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2021.07.27.08.05

りんらくのおんなのにっき

「『もう少し愛があれば、誰もこんなところに落ち込みはしないのだ。』これが、この物語の主題である。」

と語っているのは牧野信一 (Shin’ichi Makino)、その映画の公開前、試写でみた感想を綴った随筆『淪落の女の日記 (Tagebuch einer Verlorenen)』 [1930年 雑誌『映画時代』掲載]、その冒頭である。

ぼくは青空文庫 (Aozora Bunko) に収蔵されている彼の作品を上から順に読んでいた。そこで、その随筆と上掲の文章に遭遇したのである。その随筆を読んでいくと、彼が主題としている映画の主演女優はルイーズ・ブルックス (Louise Brooks) であるらしい、と解る。
ならば、ぼくはその映画を以前に体験している筈である。はて、どんな作品だっけ。作品名だけでは想いあたらない。少なくとも、彼女の代表作とされている映画『パンドラの箱Die Büchse der Pandora』 [ゲオルク・ヴィルヘルム・パプスト (Georg Wilhelm Pabst) 1929年制作] ではないのは、確かだ。そこで彼女が演じたルル (Lulu) と謂う悪女、そしてその顚落の生涯を綴ったその映画をぼくに教えてくれたのは、大岡昇平 (Shohei Ooka) である。彼が監修した写真集『ルイズ・ブルックスと「ルル」 (Louise Brooks And 'Lulu')』 [ 1984年刊行] を通じてだ。

随筆を読み進めていくと、そこでの主題である映画の監督はゲオルク・ヴィルヘルム・パプスト (Georg Wilhelm Pabst) であるらしい、と解る。ならば、あの作品であるのに違いないのだ。彼こそが映画『パンドラの箱Die Büchse der Pandora』の監督であり、その作品に次いでルイーズ・ブルックス (Louise Brooks) を主演に起用した作品がある。映画『淪落の女の日記 (Tagebuch einer Verlorenen)』[1929年制作] である。
ぼくは映画『パンドラの箱Die Büchse der Pandora』を観たその後に、その作品を観ている。

しかしながら、その作品で憶えているのは、たったひとつのシーンだけである。その作品に於ける、唯一と謂って良い喜劇的な光景である。

感化院 (Reform School) を脱走した少女ティミアン (Thymian) [演:ルイーズ・ブルックス (Louise Brooks)] はゆくあてもなく辿り着いた高級娼館 [Luxury Brothel] で働く事になる。そこで初めての客を迎えた際の情景である。ティミアン (Thymian) は体操服姿で客 (Gast) [演:シグ・アルノ (Siegfried Arno)] の許に顕れ、彼に対し体操の授業をすると謂う。そして彼女は感化院 (Reform School) で半ば強制的に学習させられた実技を披露し、彼に対してこの動作の習得を促す。てっきり客 (Gast) は、その娼婦 (Prostitute) が提案する前戯だと想い戸惑いながらも彼女の行動を見、そしてその実技を観たままに実施しようと試みる。その過程を経る事によって、本来の実技、性行為に転じようと画策しているのだ。しかしながら、娼婦 (Prostitute) であるのにも関わらず、ティミアン (Thymian) にとっては、それは前戯でも痴戯でもない。彼女は至って純粋に体操の授業を行っているつもりなのである。

そこでの屈託のないティミアン (Thymian) の笑顔とそれに導かれるがままに舞う様な彼女の肢態が美しいのだ。純粋で無垢、そしてそれは彼女の無知の技なのかもしれない、その表情と身体が。
そしてぼくはこう思う。
嗚呼、ルイーズ・ブルックス (Louise Brooks) とは実はこういう女優なのだ、と。

と、謂うのは彼女の主演映画を立て続けに幾作か観ていくと、実はルル (Lulu) の様な悪女を演じた作品は、意外と少ない。また例えあったとしても、それは彼女の顔貌と肢体だけに頼った、表層だけの様な存在としてしか登場しない。つまり、映画『カナリヤ殺人事件 (The Canary Murder Case)』 [マルコム・セント・クレア (Malcolm St. Clair) 監督作品 1929年制作] でのカナリヤことマーガレット・オデル (The Canary" / Margaret O'Dell) [演;ルイーズ・ブルックス (Louise Brooks)] の様に、彼女が死ぬ前提の作品、単なる被害者としての肉体として登場する為のエクスキューズとしての悪女でしかない。
そんな悪女を度外視すると彼女が演じてきた幾人もの女性達のその殆どは、無邪気で純真、そして幼児の様に無垢・無心な存在なのである。

ハリウッド (Hollywood) でそんな役廻りに徹してきた女優がヨーロッパ (Europe) に渡って演じたのが、ルル (Lulu) と謂う悪女なのである。ルイーズ・ブルックス (Louise Brooks) がどうしてそんな役を引き受けたのかと考えるのも面白いし、ゲオルク・ヴィルヘルム・パプスト (Georg Wilhelm Pabst) がどうしてそんな役を彼女にあてがったのかと考えるのも面白い。
但し、幾つもあるかもしれないその理由のひとつは、その映画を観た誰もが気付くのに違いない。ルル (Lulu) と謂う悪女 [否、その映画を観たぼく達は決して彼女をそんな名称で呼ぼうとはしないだろう] は、実は限りない程に純粋で無垢たる存在なのである。つまり、それまでにルイーズ・ブルックス (Louise Brooks) が演じてきた女性の幻影 [もしかしたらそれこそが本質なのかもしれない] がルル (Lulu) にも潜んでいる様なのだ。

ルル (Lulu) と謂う女性がどういう存在であるかは拙稿に於いては、棚上げにしよう。

映画『淪落の女の日記 (Tagebuch einer Verlorenen)』の主人公、ティミアン (Thymian) こそが、ルイーズ・ブルックス (Louise Brooks) が演じて来た女性達の典型、つまりその女優の従前たるイメージを素直に継承した役なのである。
そして、ふたつの映画の監督であるゲオルク・ヴィルヘルム・パプスト (Georg Wilhelm Pabst) の立場に立てば、彼はルイーズ・ブルックス (Louise Brooks) と謂う女優に、相反する対照的な女性像を演じさせた事になる。

しかも、そこに登場するそれぞれ、ふたりの主人公の差異だけではない。物語の構造も対照的なのだ。
どちらも主題としているのは、顚落する女性、そしてその果てに待っている悲劇である。だが、一方は己れ自らの尊大な行動と自負が招いた結果の様であり、他方は、周囲の無知無理解に翻弄された結果の様である。能動と受動、その差異なのだ。
それ故に、ルル (Lulu) に待っているのは無意味な死でありしかもそれは半ば自決、自死に近い。ルル (Lulu) のその死は、一見すると非業のモノの様ではあるが、視点をすこしだけずらせば、それこそが彼女への救済であるのかもしれない。聖別化 (Consecration) された様にも思えるのだ。
そして、ティミアン (Thymian) に待っているのはもしかしたら、死よりも過酷な [もう一方の意味での] 自決、自らの意思に基づいて行動する事なのである。

映画『淪落の女の日記 (Tagebuch einer Verlorenen)』が語り終えられた際にティミアン (Thymian) が迎えるのは、運命に翻弄されるがままだった彼女に対するハッピー・エンドではない。寧ろ、その逆である。そして、それを知っているが故に、彼女の表情は険しい。

もしかしたらそこにぼく達は、ティミアン (Thymian) からの脱皮、ルル (Lulu) と謂う女性の誕生をみるべきなのかもしれない。
つまり、映画『パンドラの箱Die Büchse der Pandora』とは実は、同じ映画監督による次作である映画『淪落の女の日記 (Tagebuch einer Verlorenen)』にとっての続編であり、その作品が終わったところから語り始められる、そんな解釈も可能なのである。

次回は「」。

附記 1. :
冒頭で紹介した牧野信一 (Shin’ichi Makino) の随筆は次の文を末尾に据えて結ばれている。
「感化院の体操場で薄シヤツ一枚で体操をするブルツクスの写真を探しもとめて、当分の間壁にかゝげておかう」

附記 2.:
と、謂う訳なので [下掲画像はこちらから]。
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