2021.11.30.08.17
[これは凌辱ではない (This Is Not A Rape)。]
その絵画作品に描かれてあるのは、ひとりの女性の顔貌の様でもある。と、同時にひとりの女性の裸体像の様でもある。
前者と理解すれば、彼女の顔全面に、女性の裸体を悪戯描きをしたと看做す事が出来る。
後者と理解すれば、彼女の裸体全部に、女性の表情を悪戯描きしたと看做す事が出来る。
そして、それは別々の異なるイメージがふたつあるのではなくて、イメージそのものはたったのひとつだ。そのひとつからふたつの意味を同時に表出しているのである。
と、もったいぶった、尊大な表現をしてみたが、なんの事はない。ルネ・マグリット (Rene Magritte) の絵画『凌辱 (Le viol (The Rape))』[1934年作 メニルコレクション (Menil Collection) 所蔵] をつらつらと文章化してみただけである。
その作品を描いたその画家の作品群に関する書籍のひとつに、美術評論『マグリットと広告 - これはマグリットではない (Magritte et la Publicite : Ceci n'est pas un Magritte)』 [ジョルジュ・ロック (Georges Roque) 著 日向あき子 (Akiko Hyuga) 監修 小倉正史 (Masashi Ogura) 訳 1983年刊行 1991年日本版刊行] がある。そこに綴られている論考は、画家の幾つもの作品が広告作品ないしはヴィジュアル・イメージに如何に流用乃至盗用されているのかと謂う視点と、画家の出自が広告業界でのヴィジュアル制作にある事から彼の作品が如何に既存の広告作品ないしはヴィジュアル・イメージに負っているのかと謂う視点、このふたつの観点から議論が展開されている。
ぼくとしては、そこで詳細に綴られている筆者の文章よりも、それに付随して掲載されてある幾つものイメージ、ルネ・マグリット (Rene Magritte) から広告へ、広告からルネ・マグリット (Rene Magritte) へ、ふたつの潮流のせめぎあいをみているのが楽しい。
そんな書籍なのである。
しかしながら、その書籍に画家のその絵画作品『凌辱 (Le viol (The Rape))』は掲載されていない。
その代わり? にカラー口絵頁冒頭に掲載されているのはザ・ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) の楽曲『悲しみのアンジー (Angie)』[アルバム『山羊の頭のスープ (Goats Head Soup)』収録 1973年発表] のシングル盤・ジャケット写真である [こちら等を参照の事]。
そこにあるのは金髪の女性の裸体である。そしてその肉体前面にひとりの女性の顔貌がボディ・ペイント (Body Painting) されている。それをもって、そのジャケット・デザインが絵画『凌辱 (Le viol (The Rape))』の剽窃もしくは引用であるかの様な印象を抱かされる [尤も、このジャケット・デザインに関する言及は一切ない。この書籍を繙くとその最初の頁にこれだけが印刷されてあるだけなのだ]。
そして、そのジャケット写真は、 [モノクロの] 本文にも登場する。こちらはこの作品と並列して、同種の試みと思われる作品が掲載されてある。
ひとつは雑誌『アート・ティチュード・インターナショナル (Artitudes International)』[1975年 4~6月号 特集『淫ら (L'Indecence)』]の表紙である。そこに大きく印刷されてあるのは絵画『凌辱 (Le viol (The Rape))』そのものである。
ひとつはオーバドゥ (Aubade) の広告ポスター [1981年 ジャック・ペグ (Jacques Peg) 撮影] である。黒髪の女性の顔貌が真正面から撮影されてあるのだが、彼女の両眼はブラジャー (Brassiere) で覆い隠されてある。その結果、絵画『凌辱 (Le viol (The Rape))』に描かれた女性の両眼が乳房である様に、そこに写る黒髪の女性の隠された両眼は乳房であるかの様な印象を抱かされる。
猶、蛇足ではあるが言い添えておく。ここでも件のジャケット・デザインも含め、著者からはなんの叙述もない。その頁にあるのはみっつの図版とそのそれぞれの出典のみである。
絵画『凌辱 (Le viol (The Rape))』を紹介もしくは言及する文章は、ネット上に幾つか散見されるが、そのどれをみてもなんとなく腑に落ちない。
画家の制作の動機とそこから発展させた解釈はある。それは如何にも尤もらしい風情をしてそこに佇んでいるが、それがその作品の正体なのかと謂うと、途端につかまえた筈のモノにするりと逃げられてしまう様に思える。
つまり、ここにあるのは一体なんだ、それに関して明確な解答が一切ないのだ。もしかしたら、作品をみているのではなくて作品の題名だけをみているのではないだろうか、そんな気もするのである。
例えば、先に紹介した雑誌『アート・ティチュード・インターナショナル (Artitudes International)』は「淫ら (L'Indecence)」の特集号である。単純にぼくは、この絵画作品のどこに「淫ら (L'Indecence)」があるのかとおもう。また、逆にこの絵画作品のなかにあるモノを仮に「淫ら (L'Indecence)」と呼ぶのであるのならば、それに通底する様な作品群はどの様なモノかと思う。
何故ならぼくは、この絵画作品に一切、猥褻性を感じる事が出来ないからだ。
そう謂う観点からみればまだ、ジャケットデザインの方が納得がいく。納得はいくがそのデザインが封入してある楽曲『悲しみのアンジー (Angie)』とは程遠い所にある様に思う。
ぼくにはこのジャケット・デザインがローリング・ストーンズ・レコード (Rolling Stones Records) のロゴ・マーク [その唇 (Tongue) のデザインはジョン・パッシュ (John Pasche) による] の延長線上にあるだけの様にみえるのだ。楽曲にではない、それを演奏したバンドのアティチュードの表出としてである。だから、その楽曲に歌われたおんな [デヴィッド・ボウイ (David Bowie) と離別したばかりのアンジー・ボウイ (Angie Bowie) に捧ぐ歌だと謂う] と彼女に向けた心情と謂うよりも、そんな感情に同情する人々へ向けて差し出された彼等からの大きなあかんべえ (Akanbe) にも思えてしまう。それ故に、その点をもってこそ、ルネ・マグリット (Rene Magritte) 的と看做し得るのかもしれないと、ぼくは思う。
[オーバドゥ (Aubade) の広告ポスターに関しては、ブラジャー (Brassiere) で覆い隠された部分があたかも昆虫 (Insect) の複眼 (Compound Eye) であるかの様にみえ、蜂女 (The Wasp Woman) だねぇと思う。一般的に知られているのは特撮TV番組『仮面ライダー (Kamen Rider)』 [石森章太郎 (Shotaro Ishimori) 原作 1971~1973年 NET系列放映] に登場する彼女、蜂女 (Wasp Woman) だが、映画『蜂女の実験室 (The Wasp Woman)』 [ロジャー・コーマン (Roger Corman) 監督作品 1959年制作] やそのリメイク作『ザ・フェイス (The Wasp Woman)』 [ジム・ウィノースキー (Jim Wynorski) 監督作品 1995年制作] に登場する蜂女 (The Wasp Woman) も忘れられない。何故ならば、老醜に抗うが為に研究開発した新薬の副作用によって変身してしまったからだ。おんなのかなしさが、その隠喩 (Metaphor) と読めるのだ。]
画家の作品には絵画『イメージの裏切り (La trahison des images [Ceci n'est pas une pipe] (The Treachery Of Images [This Is Not A Pipe]))』 [1928~1929年作 ロサンゼルス・カウンティ美術館 (Los Angeles County Museum Of Art) 所蔵] がある。どこからどうみてもパイプ (Pipe) にしか思えない図象のその下に「これはパイプではない (Ceci n'est pas une pipe)」との1文がある。
ぼくはこの作品の顰に倣って、絵画『凌辱 (Le viol (The Rape))』の題名を、これは凌辱ではない (This Is Not A Rape) と誤読すべきではなかろうかとも、おもう。
画家が作品制作に向かった動機はさておき、ここにあるのはあっけらかんとしたみたまんまの叙述である。
おんなのからだってねぇ、よくみるとかおのようなんだよな。ここにめがあってここにはながあって、そうすればここはくちだ、と謂う様な [もしくはその逆、おんなのかおってねぇ ... 以下略]。
そこにはなんの深意もなければ真意もない。幼児の発想の様に単純明快なそれ [もしかしたら酔っ払いの戯言の様に理解不要のそれ] には、なんの含むモノもない。猥褻性や欲情とはひたすら遠いところに立脚している。
何故ならば、女性器を口蓋と看做すのはジークムント・フロイト (Sigmund Freud) でさえ登場しかねない解りやすい比喩だけれども、その結果 [かどうか知らないが] 恥毛をあたかも口髭であるかの様なモノへと変転させてしまっている。ここに男女、ふたつの性の置換をみてしまってもいいのだけれども [嗚呼、そんな論考はあっただろうか?]、ぼくの脳裏に浮かぶのは歌謡曲『うちの女房にゃ髭がある (My Wife Wears A Moustache)』 [作詞:星野貞志 (Sadashi Hoshino) 作曲:古賀政男 (Masao Koga) 歌唱:杉狂児 (Kyoji Sugi)、美ち奴 (Michi-yakko) 1936年発表] なのだから。
次回は「く」。
附記 1. :
そんな視点から本作に最も近い存在は、マンガ『ハレンチ学園 (Harenchi Gakuen)』[永井豪 (Go Nagai) 1968~1972年 週刊少年ジャンプ連載] の登場人物のひとり、オッピャイ先生 (Oppyai, The Teacher) である。彼は、女性の裸体を象った仮面を装着しているのである。
附記 2. :
そして、その視点から最も遠い [と同時に世間の一般的な認識による] 解釈は、小説『家畜人ヤプー (Yapoo, The Human Cattle )』 [沼正三 (Shozo Numa)作 1956年 奇譚クラブ 等連載] に幾つも登場するヤプー (Yapoo) 達の1形態、唇人形 (Tongue Doll) である。顔面が女性器であるそれは生ける性玩具として白人達に奉仕する。
後掲画像 [こちらから] は、その小説を原作とするマンガ『劇画家畜人ヤプー ( (Yapoo, The Human Cattle The Gekiga )』 [沼正三 (Shozo Numa) 原作 石森章太郎 (Shotaro Ishimori) 作画 1971年 都市出版社刊行] に登場するウズメ (Uzume) である。彼女は、鼻梁を男性器に改造されたセバスティアン・ヒック (Sebastian Hick ) に仕える唇人形 (Tongue Doll) で、彼等2人が古代日本 (Ancient Japan) にタイムワープ (Time Warp) してその世界に君臨した結果、日本神話 (Japanese Mythology) に於ける猿田彦 (Sarutahiko Okami) と天宇受賣命 (Ame-no-Uzume) の逸話を構築する。その小説内に於いては、このふたりが天狗 (Tengu) の創始なのだ。

附記 3. :
とは謂うものの、実はぼくのなかには、絵画『凌辱 (Le viol (The Rape))』に関してこれまで綴ってきた文脈とは全く異なるもうひとつの解釈があるのだ。
それは、小説『七瀬ふたたび (Nanase Futatabi : Nanase Once More)』 [筒井康隆 (Yasutaka Tsutsui) 作 1972~1974年 小説新潮等に連載] の中にある主人公である火田七瀬 (Nanase Hita) の実感、それを象徴化させた様なモノだ。
彼女はテレパス (Telepath) である。だから、彼女に相対峙する人物が彼女に対してどの様な印象や感慨を抱いているのか、その人物の内心が如実にその場で解ってしまう。そして、彼女に出逢う男性、それは初対面の場合もあるだろうし偶然通り過ぎるだけの行きずりの場合もあるだろう、彼等は押し並べて彼女が衣服を脱いだ姿、すなわち全裸となった彼女の肉体を妄想してしまうのだ。そして、彼女は男性達の無意識な連想を解読してしまう [彼女の援助者のひとりである岩淵恒夫 (Tsuneo Iwabuchi) が彼女に対して好意を持ちながらも彼女を敬遠してしまうのも、そこに理由がある]。
小説のそんな描写を読むと、ぼくはおんなの顔貌はすなわち彼女の裸体そのものであるのかもしれない、と思う。何故ならばそれは彼女の場合だけに関する、小説内の虚構の出来事ではないからだ。男性ならば恐らく誰しもがそんな経験をした事はあるだろう。衣服の描く稜線からその中身を想定したり、唇の妖しげに蠢く様をみてはそのおんなの下半身にあるもうひとつの唇へとおもいを至らせる、そんな行為や思考は。
そして、そんな感慨をそのまま視覚化したモノとして絵画『凌辱 (Le viol (The Rape))』は読めてしまう。その題名もすなわち、みることはすなわち犯すことと同義である、犯すことはみることと同義である、そんな主張を内実している様に思えるのだ。そんな主張を裏付ける様な語句、視姦と謂うモノもある。
世間一般には、こちらの解釈の方に得心がいくのであろうか。
その絵画作品に描かれてあるのは、ひとりの女性の顔貌の様でもある。と、同時にひとりの女性の裸体像の様でもある。
前者と理解すれば、彼女の顔全面に、女性の裸体を悪戯描きをしたと看做す事が出来る。
後者と理解すれば、彼女の裸体全部に、女性の表情を悪戯描きしたと看做す事が出来る。
そして、それは別々の異なるイメージがふたつあるのではなくて、イメージそのものはたったのひとつだ。そのひとつからふたつの意味を同時に表出しているのである。
と、もったいぶった、尊大な表現をしてみたが、なんの事はない。ルネ・マグリット (Rene Magritte) の絵画『凌辱 (Le viol (The Rape))』[1934年作 メニルコレクション (Menil Collection) 所蔵] をつらつらと文章化してみただけである。
その作品を描いたその画家の作品群に関する書籍のひとつに、美術評論『マグリットと広告 - これはマグリットではない (Magritte et la Publicite : Ceci n'est pas un Magritte)』 [ジョルジュ・ロック (Georges Roque) 著 日向あき子 (Akiko Hyuga) 監修 小倉正史 (Masashi Ogura) 訳 1983年刊行 1991年日本版刊行] がある。そこに綴られている論考は、画家の幾つもの作品が広告作品ないしはヴィジュアル・イメージに如何に流用乃至盗用されているのかと謂う視点と、画家の出自が広告業界でのヴィジュアル制作にある事から彼の作品が如何に既存の広告作品ないしはヴィジュアル・イメージに負っているのかと謂う視点、このふたつの観点から議論が展開されている。
ぼくとしては、そこで詳細に綴られている筆者の文章よりも、それに付随して掲載されてある幾つものイメージ、ルネ・マグリット (Rene Magritte) から広告へ、広告からルネ・マグリット (Rene Magritte) へ、ふたつの潮流のせめぎあいをみているのが楽しい。
そんな書籍なのである。
しかしながら、その書籍に画家のその絵画作品『凌辱 (Le viol (The Rape))』は掲載されていない。
その代わり? にカラー口絵頁冒頭に掲載されているのはザ・ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) の楽曲『悲しみのアンジー (Angie)』[アルバム『山羊の頭のスープ (Goats Head Soup)』収録 1973年発表] のシングル盤・ジャケット写真である [こちら等を参照の事]。
そこにあるのは金髪の女性の裸体である。そしてその肉体前面にひとりの女性の顔貌がボディ・ペイント (Body Painting) されている。それをもって、そのジャケット・デザインが絵画『凌辱 (Le viol (The Rape))』の剽窃もしくは引用であるかの様な印象を抱かされる [尤も、このジャケット・デザインに関する言及は一切ない。この書籍を繙くとその最初の頁にこれだけが印刷されてあるだけなのだ]。
そして、そのジャケット写真は、 [モノクロの] 本文にも登場する。こちらはこの作品と並列して、同種の試みと思われる作品が掲載されてある。
ひとつは雑誌『アート・ティチュード・インターナショナル (Artitudes International)』[1975年 4~6月号 特集『淫ら (L'Indecence)』]の表紙である。そこに大きく印刷されてあるのは絵画『凌辱 (Le viol (The Rape))』そのものである。
ひとつはオーバドゥ (Aubade) の広告ポスター [1981年 ジャック・ペグ (Jacques Peg) 撮影] である。黒髪の女性の顔貌が真正面から撮影されてあるのだが、彼女の両眼はブラジャー (Brassiere) で覆い隠されてある。その結果、絵画『凌辱 (Le viol (The Rape))』に描かれた女性の両眼が乳房である様に、そこに写る黒髪の女性の隠された両眼は乳房であるかの様な印象を抱かされる。
猶、蛇足ではあるが言い添えておく。ここでも件のジャケット・デザインも含め、著者からはなんの叙述もない。その頁にあるのはみっつの図版とそのそれぞれの出典のみである。
絵画『凌辱 (Le viol (The Rape))』を紹介もしくは言及する文章は、ネット上に幾つか散見されるが、そのどれをみてもなんとなく腑に落ちない。
画家の制作の動機とそこから発展させた解釈はある。それは如何にも尤もらしい風情をしてそこに佇んでいるが、それがその作品の正体なのかと謂うと、途端につかまえた筈のモノにするりと逃げられてしまう様に思える。
つまり、ここにあるのは一体なんだ、それに関して明確な解答が一切ないのだ。もしかしたら、作品をみているのではなくて作品の題名だけをみているのではないだろうか、そんな気もするのである。
例えば、先に紹介した雑誌『アート・ティチュード・インターナショナル (Artitudes International)』は「淫ら (L'Indecence)」の特集号である。単純にぼくは、この絵画作品のどこに「淫ら (L'Indecence)」があるのかとおもう。また、逆にこの絵画作品のなかにあるモノを仮に「淫ら (L'Indecence)」と呼ぶのであるのならば、それに通底する様な作品群はどの様なモノかと思う。
何故ならぼくは、この絵画作品に一切、猥褻性を感じる事が出来ないからだ。
そう謂う観点からみればまだ、ジャケットデザインの方が納得がいく。納得はいくがそのデザインが封入してある楽曲『悲しみのアンジー (Angie)』とは程遠い所にある様に思う。
ぼくにはこのジャケット・デザインがローリング・ストーンズ・レコード (Rolling Stones Records) のロゴ・マーク [その唇 (Tongue) のデザインはジョン・パッシュ (John Pasche) による] の延長線上にあるだけの様にみえるのだ。楽曲にではない、それを演奏したバンドのアティチュードの表出としてである。だから、その楽曲に歌われたおんな [デヴィッド・ボウイ (David Bowie) と離別したばかりのアンジー・ボウイ (Angie Bowie) に捧ぐ歌だと謂う] と彼女に向けた心情と謂うよりも、そんな感情に同情する人々へ向けて差し出された彼等からの大きなあかんべえ (Akanbe) にも思えてしまう。それ故に、その点をもってこそ、ルネ・マグリット (Rene Magritte) 的と看做し得るのかもしれないと、ぼくは思う。
[オーバドゥ (Aubade) の広告ポスターに関しては、ブラジャー (Brassiere) で覆い隠された部分があたかも昆虫 (Insect) の複眼 (Compound Eye) であるかの様にみえ、蜂女 (The Wasp Woman) だねぇと思う。一般的に知られているのは特撮TV番組『仮面ライダー (Kamen Rider)』 [石森章太郎 (Shotaro Ishimori) 原作 1971~1973年 NET系列放映] に登場する彼女、蜂女 (Wasp Woman) だが、映画『蜂女の実験室 (The Wasp Woman)』 [ロジャー・コーマン (Roger Corman) 監督作品 1959年制作] やそのリメイク作『ザ・フェイス (The Wasp Woman)』 [ジム・ウィノースキー (Jim Wynorski) 監督作品 1995年制作] に登場する蜂女 (The Wasp Woman) も忘れられない。何故ならば、老醜に抗うが為に研究開発した新薬の副作用によって変身してしまったからだ。おんなのかなしさが、その隠喩 (Metaphor) と読めるのだ。]
画家の作品には絵画『イメージの裏切り (La trahison des images [Ceci n'est pas une pipe] (The Treachery Of Images [This Is Not A Pipe]))』 [1928~1929年作 ロサンゼルス・カウンティ美術館 (Los Angeles County Museum Of Art) 所蔵] がある。どこからどうみてもパイプ (Pipe) にしか思えない図象のその下に「これはパイプではない (Ceci n'est pas une pipe)」との1文がある。
ぼくはこの作品の顰に倣って、絵画『凌辱 (Le viol (The Rape))』の題名を、これは凌辱ではない (This Is Not A Rape) と誤読すべきではなかろうかとも、おもう。
画家が作品制作に向かった動機はさておき、ここにあるのはあっけらかんとしたみたまんまの叙述である。
おんなのからだってねぇ、よくみるとかおのようなんだよな。ここにめがあってここにはながあって、そうすればここはくちだ、と謂う様な [もしくはその逆、おんなのかおってねぇ ... 以下略]。
そこにはなんの深意もなければ真意もない。幼児の発想の様に単純明快なそれ [もしかしたら酔っ払いの戯言の様に理解不要のそれ] には、なんの含むモノもない。猥褻性や欲情とはひたすら遠いところに立脚している。
何故ならば、女性器を口蓋と看做すのはジークムント・フロイト (Sigmund Freud) でさえ登場しかねない解りやすい比喩だけれども、その結果 [かどうか知らないが] 恥毛をあたかも口髭であるかの様なモノへと変転させてしまっている。ここに男女、ふたつの性の置換をみてしまってもいいのだけれども [嗚呼、そんな論考はあっただろうか?]、ぼくの脳裏に浮かぶのは歌謡曲『うちの女房にゃ髭がある (My Wife Wears A Moustache)』 [作詞:星野貞志 (Sadashi Hoshino) 作曲:古賀政男 (Masao Koga) 歌唱:杉狂児 (Kyoji Sugi)、美ち奴 (Michi-yakko) 1936年発表] なのだから。
次回は「く」。
附記 1. :
そんな視点から本作に最も近い存在は、マンガ『ハレンチ学園 (Harenchi Gakuen)』[永井豪 (Go Nagai) 1968~1972年 週刊少年ジャンプ連載] の登場人物のひとり、オッピャイ先生 (Oppyai, The Teacher) である。彼は、女性の裸体を象った仮面を装着しているのである。
附記 2. :
そして、その視点から最も遠い [と同時に世間の一般的な認識による] 解釈は、小説『家畜人ヤプー (Yapoo, The Human Cattle )』 [沼正三 (Shozo Numa)作 1956年 奇譚クラブ 等連載] に幾つも登場するヤプー (Yapoo) 達の1形態、唇人形 (Tongue Doll) である。顔面が女性器であるそれは生ける性玩具として白人達に奉仕する。
後掲画像 [こちらから] は、その小説を原作とするマンガ『劇画家畜人ヤプー ( (Yapoo, The Human Cattle The Gekiga )』 [沼正三 (Shozo Numa) 原作 石森章太郎 (Shotaro Ishimori) 作画 1971年 都市出版社刊行] に登場するウズメ (Uzume) である。彼女は、鼻梁を男性器に改造されたセバスティアン・ヒック (Sebastian Hick ) に仕える唇人形 (Tongue Doll) で、彼等2人が古代日本 (Ancient Japan) にタイムワープ (Time Warp) してその世界に君臨した結果、日本神話 (Japanese Mythology) に於ける猿田彦 (Sarutahiko Okami) と天宇受賣命 (Ame-no-Uzume) の逸話を構築する。その小説内に於いては、このふたりが天狗 (Tengu) の創始なのだ。

附記 3. :
とは謂うものの、実はぼくのなかには、絵画『凌辱 (Le viol (The Rape))』に関してこれまで綴ってきた文脈とは全く異なるもうひとつの解釈があるのだ。
それは、小説『七瀬ふたたび (Nanase Futatabi : Nanase Once More)』 [筒井康隆 (Yasutaka Tsutsui) 作 1972~1974年 小説新潮等に連載] の中にある主人公である火田七瀬 (Nanase Hita) の実感、それを象徴化させた様なモノだ。
彼女はテレパス (Telepath) である。だから、彼女に相対峙する人物が彼女に対してどの様な印象や感慨を抱いているのか、その人物の内心が如実にその場で解ってしまう。そして、彼女に出逢う男性、それは初対面の場合もあるだろうし偶然通り過ぎるだけの行きずりの場合もあるだろう、彼等は押し並べて彼女が衣服を脱いだ姿、すなわち全裸となった彼女の肉体を妄想してしまうのだ。そして、彼女は男性達の無意識な連想を解読してしまう [彼女の援助者のひとりである岩淵恒夫 (Tsuneo Iwabuchi) が彼女に対して好意を持ちながらも彼女を敬遠してしまうのも、そこに理由がある]。
小説のそんな描写を読むと、ぼくはおんなの顔貌はすなわち彼女の裸体そのものであるのかもしれない、と思う。何故ならばそれは彼女の場合だけに関する、小説内の虚構の出来事ではないからだ。男性ならば恐らく誰しもがそんな経験をした事はあるだろう。衣服の描く稜線からその中身を想定したり、唇の妖しげに蠢く様をみてはそのおんなの下半身にあるもうひとつの唇へとおもいを至らせる、そんな行為や思考は。
そして、そんな感慨をそのまま視覚化したモノとして絵画『凌辱 (Le viol (The Rape))』は読めてしまう。その題名もすなわち、みることはすなわち犯すことと同義である、犯すことはみることと同義である、そんな主張を内実している様に思えるのだ。そんな主張を裏付ける様な語句、視姦と謂うモノもある。
世間一般には、こちらの解釈の方に得心がいくのであろうか。
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