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2021.06.29.08.03

ねこのそうし

日本10大昔話 (The Ten Great Old Tales In Japan) のひとつだと謂う。その日本10大昔話 (The Ten Great Old Tales In Japan) は、楠山正雄 (Masao Kusuyama) がさだめたと謂う。

それを除く9昔話 (The Other Nine Great Old Tales In Japan)) はよく知っている。幼い時に聴かされたり、読んだり、みたりした。だけれども、民話『猫の草紙 (The Cats Papers)』だけは、長じてから知ったのだ。
今回、改めて読んでみた。青空文庫 (Aozora Bunko) に楠山正雄 (Masao Kusuyama) の記述によるそれが掲載されている。残念ながら、その版のよった書物名はそこで解るが、初出が解らない。だから、楠山正雄 (Masao Kusuyama) 選定の日本10大昔話 (The Ten Great Old Tales In Japan) の、そのひとつでありながら、その10篇が選出された謂れは解らないのだ [ネット上では『日本の神話と十大昔話 / Japanese Mythology And Ten Great Old Tales』に掲載された10篇をそれだと謂いつのるのだが、その初版刊行年が解らない。文庫『日本の神話と十大昔話 / Japanese Mythology And Ten Great Old Tales』 [1983講談社学術文庫刊行] 云々の記述がないではないが、その書籍が刊行された年には著者は既に物故しているのである]。

へんなはなしである。
否、日本10大昔話 (The Ten Great Old Tales In Japan) を巡る言説ではなくて、その民話で語られている内容自身が、だ。

題名に (Cat) と表示されてあるモノの、その哺乳類 (Mammals) が物語の主人公であるとは謂い難い。
物語の前半で主な役回りを演ずるのはそれ、すなわち (Cat) を天敵 (Natural Enemy) とする哺乳類 (Mammals)、 (Rat) 達である。彼等による、対 (Cat) に関する小田原評定 (Der Kongress tanzt, aber er bewegt sich nicht.) が延々と語られてあるのだ。

しかも、その (Rat) 達による小田原評定 (Der Kongress tanzt, aber er bewegt sich nicht.)、議論の展開を追っておくと時折、この物語がこれとは別の、異なる物語へと横着しそうになる。

それまでは家畜然とした佇まいで (Dog) の様に、飼主に繋がれていた (Cat) 達が、ある時、解き放たれる事になる。飼主であるところの人間 (Human) 達の都合、害獣 (Harmful Animal) である (Rat) への対策としてここに於いて、その天敵 (Natural Enemy) である天分を発揮してもらおう、 (Cat) が自由を得た理由はそれである。
(Rat) 達は考える。彼等の小田原評定 (Der Kongress tanzt, aber er bewegt sich nicht.) が開始された所以はそこにある。
そこだけを起点として読めば、イソップ寓話 (Aesop's Fables) のひとつ、寓話『鼠の相談 (Belling The Cat Fable)』へと漂流してしまいそうである。
だが、安心して良い。そこへとは議論は発展しない。そんな解決策は提示されないのだ。

その代わりに提案されるのが、ここを捨てて、安住の地をべつのどこかへと求めようと謂う意見だ。そして、そこで示された逃亡先を眺めると、イソップ寓話 (Aesop's Fables) のべつのはなし、寓話『田舎の鼠と都会の鼠 (The Town Mouse And The Country Mouse)』へと遁走しかねない。その結果、その寓話に登場する2匹の (Rat) のそのうちの1匹、彼と同じ体験とそこから得る感慨が待っている様な気がしてしまうのだ。
だが、やっぱりここでも踏み留まる。

その代わりに、新たな人物が登場する。否、この場合、新たな哺乳類 (Mammals) が登場する、と謂うべきなのだろうか。
そして、ここまで綴られた (Rat) の小田原評定 (Der Kongress tanzt, aber er bewegt sich nicht.) は、その哺乳類 (Mammals) の為の大舞台を設ける為の、伏線でしかない事が判明する。民話『猫の草紙 (The Cats Papers)』の主人公とは、その題名にある (Cat) でも、彼等と敵対関係にある (Rat) 達でもない彼、人間 (Humnan) である彼、和尚 (Osho) なのである。

ところで、文庫『目で見る日本昔ばなし集 (The Visual Anthology For Japanese Old Tales)』[鳥越信 (Shin Torigoe) 1986文春文庫ビジュアル版刊行] に於いて、民話『猫の草紙 (The Cats Papers)』に関する随筆を井上ひさし (Hisashi Inoue) が綴っている。なにを隠そう、日本10大昔話 (The Ten Great Old Tales In Japan) のひとつである民話『猫の草紙 (The Cats Papers)』をぼくが知ったのは、この文庫を読んでから、なのである。その文庫の1章である『昔ばなしもう一つの読み方 (How To Read An Old Tale By Another Way)』には、日本10大昔話 (The Ten Great Old Tales In Japan) の10篇の粗筋とその各篇に応じた1篇の随筆を10人の作家が綴っている。その掉尾を飾るのが、井上ひさし (Hisashi Inoue) による『猫の草紙 (The Cat Papers)』なのだ。

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日本昔噺 猫の草紙 (Japanese Old Tales The Cat Papaers)』 [巖谷小波 (Iwaya Sazanami) 著 浅井忠蜜 (Tadamitsu Asai) 画 1896年刊行]
その文庫の『猫の草紙 (The Cat Papers)』の篇では、その冒頭に上掲画像が掲載され、見開きで上掲書籍から転載された見開き2頁が掲載されている。

そこでは、井上ひさし (Hisashi Inoue) がこんな事を綴っている。

「<前略>「猫の草紙」はいやなはなしである。なぜこんないやなはなしが十大昔話のうちのひとつなのか、よくはわからぬ」

「<前略>猫とねずみを仲裁し、この仲裁を双方が納得して帰るところがいやである」

「このいやなはなしが十大昔話の仲間入りを果たすことができたのは、おそらくだれかの陰謀にちがいなかろう。そのだれかとは、猫もねずみもそれぞれ己が階級性のうちにとどまっているのが賢明だ、と説くことによって大いに徳をする人たちにちがいない」

「奴隷制の社会、封建制の社会、資本主義の社会というふうに、<中略>人間は階級のない社会に近づいていき、<中略>階級の存在から生まれる階級的対立や階級闘争はなくなるにしても、これまでとちがった意味での階級、あるいは社会的区分が新しく生じはしないだろうか。つまり、右の和尚と同じようなことをしたり顔で喋る人間が、やはりそのときもいるのではないだろうか」

「ここのところが、このはなしの気色の悪いところだ」

拙稿のうえで「へんなはなしである」と綴ったその感慨は、上の引用文で補完されていると思いたくもなる。少なくとも、ぼくが「へんなはなし」と思ったのは、ぼくひとりの極めて個人的な、そして異端極まる見解ではないと、思うのは許されるであろう [井上ひさし (Hisashi Inoue) とぼくがみているところは全然違うのだ]。
と、同時に井上ひさし (Hisashi Inoue) の和尚 (Osho) に対する認識を前提にして、この民話を読みなおすと、こんな事へも思い至ってしまうのである。

和尚 (Osho) は巧く立ち回った。調停者、もしくは審判者としてその役割をまっとう出来た。
だが、もし仮にこの (Rat) と (Cat) との仲介に失敗したらどうなっただろうか。
実は、そんな哺乳類 (Mammals) がいる。蝙蝠 (Bat) である。イソップ寓話 (Aesop's Fables) のさらにもうひとつの、寓話『卑怯なコウモリ (The Bat, The Birds, And The Beasts)』に於ける蝙蝠 (Bat) とは、その民話での和尚 (Osho) の陰画ではないだろうか、と。

「したり顔で喋る人間」が常に成功裡に事を収められるとは限らない。政治的な失脚に陥る可能性もないではないのだ。
対称的な位置にある、ひとつの民話とひとつの寓話を並べてみて、ぼくはそんな事を考えている。

次回は「」。

附記 1. :
民話『猫の草紙 (The Cats Papers)』に対して違和を表明している井上ひさし (Hisashi Inoue) は、その随筆のなかで、飛島 (Tobishima, Yamagata) と酒田 (Sakata, Yamagata) に棲む (Rat) 達を主役とした「わたしが子どものころに祖母から聞いたはなし」を紹介している。
そして、それをぼくはここで紹介したいのではあるが、とてもぼくの駄文力では不可能なのだ。なにせ、紹介した井上ひさし (Hisashi Inoue) 自体がこう綴っているのである。
「聞いてこれぐらいおもしろいものはないのに、活字にしてしまうと、これまたこんなくだらないものもない」

附記 2. :
上に引用した語句に於いて、著者自らがおのれの文章力の限界を提示してはいるが、この随筆はいつ読んでも新しい発見がある。一見すると、やたらと意味もない改行と引用の羅列の様でありながら、緻密に構成されている文章なのである。

附記 3. :
近藤ようこ (Yoko Kondo) のマンガ『猫の草子 (Neko No Soshi)』 [1993年発表] は未読である。

附記 4. :そしてその為に、題名にある字面から、草子 / Kusako と命名された飼猫 (House Cat) の物語である様な印象がそこにはある。
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