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2021.10.05.08.25

どりらーきらー

ブライアン・イーノ (Brian Eno) の数限りないプロデュース作のひとつにオムニバス・アルバム『ノー・ニューヨーク (No New York)』 [1978年発表] がある。当時の彼が着目したニューヨーク (New York City) のシーン、その最も先鋭的と思われる4バンドの演奏と楽曲をコンパイルした作品である。
映画『ドリラー・キラー (The Driller Killer)』[アベル・フェラーラ (Abel Ferrara) 監督作品 1979年制作] を観て想い出したのはその作品である。数多あるスプラッター映画 (Splatter Movie) のどれでもない。

拙稿題名である映画の事を綴るその前にもう少しそのアルバムを紹介しておく。
参加したバンドは、ザ・コントーションズ (The Contortions)、ティーンエイジ・ジーザス・アンド・ザ・ジャークス (Teenage Jesus And The Jerks), マーズ (Mars) そしてディー・エヌ・エー (Dna) の4バンドである。彼等を、彼等の登場する直前の動き、ニューヨーク・パンク (New York Punk) から派生した動きと看做す事は出来る。
当時のこのバンドのメンバーであり、この作品に参加を足掛かりに、その後のシーンに多くの爪痕を遺す事になるミュージシャンは幾人もいる。と、同時にこの作品そのものが後のシーンに多くの影響を与えたと看做す事も出来る。ソニック・ユース (Sonic Youth) もスワンズ (Swans) もプッシー・ガロア (Pussy Galore)〜ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン (The Jon Spencer Blues Explosion) もこの末裔と謂っても良い。そして、本作の源流、ニューヨーク・パンク (New York Punk) のさらに上流にはヴェルヴェット・アンダーグラウンド (The Velvet Underground) が鎮座している。
そんな歴史的な位置付けを試みた後に、極端な表現をすれば、ニューヨーク (New York City) と謂う土壌のある特性が垣間みえてくる。

例えば、アルバム全体を覆っているムードは、絶望の次に訪れるであろう虚無とそれへの苛立ち、足掻きである。倦怠に倦んだ荒んだ魂が剥き出しとなった欲求、もしくはそれへの渇望なのだ。それは衝動でしかないが、そこに至るまでの個々の体験がうらづける事によって、かろうじて表現もしくは創作、つまり音楽として鳴り響いている。
そしてそれ故に彼等はこの街でいきていける。1歩あやまれば、落伍者にも犯罪者にもなりかねない。そんなきわどい状況をも伺わせる。音楽を演っている事によっている、その事によってのみ、そこに踏みとどまっていられる。
そんな認識を抱かしむるのである。

そんな作品が産まれた翌年に制作公開されたのが映画『ドリラー・キラー (The Driller Killer)』なのだ。

その映画には、ザ・ルースターズ (The Roosters) と謂うバンドが登場し、語られる物語の中で一貫して、轟音、騒音、雑音を垂れ流していく。
だからと謂って、それをもってオムニバス・アルバム『ノー・ニューヨーク (No New York)』を冒頭に紹介したのではない。彼等 [この場合の彼等とは映画制作者等でもあり、物語の中のバンド・メンバー自身でもある] の意識下にあるのは、そのアルバム参加バンドと彼等を取り巻くシーンの渦中と謂う認識なのかもしれないが、純粋に音楽的に判断すれば唯のロックンロール (Just Only Rock And Roll) である。ニューヨーク・パンク (New York Punk) であるや否やも疑わしい古典的な存在感を醸すと同時に古典的な役回りをこの映画の中で演じている。

彼等は、物語の主人公である画家レノ・ミラー (Reno Miller) [演:ジミー・レーン (Jimmy Laine) 監督の変名である] の住居兼アトリエ (Atelier) のある建物に自身の練習スタジオ (Rehearsal Studio) を開き、日がな一日、リハーサル (Rehearsal) [もしくはそれに名を借りた乱行] に勤しんでいるのだ。そして、そのスタジオ (Studio) から漏れる騒音が、レノ・ミラー (Reno Miller) の制作と生活を混乱させているのである。

売れないロックンローラーとしがない絵描きは、対外的な視点にたてば同根、似たもの同士の筈なのである。だが、前者と後者を峻別するモノが歴然とある。それは周囲の理解である。否、理解されていると謂う自認の有無である。

前者は、ちっぽけなライヴ・ハウス (Venue) [一瞬、マクシズ・カンザス・シティ (Max's Kansas City) が映り込む、そこはニューヨーク・パンク (New York Punk) の牙城のひとつとなるライヴ・ハウス (Venue) だ [こちらを参照の事]。] ではあるモノの動員がない訳ではないし、練習スタジオ (Rehearsal Studio) にはグルーピー (Groupie) 等が入れ替わり顕れる。しかもそれ以前に、スタジオ (Studio) を構える程の資金はある。だが、後者にはそれすらもない。画商からも家主からも冷遇されている。だからといって、発奮して制作に励もうとすれば騒音がそれを阻害 (Obstruction) する。八方塞がりなのである。

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そればかりではない。
レノ・ミラー (Reno Miller) は恋人キャロル・スローター (Carol Slaughter) [演:キャロリン・マーズ (Carolyn Marz)] と同棲しているが、彼女には同性の恋人パメラ・バークリング (Pamela Bergling) [演:ベイビ・デイ (Baybi Day)] が居て、この3人で奇妙な同居生活をしている [レノ・ミラー (Reno Miller) とパメラ・バークリング (Pamela Bergling) には性的関係はなさそうだ]。だから時に、レノ・ミラー (Reno Miller) は自身の恋人キャロル・スローター (Carol Slaughter) を同居人パメラ・バークリング (Pamela Bergling) に奪われてしまっている様にみえる [上掲画像はこちらから]。そしてさらに謂えば、パメラ・バークリング (Pamela Bergling) はザ・ルースターズ(The Roosters) のグルーピー (Groupie) のひとりでもある。アトリエ (Atelier) とスタジオ (Rehearsal Studio) [そして時にライヴ・ハウス (Venue)] の往復が彼女の生活なのであろう。
だから、本来ならば制作や生活に疲弊した彼を迎えてくれる場所がある様で実はない。レノ・ミラー (Reno Miller) は恋人とその愛人すなわち彼の同居人からも疎外 (Entfremdung) されているのである。
それ故に、ザ・ルースターズ (The Roosters) と謂うバンドの存在は、彼の阻害 (Obstruction) と疎外 (Entfremdung) を明確にさせる為の存在、そう看做せるだろう。

ある日、ザ・ルースターズ (The Roosters) のヴォーカル兼ギタリストのトニー・コカコーラ (Tony Coca-Cola) [演:ロドニー・モントリオール (Rhodney Montreal)] がレノ・ミラー (Reno Miller) のアトリエ (Atelier) を訪う。自身の肖像画を描いて欲しい、と。背に腹を変えられないレノ・ミラー (Reno Miller) は、破格の価格でその依頼を受諾する。
その日1日、ギターを抱え歌い叫ぶトニー・コカコーラ (Tony Coca-Cola) を描く行為にレノ・ミラー (Reno Miller) は明け暮れる。
本来ならば、音楽と美術の複合を目的とした新しい表現、もしくは創作行為が開始されて然るべきところではあるが、そういう方向へとは物語の舵はきられない。
彼は既に、ハンディ・ドリル (Driller) で浮浪者 (Homelessness) を殺戮して徘徊するドリラー・キラー (The Driller Killer) へと化してしまっていたからである。
あとはただ、一切のものが破綻し破局を迎える、それだけだ。

と、ここまで綴ってきたのはその映画のあらすじでも紹介でもない。
少し視点をずらして解読してみたにすぎない。

映画題名に謳われている様な、無差別連続殺人犯 (Serial Killer) の物語と看做しては、決して面白い作品ではないだろう。
彼が掌にし、凶器となる [彼の狂気の象徴でもある] ハンディ・ドリル (Driller) は単なる口実でしかない。だから、殆どの殺戮シーンは暗闇の中であっさりと行われる。しかも無様で無計画な彼の行動は、どうみても1両日中には発覚してしまいそうな犯罪ばかりなのだ。

ぼく達が観るべきはそこではない。
彼がその衝動にかられるそのものとはなにか、彼を駆り立てているのはなにか、みるべきはそれである。
しかし、だからと謂って、それは、金や生活や性欲や制作にみはなされたから、というモノでもないだろう。

殺戮への衝動をほんのすこし別の方角や別の照準に向ける事さえ出来れば、彼の場合は救われた筈なのである。
果たしてそれは一体、なにか。

つまり、ぼくが謂いたいのは次の様な妄言だ。
オムニバス・アルバム『ノー・ニューヨーク (No New York)』への参加者達は幸運なのだ。まかり間違えればレノ・ミラー (Reno Miller) の様な顚落が待ち構えている事だってあるのだから。何故ならば、彼等に、音楽と謂う表現ないし創作へと向かわせる衝動とおなじモノをレノ・ミラー (Reno Miller) も抱えているのだから。
つまりその為の表出の場の有無、その差異が、一方はオムニバス・アルバム『ノー・ニューヨーク (No New York)』を生ぜせしめ、一方は映画『ドリラー・キラー (The Driller Killer)』を生ぜせしめただけなのである。

オムニバス・アルバム『ノー・ニューヨーク (No New York)』の制作に関し、プロデューサーであるブライアン・イーノ (Brian Eno) はその場所と資金、そして発売販売元を提供したのみでその演奏や楽曲には一切、関与していないと謂う。
その結果、その作品は1978年のニューヨーク (New York City) のシーン、そのドキュメンタリーとしての評価する事も出来る。

その事を念頭に入れてしまえば、この映画もまた、無差別連続殺人犯 (Serial Killer) の物語と謂う虚飾を剥いでしまえば、1979年のある画家のドキュメントとしても看做し得る、そんな虚言をぼくは弄したくなるのだ。

次回は「」。

附記 1. :
この映画の雰囲気は、ひとりの少年の彷徨と独白だけで綴られている、ジム・ジャームッシュ (Jim Jarmusch) 監督の第1作『パーマネント・バケーション (Permanent Vacation)』 [1980年制作] のそれと共通している様な気がする。

附記 2.:
物語にはレノ・ミラー (Reno Miller) の強迫観念 (Obsession) の象徴とも呼ぶべき映像が幾つも顕れる。
最初は、パメラ・バークリング (Pamela Bergling) に依願されて、ハンディ・ドリル (Driller) で開けた穴だ。この行為が彼の殺戮行為への直接的な端緒である。以降、制作途上にある絵画にあるバイソン (Bison) の眼球、家主から譲られた食用兎 (Rabbit Meat) の眼球、ピンボール (Pinball) の銀球とその乱舞によって明滅する装置、まるいおおきなあな、欠落してしまった虚空のイメージが彼の意識に、常につきまとうのだ。

附記 3. :
画家が自身の作品制作の為に殺戮を繰り返す映画『カラー・ミー・ブラッド・レッド (Color Me Blood Red)』 [ハーシェル・ゴードン・ルイス (Herschell Gordon Lewis) 監督作品 1965年制作] がある。スプラッター映画 (Splatter Movie) と謂うジャンルの嚆矢でもある。
だが、この作品での画家の所業の目的は明白で、それは作品制作に必要な画材の調達である。
しかし、[再び繰り返す事になるが] 本作でのレノ・ミラー (Reno Miller) は、自身の作品からも疎外 (Entfremdung) されてしまっているのだ。そしてそれが殺戮に耽る動機のひとつともなっている。
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