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2009.02.17.20.39

だだそのさんにかえてたかはししんきち

先ずは意味不明なタイトルの説明というか、弁解めいた事から。
この連載では「だだそのいち」「だだそのに」と題してダダ(Dada)に関して駄文を書き連ねてきた訳だけれども、その後を受けて「だだそのさん」と言い切ってしまうと、この連載のよってたつルールでは、連載終了となってしまう。もういい加減にしたら...という声が聴こえない訳ではないのだけれども、書いている本人からすれば、流石にそれは忍びない。だから、苦渋の選択(Painful Choice)として、上記の様な、持って回った、そして、あまりにもダダ(Dada)らしくない歯切れの悪いタイトルを掲げさせて頂きます。
と、云う訳で本論は、ここより後に始ります。

さて本論の主人公である高橋新吉ではあるが、何を隠そう、本邦においてはダダ(Dada)と言えば、このヒトに他ならない。辻潤ぢゃあねいのか、というやっかみも聴こえてくるかもしれないが、それもさなり、と軽くあしらって、その上で、されどもここは高橋新吉をおいて日本のダダ(Dada)を語る事は出来ないと、断言してしまう。と、いうのも彼の処女詩集のタイトルが『ダダイスト新吉の詩』だからなのである。

さて、この『ダダイスト新吉の詩』というのは、その内容よりも、その作品が発表された結果として、後の世代に大きな影響を与えたという部分での評価の方が、とてつもなく大きい。
中原中也(Chuya Nakahara)を代表格として、文壇というか詩壇というか歌壇というか、そこに蠢く当時の若い才能のバイブルの様な位置づけをされている。

ヨーロッパでのダダ(Dada)の発生とその受容に関していえば、第一次世界大戦(The World War I)が大きな影響を及ぼしている様に、この日本では関東大震災(The 1923 Great Kanto Earthquake)の影響が大きいと想う。
これまで既定のものであった価値や観念が大きく揺らいで、なぁんにもない地平が眼前に広がった時に目覚める思想、それをダダ(Dada)とすれば、関東大震災(The 1923 Great Kanto Earthquake)程、解りやすいヒントはないだろう。
その関東大震災(The 1923 Great Kanto Earthquake)の起きた1923年に『ダダイスト新吉の詩』は、発表されている。
 
そしてその冒頭に収録された『断言はダダイスト』での「DADAは一切を断言し否定する。/無限とか無とか、それはタバコとかコシマキとか単語とかと同音に響く。[以下略]」から始る言葉の連なりのなんと美しい事か。噫。

<中略>

ところで、『高橋新吉の詩集』[1949年発表]に収められた作品に『るす』というものがある。

るす

留守と言へ
ここには誰も居らぬと言へ
五億年経つたら帰つて来る

images
この短い詩に書かれているのは、不在証明(Alius Ibi)とその期間だけ。
だけれどもその期間が五億年(500,000,000 Years)という気の遠くなる様な時間だけに、戸惑いを超えて寒気すら感じる。
その永い不在から生じる畏怖を信仰心へと向かわしめたのが弥勒菩薩(Maitreya)[彼は釈迦入滅後56億7千万年後の未来(5.6 Billion Years After The Death Of Shaka Nyorai)に地上に現れる]だとしたら、しかしながらこの短い詩には、その様な恐怖政治(Terreur)は存在しない。
五億年(500,000,000 Years)という永い時間を、一度にくしゃくしゃに丸めてぽぉんとゴミ箱の中に放り込んだ一瞬に見出した爽快感を、むしろ、僕は感じるのだ。
この爽快感をダダ(Dada)と呼ばずして何をダダ(Dada)と呼べば良いのか。

次回は「」。
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