなさだ。性格が悪い事この上ない。力量が伴わないくせに尊大に振る舞っている ... と、書き綴っていけば、いくらでも悪態が飛び出してしまう。そしてその殆どは、嫌になるくらいにぼく自身にも該当しているから、うんざりだ。
だから、彼についてはこれ以上に触れない。彼と謂う人物、彼の人格に関しては擱筆する。唯一、ぼくが言及すべきは、冒頭に紹介した絵本に登場するゴーシュ (Gauche) とは全く異なる人物像である様な気がする、と謂う様な事だ。
変な話だなぁ、と思う。
そして、一体、どこが変なのか、その説明が難しい。
と、謂うより、変と謂う印象自体が正しいモノなのか、それすらも怪しいのだ。
そんな奇妙な感覚ばかりが、いつまでも印象に遺っているのだ。
ウィキペディア (Wikipedia) の本作に関する頁には要約すると、次の様な指摘がある。
ゴーシュ (Gauche) の、自身が勤める金星音楽団 (The Venus Orchestra) での練習中に楽長 (His conductor) が指摘する彼の欠点は3点ある。そして、その3点は夜毎、彼を訪う動物達との応対でいつのまにか克服されていく、と。そして、彼等によって克服されていく欠点は1夜、1匹ないし1羽によってその中の1点のみである。総てが1対1対応 (One-to-one Correspondence) なのだ。
だけれども、そこだけを認じて、解った様な素振りはするべきではないと思う。
少なくとも、小説『クリスマス・キャロル (A Christmas Carol)』 [チャールズ・ディケンズ (Charles Dickens) 作 1843年刊行] の様な、御都合主義 (Deus Ex Machina) ばかりの横行を許してはいけないと思う。
例えば、民話『猿蟹合戦 (The Crab And The Monkey)』に、登場する仇討ちを目論む蟹 (Crab) の助太刀に賛助したモノ達だ。栗 (Chestnut) に蜂 (Bee) に糞 (Dung) に臼 (Mill)。一見すると、彼等がなんの役に立つのか解らない。相手は、海千山千 (Crafty Old Fox) の猿 (Macaque) なのだ。智慧もあれば力もある。
やたらと重そうな臼 (Mill) や、一撃必殺の武器をもつ蜂 (Bee) はともかく、栗 (Chestnut) に何が出来ようか。況や、糞 (Dung) に於いてをや。
ところがこの民話の作者の掌にかかれば、あたかもそれぞれがジグソーパズル (Jigsaw Puzzle) の1片であるかの様に、絶対的に必要な位置に於いて、絶対的な威力を猿 (Macaque) に対して発揮する [そういう観点から謂えば、糞 (Dung) は他のモノ達と比較して、相対的に、存在感が薄い。昨今、彼が登場しないヴァージョンがみられるのはそこに理由がある]。
だが、童話『セロ弾きのゴーシュ (Gauche The Cellist)』に登場する小動物達は決してその様な存在ではない、その様な役割を与えられてはいないと思う。また、そうあっては欲しくないとも思う。
何故ならば、小説『クリスマス・キャロル (A Christmas Carol)』や民話『猿蟹合戦 (The Crab And The Monkey)』のそれらに準ずる様にして、そんな理解をこの童話にしてしまうのは、アンコール (Encore) を求める観客等の前に送り出されたゴーシュ (Gauche) が、楽曲『印度の虎狩り (Tiger Hunt In India)』を演奏したのか、と謂う点に関して、思慮が足りないのではないか、と思えてしまうからだ。
素直に考えればここは、三毛猫 (Calico Cat) があの夜求めた様にピアノ曲『トロイメライ (Traumerei / Dreaming)』 [ロマチックシューマン (Robert "Romantik" Schumann) 1838作]を、もしくは、野ねずみのお母さん (A Mother Of Wild Mouse) があの夜求めた様に「何とかラプソディとかいうもの (LIke A Rhapsody Or Something)」を演奏する筈なのだ。観客が求めているモノこそを最期に改めて提供する、それがアンコール (Encore) と謂うモノだ。
ゴーシュ (Gauche) が楽曲『印度の虎狩り (Tiger Hunt In India)』をその夜、そこで披露出来たのは、ここ数夜の体験とそれによって自身が獲得したモノを一切、理解していないからだ。
彼があの夜の三毛猫 (Calico Cat) に抱いた感情と全く同じ感情を金星音楽団員 (Members Of The Venus Orchestra) や観客達に抱き、それへの発露を行ったのに過ぎない。
そして、それが何故、好評価を得たのかさえも理解していない。
物語の最文末で、ゴーシュ (Gauche) が三毛猫 (Calico Cat) に対し一言も言及していないのはその証左である。
それ故に、この物語の中で語られている経験が、彼に対して、総て有効であったとは謂えないだ。彼は気づいていない、そして、最も大事な事をみてはいない。
最文末での彼の独白は、それについて語らないが故に、その事について語っている様に、ぼくには思える。
つまり、結果論 [彼の欠点を動物達との交流によって改善された事自体、それ以前に彼等が彼を訪った事自体も、偶然の積み重ねでしかない] としてであり、決して、大団円 (Grand Finale) でも目出度目出度 (Happy Ever After) でもないのだ。
そして視点を変えれば、こうもまた謂える。
楽長 (His conductor) が指摘した彼の欠点は、リズム感の不足、不正確な調弦、感情の露出の不確からしさである。
だが、その3点は対等にあるのではない。また、1点の解決を待たなければ他点の解決が出来ないモノでもない。それぞれは独立した問題ではあり、しかも、演奏者やその教育者の視点でみれば、優先劣後が存在する上に、その判断基準は、個々人によって異なるであろう。
しかし、この童話に於いては、その順列は確かなモノとして位置付けられている様に思える。
作者、宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) の視点に立てば、最も重要なモノは最期の、感情の露出である筈なのだ。
だからこそ、三毛猫 (Calico Cat) との応酬とその結果としての怒りの発露が楽曲『印度の虎狩り (Tiger Hunt In India)』であったのと同様に、金星音楽団員 (Members Of The Venus Orchestra) と観客達への怒りの発露がその楽曲であり、だからこそ、彼の感情の、嘘偽りもない感情の爆発であるが故に、その対象たる観客達の感動を呼んだのである。[あらためてまた綴っておこう] 観客があらためて、最期に求めているモノを提供する、それがアンコール (Encore) である。彼はその夜、それが出来たのだ。
小説家であり詩人である宮沢賢治 (Kenji Miyazawa) が最も重きを置いたのがきっと、ここなのだ。芸術もしくは創作が必須とするのは、技術ではないところにある、もしくは技術を習得する以前に存在している、作品へ向かう動機なのだ。
次回は「ゆ」。
附記 1. :
あまり考えたくはないのだが、三毛猫 (Calico Cat) こそが実は楽長 (His conductor) の化身した姿だった、と時に思いたくもなる。ゴーシュ (Gauche) にあるべき感情の発露を教育するが為に、その動物へと変化して、敢えて憎まれ役を引き受けたのだ、と。
少なくとも、楽長 (His conductor) の主張を最も正しく理解し、その主張を具体的にゴーシュ (Gauche) に指摘しているのは、三毛猫 (Calico Cat) なのである。
[そんな発想に引き摺られてしまうと、他の小動物達も楽長 (His Cpnductor) = 三毛猫 (Calico Cat) の采配によって登場する、ゴーシュ (Gauche) の同僚達の化身であって ... と謂う様なとてもちっぽけな改悪作が成立してしまう]。
附記 2. :
ああかっこう (Common Cuckoo)。それに狸 (Raccoon Dog)。今回はすまなかったなあ、ひとこともおまえたちについて綴らないで。おれは忘れたわけじゃなかったんだが。
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