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2020.12.22.09.06

でもんずないんてぃふぁいぶ

寓話 (Fables) である。
物語の殆どはある墓地 (Cemetery) のなかの出来事であり、それ故に葬儀 (Funeral) の叙景もあれば遺骸 (Remains) も登場する。しかもその遺骸 (Remains) は夜間になれば自墓から這い出して墓地 (Cemetery) を徘徊する。
その様な光景が描かれながらも、この映画は怪奇譚 (Mystery Story) でもないし恐怖譚 (Horror Story) でもない。

映画『デモンズ '95 (Dellamorte Dellamore)』 [ミケーレ・ソアヴィ (Michele Soavi) 監督作品 1994年制作] は、邦題に顕れてある様に、デモンズ・シリーズ (The Convoluted Demoni Series) 第8作として、本邦では公開された。内容も世界観も全くべつのモノであるのにも関わらず [正しいデモンズ・シリーズ (The Convoluted Demoni Series) は最初の3作品だけである]。配給会社の意図は奈辺にあったのかは解らない。しかし、その結果、その映画の存在を主張すべき観客層をあらかじめ狭隘なモノにしてしまったのではないだろうか。

だから、間口を広げる為に、本作のごく一部だけをとりだして、宣伝しようと思えば、こんな事も出来てしまう。
ルネ・マグリット (Rene Magritte) の絵画『恋人たち (Les Amants II)』 [1928年制作] は何故、恋人同士がお互いにヴェール (Veil) で顔を覆った上で、くちづけを交わしているのだろうか。そのひとつの解答が本作にある。
とでも謂う様な [そこだけきりとってみれば、本当に美しい叙景なのである]。

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"Les Amants II" by Rene Magritte

例えて謂えば、映画『デリカテッセン (Delicatessen)』 [ジャン=ピエール・ジュネ (Jean-Pierre Jeunet)、マルク・キャロ (Marc Caro) 監督作品 1991年制作] で描かれている世界とよく似ているのだ。食料が途絶してししまったあるアパルトマン (Apartment) で起きる日常と非日常の転倒した世界に。ぼく達の視線からは極めて異常な状況が多発しているそのちっぽけな空間は、そこに棲まう人々にとっては単なる日常の些事でしかない。しかも鮮血が迸る血塗れの映像を、ぼく達は喜劇として観ていられるのだ。
そんな認識と通底する認識、そんな認識を許容する世界観が本作にも潜んでいる様に思える。

映画に描かれてあるのは、ある墓地 (Cemetery) に働く墓守 (Sexton) の日常である。

夜、務めを終えた彼の許に1本の電話がかかる。唯一の親友からのモノだ。その中身のない会話に勤しんでいるときに、扉をたたく音がする。会話を中断し、扉をあけると、そこには蘇生した遺体 (Corpse) がたっている。掌にした銃をはなち、遺体 (Corpse) の頭蓋 (Cranium) は破壊される。そして倒れ、名実ともに遺体 (Corpse) となる。彼はふたたび、電話に出、中断した詫びを告げる。
映画の冒頭で綴られるこの一連の叙景こそが、彼の日常なのである。

その日常は、冒頭に綴った様に、遺体 (Corpse) が復活し、おのが想うがままに彷徨い、遭遇した生者 (The Living) を亡き者にせん (To Kill) として襲撃する日々、否、夜々である。夜毎に死者 (The Dead) が彷徨するのだ。ゾンビ (Zombie) が日常的に蔓延していると謂っても良い。
だけれども、他の、あまたあるゾンビ映画 (Zombie) とは一線を画する世界観がそこには横溢しているのだ。

例えば、映画『ゾンビ (Dawn Of The Dead )』 [ジョージ・A・ロメロ (George A. Romero) 監督作品 1978年制作] に於ける日常とは、ゾンビ (Zombie) を完全に排した居住空間を常に維持し続ける事だ。物語の主要登場人物達は、巨大なスーパー・マーケット (Supermarket) の一角に遇し、出来る限りの安逸な生活を維持しようと欲する。
また、例えば、映画『ゾンビ (Dawn Of The Dead )』の続編である映画『死霊のえじき (Day Of The Dead)』 [ジョージ・A・ロメロ (George A. Romero) 監督作品 1985年制作] では、それがさらに逼迫したモノとなり、物語の登場人物達の誰もが精神的に病み、その結果、かろうじて維持されてきた彼等の空間は自壊してしまうのだ。
どちらも、程度の差こそあれ、登場人物達の日常とは、極限状態 (Extreme Situation) に於けるそれであり、その結果、それらの物語の登場人物達は誰もが、その緊迫し緊張しきった世界で生きていかなければならないのだ。

だが映画『デモンズ '95 (Dellamorte Dellamore)』 の主人公、フランチェスコ (Francesco Dellamorte) [演:ルパート・エヴェレット (Rupert Everett)] は彼等とは違う。
ゾンビ (Zombie)、本作では - "リターン" ("Ritornanti") と呼ばれている - こそ、常に彼の生を脅かさんとするのだが、彼等の弱点は彼に把握されきっている。頭蓋 (Cranium)〜脳漿 (RackThe Brains) を破壊すれば良い。だから、彼は常に拳銃 (Handgun) を持参している。逆に謂えば、"リターン" ("Ritornanti") にさえ遭遇しなければ、もしくは、"リターン" ("Ritornanti") への対策を損なわない限り、彼の日常は緩慢で退屈なモノ、弛緩しきったモノでしかないのだ。

ここで描かれる弛緩した日常は、まるで映画『地球最後の男 (The Last Man On Earth)』 [ウバルド・ラゴーナ (Ubaldo Ragona)、シドニー・サルコウ (Sidney Salkow) 監督作品 1964年制作] の主人公ロバート・モーガン (Dr. Robert Morgan) [ 演:Vincent Price (ヴィンセント・プライス)] のそれとまるっきり一緒なのだ。その映画でのロバート・モーガン (Dr. Robert Morgan) は、吸血鬼 (Vampire) として蘇生して徘徊する遺骸 (Remains) [つまり一般的な記述に従えばゾンビ (Zombie)、本作での表記に従えば"リターン" ("Ritornanti") ] に遭遇する度に亡き者とし (To Kill)、それを荼毘に付していく (Cremate) のだ。その永遠に終わらないたったひとりでの処置に徹しなければならない消耗感が、本作でのフランチェスコ (Francesco Dellamorte) の心情と通じている様に、ぼくには思える。
[余談ながら綴れば、映画『地球最後の男 (The Last Man On Earth)』がゾンビ映画 (Zombie) の嚆矢たる映画『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド (Night Of The Living Dead)』 [ジョージ・A・ロメロ (George A. Romero) 監督作品 1968年制作] へと、おおきな影響を与えていると謂う]

だから、彼が夢見ているのは、いつも恋する事なのであろう。そして、その愛すべき女性はいつも容姿も顔貌もうりふたつと同じなのである。彼が求めているのは、たったのひとりだけの女性、さもなければ、たったのひとつだけの肉体なのである。彼はその女性の事を彼女 (She) [演:アンナ・ファルチ (Anna Falchi)] と呼ぶ。

しかし、彼が出逢い、そして愛情と欲情を感ずる彼女 (She) はいつも、彼から去っていってしまう。
ひとりは亡くなったばかりの富豪の未亡人で、初めてむすばれた直後に、"リターン" ("Ritornanti") に襲われて死亡してしまう。しかも、死亡した彼女 (She) は"リターン" ("Ritornanti") として蘇生したが故に、彼は彼女 (She) を抹殺せざるを得ない。つまり、彼は2度、その女性を喪う事となるのだ。
また、ひとりは、せっかく培って得られた関係も、相手から別れを告げられて奪われ、もうひとりは、自らの掌で焼死させてしまう。

と、ここまで綴ると、極めて陰惨な物語にも読めてしまうだろう。主人公であるフランチェスコ (Francesco Dellamorte) は、諦念のなかに活きているのだから。
だがそんな予感も、そんな彼の助手である、ナギ (Gnaghi) [演:フランソワ・ハジー・ラザロ (Francois Hadji-Lazaro)] の存在が与える物語への色彩によって、物語の装いは様変わりしたモノと感ぜられるだろう。
肥満型 (Obesity) で知的障害 (Intellectual Disability) の彼は、所作が緩慢な上に、話者の意図をどこまで理解出来たのか不確かでしかも、意図の汲める言語を発する事は出来ず、一見するとフランチェスコ (Francesco Dellamorte) のお荷物の様にみえる。実際に彼は、いるべき時にいないか、さもなければ、いないべき時にやらずもがなの行為を行ってしまう人物である。観客の視線で彼の言動を観ていけば、彼の存在によって、物語が喜劇的な表象を伴い、救われない物語が救い出されている様にも思える。

主人公フランチェスコ (Francesco Dellamorte) がそんな無能なナギ (Gnaghi) といつも行動を共にしているのは、同病相憐む関係 (Fellow Sufferers Pity Each Other) にあるからだ。彼が彼女を2度喪った様に、ナギ (Gnaghi) も自身の想い人であるヴァレンティーナ (Valentina Scanarotti) [演:ファビアナ・フォルミカ (Fabiana Formica)] を2度喪う。街中で出逢った彼女にしでかしてしまった失態を覆す事も出来ぬまま、彼女は交通事故で即死、一旦はフランチェスコ (Francesco Dellamorte) の彼女 (She) 同様に、"リターン" ("Ritornanti") - しかも生首 (Freshly Severed Head) だけの - として蘇生したが、その結果として得られた相思相愛 (Deeply In Love With Each Other) の関係もふとした事件によって奪われてしまうのだ。

と、謂うか、その件を例外として排除したとしても、フランチェスコ (Francesco Dellamorte) とナギ (Gnaghi) は実はよく似ているのである。それは本作に於いてフランチェスコ (Francesco Dellamorte) が犯す幾つもの過ちをみてみればよく解る。ナギ (Gnaghi) のぬけている所作となんらかわるところはない。
相身互い(Help Each Other) なのである。

だから、彼等2人は遂に、遁走を図るのである。墓地 (Cemetery) から、日常から。
だがしかし ...。

物語の終幕は、実は、物語の冒頭で明示されてある。
さて、物語は冒頭へと回帰し、かつての事件の再演が展開されるのか。
仮にそうだとしても、戻るべき墓地 (Cemetery) への鍵は投棄され、護身の為の銃 (Handgun) も喪われ、その代わりに [その代わりに?] ナギ (Gnaghi) は何故か、かつての彼、知的障害 (Intellectual Disability) ではなくなっているのだ。

次回は「」。

附記 1.:
物語の叙景のひとつとして、絵画『死の島 (Die Toteninsel)』 [作:アルノルト・ベックリン (Arnold Bocklin) 1880年制作] を模したモノが登場するが、あれはなんの意義があるのだろうか。そこで描かれてある光景こそがこの映画の舞台そのものを暗示する、と謂う解釈があるが。

附記 2.:
ルネ・マグリット (Rene Magritte) の絵画『恋人たち (Les Amants II)』は2度、模倣されて登場する。
最初の場合は、恋人たち (Les Amants) 双方がいずれも遺族 (Bereaved Family) である、と謂う意義だ。映画のなかでの『恋人たち (Les Amants II)』のその一方は確かに遺族 (Bereaved Family) である事は判明している。では、それに相対するもう一方は、だれの遺族 (Bereaved Family) なのであろうか。
そして、そんな設定をさらに模倣する様なかたちで2度目が顕れる。しかし、ここでのヴェール (Veil) は仮面 (Masque) としての意義しかもちえていない。すなわち、その仮面 (Masque) を脱ぎ捨てた時こそ、おのが正体を曝す時なのである。
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