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2009.03.31.22.31

ゔぇにすにしすとべにすにしす[文頭の文字は「う」に濁点]

先ずは横たわる問題の前提の確認から。
トーマス・マン(Thomas Mann)が執筆し1912年に発表した、その中編小説の邦題は『ヴェニスに死す』。原題が『Der Tod in Venedig』とある様に、ドイツ語(Deutsch / Deutsche Sprache)で書かれている。
その小説を原作としたルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)監督の映画作品[1971年発表]の邦題は『ベニスに死す』。原題は『Morte a Venezia / Death in Venice』。ドイツ語(Deutsch / Deutsche Sprache)版、フランス語(Français)版、そしてポーランド語(język polski / polski / polszczyzna)版が存在する伊仏合作映画である。

母音(Vowel)の「う / ウ」に濁点をふる「ゔ / ヴ」に関する発音と表記の問題を追及するという、大それた考えは、今の僕にはないから、興味のある方はこちらをご覧下さい

そして、創作作品等に潜む翻訳の問題や邦題の問題も、ここでちょこちょこ書き抜けられる様な、簡単な問題でもないので、やっぱり、いずれまた、と逃げてしまおう。

では、何を書くかと言うと、次の様な事をこれから書き綴るのである。

でもその前に。
トーマス・マン(Thomas Mann)の文学作品『ヴェニスに死す(Der Tod in Venedig)』とその映像化作品『ベニスに死す(Morte a Venezia / Death in Venice)』と書き連ねるとやたらと冗長な文章が出来上がってしまうので、これ以降、以下の様に略す事にする。
つまり。前者を『小説(Roman)』、後者を『映画Cinéma)』と。

小説(Roman)』と『映画Cinéma)』に共通する骨子は、以下の様なものである。
中年というよりも初老の域に入りかけた、創作活動を生業とするアッシェンバッハ(Gustav von Aschenbach)が、避暑に向かった旅先で、恋に堕ちる。その恋の相手とは、彼と同じく避暑地ヴェニス / ヴェネツィア(Venedig / Venezia / Venice)に家族とともに訪れた10代の少年タジオ(Tadzio)。恋とはいうが、彼の若さと美貌への恋情であり、それを如何とする事も叶わず、アッシェンバッハ(Gustav von Aschenbach)は、タジオ(Tadzio)の訪れるその先々に姿を現し、彼の後を追うのであった。そうこうするうちに、避暑地に伝染病が流行し始める。感染を恐れた避暑客は次々と、その地を後にする。にも関わらずに、アッシェンバッハは、タジオ(Tadzio)がこの地に留まる限り、そこを離れる事は出来ない。
疫病が蔓延する、閑散としたその避暑地を、タジオ(Tadzio)を求めて彷徨うアッシェンバッハ(Gustav von Aschenbach)。そして、遂には彼も疫病に感染してしまう...。

と、かいてしまうと****な中年親父が****な美少年に****して****してしまった、という恐ろしく下世話な物語に顛落してしまうのだけれども、それはそれ。

そして、『小説(Roman)』となり『映画Cinéma)』となり、ふたつのメディアを要求した物語のそのテーマが、「生と性と死と創造そしてそれは官能がもたらす」という、旧くて新しいものである事も、それはそれ。

注目すべきは、その為に現れる、アッシェンバッハ(Gustav von Aschenbach)の異なる位相(Phase)の事なのである。

小説(Roman)』では作家トーマス・マン(Thomas Mann)自身とアッシェンバッハ(Gustav von Aschenbach)を二重露光の中に観える様に、彼の職業を小説家とした。つまり、誰が読んでも、初老の主人公が作者自身の投影である事は、見誤ろうがない。
そして作家トーマス・マン(Thomas Mann)は、さらに『小説(Roman)』の読者をも、二重露光の中に閉じ込めてみせる。即ち、「タジオ(Tadzio)=文学」という等式が成立するのならば、「アッシェンバッハ(Gustav von Aschenbach)=読者そのもの」ではないのか、と。

ところで、作家トーマス・マン(Thomas Mann)が『小説(Roman)』を執筆する際に、アッシェンバッハ(Gustav von Aschenbach)のモデルとした芸術家がいる。グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)である。作家は、アッシェンバッハ(Gustav von Aschenbach)の容貌に、本作品執筆直前に亡くなったこの音楽家の姿態を借りたのである。
[勿論、書いた本人としては借りたのは外見上のものだけのつもりであったが、読者達は、アッシェンバッハ(Gustav von Aschenbach)の内面に潜む苦悩を、その音楽家が内に秘めていた苦悩に結びつけて解読してしまう。]

だから、この『小説(Roman)』を映像化する際に、監督のルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)は、次の様な仕掛けをする。
アッシェンバッハ(Gustav von Aschenbach)の職業を、小説家から音楽家へと変更する。
その第一の目的は、映像素材として観た場合のアッシェンバッハ(Gustav von Aschenbach)の存在感の重視である。動きのあるシーン、きらびやかなシーン、そしてそれと対照的な内省的なシーン。これらを形成するには、小説家であるよりも、身体的にも精神的にももっと、起伏や振幅の激しい芸術家が好ましいのだ。
そして、ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)はさらにもうひとつの仕掛けをする。
映画音楽の主題としてグスタフ・マーラー(Gustav Mahler)の『交響曲第5番第4楽章アダージェット(Die 5. Sinfonie cis-Moll Mvt 4. Adagietto. Sehr langsam : F-Dur)』を選択するのである。

その結果、『映画Cinéma)』を観るぼく達は何を得るのだろうか。
本来ならば、『映画Cinéma)』の原作たる『小説(Roman)』の解読。もしくはもっと下世話な部分でのネタばらしにしか留まらない、その仕掛けは、もっと多重にいろいろなものをもたらしてくれる。

アッシェンバッハ(Gustav von Aschenbach)は、作家トーマス・マン(Thomas Mann)であるよりも、より具体的にグスタフ・マーラー(Gustav Mahler)として顕現する。
さらに言えば、タジオ(Tadzio)を凝視め窃視するアッシェンバッハ(Gustav von Aschenbach)の視線はそのまま、それぞれの役を演じたふたりの俳優、つまり、ビョルン・アンドレセン(Björn Andresen)を凝視め窃視するダーク・ボガード(Dirk Bogarde)という幻想が、映画を観るモノの中で成立する。そして、その視線の持ち主は、そのまま映画監督であるルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)そのものへと位相(Phase)の変換も可能である。
勿論、その位相(Phase)転換によって獲得出来る視線[アッシェンバッハ(Gustav von Aschenbach)からタジオ(Tadzio)への視線]は、タジオ(Tadzio)=ビョルン・アンドレセン(Björn Andresen)を凝視め窃視する映画観客そのものの視線へともなり得るのだ。
つまり、それはどうゆうことかというと...。



10代の頃、初めてこの『小説(Roman)』を読んだ時は、破滅への途をひた奔るだけのアッシェンバッハ(Gustav von Aschenbach)に感情移入出来ず、(Mold)や(Rust)の観察日記を読んでいる様な感慨しか持ち得なかった。程なくして、深夜放送で『映画Cinéma)』を観るのだけれども、この『映画Cinéma)』の"一押し"であるところのタジオ(Tadzio)ことビョルン・アンドレセン(Björn Andresen)君に惚れる事も叶わず、ただ只管デカダンな感情に浸っていただけだった。
だから、主人公の年齢に近づいてきた今、新しい発見があるのではなかろうかと、待ち構えているのだが、果たして?

次回は「」。
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