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2021.10.26.08.08

ふらんけんしゅたいんあんばうんど

曰く私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか (How I Made A Hundred Movies In Hollywood And Never Lost A Dime) であるロジャー・コーマン (Roger Corman) が永らく携わってきたプロデュース業から一転、約20年振りに監督業に復帰したのが本作である。そして結果的にこの映画が彼の最期の監督作となった。

拙稿の主題となる映画『フランケンシュタイン~禁断の時空~ (Frankenstein Unbound)』 [原作:ブライアン・オールディス (Brian Aldiss) ロジャー・コーマン (Roger Corman) 監督作品 1990年制作] は、小説『解放されたフランケンシュタイン (Frankenstein Unbound)』 [ブライアン・オールディス (Brian Aldiss) 作;1973年刊行] の映画化作品である。申し訳ないがぼくは未読である。小説から映画へと翻案される事により、物語の幾つもの事象が取捨選択された事と思うが、これは想像の域にしかない。そして、それらの事象をつぶさに検証していけば、ロジャー・コーマン (Roger Corman) と謂う映画監督の特性が露わにされる様な気もするが、ここではそれは出来ない。
拙稿が主題とするのは、あくまでも映画作品のみの事である。

物語は2031年と謂う未来から語り起こされる。未来と謂っても現在の視点でみれば僅かに10年後の世界だ。そこで大量殺戮兵器を開発中の科学者ジョー・ブキャナン (Joe Buchanan) [演:ジョン・ハート (John Hurt)] が、愛用の人工知能搭載の最先端乗用車と共に、1817年へとタイムスリップ (Travel Into The Past) してしまう。物語はここから始まるのだ。
彼はそこでヴィクター・フランケンシュタイン (Victor Frankenstein) [演:ラウル・ジュリア (Raul Julia)] なる人物と遭遇する。謂わずと知れた小説『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス (Frankenstein : Or The Modern Prometheus)』 [メアリー・シェリー (Mary Shelley) 作 1818年発表] の主人公のひとりだ。そして、彼の家庭を舞台とした殺人事件の裁判を傍聴する事となる。その家族の末子、ヴィクター・フランケンシュタイン (Victor Frankenstein) にとっての弟がそこで雇用されている家政婦ジュスティーヌ・モリッツ (Justine Moritz) [演;キャサリン・コーマン (Catherine Corman)] に殺害されたと謂う。ジョー・ブキャナン (Joe Buchanan) はその傍聴席でひとりの女性を認める。メアリー・シェリー (Mary Shelley) [演:ブリジット・フォンダ (Bridget Fonda)] である。謂うまでもなく、その小説を執筆した作者である。彼がタイムスリップ (Travel Into The Past) したその時代のその地では、創作と現実、虚像と実像が混濁しているのである。

と、ぼくの理解している範囲内での、その映画の粗筋を綴ると、とても興味深そうな展開がここから先に待ち受けている様な気がする。しかし、その期待は少しづつ、裏切られていくのである。

未来の科学者と現在 [ここで謂う現在とは1817年の事である] の科学者が出逢うと謂うだけで、このふたりが時には協力し、そして時には対立しながらも、生命の創造、すなわち、人造人間 (Android) の生成を行う物語が産まれる様な予感を抱く。そして、その結果として怪物 (Frankenstein's Monster) [演:ニック・ブリンブル (Nick Brimble)] が誕生するのではないか、と。しかしながら本作に於いては既に怪物 (Frankenstein's Monster) はヴィクター・フランケンシュタイン (Victor Frankenstein) が独自に生誕せしめているのだ。ジョー・ブキャナン (Joe Buchanan) がヴィクター・フランケンシュタイン (Victor Frankenstein) に出逢った際には、既に怪物 (Frankenstein's Monster) は存在していたのである。否、それ故に、ヴィクター・フランケンシュタイン (Victor Frankenstein) の末弟は殺害され、ジュスティーヌ・モリッツ (Justine Moritz) はその責めを担わされて絞首刑とならなければならないのである。彼が登場するその小説の時系列に添えば、もうその殺害事件とその裁判が行われている時点で、怪物 (Frankenstein's Monster) が産まれているのは、その小説の読者にとってあまりに自明なのである。
また、ジョー・ブキャナン (Joe Buchanan) がその小説の作家メアリー・シェリー (Mary Shelley) と遭遇すると謂う事は、その物語が生成された一夜、すなわちディオダティ荘の怪奇談義 (At Villa Diodati Summer Of 1816) [1816年] にジョー・ブキャナン (Joe Buchanan) が関与する様にも想える。しかし、その様な事件、描写は本作には顕れない。
そして、虚実入り乱れるかたちで、ジョー・ブキャナン (Joe Buchanan) の眼前でその小説が描く物語が語られていくのであるのならば、虚の存在であるヴィクター・フランケンシュタイン (Victor Frankenstein) とメアリー・シェリー (Mary Shelley) の邂逅が予見されるが、その様な事態もこの映画には決して顕れないのであった。彼女は、ジュスティーヌ・モリッツ (Justine Moritz) に死刑判決が下されるその場で裁判の成り行きを傍聴するに留まる。怪物 (Frankenstein's Monster) に遭遇する事もない。
さらに、映画の中ではジョー・ブキャナン (Joe Buchanan) によってメアリー・シェリー (Mary Shelley) 本人に向けて、いずれ彼女が綴るであろう小説を呈示する場面がある。さて、その後、そこにあった小説は誰の手許に遺されたのか。そして、彼女がその小説をその後、自身の執筆であるとして出版したとしたら、果たしてその小説の作者とは誰なのか。つまり、そこにタイム・パラドックス (Time Paradox) が生じる事となる。それはそのまま1篇の物語の主題となりうるものでもある。

ここまでの拙稿に登場した数名の人物達の行動や心理を深く掘り下げていけば、深淵な主題も難解な描写も興味深い逸話も、幾らでも誕生せしめる事が出来ようモノなのに、この映画はそちらに舵を向けるのを敢えて拒んでいるかの様にも想える。

そして、映画はぼくの幾つもの残念を引き摺りながら、ジョー・ブキャナン (Joe Buchanan) はヴィクター・フランケンシュタイン (Victor Frankenstein) の要請に応ずるが儘に、第2の生命の創造、すなわち怪物 (Frankenstein's Monster) の花嫁 (The Bride) の生誕に向かう事になる。
本作が描いているのはつまり、怪物 (Frankenstein's Monster) の誕生ではなくてその後、花嫁 (The Bride) の誕生を主題とするモノなのである。
つまり、本作が原作としているのは小説『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス (Frankenstein : Or The Modern Prometheus)』では勿論なく、その映画化作品である映画『フランケンシュタイン (Frankenstein)』 [原作:メアリー・シェリー (Mary Shelley) ジェイムズ・ホエール (James Whale) 監督作品 1931年制作] でもない。その続編である映画『フランケンシュタインの花嫁 (Bride Of Frankenstein』 [原作:メアリー・シェリー (Mary Shelley) ジェイムズ・ホエール (James Whale) 監督作品 1935年制作] なのである。

それを前提にすれば、ぼく達は次の事に注視しなければならない。
その映画『フランケンシュタインの花嫁 (Bride Of Frankenstein』に於いては、物語の冒頭にメアリー・シェリー (Mary Wollstonecraft Shelley) [演:エルザ・ランチェスター (Elsa Lanchester)] が登場する事を。彼女はこれから語られるであろうその映画の語部 (Narrator) として、そこに顕れるのだ。そして、その映画では物語の最終部に登場する花嫁 (The Bride) [演:エルザ・ランチェスター (Elsa Lanchester)] を、メアリー・シェリー (Mary Wollstonecraft Shelley) を演じたエルザ・ランチェスター (Elsa Lanchester) が演じているのである。つまり、その映画では作家自身とその彼女が綴る物語の登場人物のひとりである花嫁 (The Bride) とを同一視しているのである。
それを前提として、その映画の題名をもう一度、観てみよう。
映画『フランケンシュタインの花嫁 (Bride Of Frankenstein』。
そこにある花嫁 (The Bride) とは誰か。厳密に謂えば、花嫁 (The Bride) とは、ヘンリー・フランケンシュタイン (Henry Frankenstein) [演:コリン・クライヴ (Colin Clive)] の許嫁エリザベス (Elizabeth) [演:ヴァレリー・ホブソン (Valerie Hobson)] の事である。ヘンリー・フランケンシュタイン (Henry Frankenstein) が怪物 (The Monster) [演:ボリス・カーロフ (Boris Karloff)] の為に生成する人造人間 (Android) は、物語のなかでは"おともだち (Mate)" と呼ばれる。決して花嫁 (The Bride) ではない。だが、固有の名前を持たない筈の怪物 (The Monster) がいつしか、その創造主の名をそのまま冠し、フランケンシュタイン (Frankenstein) と呼ばれる様になった慣行を受けて、"おともだち (Mate)" がいつしか花嫁 (The Bride) と呼ばれる様になったのだ。それを大袈裟な表現を駆使しすれば、その映画に於いては、メアリー・シェリー (Mary Wollstonecraft Shelley) と花嫁 (The Bride) とエリザベス (Elizabeth) による三位一体 (Trinity) が予見されている事となる。

そんな三位一体 (Trinity) を前提にすれば、映画『フランケンシュタイン~禁断の時空~ (Frankenstein Unbound)』に於いては、花嫁 (The Bride) は怪物 (Frankenstein's Monster) によって惨殺されたエリザベス ラヴェンツァ (Elizabeth Lavenza) [演:キャサリン・ラベット (Catherine Rabett)] を再生する事によって誕生するのだ。だから、エリザベス ラヴェンツァ (Elizabeth Lavenza) と花嫁 (The Bride) とのふたつの局面をもつ1個の肉体を巡って、ヴィクター・フランケンシュタイン (Victor Frankenstein) と怪物 (Frankenstein's Monster) による愛と憎悪の関係が誕生する可能性すらそこにあった筈なのである。

次回は「」。

附記 1. :
原作小説に於けるふたりの花嫁、エリザベス ラヴェンツァ (Elizabeth Lavenza)と"おともだち (Mate)"の関係を綴れば、怪物 (The Creature) からの要請を拒み、その肉体を破棄して"おともだち (Mate)"生成を拒絶したヴィクター・フランケンシュタイン (Victor Frankenstein) への報復として、エリザベス ラヴェンツァ (Elizabeth Lavenza) は怪物 (The Creature) によって惨殺される。
つまり、原作小説と映画『フランケンシュタイン~禁断の時空~ (Frankenstein Unbound)』では、順番が逆転されている訳である。
そして、この後に制作公開される映画『フランケンシュタイン (Mary Shelley's Frankenstein)』 [ケネス・ブラナー (Kenneth Branagh) 監督作品 1994年制作] は、原作の世界を忠実に映像化する事を謳っているのにもかかわらず、死んでしまったエリザベス (Elizabeth) [演:ヘレナ・ボナム=カーター (Helena Bonham Carter)] を基に花嫁 (The Bride) が誕生する事になる。映画『フランケンシュタイン~禁断の時空~ (Frankenstein Unbound)』での順番に準拠しているのだ。しかも、その創造に対しては冤罪を着せられて絞首刑となったジャスティン (Justine) [演:トレビン・マクドーウェル (Trevyn McDowell)] の肉体が使用されている。
映画『フランケンシュタイン (Mary Shelley's Frankenstein)』では、花嫁 (The Bride) とエリザベス (Elizabeth) とジャスティン (Justine) との三位一体が予見されるのである。

附記 2. :
ジョー・ブキャナン (Joe Buchanan) は未来から顕れた人物であるのにも関わらずに、そこで育んだ知識や頭脳が直接、物語に影響を与える事は殆どない。彼の行動原理の殆どは、彼が小説『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス (Frankenstein : Or The Modern Prometheus)』の読者であり、その結果、ここに顕れる事実の背後にある真実を知っている、と謂う事に過ぎない。彼が最初に試みたのは冤罪の被害者たるジュスティーヌ・モリッツ (Justine Moritz) の救済であるのもそんな所以である。
寧ろ、物語の進展の背後に存在するのは、彼と共にタイムスリップ (Travel Into The Past) してしまった乗用車の方にある。それがなければ、彼はメアリー・シェリー (Mary Shelley) との逢瀬を愉しむ事も出来なかっただろうし、花嫁 (The Bride) の生誕も決してなし得なかっただろうし、そして、彼が物語の最期の舞台となる時代へとタイムスリップ (Travel Into The Past) する事も出来なかったに違いない。
だから、彼にその乗用車抜きのジョー・ブキャナン (Joe Buchanan) だけのタイムスリップ (Travel Into The Past) によってこの物語は語りきる事が出来ただろうかと謂えば、きっと恐らく無理だろう。
せいぜいがところ、マンガ『ジン -仁- (Jin)』 [村上もとか (Motoka Murakami) 作 2000 2010スーパージャンプ連載] の様な物語に陥るのが関の山だろう。

附記 3. :
物語の主人公が愛用の乗用車と共にタイムスリップ (Travel Into The Past) を果たすと謂う点でみれば、誰もがバック・トゥ・ザ・フューチャー・シリーズ (Back To The Future Franchise) を憶い出すだろう。その第3部である映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー パート3 (Back To The Future Part III)』 [ロバート・ゼメキス (Robert Zemeckis) 監督作品 1990年制作] はこの映画と同様の制作・公開年である。もしかしたら、ロジャー・コーマン (Roger Corman) 監督はそれを前提としてこの映画を制作したのかもしれない。
ところで、乗用車と共にタイムスリップ (Travel Into The Past) するのはバック・トゥ・ザ・フューチャー・シリーズ (Back To The Future Franchise) だけではない。映画『キャプテン・スーパーマーケット [死霊のはらわたIII] (Bruce Campbell Vs. Army Of Darkness』 [サム・ライミ (Sam Raimi) 監督作品 1993年制作] がある。死霊のはらわたシリーズ (The Evil Dead Franchise) 第3作である。中世にタイムスリップしてしまった主人公が死霊軍団 (The Army Of Darkness) と死闘を演ずると謂う視点だけをみれば、バック・トゥ・ザ・フューチャー・シリーズ (Back To The Future Franchise) よりもこちらの方が世界観が近い様に想える。
と、するとそれらの同種の構造をもつ映画作品の原点に、小説『解放されたフランケンシュタイン (Frankenstein Unbound)』が位置するのであろうか。
だがそれを鵜呑みにして是と謂う訳にはいかないのだ。何故ならばぼくは、TVアニメ番組『未来からきた少年 スーパージェッター (Boy Came From The Future (Super Jetter))』 [原作:久松文雄 (Fumio Hisamatsu) 19651966TBS系列放映] の存在に気づいてしまったのだから [下掲画像はこちらから]。
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附記 4. :
美術評論『独身者機械 (Les Machines cdelibataires)』 [ミシェル・カルージュ (Michel Carrouges) 著 1954年刊行] に於いては、独身者 (Celibataires) の一例として、映画『フランケンシュタイン (Frankenstein)』に於ける実験室の構造を呈示している。
だが、小説『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス (Frankenstein : Or The Modern Prometheus)』と謂う物語を独身者 (Celibataires) の物語とするにはそれだけを論拠とするのでは不足している様に想える。
ここまで綴ってきたぼくには、メアリー・シェリー (Mary Shelley) とエリザベス ラヴェンツァ (Elizabeth Lavenza) とジュスティーヌ・モリッツ (Justine Moritz) とが一身の花嫁 (La Mariee) と融合していく過程を凝視しながら、ヴィクター・フランケンシュタイン (Victor Frankenstein) や怪物 (The Creature) といった幾人もの独身者達 (Celibataires) が無限の円環運動を行っている様に想えるのである。あたかもその美術評論が依っている美術作品『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁 (La Mariee mise a nu par ses celibataires, meme)』 [マルセル・デュシャン (Marcel Duchamp) 19151923年制作 フィラデルフィア美術館 (Philadelphia Museum Of Art) 所蔵] を再現するかの様な有り様で。

附記 5, :
とすると、フランケンシュタイン (Frankenstein) は果たして、解放 (Unbound) されたのであろうか? そして、ここで謂うフランケンシュタイン (Frankenstein) とはヴィクター・フランケンシュタイン (Victor Frankenstein) なのか、怪物 (The Creature) なのか。それともその両者を共にさすのであろうか。
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