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2021.03.02.08.48

がいとう

フランツ・カフカ (Franz Kafka) のパロディ (Parody) かと思った。
グレゴール・ザムザ (Gregor Samsa) が、昨夜までの一切の表象を喪ってしまって毒虫 (Ungeziefer) へと変化したかの様に、ヨーゼフ・K (Josef K.) が犯罪者としての汚名を着せられて犬の様 (Wie ein Hund!) に殺された様に、アカーキイ・アカーキエウィッチ (Akaky Akakievich Bashmachkin) は自己のアンデンティティー (Identity) たる外套 (Shinel) を盗難されてその結果として死なねばならなかった、そんな認識を抱いたからである。

勿論、上の認識にはあやまりがある。
グレゴール・ザムザ (Gregor Samsa) を主人公とする小説『変身 (Die Verwandlung)』 [フランツ・カフカ (Franz Kafka) 作 1915年発表] と、ヨーゼフ・K (Josef K.) を主人公とする小説『審判 (Der Process)』 [フランツ・カフカ (Franz Kafka)作 19141915年執筆] と、アカーキイ・アカーキエウィッチ (Akaky Akakievich Bashmachkin) を主人公とする小説『外套 (Shinel)』 [ニコライ・ゴーゴリ (Nikolai Vasilievich Gogol) 作 1842年発表]、以上の3作品の成立年を調べれば、ニコライ・ゴーゴリ (Nikolai Vasilievich Gogol) の小説『外套 (Shinel)』の方が、フランツ・カフカ (Franz Kafka) のふたつの小説よりも古いのだ。
だから、フランツ・カフカ (Franz Kafka) が小説『外套 (Shinel)』を読みそれを参考にする可能性はあるだろうが、ニコライ・ゴーゴリ (Nikolai Vasilievich Gogol) が彼のふたつの小説を読み、参考にする可能性は全くない。第一に、フランツ・カフカ (Franz Kafka) の生没年が、生年1883年・没年1924年であるのに対し、ニコライ・ゴーゴリ (Nikolai Vasilievich Gogol) のそれは生年1809年・没年1852年である。
このふたりの小説家は同時代人ですらないのだ。

と、謂う訳で、上のぼくの認識は完全なるあやまりである。と、謂って幕引きを謀るべきなのかもしれない。
でも、何故かこのふたりの小説家の作品のなかにはある種の共通解が存在している様に思えて仕方ない。そして、その共通解なるモノの正体を明らかにしようとすればする程、今度は逆に、ふたりの小説家の作品の差異と謂うモノが際立ってくる様な気がするのだ。

グレゴール・ザムザ (Gregor Samsa) 乃至ヨーゼフ・K (Josef K.) とアカーキイ・アカーキエウィッチ (Akaky Akakievich Bashmachkin) との、その眼前にたちはだかるには、いずれも、おおきな組織ないしは構造である。それがなんであるのかは、彼等はうすうす気づいてはいるのだが、それを如何ともする事が出来ない。そして、それ故に、自滅への道を辿る事になる。
おおきな組織ないしは構造は、本来ならば、彼等の為にこそ機能すべきモノである。しかし、それは幻想でしかなく、それに我が身を委ねる事は出来ない。だからと謂って、拒絶する事も無視する事も出来ない。単純に、そこから発せられる指令ないし指示に、唯々諾諾と応じるしかない。だが、だからと謂って、その結果として自らの生存や生活が保証されるとは限らない。否、違う。自らの生存や生活が保証されるであろうと謂う幻想を抱きながら、そこからの指令ないし指示に応じるしかない、そして諾と応じようと否と応じようと、自らが得る代償は然程変わらないのである。
だから、そんな幻想がいつしか破綻したときにこそ、彼等に悲劇 (Tragedy) が訪れるのだ。
アカーキイ・アカーキエウィッチ (Akaky Akakievich Bashmachkin) にとっては、新調した外套 (Shinel) こそ、その悲劇 (Tragedy) を起動させるモチーフなのである。

と、謂う様な共通解を仮に設定する。そして、そんな認識の基で、ふたりの作家の作品を読んでいく。そうすると、立ち所に共通解すらも危うくさせる様な認識へと到達せざるを得ない。
それは一方を喜劇 (Comedy) と仮定すると他方は悲劇 (Tragedy) であると主張し始めるからだ。では、と謂う事で、その認識を逆転し今度は、一方を悲劇 (Tragedy) と仮定すると他方は喜劇 (Comedy) であると主張し始める。悲劇 (Tragedy) にしろ喜劇 (Comedy) にしろ喜劇 (Comedy) にしろ悲劇 (Tragedy) にしろ、それらが絶対的な指標ではない事を思い知らされるだけなのだ。

だが、明らかに違うところがある。それは、小説『外套 (Shinel)』の主人公アカーキイ・アカーキエウィッチ (Akaky Akakievich Bashmachkin) の死後も語られている点である。否、寧ろ、彼の死後を語る事が、この小説の本意なのかもしれない。
[考えてもみたまえ。毒虫 (Ungeziefer) と化して死んでしまったグレゴール・ザムザ (Gregor Samsa) のその後の物語を、犬の様に (Wie ein Hund!) 殺されてしまったヨーゼフ・K (Josef K.) のその後の物語を。難しいと思う。その難しさを小説『外套 (Shinel)』は飄々と飛び越してしまっているのだ。]
物語のなかでは、決して救われる事がない彼の、その死後を述べる事によって、この小説はある種の救いとなっている。それは、アカーキイ・アカーキエウィッチ (Akaky Akakievich Bashmachkin) にとってと謂うだけではない。小説の読者であるぼく達にとっても、彼の死後の叙述のある事は救いであるのだ。

ところが、グレゴール・ザムザ (Gregor Samsa) にとっても、ヨーゼフ・K (Josef K.) にとっても、救いたるモノは顕れてはくれない。但し、少なくとも後者にとっては、それが未完の小説である事が救いとなっている。その小説を読むぼく達は、決して書かれなかった物語がある事によって、それを自分自身の物語として引き受ける事が出来る [そして自分自身にとって都合の良い物語の結構を妄想する]。それが、その小説の主人公にとって、救いとなっているのではなかろうか。

ところで、ぼくが小説『外套 (Shinel)』をよすがにして、上の様な解読を試みている最中に、ある映画の事を思い出したのだ。この映画こそ、小説『外套 (Shinel)』の翻案ではないだろうか、と。
映画『最後の人 (Der Letzte Mann)』 [F・W・ムルナウ (Friedrich Wilhelm Murnau) 監督作品 1924年制作] である。
その映画の主人公は、老いたるベル・ボーイ (Hotelportier) [演:エミール・ヤニングス (Emil Jannings)] である。一流のホテルに勤務している。彼は、自身の仕事に誇りをもち、そして、その象徴たる制服 (Uniform) をこよなく愛している。つまり、彼のアイデンティティー (Identity) とはベル・ボーイ (Hotelportier) の制服なのである。そしてそこに不幸が訪れる。老齢を理由として、人事異動がなされ、彼から制服 (Uniform) は奪われてしまう。
映画はその結果に起こる悲劇を描ききって物語を語り終わるのだが、映画そのものはそこで終了とはならない。蛇足以外のナニモノでもないかたちで、しかも制作者自身が蛇足である事をあらかじめ言明して、ちいさな挿話 [それはベル・ボーイ (Hotelportier) のしあわせを約束するものだ] が綴られて、その映画は終わる。

アカーキイ・アカーキエウィッチ (Akaky Akakievich Bashmachkin) にとっての外套 (Shinel) がそのまま、ベル・ボーイ (Hotelportier) にとっての制服 (Uniform) であるのは、言を俟たない、と思う。
それを前提にしてぼくが謂いたいのは、アカーキイ・アカーキエウィッチ (Akaky Akakievich Bashmachkin) の死後の物語が、ベル・ボーイ (Hotelportier) のちいさな挿話に相応するのでは、と思っているのである。

アカーキイ・アカーキエウィッチ (Akaky Akakievich Bashmachkin) の死後の物語と謂うのは、単純にひとつの怪異譚 (Strange Incidents) である。だが、怪異譚 (Strange Incidents) ではあるが恐怖譚 [Ghost Story] ではない。それをもって怖ろしいとは誰も思わないだろう。だが、だからと謂って、生前には決して彼が果たせない様な行為である事をもって、復讐譚 (Revenge Tragedy) と謂う認識を抱く事も出来ない。ぼく達からすればそれは快哉を叫ぶ様な行為であると謂うよりも、致し方ない事、どうしようもない事、である様な気持ちしか抱けないのだ。つまり、読者によっては、笑いこそこみあげたるする場合もあり得るだろうが、それは文字通りの苦笑、苦々しいモノでしかないとぼくには思える。
だが、喩えそうであっても、アカーキイ・アカーキエウィッチ (Akaky Akakievich Bashmachkin) と謂う物語の主人公にとってはそれは幸いなのである。
何故ならば、少なくとも生前の彼は、そんな致し方もない事やどうしようもない事に翻弄されてばかりだったのだから。死をもって、ようやく彼は、かつての自身とは反対側の当事者たる事が出来た、そこをもってぼくは救いと呼んでいる。

次回は「」。

附記 1. :
小説『外套 (Shinel)』が芥川龍之介 (Ryunosuke Akutagawa) の小説『芋粥 (Imogayu : Yam Gruel)』 [1916年 雑誌『新小説』 掲載] 、その原典のひとつである事は既にこちらに綴ってある。

附記 2. :
アカーキイ・アカーキエウィッチ (Akaky Akakievich Bashmachkin) の死後の物語に着目し、そこにある怪異譚 (Strange Incidents) だけに注目してみよう。
路上、 [文字通りの] 追剝を行う (Highwayman) 怪異と謂うのは、この小説に顕れる彼しか、ぼくには思いあたらないのである。
無論、狐狸妖怪の類い (Such Uncanny Creatures As Foxes, Badgers And Goblins) は、路上に顕れ、わるさをする。あしまがり (Ashi-magari)、うわん (Uwan)、すねこすり (Sunekosuri)、びしゃがつく (Bishagatsuku)、べとべとさん (Betobeto-san)... 、思いつくのをそのまま書き並べていけば相当数になるだろう。しかし、そのどれもが、音や気配に訴えかけるばかりで、追剥 (Footpad) にまでは至らない。尤も、その正体が (Fox) や (Tanuki) や (Mujina) や摸摸具和 (Momonga) であるのならば、如何様な事でもしでかすだろうし、ある特定の人物に怨みを抱くモノならば、それは尚更の事ではあるが。
その一方で、その小説に綴られてあるのは、衣服にとりついたモノと看做してみれば、小袖の手 (Kosode No Te) がそれに該当するのかもしれない。しかし、その怪異にまつわる情緒的な怨念 [遊女 (Prostitute) 云々と謂う]は、アカーキイ・アカーキエウィッチ (Akaky Akakievich Bashmachkin) と謂う人物には似つかわしくない様に思える。
寧ろ、小袖の手 (Kosode No Te) と同様に、付喪神 (Tsukumogami) に分類されうる白溶裔 (Shirouneri) の方が、彼にとっては相応しい様な気がする。つまり、使い古された襤褸雑巾 (Ragged Cloth) の霊である。

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白溶裔 (Shirouneri)』(妖怪画『百器徒然袋 (Gazu Hyakki Tsurezure Bukuro)』 [鳥山石燕 (Toriyama Sekien) 画 1784年刊行] より)
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