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2021.02.16.08.29

しくらめんのかほり

真綿 (Floss Silk) の色をしりもしないやつが歌にしおってからに」

そんな激しい口調で難じたのは、ぼくが中学生 (Junior High School Student) だった頃、社会科の教師だったY教諭である。
その歌が流行っていた1975年、もう随分と昔の事だ。

その歌、楽曲『シクラメンのかほり (Fragrance Of Cyclamen)』 [作詞作曲:小椋佳 (Kei Ogura) 歌唱:布施明 (Akira Fuse) 1975年発表] の歌い出しに、こうある。
「真綿色した シクラメンほど 清しいものはない (There Is No Pure Than Cyclamen In Floss Silk Color.)」[歌詞はこちら等を参照の事]

Y教諭の断罪はその後にも続くのである。
真綿 (Floss Silk) というものはだな、....」と。

そして、ぼくはあっけにとられる。
ぼく自身は単純にそれは合成繊維 (Synthetic Fiber) ではない、もしくは、普通の綿花製品 (Cotton Products) よりも高級で上等な素材なんだろうと思い込んでいた。そして恐らくその色彩は純白 (Pure White) なのだろう、と。そのよってたつ総ては真綿 (Floss Silk) の語頭を飾る"真 (Genuine)"と謂う文字に起因する。
つまり、ぼくもその楽曲の作者である小椋佳 (Kei Ogura) と同様に、Y教諭に断罪される側なのである。
と、謂う点まで考えが及んでしまえば、授業時間中の貴重な時間を割いてまで、彼が流行歌とその中の1節を難詰する意図も解ろうと謂うモノである。恐らく、その楽曲やその楽曲の作者を非難するのが、彼の主目的ではないのだろう。

その曲の歌詞を、あらためて今、再読してみる。
歌の主題は追想である。ある花の存在が、歌の主人公が回想する契機となっている。それはある人物との出逢いである。シクラメン (Cyclamen) と謂う植物の花弁が湛える色彩が、その人物と共有した時間やその時々の感情を、主人公に想起させていく。単純に考えれば、その人物とは恋人、もしくはかつての恋人である。と、謂うのは、歌詞に綴られてあることばは総て、過去の出来事を語っているだけで、今、現在には一切触れられていないからだ。「恋人、もしくはかつての恋人」とは、そおゆう意味である。既に彼等が別れ別れとなり、2度と再び出逢う事がないとしてもこの歌は成立するだろうし、それとは逆に、現在の2人で一家をなし生計を共にしていてもこの歌は成立する。但し、2人の関係が現在どの様なモノであろうとも、過去には決して立ち返れない、あの時に共に過ごした時間もその際の心情も取り戻す事が出来ない、と謂う諦念がこの楽曲の主題である。経過するだけで絶対にそこに往生する事もなく再現する事もない、時間と謂う存在の冷酷さを歌ってあるのだ。すなわち、無常観 (Impermanence) なのである。

ところで、不思議に想うのは、歌詞に顕れているのは、その花の花弁の色彩でしかない筈なのに、楽曲名は『シクラメンのかほり (fragrance Of Cyclamen)』、すなわちその花が放つ香り、匂いが指摘されている点にある事だ。

そこでぼく達が想い出すべきなのは、プルースト効果 (Proust Effect) と謂う現象、そしてその語句の由来となったマルセル・プルースト (Marcel Proust) の小説『失われた時を求めて (A la recherche du temps perdu)』 [19131927年刊行]、その第1篇『スワン家のほうへ (Du cote de chez Swann)』 1913年刊行] に登場する、有名な逸話なのではないだろうか。
そこでは、紅茶 (The noir) に浸されたプチット・マドレーヌ (Madeleine) の香りが、主人公に過去への追想を促す契機となっている。そして、そこでの描写をそのまま引き受け、ある匂いがある記憶やある感情を促す現象をプルースト効果 (Proust Effect) と呼ぶのだ。

images
"Remembrance 0f Things Current : La Madeleine De Proust" 2016 by Nicholas de Lacy-Brown

それとも、もっと単純に、ぼく達は芳山和子 (Kazuko Yoshiyama) と謂う少女の事を想い出した方がてっとり早いだろうか。彼女は、ラベンダー (Lavender) の香りに刺激され、時間を超越する能力を入手したのだ。
謂うまでもなく、小説『時をかける少女 (The Girl Who Leapt Through Time)』 [筒井康隆 (Yasutaka Tsutsui) 作 1967年刊行] の主人公、それが彼女なのである。

小説『失われた時を求めて (A la recherche du temps perdu)』 と小説『時をかける少女 (The Girl Who Leapt Through Time)』と楽曲『シクラメンのかほり (Fragrance Of Cyclamen)』のあいだに、なんらかの経脈があるのか否か、それはぼくには解らない。マルセル・プルースト (Marcel Proust) と筒井康隆 (Yasutaka Tsutsui) と小椋佳 (Kei Ogura)、この3人の創作者の間に、系譜を辿れるや否やも、ぼくには解らない。

解らないけれども、Y教諭とには次の様なエピソードがぼく達にはある。

ある日の授業時間、Y教諭は教壇にたつや否や、教室にあるテレビのスイッチを入れる。画面にあるのは国会中継 (Live Televised Broadcasts Of Parliamentary Proceedings) である。そして、その時限は黙ってそれだけをみていた。つまり、有無を謂わせずに、ぼく達に国会中継 (Live Televised Broadcasts Of Parliamentary Proceedings) を眺めさせたのだ。そして、終わりのチャイムが鳴るや否や、こんなコメントを寄せたのだ。
「さっきからずっと記憶にない、記憶にない。なにを聴いても、そればっかりだな」
つまり、ぼく達がその時間に観ていたのは、小佐野賢治 (Kenji Osano) の証人喚問 (Summoning Of A Sworn Witness)、ロッキード事件 (Lockheed Bribery Scandals) を巡る国会審議 (Deliberations Proceedings Of The Diet) の一齣だったのである。
追想を主題とする楽曲『シクラメンのかほり (Fragrance Of Cyclamen)』が大ヒットし、各局の各賞を総舐めにした翌1976年の事である。そしてその年、そこでの彼の発言を受けての流行語『記憶にございません (I Have No Recollection)』が流通するのである。

次回は「」。

附記 1. :
真綿 (Floss Silk) 云々以前に、ぼく達 [少なくともぼくは] シクラメン (Cyclamen) と謂う植物の存在自体、その楽曲を通じて知った様なモノだった。
そもそも、クリスマス商戦 (The Holiday Shopping Season) が開戦する11月頃に、その花が出荷の最盛期を迎える云々と謂う報道が例年の様に流れるのも、その楽曲のヒット以降である様な気がしないでもない。

附記 2. :
Y教諭なくしては、ぼくが未だにその楽曲を記憶しているよすがはないと謂う事も出来るのだが、この楽曲に関しては、それとは別にもうひとつ、記憶に遺るモノがある。
それは、視聴者からの投稿ネタで成立しているテレビ番組『欽ちゃんのドンとやってみよう! (Kin-chan Presents Do It On Dynamic!)』 [19751980フジテレビジョン系列放映] でのモノだ。そこで紹介された投稿のひとつに、その楽曲の歌唱の一部「時が二人を追い越してゆく (Time Passed Two Of Us By)」を起用したモノがあった。その投稿は、その番組内での最高評価を顕す語句 [後に流行語になる] バカウケ (Being Extremely Well-received) と絶賛された。
尤も、今ここでその投稿記事の内容を文章化する事は出来ない訳ではないが、それは決して具に綴ってみても面白いモノになる訳でもないだろう。
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