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2021.11.09.08.05

うやま

とは、超芸術トマソン (Hyperart Thomasson) に於けるその1類型もしくはその1部を成す概念である。

その発見者のひとりである赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa) が発表した超芸術トマソン (Hyperart Thomasson) に関する書物もしくは記述の中に登場するその物件の中から、分類し整理した書物に2分冊の書籍、『トマソン大図鑑 無の巻 (Thomasson Volume Null)』 [赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa) 編 1996年刊行] と『トマソン大図鑑 空の巻 (Thomasson Volume Empty』 [赤瀬川原平 (Genpei Akasegawa) 編 1996年刊行] がある。その後者にウヤマ (The Uyama) は纏められてある。そして、その分類の最初の頁に、ウヤマ (The Uyama) に関して次の様に定義づけられてあるのだ。

「看板文字などの一部分が消去されている物件。特に一部消去のあと、その文字を改変して再利用を考えているフシがある。第一物件の「卯山○店・○はウヤマ」によってはじめて意識されたことから、ウヤマの名を冠する。<以下略>」

ここまでは問題ない。その定義に則って路上で実際に、ウヤマ (The Uyama) を発見出来るや否やは不明だが、その書籍に掲載されてある10物件の、見方、鑑賞の手法を理解するのにはなんの問題もない。

だけれども、その書籍での最終分類 [であると同時に2分冊21分類の掉尾でもある] の蒸発 (Evaporation) へと至ると途端にある疑問が沸く。

猶、蒸発 (Evaporation) とは、その書籍に於いて、次の様に定義されている。

「物件の材質的な寿命などを要因として、その物体が消失した痕跡を指す。物体に限らず、物体表面の図象の消失であることも多い。<以下略>」

そしてぼくはおもうのだ。
ウヤマ (The Uyama) と蒸発 (Evaporation)、その違いは一体なんであろうか、と。

例えば、その書籍の表紙写真にあるのは、なにも描かれていない / 書かれていない、黄色の四角形の標識である。恐らく、道路標識 (Traffic Sign) の一であるスクールゾーン (School Area) の、その中央に墨くろぐろと描かれている筈の1組の児童男女の図案だけが退行 (Regression) もしくは脱落 (Omission) もしくは消失 (Disappearance) したモノと思われる [勿論、他の道路標識 (Traffic Sign) である可能性は否定しない] 。つまり、その黄色い四角形の中にあるべき図案が、文字通りに蒸発 (Evaporation) しているのである。そして、その点をもって当該物件を超芸術トマソン (Hyperart Thomasson) に於ける蒸発 (Evaporation) 物件と看做されているのである。
だが、と思う。
例えば、その標識が、赤色の逆三角形の形状だとしたらどうなのだろう。つまり、道路標識 (Traffic Sign) の止まれ (Stop) からそこにあるべき白色の3文字、止まれ (Stop) が退行 (Regression) もしくは脱落 (Omission) もしくは消失 (Disappearance) したとしたのならば、この物件は超芸術トマソン (Hyperart Thomasson) に於ける蒸発 (Evaporation) 物件と看做されるべきモノなのだろうか。そうではない、ウヤマ (The Uyama) 物件と看做すべきなのだろうか。

そこがぼくの疑念するところなのである [勿論、その書籍に規定されてあるそれぞれの定義の、特に<以下略>として部分を丁寧に読んでいけば、この2類型の差異は明確化されないとは限らないが]。

議論を単純化させて、仮に、ウヤマ (The Uyama) を文字の退行 (Regression) もしくは脱落 (Omission) もしくは消失 (Disappearance) 物件であると看做し、蒸発 (Evaporation) をそれ以外の図案の退行 (Regression) もしくは脱落 (Omission) もしくは消失 (Disappearance) 物件だと定義してみよう。そうすると、こんな疑問が生ずる可能性がある。
ウヤマ (The Uyama) とは蒸発 (Evaporation) に属する1類型であり、数学 (Mathematics) での集合 (Set) で考えると、ウヤマ (The Uyama) は蒸発 (Evaporation) の部分集合 (Subset) なのであると。なんとなれば、文字も記号の一種である以上、文字も図案の一であると看做せるからなのだから [もうひとつの可能性として集合 (Set) の考えに準拠して定義すれば、ウヤマ (The Uyama) と謂う集合 (Set) と蒸発 (Evaporation) と謂う集合 (Set) には、互いに交じりあう部分、すなわち共通部分 (Intersection) がある、そんなふたつの集合 (Set) の関係性の可能性もある]。

一見するとその考え方は正しい様には思える。だけれども、いまひとつ説得力がない。
それは [図案化された] 文字とそれ以外の図案との訴求力の違いと謂っても良い。
具体例を挙げてきちんと言説化する事は出来ないけれども、ウヤマ (The Uyama) 物件の幾つかには、あるべき文字の全部またはその一部の、退行 (Regression) もしくは脱落 (Omission) もしくは消失 (Disappearance) によって、本来そこにあるべき意味とは異なる意味、もしくはそこにあるべき語句または文章とは異なる語句または文章が生成されてている様に、ぼくには思えているのだ。つまり、誤読を誘発する装置としてウヤマ (The Uyama) は機能している様に思えるのである。
その1点をもって、ウヤマ (The Uyama) と蒸発 (Evaporation) は全く異なる類型として評価される、とぼくは思っているのだがどうか。
逆に謂えば、蒸発 (Evaporation) と解し得る物件 [すなわち文字ではない図案の退行 (Regression) もしくは脱落 (Omission) もしくは消失 (Disappearance)] も、そこに誤読の可能性があるのならば、その物件はウヤマ (The Uyama) 物件と解釈すべきとぼくは思っているのである。
つまり、ここに於いて、ウヤマ (The Uyama) と蒸発 (Evaporation) の差異は、その退行 (Regression) もしくは脱落 (Omission) もしくは消失 (Disappearance) したモノが文字なのか図案なのかと謂う点にはないとさえ、ぼくには思えてくるのである。

images
上掲画像は、もとより超芸術トマソン (Hyperart Thomasson) ではない。何故ならば、超芸術トマソン (Hyperart Thomasson) が経年もしくは自然現象によってのみ生ずるモノであるのに対し、上掲物件は人事、しかも作為によるもので誕生しているのだから。
だが、その点、すなわち超芸術トマソン (Hyperart Thomasson) や否やは看過して、ひとつの思考実験として上掲画像を観てみたいのだ。

ビルの屋上に広告看板が掲げられている。そしてその画面は無地、白色である。
そのビルが新築であるのならば、しばらくはこんな状態が続くがいずれ、賑やかな文字や図象が掲載されるのであろう。
だけれども、昨日まであったあの広告が消え失せ、こんな無地、白色の画面を晒しているのだとしたら、もしかしたら、これをもって蒸発 (Evaporation) と看做し得るのかもしれない。
しかし、上掲画像は記事『東京の看板が、白かった (The Signboards In Tokyo Was White All Over)』 [大塚幸代 (Yukiyo Otsuka) 著 2009デイリーポータルZ (Daily Portal Z) 掲載] からのモノ。つまり、リーマンショック (Bankruptcy Of Lehman Brothers) [2008年] の余波、その歳末の光景である。
そしてそれを知る事によって、無地、白色の画面には、ぼく達の眼にはみえない筈の文字が浮かび上がってくる筈なのだ。果たしてそれは何か。不況 (Recession)、倒産 (Bankruptcy)、失業 (Unemployment)、そんな語句の様な気がする。
例えば仮に、東日本大震災 (Aftermath Of Yhe 2011 Tohoku Earthquake And Tsunami) [2011年] 直後の東京 (Tokyo) で観られた光景だとしたら、そこに浮かび上がる文字は、震災 (Earthquake) もしくは自粛 (Self-restraint)、そんな語句であろう。
そして、それをもってすれば、上掲物件はウヤマ (The Uyama) 物件と看做し得るのではないか、とぼくは考えているのである。

次回は「」。

附記 1. :
[もしかしたらここまでの拙稿での論旨を一才合切、無効にしてしまうかも知れないが、まぁ、いい。]
例えば、上掲画像がリーマンショック (Bankruptcy Of Lehman Brothers) の余波ではない、それ以前の平時の光景だったと仮定しよう。
そして、その撮影直前までは、ある広告がなんの問題もなく掲載されていたとしよう。そしてそれがいまないのだ。そこでそれを眺めるぼく達は考える。そこに掲載されていた商品になんらかの瑕疵が発覚したのだろうか、その商品と共にいるべきある芸能人に問題が生じたのだろうか、それとも、単純に新しい広告図案へと張り替えられる一瞬の空白期なのだろうか、と。
そんな思考は無地、白色の画面にみえない文字を顕現させる事になる。例えば、上の思案に即していけば、登場順に、欠陥 (Defect)、不祥事 (Scandal)、契約更改 (Contract Renewal) と謂う語句が浮かんでくるであろう。
だが、その文字列は誰もが共有可能とは限らない、同じ無地、白色の画面を観て、ヒトによっては決算期 (Accounting Period) と謂う語句が生じかねない。
だが、それはそれで良いのだと思う。
そこにあるべきものの不在によって、発見し得るなにかがあるのであるのならば。
その能動的な行為こそが [ウヤマ (The Uyama) や蒸発 (Evaporation) に限らず] 超芸術トマソン (Hyperart Thomasson) を発見を生じせしめると、ぼくは考えているのである。

附記 2. :
では例えば、上述した道路標識 (Traffic Sign) のスクールゾーン (School Area) ではどうなるか。そこではこの物件を蒸発 (Evaporation) と看做していたが、[拙稿に於ける解釈での] ウヤマ (The Uyama) として看做し得ないでもない。1組の児童男女の図案が退行 (Regression) もしくは脱落 (Omission) もしくは消失 (Disappearance) したのである。例えばそこに、家出 (Runaway From Home)、駆け落ち (Elopement)、事故 (Accident On The Road)、誘拐 (Kidnapping) そして夏休み (Summer Vacation) と謂う語句がその黄色の四角の中に浮かび上がってはこないだろうか。もし、そんな可能性があるのだとしたら、この物件はウヤマ (The Uyama) と看做し得るのだ [そしてその考えを敷衍させると、道路標識 (Traffic Sign) の止まれ (Stop) はウヤマ (The Uyama) 物件と謂うよりも 蒸発 (Evaporation) と謂えてしまうのではないか]。
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