2021.04.20.08.16
『いちばんくわしい日本妖怪図鑑 (Japanese Yokai Visual Dictionary)』 [著:佐藤有文 (Arihumi Sato) 1972年 立風書房 (Rippu Shobo Publishing Co., Ltd.) ジャガーバックス ((Jaguarbucks) 刊行] で、鉄鼠 (Tesso) として紹介されていた。
掲載されていた図版は、鳥山石燕 (Toriyama Sekien) の『画図百鬼夜行
(Gazu Hyakki Yagyo)』 [1776年刊行] からである。
その図では、鼻先が尖り臀部から細長い尾を引き摺った獣が、僧侶の衣服をまとった姿をしている。2足歩行可能なのか、それとも元来が4足歩行であるモノがふたつある前肢を持ち上げたモノか、判別はつきかねる。その様な曖昧な姿勢、前屈みなのである。また、人間で謂えば左腕に該当する前肢を手前に突き出したその格好から、その獣は眼前にいる1匹の鼠 (Rat) になにやら指令を発している様にもみえる。獣の周囲には、数匹の鼠 (Rat) が右往左往し、そこに散財している書物や室内にある調度に牙を向けている。
画面左上の空白部には「頼豪の灵鼠と化と世尓志る所也 (Raigo Became The Spiritual Rat. Everyone Knows.)」と綴られてある。
そして、この図版を受けて、鉄鼠 (Tesso) の紹介を読んで、ぼくは不可思議な面持ちに包まれるその一方で、それとは逆の感慨、つまり、怖気づいたのである [本来ならば、その紹介文を抜粋すべきなのだろうが、残念ながらぼくの手許にはいまそれはない]。
鼠 (Rat) の妖怪 (Yokai) だと謂う。ある高僧が鼠 (Rat) に化身した姿であると謂う。しかも彼がそんな姿になったのは、おのれの要求を反故にされたばかりか、おのれの敵対者が厚遇されたからだと謂う。その怒りや怨みが故に、死した後に鼠 (Rat) となって復讐している、その姿がこれだと謂う。
不思議に思ったのが、何故に鼠 (Rat) に? と謂う点である。鼠 (Rat) の妖怪 (Yokai) と謂えば、最も馴染み深いのがねずみ男 (Nezumi Otoko) である。あの半妖怪 (Born To A Human And A Yokai) を怖しいとは誰も思わない。むしろ、どこの誰にでもある卑怯なモノ、さもしい心を具現化してある点をもってすれば、最も親みが沸かざるを得ない妖怪 (Yokai) である。
だが、この鼠 (Rat) の妖怪 (Yokai)、鉄鼠 (Tesso) はそんな彼とは隔絶した位置にある。
と、同時に、徳の高い僧であるのにも何故、そんな復讐に身をやつすのだろうか、と思った。本来ならばそんな感情からは無縁の存在であるべき人物なのに。
そうであるべき人物が、極めて世俗的な理由、おのれとおのれが所属しているモノから起因する欲とか打算とか誉れとか謂うモノに促されるが侭に、怨みを生じさせる。それは業と呼ぶべきモノなのかもしれないが、それ以前にあさましくも思えてしまう。決して徳が高い訳ではないのだ。寧ろ、低いと看做されるべき代物なのかもしれない。
勿論、法力が強いからこそ、成し得るわざなのかもしれない。だとしても、それを発揮すべき相手や手段は、すこし、否、どうみても、誤ったモノである様に思えて仕方がない。
だからこそ、鼠 (Rat) にしかなれなかったのだ。
当時のぼくが怖気づいたその理由は恐らく、そんなところに起因している様に思える。
つまり、せこせこ我欲にばかりはしっていると、鼠 (Rat) に生まれ変わってしまうのだ、と謂う様な強迫観念 (Obsessive–compulsive Disorder) に由来するモノなのであろう。
ところで、『図説 日本未確認生物辞典 (The Illustrated Dictionary For Unidentified Mysterious Animal In Japan)』 [笹間良彦 (Yoshihiko Sasama) 著 1994年刊行] の頼豪鼠 (Raigo, The Rat) の項に、『平家物語 (The Tale Of The Heike)』 [作者不詳 1309年頃成立] その巻之三 (Volume 3) からの紹介としてこの妖怪 (Yokai) 誕生の由来が綴られてある。
少し長いが、該当箇所をそのままここに抜き出してみる。
「白河天皇の中宮賢子に皇子誕生の祈祷を命じられた頼豪阿闍梨が、一心に祈ったおかげで皇子が誕生した。喜んだ天皇は頼豪に望みの恩賞を与えるといったので頼豪は三井寺に戒壇院を建立して欲しいと申し出た。しかし三井寺に戒壇院を作ると比叡山側を怒らせることになるので許可しなかった。頼豪は『天子に戯の言なし、綸言汗の如し、是程の所望叶わざらんに於ては、我が祈り出したる皇子なれば取奉って魔道へこそ行かん』と怒って断食して死んでしまった。すると皇子は御年四歳でなくなってしまったので、今度は叡山の良信大僧正に再び中宮に御子が誕生する様祈祷を命じた。良信の祈りの甲斐あって承歴三(1079)年七月九日皇子が生まれ、後に堀河天皇となられたが、頼豪の怨みは深く大鼠と化し、鉄の牙を持つ八万四千の鼠を指揮して、比叡山の僧房の経典を食い破り始めたので山門方は震え上がり、宝倉を建てて頼豪を祀り、これを鼠禿倉と名付けたという。」
ここに綴られてある事を丁寧に読んで、そしてその結果に対し、ほんの少しばかりの想像力をもって飛躍をさせてみれば次の様な事にきづく。
ひとつは、この由来が比叡山延暦寺 (Enryaku-ji) と三井寺 (The Onjo-ji Temple) の対立が前提となっている事だ。後者は前者と対等の存在となる事を欲し、後者は前者に対して絶対的な地位にあろうとする。その内証がこの由来の機動力となっている。頼豪阿闍梨 (Raigo, The Acharya) は、白河天皇 (Emperor Shirakawa) の念願を実際のモノとせしめ、その機運をここに捉えて、比叡山延暦寺 (Enryaku-ji) にあって三井寺 (The Onjo-ji Temple) にはない、戒壇院 (Ordination Platform) を得ようとしたのである。
しかもそれは宗教的な対立からでも、信仰上の対立でもない様なのだ。俗な表現を用いれば、それは分家 (Branch Family) と本家 (The Head Family) の対立、新興著しい前者と伝統をおもくみる後者のいがみあいの様なモノにぼくにはみえる [この場合、どちらの寺がどちらなのかを指摘しないのは礼儀だと想う]。
ひとつには、この由来の影の主役である白河天皇 (Emperor Shirakawa) が発したとされるあの言葉だ。
「加茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの (Only Three Things Refused To Obey My Will : “The Waters Of The Kamo River, The Fall Of The Backgammon Dice And The Priests Of Enryakuji Temple.”)」
彼が三井寺 (The Onjo-ji Temple) に与えた承認を自ら翻した理由がそこにある。比叡山延暦寺 (Enryaku-ji) は法相宗大本山興福寺 (Kohfukuji) と並んで南都北嶺 (Nanto-hokurei : Kohfukuji And Enryaku-ji) と称されて、当時の政権や政策を左右する強い権限、否、強い実力行使を行う能力があるのだ。つまり、僧兵 (Sōhei) と謂う存在である。
そして、それを前提にしてほんの少しさらに考えてみれば、新興仏教である鎌倉仏教 (New Schools Of Japanese Buddhism Founded During The Kamakura Period) が発生した遠因もこの由来に見出す事も出来る様な気もしてくる。
余談ながら、法然 (Honen) [浄土宗 (Jodo Shu) 開祖]、親鸞 (Shinran) [浄土真宗 (Jodo Shinshu) 開祖]、明菴栄西 (Eisai) [臨済宗 (Rinzai school) 我が国での開祖] そして道元 (Dogen) [曹洞宗 (Soto) 我が国での開祖]、彼等はみな、その若き頃は比叡山延暦寺 (Enryaku-ji) で学んでいたのである。
もしかしたらそこでの教えとそこでの実際の差異が、彼等にあらたな宗派 (Denomination) をたてさせたのかもしれないのだ。
さらに謂えばその逆、比叡山延暦寺 (Enryaku-ji) が 京の都 (Heian-kyo) を遠く離れて比叡山 (Mt. Hiei) に建立された謂れにも想いが至るべきなのかもしれない。奈良の都 (Heijo-kyo)、その近隣にあった仏教〜寺院〜宗派 (Buddhism - Temple - Denomination) が、世俗化され政治的な勢力となったその反省からこの寺院はそんな遠隔の地に建立された筈なのである。
にも関わらずに、と謂う語句がふとよぎってしまうのだ。
ついでに綴れば、鼠 (Rat) と謂う生物の存在が、その由来に登場した当時の意義である。
彼等の存在のもつ怖ろしさは、決して" 鼠にひかれる ( Be Carried away By A Mouse)"と謂う程度で語り切れるモノではなかったのだろう。疫病、厄疫への恐怖、それをその媒介者たる鼠 (Rat) によって象徴させていたと思われる節がある。
例えば、民話『鼠の嫁入り (Mouse's Marriage)』は何故、ああいう結論へと横着したのか。そして、何故、そこに彼等の天敵 (Natural Enemy) とされる猫 (Cat) が登場しないのか。恐らく、鼠 (Rat) と謂う生物に潜む怖ろしさは、たかだか1匹の猫 (Cat) では太刀打ちできない様な代物であるのに違いない。

上掲画像は歌川国芳 (Utagawa Kuniyoshi) による『大江匡房頼豪阿闍梨 (Masafusa Oe And Raigo, The Acharya)』 [1843~1844年の作] である。
画面中央で雄叫びを挙げている怪異、すなわち頼豪鼠 (Raigo, The Rat) の左隅で怯えているのが大江匡房 (Oe No Masafusa) である。
白河天皇 (Emperor Shirakawa) の時代に、彼が政府中枢にあって権勢を奮っていた当時は、延久の善政 (Wise Government In Enkyu) と呼ばれている。
さしずめ、平成の時代 (Heisei Era) にあっての、勢いづく反対勢力 (Counterforce) に手の下しようがない改革派 (Reformist) を描いた様な趣きをもつのが、本作なのである。
次回は「み」。
掲載されていた図版は、鳥山石燕 (Toriyama Sekien) の『画図百鬼夜行
その図では、鼻先が尖り臀部から細長い尾を引き摺った獣が、僧侶の衣服をまとった姿をしている。2足歩行可能なのか、それとも元来が4足歩行であるモノがふたつある前肢を持ち上げたモノか、判別はつきかねる。その様な曖昧な姿勢、前屈みなのである。また、人間で謂えば左腕に該当する前肢を手前に突き出したその格好から、その獣は眼前にいる1匹の鼠 (Rat) になにやら指令を発している様にもみえる。獣の周囲には、数匹の鼠 (Rat) が右往左往し、そこに散財している書物や室内にある調度に牙を向けている。
画面左上の空白部には「頼豪の灵鼠と化と世尓志る所也 (Raigo Became The Spiritual Rat. Everyone Knows.)」と綴られてある。
そして、この図版を受けて、鉄鼠 (Tesso) の紹介を読んで、ぼくは不可思議な面持ちに包まれるその一方で、それとは逆の感慨、つまり、怖気づいたのである [本来ならば、その紹介文を抜粋すべきなのだろうが、残念ながらぼくの手許にはいまそれはない]。
鼠 (Rat) の妖怪 (Yokai) だと謂う。ある高僧が鼠 (Rat) に化身した姿であると謂う。しかも彼がそんな姿になったのは、おのれの要求を反故にされたばかりか、おのれの敵対者が厚遇されたからだと謂う。その怒りや怨みが故に、死した後に鼠 (Rat) となって復讐している、その姿がこれだと謂う。
不思議に思ったのが、何故に鼠 (Rat) に? と謂う点である。鼠 (Rat) の妖怪 (Yokai) と謂えば、最も馴染み深いのがねずみ男 (Nezumi Otoko) である。あの半妖怪 (Born To A Human And A Yokai) を怖しいとは誰も思わない。むしろ、どこの誰にでもある卑怯なモノ、さもしい心を具現化してある点をもってすれば、最も親みが沸かざるを得ない妖怪 (Yokai) である。
だが、この鼠 (Rat) の妖怪 (Yokai)、鉄鼠 (Tesso) はそんな彼とは隔絶した位置にある。
と、同時に、徳の高い僧であるのにも何故、そんな復讐に身をやつすのだろうか、と思った。本来ならばそんな感情からは無縁の存在であるべき人物なのに。
そうであるべき人物が、極めて世俗的な理由、おのれとおのれが所属しているモノから起因する欲とか打算とか誉れとか謂うモノに促されるが侭に、怨みを生じさせる。それは業と呼ぶべきモノなのかもしれないが、それ以前にあさましくも思えてしまう。決して徳が高い訳ではないのだ。寧ろ、低いと看做されるべき代物なのかもしれない。
勿論、法力が強いからこそ、成し得るわざなのかもしれない。だとしても、それを発揮すべき相手や手段は、すこし、否、どうみても、誤ったモノである様に思えて仕方がない。
だからこそ、鼠 (Rat) にしかなれなかったのだ。
当時のぼくが怖気づいたその理由は恐らく、そんなところに起因している様に思える。
つまり、せこせこ我欲にばかりはしっていると、鼠 (Rat) に生まれ変わってしまうのだ、と謂う様な強迫観念 (Obsessive–compulsive Disorder) に由来するモノなのであろう。
ところで、『図説 日本未確認生物辞典 (The Illustrated Dictionary For Unidentified Mysterious Animal In Japan)』 [笹間良彦 (Yoshihiko Sasama) 著 1994年刊行] の頼豪鼠 (Raigo, The Rat) の項に、『平家物語 (The Tale Of The Heike)』 [作者不詳 1309年頃成立] その巻之三 (Volume 3) からの紹介としてこの妖怪 (Yokai) 誕生の由来が綴られてある。
少し長いが、該当箇所をそのままここに抜き出してみる。
「白河天皇の中宮賢子に皇子誕生の祈祷を命じられた頼豪阿闍梨が、一心に祈ったおかげで皇子が誕生した。喜んだ天皇は頼豪に望みの恩賞を与えるといったので頼豪は三井寺に戒壇院を建立して欲しいと申し出た。しかし三井寺に戒壇院を作ると比叡山側を怒らせることになるので許可しなかった。頼豪は『天子に戯の言なし、綸言汗の如し、是程の所望叶わざらんに於ては、我が祈り出したる皇子なれば取奉って魔道へこそ行かん』と怒って断食して死んでしまった。すると皇子は御年四歳でなくなってしまったので、今度は叡山の良信大僧正に再び中宮に御子が誕生する様祈祷を命じた。良信の祈りの甲斐あって承歴三(1079)年七月九日皇子が生まれ、後に堀河天皇となられたが、頼豪の怨みは深く大鼠と化し、鉄の牙を持つ八万四千の鼠を指揮して、比叡山の僧房の経典を食い破り始めたので山門方は震え上がり、宝倉を建てて頼豪を祀り、これを鼠禿倉と名付けたという。」
ここに綴られてある事を丁寧に読んで、そしてその結果に対し、ほんの少しばかりの想像力をもって飛躍をさせてみれば次の様な事にきづく。
ひとつは、この由来が比叡山延暦寺 (Enryaku-ji) と三井寺 (The Onjo-ji Temple) の対立が前提となっている事だ。後者は前者と対等の存在となる事を欲し、後者は前者に対して絶対的な地位にあろうとする。その内証がこの由来の機動力となっている。頼豪阿闍梨 (Raigo, The Acharya) は、白河天皇 (Emperor Shirakawa) の念願を実際のモノとせしめ、その機運をここに捉えて、比叡山延暦寺 (Enryaku-ji) にあって三井寺 (The Onjo-ji Temple) にはない、戒壇院 (Ordination Platform) を得ようとしたのである。
しかもそれは宗教的な対立からでも、信仰上の対立でもない様なのだ。俗な表現を用いれば、それは分家 (Branch Family) と本家 (The Head Family) の対立、新興著しい前者と伝統をおもくみる後者のいがみあいの様なモノにぼくにはみえる [この場合、どちらの寺がどちらなのかを指摘しないのは礼儀だと想う]。
ひとつには、この由来の影の主役である白河天皇 (Emperor Shirakawa) が発したとされるあの言葉だ。
「加茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの (Only Three Things Refused To Obey My Will : “The Waters Of The Kamo River, The Fall Of The Backgammon Dice And The Priests Of Enryakuji Temple.”)」
彼が三井寺 (The Onjo-ji Temple) に与えた承認を自ら翻した理由がそこにある。比叡山延暦寺 (Enryaku-ji) は法相宗大本山興福寺 (Kohfukuji) と並んで南都北嶺 (Nanto-hokurei : Kohfukuji And Enryaku-ji) と称されて、当時の政権や政策を左右する強い権限、否、強い実力行使を行う能力があるのだ。つまり、僧兵 (Sōhei) と謂う存在である。
そして、それを前提にしてほんの少しさらに考えてみれば、新興仏教である鎌倉仏教 (New Schools Of Japanese Buddhism Founded During The Kamakura Period) が発生した遠因もこの由来に見出す事も出来る様な気もしてくる。
余談ながら、法然 (Honen) [浄土宗 (Jodo Shu) 開祖]、親鸞 (Shinran) [浄土真宗 (Jodo Shinshu) 開祖]、明菴栄西 (Eisai) [臨済宗 (Rinzai school) 我が国での開祖] そして道元 (Dogen) [曹洞宗 (Soto) 我が国での開祖]、彼等はみな、その若き頃は比叡山延暦寺 (Enryaku-ji) で学んでいたのである。
もしかしたらそこでの教えとそこでの実際の差異が、彼等にあらたな宗派 (Denomination) をたてさせたのかもしれないのだ。
さらに謂えばその逆、比叡山延暦寺 (Enryaku-ji) が 京の都 (Heian-kyo) を遠く離れて比叡山 (Mt. Hiei) に建立された謂れにも想いが至るべきなのかもしれない。奈良の都 (Heijo-kyo)、その近隣にあった仏教〜寺院〜宗派 (Buddhism - Temple - Denomination) が、世俗化され政治的な勢力となったその反省からこの寺院はそんな遠隔の地に建立された筈なのである。
にも関わらずに、と謂う語句がふとよぎってしまうのだ。
ついでに綴れば、鼠 (Rat) と謂う生物の存在が、その由来に登場した当時の意義である。
彼等の存在のもつ怖ろしさは、決して" 鼠にひかれる ( Be Carried away By A Mouse)"と謂う程度で語り切れるモノではなかったのだろう。疫病、厄疫への恐怖、それをその媒介者たる鼠 (Rat) によって象徴させていたと思われる節がある。
例えば、民話『鼠の嫁入り (Mouse's Marriage)』は何故、ああいう結論へと横着したのか。そして、何故、そこに彼等の天敵 (Natural Enemy) とされる猫 (Cat) が登場しないのか。恐らく、鼠 (Rat) と謂う生物に潜む怖ろしさは、たかだか1匹の猫 (Cat) では太刀打ちできない様な代物であるのに違いない。

上掲画像は歌川国芳 (Utagawa Kuniyoshi) による『大江匡房頼豪阿闍梨 (Masafusa Oe And Raigo, The Acharya)』 [1843~1844年の作] である。
画面中央で雄叫びを挙げている怪異、すなわち頼豪鼠 (Raigo, The Rat) の左隅で怯えているのが大江匡房 (Oe No Masafusa) である。
白河天皇 (Emperor Shirakawa) の時代に、彼が政府中枢にあって権勢を奮っていた当時は、延久の善政 (Wise Government In Enkyu) と呼ばれている。
さしずめ、平成の時代 (Heisei Era) にあっての、勢いづく反対勢力 (Counterforce) に手の下しようがない改革派 (Reformist) を描いた様な趣きをもつのが、本作なのである。
次回は「み」。
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