2020.12.29.08.28
「今夜はとんかつよ」
夕食の支度をしながら、母が謂う。そして、こうつけくわえる。
「だから、これを買ってきた」、と。
とんかつ (Tonkatsu : Pork Cutlet) を喰べるのはなにもその時が初めてではない。何度も喰ってきた。でも、そのソース (Sauce) は初めてだった。最近、TVのCMで流れているのをみた事がある。
ブルドックソース (Bull-Dog Sauce Co., Ltd) の、とんかつソース (Tonkatsu Sauce) である。
揚げたばかりのとんかつ (Tonkatsu : Pork Cutlet) が食卓を囲む各自に配膳され、そのいいにおいがぼく達、3歳下の弟とぼくの食欲を刺激する。
そして、そのソース (Sauce) を自身の皿にかけてみる。それは、初めてみるモノと謂っても良いだろう。どろりとまっくろなソース (Sauce) がゆっくりと、そしてねっとりととんかつ (Tonkatsu : Pork Cutlet) の上に流れ込むのだ。その有様をみるだけで、ぼく達は悦ばしくなってしまう。そして、勿論、いつもよりも数段美味しかった。
だから、その日以降、そのソース (Sauce) が常に、とんかつ (Tonkatsu : Pork Cutlet) の際に登場しても良い筈なのに、そうはならない。
そして、それをぼく達が母を咎める。
彼女の説明はこうだった。
「おとうさんがきらいなんだから。それに ...」
彼が反対する理由は、ぼく達には自明のモノでもあった。彼は、ソース (Sauce) 自体を好んでいないのだから。とんかつ (Tonkatsu : Pork Cutlet) に限らず、揚げ物 (Fried Food) にしろなんにしろ、中華 (Chinese Food) ないし洋食 (Western Food) の類いであろうとも、彼は醤油 (Soy Sauce) 一択なのだ。
ぼく達は、彼の選択が必ずしも間違ってはいない事は解っている。例えば鰺フライ (Deep-Fried Horse Mackerel) は、醤油 (Soy Sauce) の方が美味しく感じる時がないではないのだ。
だけれども、とんかつ (Tonkatsu : Pork Cutlet) には、そのソース (Sauce) に優るモノはない。それがぼく達の認識ではあったのだ。
でも、だとしても、それならば、個々人が好き勝手にトッピング (Topping) する具材を選べばいいだけの話ではないだろうか。ソース (Sauce) もしくは醤油 (Soy Sauce) は母親が調理する際に投入されるのではない。彼女が調理した後、食卓に鎮座しているそれぞれの許に提供された後に、起用されるモノだからである。そんな認識を前提にすれば、彼の物謂い (Object To The Referee's Decision) は彼の眼前にある配膳だけに有効であるだけで、なにもそれに他の3名の食餌が左右される筋合いはない筈なのである。
そんなぼく達の主張を遮る為にあるのが、彼女の発言の後段だ。
「それに、すぐなくなっちゃうでしょ。あれ、やすくはないんだから」
そうなのだ。あのソース (Sauce) 独特の、粘りが嬉しいが為に、ぼく達はとんかつ (Tonkatsu : Pork Cutlet) に限らず、どんな料理であろうとも、それを起用してしまうのだ。醤油 (Soy Sauce) 味の鰺フライ (Deep-Fried Horse Mackerel) が美味しい事をしっていても、あのソース (Sauce) をかけたがり、実際にかけてしまうのである。
しかも、あの粘性があるが為に、その他のソース (Sauce) のその他の味のソース (Sauce) と比較して、一度に消費される量が多いのも事実なのである。
ぼく達の家計を預かっている彼女の念頭にあるのが費用対効果 (Cost-effectiveness)、いまのことばで謂うコスパ (Cost Performance) である事は忘れてはならない。もしかすると、前段である父親の発言は、後段に控えてある彼女自身の主張を補完する為のモノでしかないのかもしれない。
その結果、ブルドックソース (Bull-Dog Sauce Co., Ltd) が卓上にある事は滅多になく、常に他社の商品がその占めるべき場所に置かれていた [忘れた頃を見計らうかの様にそのソース (Sauce) が登場する事がないではない。きっとその時は、特売商品だったのだろう]。

上掲画像 [こちらから] は、映画『秋刀魚の味
(An Autumn Afternoon)』 [小津安二郎 (Yasujiro Ozu) 1962年制作] に於いて、平山幸一 (Koichi) [演:佐田啓二 (Keiji Sada )] がとんかつ屋 (Tonkatsu Shop) でとんかつ (Tonkatsu : Pork Cutlet) を食するシーン。彼がその調理に起用したソース (Sauce) は、果たして何味だったのだろう。
次回は「す」。
附記 1 .:
上に記した父親の発言をうけて、母親が購入してきたのが、おなじメーカーのウスターソース (Worcestershire Sauce) である。とんかつソース (Tonkatsu Sauce) に比して、粘性なぞ殆どない。まるで水の様にさらさらしている。それは他社の同種の味と比較しても同様である。だから、普段のソース (Sauce) と同様な扱いをすると、どうしてもかけすぎてしまう。食後の皿をみると、まっくろに染まり、あたかもソース (Sauce) の海の様な様相さえしてしまう。だから、すぐに使い果たしてしまう。味云々とは別の次元で、それ以降、そのソース (Sauce) の起用は見送られる事となった。
附記 2.:
ぼくが小学校高学年になった頃、繁華街の一角にあたらしいレストランが開店した。和 (Washoku) 洋 (Western Food) 中華 (Chinese Food)、一通りのモノがそこで喰せてしまう。しかも家族向けに展開しているせいか、テーブル席だけではなく、和風の座卓も幾つか用意されている。子連れで家族3人を引率し [実際には1員それぞれが行きたいところへと引き回されて] 、這う這うの体 (Hurriedly) であるぼくの父親は、夕食は靴を脱いで、しかも自分独り、酒とその肴に向かいたい一心だから、彼にはうってつけの店ではあるのだ。
一方のぼく達、つまり弟とぼくが行きたがるのは、とんかつ屋 (Tonkatsu Shop) である蝶屋 (Cho-ya) [もう随分昔に閉店してしまった] である。その店は繁華街のもうひとつの一角、煩雑にヒトビトが行き交う十字路に面したちいさな店である。テーブル席は申し訳程度の4人向けが2卓しかなく、基本はカウンター席に座る事になる。その席もあわせて10数名がやっとだろう。だから、親子4人で訪れても殆どの場合、満席であってなかなか、そこで喰える機会もない [余談ながら、行列をつくって待つと謂う文化は当時はない。またあったとしても、その行列の存在を許される空間もない。繁華街の一角にあるとは謂え、とても狭い歩道なのだ]。そして、運良く入店出来たとしても、先に綴った様な空間しかないから、食餌に勤しむ事しか出来ない。注文すれば瓶ビール (Bottled Beer) は登場するだろうが、とんかつ (Tonkatsu : Pork Cutlet) を肴として嗜める様な風情は皆目ないのだ。席を確保して注文し、料理が配膳されたら、喰うだけ喰って、料金を支払って出るだけの事しか出来ないのだ。父親曰くの「美味しいんだけれども落ち着かない [から嫌だ]」がその店の総てを顕している様にも思える。 [余談ながら、拙稿の題名に即して綴れば、蝶屋 (Cho-ya) では、配膳される段階で既にソース (Sauce) とトマトケチャップ (Tomato Ketchup) がたっぷりととんかつ (Tonkatsu : Pork Cutlet) の上に添加されてある。ソース (Sauce) はウスターソース (Worcestershire Sauce) だったと思うが、それ以上に、濃厚なトマトケチャップ (Tomato Ketchup) の存在感が圧倒的だ。だから、客が随意に味覚を操作する手段は、卓上にある洋芥子 (Mustard) だけである。]
だから、家族4人で繰り出したある日曜日の夕刻に、その新規開店の店 [拙稿の為に検索しようとしたが、店名がおぼろな侭で捜し様がなかった] に遭遇したぼく達がそこへ入店した理由も自ずから理解が出来ると謂うものだ。父親からみれば、座卓がある上に酒も呑めそうな雰囲気だ。そして、彼はショーウインドウに居並ぶ幾つものメニューのなかにとんかつ定食 (Tonkatsu Set Meal) がある事を認めたのに違いない。そして、それを指し示して子供2人を誘導したのに違いない。
「ここでめしにしよう。ほら、とんかつがあるぞ」と。
そして彼の提案に促されるが侭に、ぼく達、つまり弟とぼくはとんかつ定食 (Tonkatsu Set Meal) を頼んだのだ。
そして、ぼく達のめをひいたのが、ソース (Sauce) のつけかただ。卓の一角を占めている調味料として用意されていない。しかも、皿の上にあるその具材に直接かけるのではない。蝶屋 (Cho-ya) の様に、既に添加されて配膳される訳でもない。小皿にソース (Sauce) と洋芥子 (Mustard) が据えられていて、そこに1片づつひたして喰うのである。その感覚は刺身 (Sashimi) と似ていると謂っても良い。それぞれがあれでの醤油 (Soy Sauce) と山葵 (Wasabi) に相当しているのである。
その喰し方に味をしめたぼく達は以降、揚げ物(Fried Food) が登場すれば、勝手に茶箪笥 (Japanese Cupboard) にある小皿をひっぱりだしては、それにソース (Sauce) を充填し、そこにひたして喰う様になった。
そして、母はここでもこう謂うのである。
「あらいものが増えてしょうがない」
彼女の念頭にあるのは、ここでも費用対効果 (Cost-effectiveness) ...、それも自身の労力に関するモノなのである。ぼく達としては、彼女を煩わせる事なく、自分の小皿は各自、自ら動いて用意しているのになぁ ... と謂う様な認識ではあるのだが。
夕食の支度をしながら、母が謂う。そして、こうつけくわえる。
「だから、これを買ってきた」、と。
とんかつ (Tonkatsu : Pork Cutlet) を喰べるのはなにもその時が初めてではない。何度も喰ってきた。でも、そのソース (Sauce) は初めてだった。最近、TVのCMで流れているのをみた事がある。
ブルドックソース (Bull-Dog Sauce Co., Ltd) の、とんかつソース (Tonkatsu Sauce) である。
揚げたばかりのとんかつ (Tonkatsu : Pork Cutlet) が食卓を囲む各自に配膳され、そのいいにおいがぼく達、3歳下の弟とぼくの食欲を刺激する。
そして、そのソース (Sauce) を自身の皿にかけてみる。それは、初めてみるモノと謂っても良いだろう。どろりとまっくろなソース (Sauce) がゆっくりと、そしてねっとりととんかつ (Tonkatsu : Pork Cutlet) の上に流れ込むのだ。その有様をみるだけで、ぼく達は悦ばしくなってしまう。そして、勿論、いつもよりも数段美味しかった。
だから、その日以降、そのソース (Sauce) が常に、とんかつ (Tonkatsu : Pork Cutlet) の際に登場しても良い筈なのに、そうはならない。
そして、それをぼく達が母を咎める。
彼女の説明はこうだった。
「おとうさんがきらいなんだから。それに ...」
彼が反対する理由は、ぼく達には自明のモノでもあった。彼は、ソース (Sauce) 自体を好んでいないのだから。とんかつ (Tonkatsu : Pork Cutlet) に限らず、揚げ物 (Fried Food) にしろなんにしろ、中華 (Chinese Food) ないし洋食 (Western Food) の類いであろうとも、彼は醤油 (Soy Sauce) 一択なのだ。
ぼく達は、彼の選択が必ずしも間違ってはいない事は解っている。例えば鰺フライ (Deep-Fried Horse Mackerel) は、醤油 (Soy Sauce) の方が美味しく感じる時がないではないのだ。
だけれども、とんかつ (Tonkatsu : Pork Cutlet) には、そのソース (Sauce) に優るモノはない。それがぼく達の認識ではあったのだ。
でも、だとしても、それならば、個々人が好き勝手にトッピング (Topping) する具材を選べばいいだけの話ではないだろうか。ソース (Sauce) もしくは醤油 (Soy Sauce) は母親が調理する際に投入されるのではない。彼女が調理した後、食卓に鎮座しているそれぞれの許に提供された後に、起用されるモノだからである。そんな認識を前提にすれば、彼の物謂い (Object To The Referee's Decision) は彼の眼前にある配膳だけに有効であるだけで、なにもそれに他の3名の食餌が左右される筋合いはない筈なのである。
そんなぼく達の主張を遮る為にあるのが、彼女の発言の後段だ。
「それに、すぐなくなっちゃうでしょ。あれ、やすくはないんだから」
そうなのだ。あのソース (Sauce) 独特の、粘りが嬉しいが為に、ぼく達はとんかつ (Tonkatsu : Pork Cutlet) に限らず、どんな料理であろうとも、それを起用してしまうのだ。醤油 (Soy Sauce) 味の鰺フライ (Deep-Fried Horse Mackerel) が美味しい事をしっていても、あのソース (Sauce) をかけたがり、実際にかけてしまうのである。
しかも、あの粘性があるが為に、その他のソース (Sauce) のその他の味のソース (Sauce) と比較して、一度に消費される量が多いのも事実なのである。
ぼく達の家計を預かっている彼女の念頭にあるのが費用対効果 (Cost-effectiveness)、いまのことばで謂うコスパ (Cost Performance) である事は忘れてはならない。もしかすると、前段である父親の発言は、後段に控えてある彼女自身の主張を補完する為のモノでしかないのかもしれない。
その結果、ブルドックソース (Bull-Dog Sauce Co., Ltd) が卓上にある事は滅多になく、常に他社の商品がその占めるべき場所に置かれていた [忘れた頃を見計らうかの様にそのソース (Sauce) が登場する事がないではない。きっとその時は、特売商品だったのだろう]。

上掲画像 [こちらから] は、映画『秋刀魚の味
次回は「す」。
附記 1 .:
上に記した父親の発言をうけて、母親が購入してきたのが、おなじメーカーのウスターソース (Worcestershire Sauce) である。とんかつソース (Tonkatsu Sauce) に比して、粘性なぞ殆どない。まるで水の様にさらさらしている。それは他社の同種の味と比較しても同様である。だから、普段のソース (Sauce) と同様な扱いをすると、どうしてもかけすぎてしまう。食後の皿をみると、まっくろに染まり、あたかもソース (Sauce) の海の様な様相さえしてしまう。だから、すぐに使い果たしてしまう。味云々とは別の次元で、それ以降、そのソース (Sauce) の起用は見送られる事となった。
附記 2.:
ぼくが小学校高学年になった頃、繁華街の一角にあたらしいレストランが開店した。和 (Washoku) 洋 (Western Food) 中華 (Chinese Food)、一通りのモノがそこで喰せてしまう。しかも家族向けに展開しているせいか、テーブル席だけではなく、和風の座卓も幾つか用意されている。子連れで家族3人を引率し [実際には1員それぞれが行きたいところへと引き回されて] 、這う這うの体 (Hurriedly) であるぼくの父親は、夕食は靴を脱いで、しかも自分独り、酒とその肴に向かいたい一心だから、彼にはうってつけの店ではあるのだ。
一方のぼく達、つまり弟とぼくが行きたがるのは、とんかつ屋 (Tonkatsu Shop) である蝶屋 (Cho-ya) [もう随分昔に閉店してしまった] である。その店は繁華街のもうひとつの一角、煩雑にヒトビトが行き交う十字路に面したちいさな店である。テーブル席は申し訳程度の4人向けが2卓しかなく、基本はカウンター席に座る事になる。その席もあわせて10数名がやっとだろう。だから、親子4人で訪れても殆どの場合、満席であってなかなか、そこで喰える機会もない [余談ながら、行列をつくって待つと謂う文化は当時はない。またあったとしても、その行列の存在を許される空間もない。繁華街の一角にあるとは謂え、とても狭い歩道なのだ]。そして、運良く入店出来たとしても、先に綴った様な空間しかないから、食餌に勤しむ事しか出来ない。注文すれば瓶ビール (Bottled Beer) は登場するだろうが、とんかつ (Tonkatsu : Pork Cutlet) を肴として嗜める様な風情は皆目ないのだ。席を確保して注文し、料理が配膳されたら、喰うだけ喰って、料金を支払って出るだけの事しか出来ないのだ。父親曰くの「美味しいんだけれども落ち着かない [から嫌だ]」がその店の総てを顕している様にも思える。 [余談ながら、拙稿の題名に即して綴れば、蝶屋 (Cho-ya) では、配膳される段階で既にソース (Sauce) とトマトケチャップ (Tomato Ketchup) がたっぷりととんかつ (Tonkatsu : Pork Cutlet) の上に添加されてある。ソース (Sauce) はウスターソース (Worcestershire Sauce) だったと思うが、それ以上に、濃厚なトマトケチャップ (Tomato Ketchup) の存在感が圧倒的だ。だから、客が随意に味覚を操作する手段は、卓上にある洋芥子 (Mustard) だけである。]
だから、家族4人で繰り出したある日曜日の夕刻に、その新規開店の店 [拙稿の為に検索しようとしたが、店名がおぼろな侭で捜し様がなかった] に遭遇したぼく達がそこへ入店した理由も自ずから理解が出来ると謂うものだ。父親からみれば、座卓がある上に酒も呑めそうな雰囲気だ。そして、彼はショーウインドウに居並ぶ幾つものメニューのなかにとんかつ定食 (Tonkatsu Set Meal) がある事を認めたのに違いない。そして、それを指し示して子供2人を誘導したのに違いない。
「ここでめしにしよう。ほら、とんかつがあるぞ」と。
そして彼の提案に促されるが侭に、ぼく達、つまり弟とぼくはとんかつ定食 (Tonkatsu Set Meal) を頼んだのだ。
そして、ぼく達のめをひいたのが、ソース (Sauce) のつけかただ。卓の一角を占めている調味料として用意されていない。しかも、皿の上にあるその具材に直接かけるのではない。蝶屋 (Cho-ya) の様に、既に添加されて配膳される訳でもない。小皿にソース (Sauce) と洋芥子 (Mustard) が据えられていて、そこに1片づつひたして喰うのである。その感覚は刺身 (Sashimi) と似ていると謂っても良い。それぞれがあれでの醤油 (Soy Sauce) と山葵 (Wasabi) に相当しているのである。
その喰し方に味をしめたぼく達は以降、揚げ物(Fried Food) が登場すれば、勝手に茶箪笥 (Japanese Cupboard) にある小皿をひっぱりだしては、それにソース (Sauce) を充填し、そこにひたして喰う様になった。
そして、母はここでもこう謂うのである。
「あらいものが増えてしょうがない」
彼女の念頭にあるのは、ここでも費用対効果 (Cost-effectiveness) ...、それも自身の労力に関するモノなのである。ぼく達としては、彼女を煩わせる事なく、自分の小皿は各自、自ら動いて用意しているのになぁ ... と謂う様な認識ではあるのだが。
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