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2009.03.01.22.15

泣きたいほどの淋しさだ(I'm So Lonesome I Could Cry)

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この曲を初めて聴いたのは、カウボーイ・ジャンキーズ(Cowboy Junkies)の名盤『トリニティ・セッション(The Trinity Session)』でのヴァージョンだ。
ティミンズ兄弟(Timmins Brothers)が中心となってバンドを結成し活動を続けたものの、世間の眼は厳しく、一向に評価されない。遂に解散を決意し、その記念に録音機材を聖トリニティ教会(The Church Of The Holy Trinity In Toronto)に持ち込んで低予算でレコーディングしたのが本作品。
締念と慰めと哀しみに満たされた作品であるのにも関わらず、この作品に満ちているあるムードが支持されて、じわじわと作品と彼らへの評価そしてセールスへと結びつく。
そんなドラマを持ったアルバムの中の一曲として聴いたのが、この「泣きたいほどの淋しさだ(I'm So Lonesome I Could Cry)」なのである。


この曲のオリジネイターはハンク・ウィリアムス(Hank Williams)。1949年に発表されたこの曲は、彼と彼の妻オードリー・シェパード(Audrey Sheppard)との確執が、曲を産み出すモチベーションになっているらしい。
歌の主人公は独り、真夜中から陽の出までの永い時間、夜の中に佇んでいる。

以来、孤独とその孤独から産まれる哀しみは、様々なアーティストに取り上げられて、歌唱されている。


その最もヒットしたのが、B. J. トーマス(B. J. Thomas)のヴァージョン。オリジナルのハンク・ウィリアムス(Hank Williams)のヴァージョンがビルボード(Billboard)のカントリーシングル部門(Billboard Hot Country Songs chart)でのナンバーワンが最上位[1949年]だったのに対し、B. J. トーマス(B. J. Thomas)のものはポップ・シングル部門(Billboard Hot 100)で最高位8位を記録している[1966年]。ついでに書いておくと、B. J. トーマス(B. J. Thomas)のヒットによりハンク・ウィリアムス(Hank Williams)・ヴァージョンも、再度チャートを上昇しセールスをあげた様だ。
[こちらをご覧頂ければ、この楽曲の過去のランキングが一目瞭然かと]


そしてこの曲をもうひとつ有名にしているのが、エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)が取り上げた事による。彼のヴァージョンは、この曲に潜むロマンチシズム(Romanticism)を強調して、孤独という一見、ネガティヴな要素にヒロイックな視点(Heroism)を与えているかの様だ。
またこれは推測だけれども、カウボーイ・ジャンキーズ(Cowboy Junkies)がこの曲を取り上げたのも、エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)のこの解釈があったからなのだろう。と、いうのは、『トリニティ・セッション(The Trinity Session)』収録楽曲を観てみれば、エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)・トリビュートといっても差し支えない、彼のキャリアにちなんだ楽曲が多いからだ。


と、言う様な経緯をこの楽曲を経れば、国民的な楽曲としての支持も得る様になる。つまりは、スタンダード(Standars)化という事なのだけれども、その流れにあるヴァージョンとして、ディーン・マーティン(Dean Martin)のものとグレン・キャンベル(Glen Campbell)のものを紹介しておく。前者のこの映像版ではディーン・マーティン(Dean Martin)の映画俳優としてのキャリアの総まくりの印象を受けるし、後者はグレン・キャンベル(Glen Campbell)の歌唱よりも、曲のモードを規程させているハープ(Blues Harp)奏者の演奏につい耳が引き寄せられてしまう。


だから、アメリカ大陸が育んだ音楽の伝統とその再構築という視点で、この曲を取り上げるアーティストも出てくる。ここでは映像を直接紹介出来ないけれども[こちらをクリックして下さい]デヴィッド・リンドレー(David Lindley) & ボブ・ブロッツマン(Bob Brozman)の演奏や、ビル・フリゼール(Bill Frisell)の演奏にそれを見出す事が出来るのではないか。それぞれのアーティストが観ている方向は、180度異なるのかもしれないけれども。


ところで、オリジネイターであるハンク・ウィリアムス(Hank Williams)の出自がカントリー・アンド・ウェスタン(Country And Western)という事もあって、ここまでは白人ミュージシャンが取り上げた作品を紹介してきた。これが、人種の異なるアフリカ系アメリカ人の手に掛かるとどうなるのか? リズム・アンド・ブルース(Rhythm And Blues)のフォーマットで再構築したと、このアル・グリーン(Al Green)のヴァージョンを解釈するのは容易いけれども、果たしてそれでいいのだろうか。
僕は、ここで唄われている孤独というものの認識が、全く異なるものなのではないだろうかという思いに囚われているのです。
ワールド・ミュージック(World Music)的な解釈、しかもゴスペル(Gospel Music)の要素も垣間見られるネーションビート(Nation Beat)のアプローチも、その思いを強くさせるのだ。


だから、これが異なる性別に唄われると、さらに違ったニュアンスに聴こえてきます。孤独に耐える主人公を凝視する視点というのを感じ取ってしまいます。だから、何故か、このカサンドラ・ウィルソン(Cassandra Wilson)のヴァージョンは唄われている内容に反して、何故か居心地がいい。しかも、それはエルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)のヴァージョンにあるヒロイックな情感(Heroism)とはさらに別物の居心地の良さなのだ。
そして、こじつけと疑われるのを承知で書けば、カウボーイ・ジャンキーズ(Cowboy Junkies)のヴァージョンの居心地の良さもまた、エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)よりも、カサンドラ・ウィルソン(Cassandra Wilson)の方に近い様な気がする。バンドのヴァーカリスト、紅一点のマーゴ・ティミンズ(Margo Timmins)が醸し出す、その気怠さは。


ところで、僕自身の今の心情としては、ここにあげたボブ・ディラン(Bob Dylan)とジョニー・キャッシュ(Johnny Cash)のヴァージョンが相応しい。単純に気心が知れたふたりが共に馴染んでいる楽曲をセッションしてみただけ、というのが実際に近いのだろうけれども、この捨て鉢でやけっぱちな感情の吐露は、逆にある種の爽快感がある[ジョニー・キャッシュ(Johnny Cash)自身のカヴァーもあるので、そちらとも聴き比べて下さい]。
このヴァージョンを聴くと、トム・ウェイツ(Tom Waits)あたりがきっちりとカヴァーしていても全然おかしくないんだけれどもなぁ~。そんな感慨にふと陥ります。

追伸:実はこの楽曲、非カントリー・アンド・ウェスタン(Country And Western)や非ロック系のアーティストも随分と取り上げていて、そちらの方が興味深い。しかしながら、ここで紹介出来る様な視聴可能な形式でネット上に発見出来なかったので、やむを得ず断念しました。
レイ・チャールズ(Ray Charles)やニック・ケイヴ(Nick Cave)、ダイアマンダ・ガラス(Diamanda Galas)あたりなんですが...。
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