2021.04.06.08.58
その歌をぼくに教えてくれたのは、赤塚不二夫 (Fujio Akatsuka) なのかもしれない。
彼のマンガ『天才バカボン (The Genius Bakabon)』 [1967~1976年 週刊少年マガジン連載] に、こんなシーンがあるからだ。
突如、出現した駱駝 (Camel) にバカボンのパパ (Bakabon's Papa) が吃驚する。その駱駝 (Camel) には天蓋のある座席が設えてあって、そこに搭乗しているターバン (Turban) 姿の人物が、歌を歌っているのである。その歌が童謡『月の沙漠 (Tsuki No Sabaku : The Desert Moon)』、その1節なのである。
バカボンのパパ (Bakabon's Papa) がそれを発見して吃驚している以上に、マンガを読んでいたぼくも吃驚した。あまりにもその登場は唐突で、それ以前の脈絡とは一切、関係がないからだ。だからこそ、今でも、その光景は憶えている。ネット上で、捜し出せた所以でもある。
ところで、「こんなシーン」と謂うのは、赤塚公認サイト これでいいのだ!! (Fujio Akatsuka Official Site That's Ok! No Problem!!) の中にあるスタッフブログ (Staff Blog) である。そして、そこにはこんな記述がある。「微妙なラクダ (A Camel Something Like It)」と。
しかし、ぼくはその駱駝 (Camel) が「微妙なラクダ (A Camel Something Like It)」である理由を知っている。マンガ特有の、ギャグマンガだからこその、そして赤塚不二夫 (Fujio Akatsuka) ならではのデフォルメ ( Deformer) による ...、と謂う理由だけではない。作品内に於いて「微妙なラクダ (A Camel Something Like It)」である必然がそこにはあるのである。
では、その必然とはなにか。
作品そのものを読めば立ち処に解る事ではあるので、ここでは擱筆しておこうと思う。
何故ならば、ここまでは落語 (Rakugo) で謂うところの枕 (Makura : Pillow) だから、なのである。
本題はこれからだ。
童謡『月の沙漠 (Tsuki No Sabaku : The Desert Moon)』は、作詞者であるる加藤まさを (Masawo Kato) が1923年、雑誌『少女倶楽部 (Shojo Club)』 [1923〜1962年 大日本雄辨會講談社 (Kodansha) 刊行] 3月号に発表した詩に、作曲者である佐々木すぐる (Suguru Sasaki) が作曲、翌1924年から刊行した作曲者自身の譜集『青い鳥楽譜 (The Blue Bird Sheet Music Collection)』に掲載された。一般に知られる様になったのは、1932年に柳井はるみ (Harumi Yanagii) の歌唱が録音、レコードとして発売された以降である。
と、取り急ぎ事実関係を把握して、それから楽曲にむかってみる。
あらためて歌詞を読むと、不思議な詩なのである。歌われているのは、ある叙景であって、そこには自身 [この自身とは作詞者と読んでもいいし、歌の主人公と解してもいいし、いま、この楽曲を聴いているあなた自身と想ってもよい] は、一切関与しない。
関与しないばかりか、一切の感情もそこには綴られていない。ただ視線だけがあるのみだ。
そして、その視線は、あたかも撮影機がズーム・イン (Zoom In) したりズーム・アウト (Zoom Out) するかの様に、立ち振る舞うが、だからと謂って、撮影機そのものは移動しない。それは定点にあるがまま、据え置かれたままなのである。遥か彼方から歩んできた2頭の駱駝 (Camel) を発見し、その2頭が再び視野の彼方へと去っていく、その叙景をずっとひとつの視線だけが捉えているのだ。
勿論、その視線が捉えた駱駝 (Camel) に騎乗するふたりの人物はそこから微動だにしない。互いの交わす言葉もなければ、彼等の旅情を慰む管弦の楽の音も聴こえない。彼等の行動を阻い脅かすモノが顕れる事もなければ、彼等の行動をせき立てる急迫の事態も出来しない。あるがままなのである。
そのふたりを観る自身は、彼等の性別と彼等の出自が高貴である事を知ってはいるが、何故、そんな彼等がたったふたりで2頭の駱駝 (Camel) に騎乗しているのかは解っていない。ここに至る前歴もわからなければ、彼等の今後も知らないのも無論の事だ。いま、そこに2人がいる事以上の事柄は一切、知らないのだ。駱駝 (Camel) と共に顕れた1組の男女は、駱駝 (Camel) に乗ったまま、消え果てるのである。
勿論、この歌を聴くぼく達には、ふたりの関係を推理する自由は与えられている。
ふたりは恋人同士であろう、否、もしかすると既に夫婦であるやも知れぬ。いっその事、兄妹さもなければ姉弟であるかもしれない、しかも、互いに愛しあっているのだ、だからふたりは逃げたのだろう。地位も名誉も財産も捨てて砂漠 (Desert) の深夜 (Night)、逃避行の旅上にあるのだ、云々。
と、妄想は果てがない。どこまでも続くし、どこまでも続けられる。
しかし、その実際はどうかと謂うと、上に綴った様な蒙昧が登場する余地は、殆どないのだ。
歌われている叙景、それを甘受するだけで、この歌の官能を味わうぼく達は、申し分もない程に堪能しているのだ。
それだから、その官能を異国情緒のひとことで断罪してしまうのも出来ない程なのである。
それだからこそ、何故、歌から幾らでも発展する可能性のある想像力が一切機能せずに、歌のなかだけの美しさに惑溺出来るのか、その理由をもまだ、ぼくは見出せてはいないのである。
ところで、題名『月の沙漠 (Tsuki No Sabaku : The Desert Moon)』を読み、そしてその楽曲を聴くモノ、誰もがみな、そこで描かれている光景を"月夜の砂漠 (The Desert In The Moonlit Night)"とおもう。勿論、それは決して間違えてはいないだろう。
だが、その題名を誤読して、"月面の砂漠地帯 (The Desert On The Moon Surface)"としても、その詩世界は揺るぎがないのだ。
歌詞3番に登場する「月の夜 (Tsuki No Yo」を月夜 (Moonlit NIght) と解すべきを、月の裏側 (Dark Side Of The Moon) とでも解してしまえばなんら抵触はしないのである。
勿論、非科学的ではある。
月 (The Moon) には駱駝 (Camel) もいなければ王子様 (Prince) もお姫様 (Princess) も君臨していない。
しかしながら、月世界旅行 (A Trip To The Moon) を主題とした映画『月世界の女 (Frau im Mond)』 [フリッツ・ラング (Fritz Lang) 監督作品 1929年制作] では、そこは充分な生物活動を為しうる程に、酸素 (Oxygen) のある大気であって、地表も、さらさらとした沙 (Sand) [砂 (Samd) と呼ぶよりも] が一面を覆うっているのである。そして、天文学者 (Astronomer) であるフリーデ (Friede Velten - Astronomy Student) [演:ゲルダ・マウルス (Gerda Maurus)] は、そこに撮影機を設えてその眼に映る光景を撮影しているのである。
映画制作時の科学的智識が月 (The Moon) の、大気や地表をどの様なモノと認識していたかは定かではないが、少なくともその映画での描写は、一般の常識的な解釈のなかでは許容し得るモノであると看做しても差し支えはないだろう。
と、謂う様な事を前提とすれば、童謡『月の沙漠 (Tsuki No Sabaku : The Desert Moon)』を、月面上 (On The Moon Surface) に幻出した光景を詠んだ楽曲であると謂う解釈は全く、無茶でも無謀でもない様な気が、ぼくにはするのだ。

"Inside Columbia, Collins snaps a picture of Eagle as it approaches for rendezvous. Mare Smythii appears beyond the LM while a colorful, half-lit Earth appears in the background." 1969 photo by Michael Collins
次回は「く」。
附記:
蛇足として。
上掲画像は1969年、初めて月面着陸 (Moon Landing) に成功したアポロ11号 (Apollo 11) の、そのミッションの際に撮影されたモノである。
撮影者は、マイケル・コリンズ宇宙飛行士 (Michael Collins, The Astronaut) である。
写っているのは、宇宙空間に浮かび上がる地球を背景として、月面着陸 (Moon Landing) へと赴くアポロ月着陸船イーグル号 (Lunar Module Eagle) であり、そこにはニール・アームストロング船長 (Neil Armstrong, The Captain) とバズ・オルドリン宇宙飛行士 (Buzz Aldrin, The Astronaut) が搭乗している。本ミッションに参加した3名の宇宙飛行士のうち、マイケル・コリンズ宇宙飛行士 (Michael Collins, The Astronaut) ただ一人は、司令船コロンビア号 (Command Module Columbia) に遺り月 (The Moon) の軌道上を航行する。月面 (Moon Surface) へと向かった2人が還って来るまでの3日間、彼等の活動に関与する事は一切ない。司令船コロンビア号 (Command Module Columbia) で待機しているしかないのだ。
その時の彼の感興を情緒的に空想してみれば、その面持ちはあたかも童謡『月の沙漠 (Tsuki No Sabaku : The Desert Moon)』での叙景と全く一緒ではないだろうか。
以上が、上掲画像を本記事に掲載した主旨である。
彼のマンガ『天才バカボン (The Genius Bakabon)』 [1967~1976年 週刊少年マガジン連載] に、こんなシーンがあるからだ。
突如、出現した駱駝 (Camel) にバカボンのパパ (Bakabon's Papa) が吃驚する。その駱駝 (Camel) には天蓋のある座席が設えてあって、そこに搭乗しているターバン (Turban) 姿の人物が、歌を歌っているのである。その歌が童謡『月の沙漠 (Tsuki No Sabaku : The Desert Moon)』、その1節なのである。
バカボンのパパ (Bakabon's Papa) がそれを発見して吃驚している以上に、マンガを読んでいたぼくも吃驚した。あまりにもその登場は唐突で、それ以前の脈絡とは一切、関係がないからだ。だからこそ、今でも、その光景は憶えている。ネット上で、捜し出せた所以でもある。
ところで、「こんなシーン」と謂うのは、赤塚公認サイト これでいいのだ!! (Fujio Akatsuka Official Site That's Ok! No Problem!!) の中にあるスタッフブログ (Staff Blog) である。そして、そこにはこんな記述がある。「微妙なラクダ (A Camel Something Like It)」と。
しかし、ぼくはその駱駝 (Camel) が「微妙なラクダ (A Camel Something Like It)」である理由を知っている。マンガ特有の、ギャグマンガだからこその、そして赤塚不二夫 (Fujio Akatsuka) ならではのデフォルメ ( Deformer) による ...、と謂う理由だけではない。作品内に於いて「微妙なラクダ (A Camel Something Like It)」である必然がそこにはあるのである。
では、その必然とはなにか。
作品そのものを読めば立ち処に解る事ではあるので、ここでは擱筆しておこうと思う。
何故ならば、ここまでは落語 (Rakugo) で謂うところの枕 (Makura : Pillow) だから、なのである。
本題はこれからだ。
童謡『月の沙漠 (Tsuki No Sabaku : The Desert Moon)』は、作詞者であるる加藤まさを (Masawo Kato) が1923年、雑誌『少女倶楽部 (Shojo Club)』 [1923〜1962年 大日本雄辨會講談社 (Kodansha) 刊行] 3月号に発表した詩に、作曲者である佐々木すぐる (Suguru Sasaki) が作曲、翌1924年から刊行した作曲者自身の譜集『青い鳥楽譜 (The Blue Bird Sheet Music Collection)』に掲載された。一般に知られる様になったのは、1932年に柳井はるみ (Harumi Yanagii) の歌唱が録音、レコードとして発売された以降である。
と、取り急ぎ事実関係を把握して、それから楽曲にむかってみる。
あらためて歌詞を読むと、不思議な詩なのである。歌われているのは、ある叙景であって、そこには自身 [この自身とは作詞者と読んでもいいし、歌の主人公と解してもいいし、いま、この楽曲を聴いているあなた自身と想ってもよい] は、一切関与しない。
関与しないばかりか、一切の感情もそこには綴られていない。ただ視線だけがあるのみだ。
そして、その視線は、あたかも撮影機がズーム・イン (Zoom In) したりズーム・アウト (Zoom Out) するかの様に、立ち振る舞うが、だからと謂って、撮影機そのものは移動しない。それは定点にあるがまま、据え置かれたままなのである。遥か彼方から歩んできた2頭の駱駝 (Camel) を発見し、その2頭が再び視野の彼方へと去っていく、その叙景をずっとひとつの視線だけが捉えているのだ。
勿論、その視線が捉えた駱駝 (Camel) に騎乗するふたりの人物はそこから微動だにしない。互いの交わす言葉もなければ、彼等の旅情を慰む管弦の楽の音も聴こえない。彼等の行動を阻い脅かすモノが顕れる事もなければ、彼等の行動をせき立てる急迫の事態も出来しない。あるがままなのである。
そのふたりを観る自身は、彼等の性別と彼等の出自が高貴である事を知ってはいるが、何故、そんな彼等がたったふたりで2頭の駱駝 (Camel) に騎乗しているのかは解っていない。ここに至る前歴もわからなければ、彼等の今後も知らないのも無論の事だ。いま、そこに2人がいる事以上の事柄は一切、知らないのだ。駱駝 (Camel) と共に顕れた1組の男女は、駱駝 (Camel) に乗ったまま、消え果てるのである。
勿論、この歌を聴くぼく達には、ふたりの関係を推理する自由は与えられている。
ふたりは恋人同士であろう、否、もしかすると既に夫婦であるやも知れぬ。いっその事、兄妹さもなければ姉弟であるかもしれない、しかも、互いに愛しあっているのだ、だからふたりは逃げたのだろう。地位も名誉も財産も捨てて砂漠 (Desert) の深夜 (Night)、逃避行の旅上にあるのだ、云々。
と、妄想は果てがない。どこまでも続くし、どこまでも続けられる。
しかし、その実際はどうかと謂うと、上に綴った様な蒙昧が登場する余地は、殆どないのだ。
歌われている叙景、それを甘受するだけで、この歌の官能を味わうぼく達は、申し分もない程に堪能しているのだ。
それだから、その官能を異国情緒のひとことで断罪してしまうのも出来ない程なのである。
それだからこそ、何故、歌から幾らでも発展する可能性のある想像力が一切機能せずに、歌のなかだけの美しさに惑溺出来るのか、その理由をもまだ、ぼくは見出せてはいないのである。
ところで、題名『月の沙漠 (Tsuki No Sabaku : The Desert Moon)』を読み、そしてその楽曲を聴くモノ、誰もがみな、そこで描かれている光景を"月夜の砂漠 (The Desert In The Moonlit Night)"とおもう。勿論、それは決して間違えてはいないだろう。
だが、その題名を誤読して、"月面の砂漠地帯 (The Desert On The Moon Surface)"としても、その詩世界は揺るぎがないのだ。
歌詞3番に登場する「月の夜 (Tsuki No Yo」を月夜 (Moonlit NIght) と解すべきを、月の裏側 (Dark Side Of The Moon) とでも解してしまえばなんら抵触はしないのである。
勿論、非科学的ではある。
月 (The Moon) には駱駝 (Camel) もいなければ王子様 (Prince) もお姫様 (Princess) も君臨していない。
しかしながら、月世界旅行 (A Trip To The Moon) を主題とした映画『月世界の女 (Frau im Mond)』 [フリッツ・ラング (Fritz Lang) 監督作品 1929年制作] では、そこは充分な生物活動を為しうる程に、酸素 (Oxygen) のある大気であって、地表も、さらさらとした沙 (Sand) [砂 (Samd) と呼ぶよりも] が一面を覆うっているのである。そして、天文学者 (Astronomer) であるフリーデ (Friede Velten - Astronomy Student) [演:ゲルダ・マウルス (Gerda Maurus)] は、そこに撮影機を設えてその眼に映る光景を撮影しているのである。
映画制作時の科学的智識が月 (The Moon) の、大気や地表をどの様なモノと認識していたかは定かではないが、少なくともその映画での描写は、一般の常識的な解釈のなかでは許容し得るモノであると看做しても差し支えはないだろう。
と、謂う様な事を前提とすれば、童謡『月の沙漠 (Tsuki No Sabaku : The Desert Moon)』を、月面上 (On The Moon Surface) に幻出した光景を詠んだ楽曲であると謂う解釈は全く、無茶でも無謀でもない様な気が、ぼくにはするのだ。

"Inside Columbia, Collins snaps a picture of Eagle as it approaches for rendezvous. Mare Smythii appears beyond the LM while a colorful, half-lit Earth appears in the background." 1969 photo by Michael Collins
次回は「く」。
附記:
蛇足として。
上掲画像は1969年、初めて月面着陸 (Moon Landing) に成功したアポロ11号 (Apollo 11) の、そのミッションの際に撮影されたモノである。
撮影者は、マイケル・コリンズ宇宙飛行士 (Michael Collins, The Astronaut) である。
写っているのは、宇宙空間に浮かび上がる地球を背景として、月面着陸 (Moon Landing) へと赴くアポロ月着陸船イーグル号 (Lunar Module Eagle) であり、そこにはニール・アームストロング船長 (Neil Armstrong, The Captain) とバズ・オルドリン宇宙飛行士 (Buzz Aldrin, The Astronaut) が搭乗している。本ミッションに参加した3名の宇宙飛行士のうち、マイケル・コリンズ宇宙飛行士 (Michael Collins, The Astronaut) ただ一人は、司令船コロンビア号 (Command Module Columbia) に遺り月 (The Moon) の軌道上を航行する。月面 (Moon Surface) へと向かった2人が還って来るまでの3日間、彼等の活動に関与する事は一切ない。司令船コロンビア号 (Command Module Columbia) で待機しているしかないのだ。
その時の彼の感興を情緒的に空想してみれば、その面持ちはあたかも童謡『月の沙漠 (Tsuki No Sabaku : The Desert Moon)』での叙景と全く一緒ではないだろうか。
以上が、上掲画像を本記事に掲載した主旨である。
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