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2021.05.04.08.19

じゆうをわれらに

映画『モダン・タイムス (Modern Times)』 [チャールズ・チャップリン (Charlie Chaplin) 監督作品 1936年制作] との類似性が語られている作品である。
尤も、その作品が映画『自由を我等に (A nous la liberte)』 [ルネ・クレール (Rene Clair) 監督作品 1931年制作] に、似ていると謂う事であって、その逆、映画『自由を我等に (A nous la liberte)』がその作品が似ているのではない。ふたつの映画の制作年をみれば、明らかである。
そして、当時その類似性を巡って、前者が後者の模倣であると訴訟騒ぎになりかねなかった、と謂うのである。つまり、チャールズ・チャップリン (Charlie Chaplin) がルネ・クレール (Rene Clair) から盗んだのだ、と。

確かに、オートメイション化が徹底された近代的な工場と謂う場所での、流れ作業に勤しんでいる労働者達が巻き起こすハプニングは、どちらもススラップティック (Slapstick) な笑いをもたらすモノで、そこだけをみれば、ああ確かに、似ているなぁ、と思う。
その上にさらに、映画『自由を我等に (A nous la liberte)』のふたりの主人公、ルイ (Louis) [演:レイモン・コルディ (Raymond Cordy)] とエミール (Emile) [演:アンリ・マルシャン (Henri Marchand)] のうちの後者の物語は、そのまま、映画『モダン・タイムス (Modern Times)』 の主人公、工員 (A Factory Worker) [演:チャールズ・チャップリン (Charlie Chaplin) ] が踏襲した様にも、思える。つまり、近代文明に馴染めずにそこに安住の地を求めようとはしたものの、それが結局かなわず、そことは無縁の新天地を求めて旅に出る、そんな物語として、である。そして、ふたつの映画の違いは、その新たな放浪の旅の同伴者が、腐れ縁ともいえる親友なのか、それとも愛する少女なのか、と謂う点だけなのだ、と。つまり、ふたつの作品の差異は、バディ・ムービー (Buddy Movie) なのか、ボーイ・ミーツ・ガール (Boy Meets Girl) なのか、と謂う点に存するのだ、と。

だけれども、映画『モダン・タイムス (Modern Times)』 を主題に据えて、他の映像作品との類縁性を語るのであるのならば、その映画ではなくて、もうひとつの映画『救ひを求むる人々 (The Salvation Hunters)』 [ジョセフ・フォン・スタンバーグ (Josef von Sternberg) 監督作品 1925年制作] を観るべきだろう。と、ぼくは考える [この件に関しては、こちらに綴ってある]。
と、謂うのは、映画『自由を我等に (A nous la liberte)』を主眼とした場合、映画『モダン・タイムス (Modern Times)』 ではない別のふたつの映画を、ぼくは想い出してしまうからだ。

ひとつは映画『メトロポリス (Metropolis)』 [フリッツ・ラング (Fritz Lang) 監督作品 1927年制作] である。
脱獄後、富と地位と名誉を築き上げたルイ (Louis) が経営する蓄音機 (Gramophone) 製造会社の全容が映し出される。そこでの光景と描写は、映画『メトロポリス (Metropolis)』での繁栄を尽くした大都会の描写と、そしてそれを文字通りに底辺から支えている労働者達の苛烈な勤労環境の描写を、なんとなく彷彿とさせるのだ。
例えば、摩天楼のはざまを突き抜ける様に動く、左上部から右下部へ右上部から左下部と交錯する交通機関の斜めの動きはそのまま、工場内に於ける貨物の左上部から右下部への移動や、場内を縦横に行進する労働者達の描く斜めの描線に踏襲されている様に、みえるのだ。
例えば、労働者達が巨大な機械にしがみつくかの様にして行う、全身の円運動はそのまま、出社した労働者が工場入口で行うタイムレコーダー (Time Recorder) の円運動が踏襲している様に、みえるのだ。
勿論、そんな表現手段だけではない。
映画『自由を我等に (A nous la liberte)』に於いて、徒刑囚達や工場労働者が唄うその歌の主題、そして、刑期を終えて釈放されて自身の自由を満喫しているエミール (Emile) に向けて巡査達が告げる勧告が、「働けば自由になる (Arbeit macht frei / Le travail rend libre)」とばかりに語っているのである。
その語句への叛意が、このふたつの映画の主題ではないのだろうか。ぼくはそう想うのだ。
映画『メトロポリス (Metropolis)』は、サイエンス・フィクション (Science Fiction) と謂う虚構を借りて、現実的にありうる労働者達の叛乱と謂う描写が登場する。そして、ルネ・クレール (Rene Clair) が呈示したのは、そうではない、そして、それ故に非現実的なファンタジー (Fantasy) へと結実させている様に思えるのだ [あたかもミュージカル映画 (Musical Movies) とも解釈出来る程に、この映画に歌唱が満ち溢れているのもそこに理由がある様に思える]。

ひとつは映画『プレイタイム (Playtime)』 [ジャック・タチ (Jacques Tati) 監督作品 1967年制作] である。
その映画の主人公ユロ氏 (Monsieur Hulot) [演:ジャック・タチ (Jacques Tati)] は、職を求めて大都会を流離う。そこで彼が目撃する、未来的なオフィスの光景、ガラス貼りの吹き抜けのその下に繰り広げられている光景を凝視めるその視点が、映画『自由を我等に (A nous la liberte)』での、刑務所内での作業とその後の工場での作業を彷彿とさせるのだ。
勿論、それだけではない。ユロ氏 (Monsieur Hulot) の、米観光客バーバラ (Barbara, Young Tourist) [演:バーバラ・デネック (Barbara Dennek)] との邂逅と彼女へのほのかな想い、そしてそれがいつまでもすれ違い続けていく物語は、映画『自由を我等に (A nous la liberte)』でのエミール (Emile) とジャンヌ (Jeanne) [演:ロラ・フランス (Rolla France)] の邂逅そして別れにも通底しているのではないか、と。
特に、それぞれの物語に於ける円舞の描写、そしてその中にいる女性とその外部にあらざるを得ない主人公の関係をみると、余計にそう想う。
映画『プレイタイム (Playtime)』では次の目的地へと向かうバーバラ (Barbara, Young Tourist) を乗せた観光バスが大渋滞のロータリー (Roundabout) のなか、緩慢な円運動を行っている一方で、ユロ氏 (Monsieur Hulot) ひとりそこで途方にくれて往生しているのであり、映画『自由を我等に (A nous la liberte)』では、ルイ (Louis) が導入した新設備による自由を謳歌してダンスをして愉しむ男女の、その1組としてジャンヌ (Jeanne) が恋人と微笑みを交わしている中、エミール (Emile) はそのふたりを遠方から凝視めるだけなのである。

と、ここまで綴ってきてぼくは気がつく。
ぼくは映画『自由を我等に (A nous la liberte)』を、ふたりの主人公のうちのひとり、エミール (Emile) の物語としてばかり観ているのではないのだろうか、と。拙稿でここまで綴ってきた、映画『モダン・タイムス (Modern Times)』 を含めての3作品との類似性は、どれも、登場人物エミール (Emile) の視点からに過ぎない。
では、もうひとりの主人公ルイ (Louis) とは一体、なんであるのか。

images
基本的に、微苦笑ばかりが誘われ、観ているこちらの感情が弛緩する映画『自由を我等に (A nous la liberte)』に於いて、唯一、物語が極度の緊張を孕むシーンがひとつある [上掲画像はこちらから。野口久光 (HIsamitsu Noguchi)画]。

それはルイ (Louis) とエミール (Emile) の再会の場面である。
同じ部屋の、文字通りに臭い飯を喰った関係であるふたりが、地位も環境も違えたかたちで出逢うのだ。
前者は、成功した企業家として、後者はそこに就職したばかりの労働者として。そして、前者は怖れる。後者の存在によって前歴が明らかとなり、ここまで勝ち得た地位も名誉も財産も彼によって脅かされるのではないか、と。
どこかでみた様な光景、どこかでみた様な展開である。
だから、もしかしたら、この時点をもって、映画『自由を我等に (A nous la liberte)』ではない、物語をいくらでもぼく達は編める筈だ。そういう意味でも、この場面には緊張がはりつめているのだ。
しかし、どこかでみた様な光景、どこかでみた様な展開へとこの映画は開展しない。もうひとりの主人公、エミール (Emile) と謂う存在はそれを妨げるのだ。その代わりに、彼とは別の元徒刑囚が現在のルイ (Louis) を認め、どこかでみた様な光景、どこかでみた様な展開は、彼によってなされるのである。

そう謂えば。

映画『モダン・タイムス (Modern Times)』 と映画『自由を我等に (A nous la liberte)』には、決定的な違いがある。
物語の終演後、前者で総てを喪ったふたり、工員 (A Factory Worker) と浮浪少女 (A Gamin) [演:ポーレット・ゴダード (Paulette Goddard)] に待ち構えているのは、それにも関わらずにハッピーエンド (Happy End) でしかあり得ないと、観客は想うのに違いない事だ。
だが、映画『自由を我等に (A nous la liberte)』では、どうなのだろう。観るモノによって、その後の展開は違うモノを想起している様な気がするのだ。
と、謂うのは、心の奥底で、このふたりはいずれ微罪によって逮捕され、また投獄されるに違いない、そう想えてしまうからだ。つまり、その映画の物語は、冒頭へと回帰する可能性をも孕んでいるのである。

次回は「」。

附記 1. :
働けば自由になる (Arbeit macht frei / Le travail rend libre)」は、後にナチス・ドイツ (NS-Staat) がアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所 (KZ Auschwitz) 等、ユダヤ人強制収容所 (Konzentrationslager) に掲げた標語でもある。そして、それをもって、映画『メトロポリス (Metropolis)』を未来に向けた警鐘と看做す事も出来てしまう。
映画『自由を我等に (A nous la liberte)』は、労働から疎外 (Entfremdung) され、そして疎外 (Entfremdung) されたが故に、労働のなかにはない自由、べつの自由を求める映画である。
ところで、映画『自由を我等に (A nous la liberte)』で歌われている歌のその部分に該当する歌詞は、実際にはどの様な文言なのだろうか。その標語の仏語 (francais) である様な気もするが、自信はない。
ぼくが習得した第2外国語は独語 (Deutsch) であって仏語 (francais) ではない。

附記 2. :
映画『自由を我等に (A nous la liberte)』には、おなじ様な描写、同じ様な言動、同じ様な撮影角度が何度となく再現される。
工場内で労働者達の挙動は、刑務所での徒刑囚が強いられる挙動をそっくりそのまま再現したモノである様に、巡査達によって逮捕された後の留置場でのそれらは、脱獄時の縄と鉄格子のある窓をそっくりそのまま踏襲したモノである。
細部をひろっていけば際限もない。
再会したふたりの緊張が瓦解し、そして再びかつての友情が喚起される装置もまた、脱獄時での逸話の再現がふたりの眼前に顕れるからである様に、上に綴った「彼とは別の元徒刑囚が現在のルイ (Louis) を認め、どこかでみた様な光景、どこかでみた様な展開」が顕現してしまうのも、そのひとつであるのだから。
そして、その再現が幾重にも織りなす綾は、映像作品のそれと謂うよりも、音楽作品のそれをも想わせる。

附記 3. :
映画『自由を我等に (A nous la liberte)』が制作された当時の映像技術や映像技法がどの様な水準であったのかは、ぼくには検討もつかない。しかしながら、この作品では敢えて旧い技術や技法を意図的に起用している箇所が幾つもありそうな、そんな気がする。
例えば、脱獄したばかりのルイ (Louis) が盗難した自転車に跨って逃走するシーンだ。稚拙な書き割りが横移動するその描写は、無声映画 (Silent Movie) 時代のそれ、映画撮影黎明期のそれの様な気がする。どう考えても当時の水準であれば、他の技術や技法があったに違いない。ルネ・クレール (Rene Clair) は何故、そこにそれを登用したのだろう。単にかつての映画への監督自身の郷愁と割り切っても良いのだろうか。

附記 4. :
その題名だけを拝借した映画『じゆうを我等に (Give Me a Gun Give Me Freedom)』 [大友克洋 (Katsuhiro Otomo) 監督作品 1982年制作] は未見である。
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