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2021.09.28.08.00

りざーど

ぼくがキング・クリムゾン (King Crimson) を知った時は、そのバンドは存在していなかった。そして、彼等がメンバーを一新してスタジオ作としては第8作となるアルバム『ディシプリン (Discipline)』 [1981年発表] を発表する頃には、かつての彼等の作品はひととおり揃えていたのだった。時季としては1974年から1980年のあいだ、約6年間と謂う期間の事である。

揃えたと謂っても、時系列には一向に拘泥していない。彼等の作品の中で最も一般的に知られている第1作『クリムゾン・キングの宮殿 (In The Court Of The Crimson King)』[1969年発表] を皮切りに出鱈目に、単純に謂えばジャケットの好みに従って購入していったのだ。
そして、第7番目、つまり1番最後に購入したのが拙稿の主題、第3作にあたるアルバム『リザード (Lizard)』[1970年発表] なのである。

だからなのだろうか。
ぼくのなかでは、キング・クリムゾン (King Crimson) らしからぬ作品であって、と同時に、評価の低い作品ではある。

しかしながら、最もキング・クリムゾン (King Crimson) らしからぬ作品は実は、本作ではなくてその次作、第4作にあたるアルバム『アイランズ (Islands)』 [1971年発表] なのである。しかもややこしい事に、そのキング・クリムゾン (King Crimson) らしからぬところをもって、ぼくにとっては好盤なのである。
と、同時に、彼等のその7作品になかでは実は本作よりもその前作、第2作にあたるアルバム『ポセイドンのめざめ (In The Wake Of Poseidon)』 [1970年発表] こそが最も評価の低い作品なのかもしれない。そして、微妙に判断に迷う事になるのは、ぼくのなかでは第1作も実は決して評価は高くない事なのである。それを考え出すときりがないから別の機会に譲ろう。だから、ここで謂うべき事は、次の通りだ。第1作よりも第2作が劣っている所以は単純に、前作の継承、すなわち完全に続編たろうとしている姿勢にある。

逆に謂うと、第3作に関するぼくの見解はとても気分的なモノ、感覚的なモノであるだけなのだ。
何故ならば、不意に、その作品に鳴り響く音響や旋律が脳内にこだまして、気になって仕方がない時がないではないからなのである。

作品は総じて、混沌としている。否、混乱していると謂うべきなのかもしれない。あるひとつの指針が表示されるや否や、それは両極端な場所を提示してしまう。柔弱であると同時に剛健、寡黙であると同時に過剰、振れ幅が非常におおきいのだ。尤も、キング・クリムゾン (King Crimson) と謂うバンドは、そういった存在である。しかし、彼等がその行為に耽る時は、もっと統制された緊張感に満ち満ちた行為ではなかっただろうか。ここではありとあらゆるモノが、とても粗雑であり強引、粗暴にしてかつ弛緩してしまっているのである。
だから時にそれは笑えないジョークの様にも、なくに泣けない悲劇の様にもみえてしまう。

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左端にいるメル・コリンズ (Mel Collins) より時計廻りでロバート・フリップ (Robert Fripp)、アンドリュー・マカロック (Andy McCulloch )、ゴードン・ハスケル (Gordon Haskell) そしてピート・シンフィールド (Peter Sinfield) [メロディ・メーカー (Melody Maker) 19709月12日号掲載 上掲画像はこちらから]

上掲画像は、本作制作時でのメンバーの集合写真ではあるが、ここに居る6人よりも実は、不在の人物達の方が作品にとっても重要なのかもしれない。
つまり、ゲスト・ミュージシャンとしてクレジットされているキース・ティペット (Keith Tippett) とジョン・アンダーソン (Jon Anderson)、この2人である。

前者は当時、彼が率いていた自身のバンド、キース・ティペット・グループ (The Keith Tippett Group) からマーク・チャリグ (Mark Charig)、ニック・エヴァンス (Nick Evans)、そしてそのバンドの一員ではないモノのロビン・ミラー (Robin Miller) も彼の人選だろう、を引き連れて参加している。そのバンドのもうひとり、サキソフォニスト (Saxphonist)、エルトン・ディーン (Elton Dean) が不在なのは、キング・クリムゾン (King Crimson) に、同じ楽器を演奏するメル・コリンズ (Mel Collins) が在籍していたからであろう。
キース・ティペット (Keith Tippett) を含めた彼等は、本作にあるふたつの局面のそのひとつ、繊細で淳樸な部分の表出とその演出に与している様に聴こえる [だが、彼等のオリジナル作品を聴いてみてもその様な要素は決しておおきくはない、あくまでも彼等の音楽の1要素のひとつなのである]。しかしながら、その演出がもっと効果的に、キング・クリムゾン (King Crimson) の音楽として顕れるのは次作である第4作なのである。

後者は当時、イエス (Yes) のリード・ヴォーカリストである。だから、一見すると本作はイエス (Yes) とキング・クリムゾン (King Crimson) の融合の様にみえるのかもしれない。
だがそうなのだろうか。彼のヴォーカルの存在感は、一聴瞭然である。だが、どう聴いてもイエス (Yes) の音楽ではない。さりとて、キング・クリムゾン (King Crimson) の音楽と断言するのも憚られる。そんな拘泥をしてしまうのは、彼が歌唱した楽曲『ルーパート王子のめざめ (Prince Rupert Awakes)』 [4部構成の組曲『リザード (Lizard)』の第1部] の歌詞が、彼の掌によるモノではなくて、ピート・シンフィールド (Peter Sinfield) の作だからではないだろうか。つまり、彼自身の詞作品ではないところに、限界がある様に、ぼくには思えるのだ。
この楽曲は、どう考えてみてもゴードン・ハスケル (Gordon Haskell) の歌唱には適してはいない。だから本来ならば、前作に於ける殆どのヴォーカル楽曲同様に、グレッグ・レイク (Greg Lake) が歌唱すべきモノだったのかもしれない [しかし、彼が結成し参加するトリオ、エマーソン・レイク・アンド・パーマー (Emerson, Lake And Palmer) は第1作『エマーソン・レイク・アンド・パーマー (Emerson, Lake And Palmer)』 [1970年発表] を発表し人気の頂点に上り詰めようとしたばかりの時季だった]。

と、謂う様な観点からみただけでも、本作は過渡期 (Transitional Period) ならではの混沌とした渦中にある作品であるとも謂える。

そしてそれを裏付けるかの様に、第1作から第7作までの作品から選曲したベスト盤『新世代への啓示 (A Young Person's Guide To King Crimson)』 [1976年発表] には、本作からの楽曲は1曲も収録されていないのであった。

次回は「」。

附記 1.:
上で「過渡期 (Transitional Period)」と謂う語句を綴ってみたが、第1作から第4作まで、すなわち、ピート・シンフィールド (Peter Sinfield) が作詞者として関与していた時代をまるごと、そう呼んでしまいたい様な気がする。と、謂うのは、第5作『太陽と戦慄 (Larks' Tongues In Aspic)』 [1973年発表] 以降、すなわちリチャード・パーマー・ジェイムス (Richard Palmer-James) が作詞者として関与していた時代から現在の彼等には、なんらかのモノが継承されて、その発展を試みている様に思えるからだ。
一見すると、パンク (Punk)~ニュー・ウェイヴ (New Wave)的な発想と思考に準拠して発表された様に思える第8作とそれに続くふたつの作品 [第9作『ビート (Beat)』 [1982年発表] 及び第10作『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー (Three Of A Perfect Pair)』 [1984年発表]] も、リチャード・パーマー・ジェイムス (Richard Palmer-James) 期でのメンバー、ビル・ブルーフォード (Bill Bruford) が参加している事によって、継承~発展の意思を汲みする事が出来よう。
そして、そんな発想は、恐らくロバート・フリップ (Robert Fripp) にもあるのではないか、と思えてしまうのだ。
しかし、それを妨げる理由は少なくともひとつ、ある。第1作への評価であり、そこに収録されたふたつの楽曲、『21世紀のスキッツォイド・マン (21st Century Schizoid Man [including "Mirrors"])』と『エピタフ [墓碑銘] (Epitaph [including "March for No Reason" and "Tomorrow and Tomorrow"])』の存在である。
敢えて謂えば、この2曲があるからこそ、ロバート・フリップ (Robert Fripp) はキング・クリムゾン (King Crimson) と謂うバンド名を継続する事も出来るのだろうし、と同時に、その名義に於いてのみ、活動を続けざるを得ないのだ。

附記 2. :
キング・クリムゾン (King Crimson) に影響を受けたバンドもしくはミュージシャンは多いだろう。そして、彼等を指標とする事によって、また、そこからの超克を果たさんが為に、例えば第1作の様な作品もしくは第5作の様な作品を試みる彼等がいない訳ではないだろう。
だが、その試みの殆どが、彼等の第3作、つまり拙稿の主題の様な作品になってしまう様な気がしてならない。
具体的に、そして如実に、これこれのバンドのこれこれの作品と指摘する事は困難な、多分に [ぼく自身の] 気分の様なモノだけれども、アルバム『リザード (Lizard)』の様な作品は溢れかえっている様な気がしてならない。

附記 3. :
猶、ぼくの中には第1作と第5作を神格化する意図はない。と、同時に第3作をことさらに貶め様と謂う意図もない。
実は、こんな事をおもっているからだ。
第1作と第5作はひとつの指針だ [そしてもしかしたら、第4作もそうなのかもしれない]。
だけれども、汲むべきアイデアは、第3作にこそ、あるのかもしれない。キング・クリムゾン (King Crimson) がこの作品に於いて果たそうとして成しえなかった事、不完全なかたちに収斂せざるを得なかったモノと謂うものを、彼等の後続となろうとするモノ、彼等を継承しようとするモノからは、あまりにもあからさまなのであろう。だからこそ、この作品にある未完成でかつ未成熟なモノを自らの掌によって、成就出来るのではないだろうか、と。
そんな思考と試行の成果が、ぼくからみれば、「アルバム『リザード (Lizard)』の様な作品」にみえてしまうのだ。
何故ならば、おそらくぼく自身も、第3作にその様なモノをみいだしてしまっているのだからに違いない。
「不意に、その作品に鳴り響く音響や旋律が脳内にこだまして、気になって仕方がない時が」あるのはきっと、その証左なのであろう [だからと謂って、ぼくに演奏やその他の表現、創作が出来る訳でもないのではあるが]。

附記 4.:
ところで、少なくとも7作品のなかでみくらべると、作品のアート・ワーク上、本作でのバンド名表記が最も大きいのである。もしかしたら、バンド内に於いても、バンドとしてのアイデンティティー (Identity) が揺らいでいたのかもしれない [ピート・シンフィールド (Peter Sinfield) のデイレクションの下、ジニ・バリス (Gini Barris) がデザインを担当した]。

附記 5. :
本作発表後、アンドリュー・マカロック (Andy McCulloch ) とゴードン・ハスケル (Gordon Haskell) は離脱してしまい、次作たる第4作は新たなる布陣でもって制作する事になる。
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