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2021.12.21.08.39

たろっとののろい

と、謂えば、ブルー・オイスター・カルト (Blue Oyster Cult) の第4作『タロットの呪い (Agents Of Fortune)』 [1976年発表]、バンドにとって最大のヒット曲である楽曲『死神 ([Don't Fear] The Reaper)』を収録したアルバムである。
そして、そのヒットの所以でバンドに迷いが生じ、これまで培ってきた独自の方向性とアイデンティティー (Identity) に揺らぎが生じた作品でもある。ニュー・ヨーク (New York City) を拠点とした彼等が、後続の地元バンドやアーティスト達の後塵を拝する様になったのも、本作以降の事である。例えば、ぼくが彼等の存在を知る事になった楽曲『スペクターズ (Spectres)』 [1977年発表] は彼等よりもキッス (Kiss) の方が相応しい様な気もする。
その楽曲自体は親しみの湧く、愉快な楽曲ではあるが、バンド自身の魅力はそれ以前、バンド・デヴューから第3作までの方に濃縮されている様な気が、ぼくにはするのだ。

さて、そんな視点をもって彼等の歴史を眺めてみると、問題作とも謂うべき本作『タロットの呪い (Agents Of Fortune)』には奇妙な点がある。
邦題であるその語句『タロットの呪い (Agents Of Fortune)』と謂う命名は一体、どこから生じたのだろう、と謂う疑問である。少なくとも英原題の直訳ではない。収録作品のいずれか、もしくは作品全編を覆うコンセプトにそれに因むモノがあるのかもしれないが、それを発見する事自体は難しい。
また、その作品以前の彼等の音楽的コンセプトは、ヘヴィ・メタル (Heavy Metal) とオカルティズム (Occultism) の融合と呼べる代物ではあるが、そこまでをも睨んでの命名なのだろうか?
[因みに、ここで謂うヘヴィ・メタル (Heavy Metal) は音楽ジャンルで謂うところのハード・ロック / ヘヴィ・メタル (HR/HM : Hard Rock / Heavy Metal) とは若干のニュアンスが異なる。また、オカルティズム (Occultism) に関しても同様である。ここにあるふたつの語句から、ブラック・メタル (Black Metal) もしくはその始祖として彼等を認識するのは間違いであると思う。尤も、少なくとも近年の彼等のヴィジュアル・ワークは、寧ろそちらへと阿っている様な気配もあるが。]

ひとつの理由として考えられるのは、リン・カーリー (Lynn Curlee) が手掛けたジャケットのアート・ワークである。
闇夜の郭廊と思われる場所に正装して佇む紳士然とした趣きの男性が、タロットカード (Tarot Cards) 数枚を自身の左掌で示しているのである。
彼自身を作品原題にある"未来から遣わされし者達 (Agents Of Fortune)"の、そのひとりと看做し、彼の明示する数枚の手札 (Decks) の中に、恐ろしげな呪い (Curse) が告げられている、そんな解釈なのであろうか。それとも彼が呈示するタロットカード (Tarot Cards) によって彼等が派遣される、そしてそれをもって呪い (Curse) と看做すとでも謂うのであろうか。

images
だが、彼の立ち居振る舞い、その衣裳 / 意匠は、"未来から遣わされし者達 (Agents Of Fortune)"と呼ぶよりも、奇術師 (Magician) と呼ぶのが相応しい様に、ぼくには思える。
上掲画像 [こちらより] に写っているのは撮影者は不明ながら、奇術師セルヴェ・ル・ロイ (Servais Le Roy) の肖像である。彼が活躍した1900年頃のモノらしい。
アルバム『タロットの呪い (Agents Of Fortune)』のジャケット、そのイメージの源泉がこの写真らしい。

ところで、ぼくは一体何に拘泥しているのか、と謂うと、タロットカード (Tarot Cards) という存在に呪い (Curse) と謂う形容が付着しているところにある。
実は、本作が発表される数年前にこんな事があったのだ。

当時のぼくは小学生 (Student Of A Primary School) だった。
数日前に購入した入門書『タロット占いの秘密 (The Secret Of Fortune-telling By Tarot) 』 [辛島宜夫 (Yoshio Karashima) 著 1974年刊行] を読了したぼくはある日、小学校 (Primary School) へとその書物を持参したのだ。そこで学習したばかりの占い (Fortune-telling) を、その書物の付録であったタロットカード (Tarot Cards) を用い、級友達に試し、その腕前を披露してみたくなったからだ。
当時、ぼくの通っていた小学校 (Primary School) では遊具の持参は原則的に禁じられていたが、雨天に限り、休み時間中にそれを嗜む事は許されていた。また、公然と授業中に取り出して遊び呆けでもしない限り、それらが教師によって没収される事は先ずない。だから、クラスメートの誰もが、何かしら、将棋盤 (Shogi Board)、オセロ (Othello)、トランプ (Playing Card) やポケットゲーム (Handheld Game Consoles) を机の下に隠していたのである。
だから、その日は天候不順だったのだろう。さもなければ、これは書籍である決して遊び道具ではない、そんな言訳じみた口実がぼくのなかに生成されていたのかもしれない。
そんなその日、休み時間になってそれを取り出したぼくに対し、数名のモノがこんな台詞をこぼしたのだ。
「いやぁ〜」
「怖い」
「呪われる」
「化けて出るぞ」
そんな非難ばかりだ。
中でも最も大きな反応をしたのは、M子であった。ぼくは彼女から、ひばり書房 (Hibari Shobo Publishing) が刊行している恐怖マンガを何度か借りた事がある。それ故に、ぼくや他の級友達の知らない、"タロットの呪い (Curse By Tarot)"を題材とした作品や体験談を、彼女は熟知していたからかもしれない。
尤も、そんな蜚語を発言する彼等であるのにも関わらずその殆どは、喜んでその占い (Fortune-telling) の被験者、ぼくの実験体となるのであった。単純な怖いものみたさ (Curiosity Of Fear)、なのである。

そんな体験があったからこその、件名として掲げたこの語句の疑問がずっと、ぼくについてまわっていたのである。
"タロットの呪い (Curse By Tarot)"、それは一体、どこから生じたのだろう。
そして何故、そしてどこでぼく達はその認識を得たのであろうか。

占い (Fortune-telling)、もしくは預言 (Prophecy) によって、ある人物の来るべき運命が呈示され、そしてその内容からそれを達成、もしくは回避しようと試みるが、結局のところ、周り回って、その呈示が成就してしまう、そしてそれは常に悲劇的な色彩を帯びている、と謂う物語は幾つもある。
例えばギリシャ悲劇 (Greek Tragedy)『オイディプス王 (Oidipous Tyrannos』 [ソポクレス (Sophocles) 作 紀元前427年頃成立] の物語もそうだし、四大悲劇 (The Four Great Tragedies Of Shakespeare) 『マクベス (Macbeth)』 [ウィリアム・シェイクスピア (William Shakespeare) 1606年頃成立] もそう、そして作者不詳の童話『眠れる森の美女 (La Belle au bois dormant)』もそうなのだ [最期の1篇は結果的に幸福な幕切を迎えるが]。
だから、占い (Fortune-telling) 全般、預言 (Prophecy) 全般に対し、そこに横臥している呪術性 (Incantation) に着目すれば、それらに対し呪い (Curse) と謂う形容はあり得ると、ぼくはおもう。
だけれども、何故に殊更、タロットカード (Tarot Cards) に於いては、その視点が強調されるのか、その疑問がいつまで経っても氷解しない。
喩えて謂えば、あたるも八卦あたらぬも八卦 (Fortune-telling Does Not Always Come True) と謂う文言が横行する様な占い (Fortune-telling) には、呪い (Curse) 云々以前にそこに潜伏している筈のいる呪術性 (Incantation) そのものを、ぼく達は看過してしまっている、無視出来るではないか。

但し、ぼくが想い当たるひとつの解答を敢えて挙げる事は出来る。
それは、オムニバス映画『テラー博士の恐怖 (Dr Terror's House Of Horrors)』 [フレディ・フランシス (Freddie Francis) 監督作品 1965年制作] の存在である [こちらを参照の事]。そこではタロットカード (Tarot Cards) がひとつの狂言廻し (Supporting Role Indispensable To A Play) として、重要な役割を与えられているからである。
その映画は、ぼくがその入門書を購入する数年前にTV放映された筈なのである。

その事実を踏まえてしまえば、その映画から、ぼくやぼくの級友達にそんな認識が根付いてしまった可能性がないではない。当時は、TV番組のもつ影響力と謂うモノは、現在よりも遥かに甚大なのである。
だが、だからと謂ってブルー・オイスター・カルト (Blue Oyster Cult) のアルバム、その第4作の邦題にまで影響を及ぼすのかと謂うと、それは甚だ疑わしい。

次回は「」。

附記:
とは謂うモノの、映画『テラー博士の恐怖 (Dr Terror's House Of Horrors)』にタロットカード (Tarot Cards) の呪い (Curse) が顕現されている訳ではない。そこで明示された占い (Fortune-telling) の結果が単純に行使されただけの事である。また、さらに視点を変えてみれば、占う (Fortune-telling) 事によって判明した来るべき未来は、実は成就されていない。それは大いなる代償を払っての事ではあるが、いつのまにか回避されている。本来ならば身をもって体験せねばならぬ恐怖や苦痛から解放された上で、タロットカード (Tarot Cards) の占い (Fortune-telling) が成就されているのである。
そこでの占い (Fortune-telling) の行使とその結果を果たして呪い (Curse) と呼んでも良いのであろうか?
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