2009.03.03.22.11
『インダストリアル・ミュージック・フォー・インダストリアル・ピープル(Industrial Music For Industrial People)』とはいわずもがな(Needless To Say)、スロッビング・グリッスル(Throbbing Gristle)が自身のレコード・レーベルであるインダストリアル・レコーズ(Industrial Records)に掲げたスローガン(Slogun)である。
と、冒頭、力んだあまりに「いわずもがな(Needless To Say)」と断定してしまったが、この思いを共有出来るヒトビトは果たしてどれくらい存在しているのだろうか? と、いうくらいもう既に過去のある事件として風雪に曝されている様な気がする。
このスローガン(Slogun)が一部の音楽ファンの眼に触れたのが、1977年。スロッビング・グリッスル(Throbbing Gristle)のファーストLP『セカンド・アニュアル・リポート(The Second Annual Report of Throbbing Gristle)
』発表時の事だからだ。
音楽シーンの耳目の殆どは、ロンドン(London)を中心とするパンク・ムーヴメント(Punk Movement)に奪われていた時代の事である。
『インダストリアル・ミュージック・フォー・インダストリアル・ピープル(Industrial Music For Industrial People)』、これを直訳すると、「産業化された人々の為の産業化された音楽」とでもなるだろうか?
パンク・ムーヴメント(Punk Movement)の中のひとつの主柱であるDIY精神(DIY[=Do It Yourself] Ethic)、すなわち非商業主義を掲げている以上、このスローガン(Slogun)もまたパンク・ムーヴメント(Punk Movement)の主張を裏側から観た、同種のものという断定も出来るかもしれない。
そして、勿論、音楽シーンよりも遥か以前に発生した、ポップ・アート(Pop Art)の華々しい主張と同種の匂いを嗅ぎ取る事が出来るかもしれない。

しかしながら、インダストリアル・レコーズ(Industrial Records)とそこに拠点を置いたスロッビング・グリッスル(Throbbing Gristle)の目指すものは、それとはかけ離れているものとなった。パンク・ムーヴメント(Punk Movement)やポップ・アート(Pop Art)の発想からは到底生まれでない様な、このレーベル・ロゴを観て欲しい。
そこにあるのは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau)なのだ。
つまり、死の大量生産(Mass Production)化なのである。その謂いが、「インダストリアル(Industrial)」という語に収斂されてゆく。
本来ならば、彼らの音楽がどういうものであり、それがどのような役割を果たしていたのか、それを語るべきかもしれない。しかし、それは、ここでは触れない。
そんな機会はいつでもどこでも出来る様な気もするし、その一方で、未だにその呪縛に囚われていていいものであろうかという思いもするのだから。
僕がここで注目したいのは、当時、如何に、「インダストリアル(Industrial)」という言葉が甘美に響き、それと同時に、暴力的な魅力を放っていたのか、という事である。
僕にとっては、それは、死の大量生産(Mass Production)化とは全く異質な、死と生が出逢う場所なのである。
すなわち、僕にとっての「インダストリアル(Industrial)」とは、次の様なものである。
己と他者との境界線が曖昧になっていく過程に於いて、自己を律するものとして、無機的なエレメントが有機体である己を浸食する。
無惨に斬り刻まれた己の貧弱な体内に、無数のシールド線(Shielded Cable)やら配管のダクト(Duct)やらがのめり込んでゆく。
そしてその一方で、己のちっぽけで曖昧な自我が、己の肉体に浸食する得体の知れないモノモノを通じて、世界全体へと拡散してゆく。
つまりそれは、例えば、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア(James Tiptree, Jr.)の『接続された女(The Girl Who Was Plugged In)』[『愛はさだめ、さだめは死
(Her Smoke Rose Up Forever
)』収録]だったり、デヴィッド・クローネンバーグ(David Paul Cronenberg)の『ビデオドローム
(Videodrome)』だったり、大友克洋(Katsuhiro Otomo)の初期短編漫画集『ショート・ピース
』だったりで、展開されるイメージなのである。
上に挙げた例は、僕個人としては必ずしも同時期にリアル・タイムで遭遇したとは言いがたいのだけれども、このスローガン(Slogun)が放たれる前後にほぼ同時期に、なんの連動性もないままに登場してきたモノモノなのである。
その後に、己の内部に潜む異物との共存や、その異物を逆に取り込んで世界認識への新たな手段とする方法論や、様々な知的アプローチが行われてゆく。
それは一方で、希薄になりつつある己のアイデンティティ(Self Identity / Self-Concept)の補完(Instrumentality)である一方で、最終的には己すら存在し得ない[意思の]ネットワーク(Network)化への要求である。
あぁ、つまり僕自身が持つ、事物や事象への興味や関心の動機は、総てその二方向の何れかに集約され得るものなのかもしれない。
『ブレードランナー
(Blade Runner)』[リドリー・スコット(Ridley Scott)監督作品]で描かれたレプリカント(Replicant)達の嘆き[Like Tears In Rain]や『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊
(Ghost In The Shell)』[押井守(Mamoru Oshii)監督作品]のラスト・シーンで囁かれる草薙素子(Motoko Kusanagi)の独白[ ネットの海は広大だわ]もまた、己のそんな思いを助長させるものであった。
だがしかし、有機物と無機物の、この強姦にも似た結合という方法論とは、ちょっと異なる次元へと、現実の世界が動き出し始めている様な気もするのだ。
H. G. ウェルズ(H. G. Wells)の作品が社会批判としての寓話である様に、『2001年宇宙の旅
(2001: A Space Odyssey)』[スタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick)監督作品]も最早ファンタジー(Fantasy)でしかない[発表当時は徹底した科学考証がなされた筈なのに]。
それと同様に、ここまで例証してきた作品群もまた、リアリティーを次第に喪失しつつあるようにも想える。
ここに登場した「インダストリアル(Industrial)」というタームは、後に、音楽ジャンルのひとつをさす言葉として定着していく。例えば、1980年代末から1990年代初頭に全盛を極めた、ミニストリー(Ministry)やジム・フィータス(Foetus)やナイン・インチ・ネイルズ(Nine Inch Nails)、彼らが奏でる音楽の事である。
名付けられ得ないナニモノかを語る術として、もしくは、己自身を物語る術を持たないナニモノかが自らを語り出す為に、新しい言葉が産まれる。
しかし、その結果として、その新しい言葉は消費されて浪費されて蕩尽されて、言葉本来に潜むナニモノかが喪われて逝く。
この時点で、このスローガン(Slogun)は、あの「ノー・ミュージック・ノー・ライフ(No Music, No Life)」とさほど代わり映えのしない、ありきたりのものへと堕している[尤も、彼らの音楽を卑下しているのではない、それを語る言葉を疎んじているのだ]。
「インダストリアル(Industrial)」。
日本語的なアナロジー(Analogy)変換に従えば、イン・ダスト・リアル(In Dust Real)、すなわち"真実を屑の中に捨てる事"。
せめて、ノー・ライフ・ノー・ミュージック(No Life, No Music)、生命亡き処に音楽は鳴り響かない、とでも、きみには断言してもらいたい。
次回は「る」。
と、冒頭、力んだあまりに「いわずもがな(Needless To Say)」と断定してしまったが、この思いを共有出来るヒトビトは果たしてどれくらい存在しているのだろうか? と、いうくらいもう既に過去のある事件として風雪に曝されている様な気がする。
このスローガン(Slogun)が一部の音楽ファンの眼に触れたのが、1977年。スロッビング・グリッスル(Throbbing Gristle)のファーストLP『セカンド・アニュアル・リポート(The Second Annual Report of Throbbing Gristle)
音楽シーンの耳目の殆どは、ロンドン(London)を中心とするパンク・ムーヴメント(Punk Movement)に奪われていた時代の事である。
『インダストリアル・ミュージック・フォー・インダストリアル・ピープル(Industrial Music For Industrial People)』、これを直訳すると、「産業化された人々の為の産業化された音楽」とでもなるだろうか?
パンク・ムーヴメント(Punk Movement)の中のひとつの主柱であるDIY精神(DIY[=Do It Yourself] Ethic)、すなわち非商業主義を掲げている以上、このスローガン(Slogun)もまたパンク・ムーヴメント(Punk Movement)の主張を裏側から観た、同種のものという断定も出来るかもしれない。
そして、勿論、音楽シーンよりも遥か以前に発生した、ポップ・アート(Pop Art)の華々しい主張と同種の匂いを嗅ぎ取る事が出来るかもしれない。

しかしながら、インダストリアル・レコーズ(Industrial Records)とそこに拠点を置いたスロッビング・グリッスル(Throbbing Gristle)の目指すものは、それとはかけ離れているものとなった。パンク・ムーヴメント(Punk Movement)やポップ・アート(Pop Art)の発想からは到底生まれでない様な、このレーベル・ロゴを観て欲しい。
そこにあるのは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau)なのだ。
つまり、死の大量生産(Mass Production)化なのである。その謂いが、「インダストリアル(Industrial)」という語に収斂されてゆく。
本来ならば、彼らの音楽がどういうものであり、それがどのような役割を果たしていたのか、それを語るべきかもしれない。しかし、それは、ここでは触れない。
そんな機会はいつでもどこでも出来る様な気もするし、その一方で、未だにその呪縛に囚われていていいものであろうかという思いもするのだから。
僕がここで注目したいのは、当時、如何に、「インダストリアル(Industrial)」という言葉が甘美に響き、それと同時に、暴力的な魅力を放っていたのか、という事である。
僕にとっては、それは、死の大量生産(Mass Production)化とは全く異質な、死と生が出逢う場所なのである。
すなわち、僕にとっての「インダストリアル(Industrial)」とは、次の様なものである。
己と他者との境界線が曖昧になっていく過程に於いて、自己を律するものとして、無機的なエレメントが有機体である己を浸食する。
無惨に斬り刻まれた己の貧弱な体内に、無数のシールド線(Shielded Cable)やら配管のダクト(Duct)やらがのめり込んでゆく。
そしてその一方で、己のちっぽけで曖昧な自我が、己の肉体に浸食する得体の知れないモノモノを通じて、世界全体へと拡散してゆく。
つまりそれは、例えば、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア(James Tiptree, Jr.)の『接続された女(The Girl Who Was Plugged In)』[『愛はさだめ、さだめは死
上に挙げた例は、僕個人としては必ずしも同時期にリアル・タイムで遭遇したとは言いがたいのだけれども、このスローガン(Slogun)が放たれる前後にほぼ同時期に、なんの連動性もないままに登場してきたモノモノなのである。
その後に、己の内部に潜む異物との共存や、その異物を逆に取り込んで世界認識への新たな手段とする方法論や、様々な知的アプローチが行われてゆく。
それは一方で、希薄になりつつある己のアイデンティティ(Self Identity / Self-Concept)の補完(Instrumentality)である一方で、最終的には己すら存在し得ない[意思の]ネットワーク(Network)化への要求である。
あぁ、つまり僕自身が持つ、事物や事象への興味や関心の動機は、総てその二方向の何れかに集約され得るものなのかもしれない。
『ブレードランナー
だがしかし、有機物と無機物の、この強姦にも似た結合という方法論とは、ちょっと異なる次元へと、現実の世界が動き出し始めている様な気もするのだ。
H. G. ウェルズ(H. G. Wells)の作品が社会批判としての寓話である様に、『2001年宇宙の旅
それと同様に、ここまで例証してきた作品群もまた、リアリティーを次第に喪失しつつあるようにも想える。
ここに登場した「インダストリアル(Industrial)」というタームは、後に、音楽ジャンルのひとつをさす言葉として定着していく。例えば、1980年代末から1990年代初頭に全盛を極めた、ミニストリー(Ministry)やジム・フィータス(Foetus)やナイン・インチ・ネイルズ(Nine Inch Nails)、彼らが奏でる音楽の事である。
名付けられ得ないナニモノかを語る術として、もしくは、己自身を物語る術を持たないナニモノかが自らを語り出す為に、新しい言葉が産まれる。
しかし、その結果として、その新しい言葉は消費されて浪費されて蕩尽されて、言葉本来に潜むナニモノかが喪われて逝く。
この時点で、このスローガン(Slogun)は、あの「ノー・ミュージック・ノー・ライフ(No Music, No Life)」とさほど代わり映えのしない、ありきたりのものへと堕している[尤も、彼らの音楽を卑下しているのではない、それを語る言葉を疎んじているのだ]。
「インダストリアル(Industrial)」。
日本語的なアナロジー(Analogy)変換に従えば、イン・ダスト・リアル(In Dust Real)、すなわち"真実を屑の中に捨てる事"。
せめて、ノー・ライフ・ノー・ミュージック(No Life, No Music)、生命亡き処に音楽は鳴り響かない、とでも、きみには断言してもらいたい。
次回は「る」。
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