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2020.12.15.09.00

しがふたりをわかつまで

結婚式 (Wedding) のあのことばの方である。マンガ『死がふたりを分かつまで (Shi ga Futari o Wakatsu Made : Till Death Do Us Part)』 [原作:たかしげ宙 (Hiroshi Takashige 原画:ダブルエス (Double-S) 20052015ヤングガンガン連載] ではない。
その行事に関してはこうみえてもぼくも体験者だから、もしかしたらその台詞をはなったのかもしれない。とんと、記憶にない。そもそも、宗教性を廃したかたちでやったから、果たしてその台詞はあったのだろうか。尤も、仮にその台詞もしくはそれとよく似た文言があったとしても、とっくの昔に反故になっている。あいつはいまごろ、どこでなにをしているのだろう。つまりは、そう謂う事なのだ。

改めてその台詞、結婚式 (Wedding)、特にキリスト教 (Religio Christiana) 系に根差したそれでの誓いの言葉 (Wedding Vows) に登場するその語句を眺めていると、すこし妙な気がしてくる。
「死がふたりを分かつまで (Till Death Us Do Part)」
それは、この台詞の該当する当事者2人の関係を永久に決定づけたモノではないからだ。逆に、2人の関係性が切断されるその時期を決定しているモノなのである。
つまり、2人が生存している限りは、2人は夫婦であらねばならない。しかし、それは一方の死をもって解除されるのだ。もう少し噛み砕いて謂えば、2人が夫婦であらねばならないのは現世に於いてであり、来世に於いてその束縛からは2人は解放される、と解釈出来るのである。

そんな理解をもってあらためて、その台詞を眺めてみると、輪廻転生 (Metempsychosis) とか永劫回帰説 (Ewig Wiederkehren) に馴染んだぼくとしては、奇異なモノに映じてしまう。
尤も、前者はその台詞が前提とするキリスト教 (Religio Christiana) とは全く異なる宗教に起因するモノであるし、後者に関しては、キリスト教 (Religio Christiana) とそれが育んだ社会や文化に異を唱えるモノとして、フリードリッヒ・ニーチェ (Friedrich Nietzsche) が思想書『ツァラトゥストラはこう語った (Also sprach Zarathustra [18831885年発表] に於いて打ち立てた概念ではある。

と、すると、それらを反照させてみれば、その台詞は、キリスト教 (Religio Christiana) に根付いたモノ、もしくはその根幹にあるモノなのかもしれない、そんな気がする。
いや、もしかすると、その宗教の成立前からある信仰を、キリスト教 (Religio Christiana) が取り込んだモノなのかもしれない。
一体、どちらだろう。
と、逡巡しながら調べてみると、解答は単純に入手出来てしまうのである。

経典『新約聖書 (Novum Testamentum)』 にある『ローマの信徒への手紙 (Epistula ad Romanos)』、その第7章第3節 (7-3) に次の様な記述があるのだ。

「であるから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれるが、もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない。 (Igitur, vivente viro, vocabitur adultera, si fuerit alterius viri; si autem mortuus fuerit vir, libera est a lege, ut non sit adultera, si fuerit alterius viri.)」

成程。
死別 (Separation By Death) とはよく謂ったモノである。
と納得してしまえばここで拙稿は終了だ。しかし、まだ続く。

それは、心中 (Double Suicide) とは一体、なんなのだろう、と謂う事なのだ。
新約聖書 (Novum Testamentum)』 にある教えに従えば、恋する2人の恋愛状態と謂うモノは、現世だけに於いて存在するのである。にも拘らずに、戯曲『ロミオとジュリエット (Romeo And Juliet)』 [作:ウィリアム・シェイクスピア (William Shakespeare) 1595年頃成立] の主人公2人に代表される様なかたちで、虚実入り乱れて、来世に於ける2人の関係性を維持せしめんと、ふたりは心中 (Double Suicide) してしまうのである。これは、一体、どんな思考もしくは宗教観に根付いたモノなのだろうか。
その台詞「死がふたりを分かつまで (Till Death Us Do Part)」に従えば、2人が共に死んでしまえば、一切が精算されてしまうだけなのである。2人の恋愛を阻むモノが排除されるばかりではない。2人の関係、2人の感情も無効となってしまうのである。

尤も、戯曲『ロミオとジュリエット (Romeo And Juliet)』に代表される様に、死に至るまでの2人の行動や心理は描写されはするモノの、殆どの物語に於いては、死後の2人が描写される事はないのである。それは現実にある心中 (Double Suicide) に於いて、ぼく達が死後の2人の有様を思い描けるのみで、彼等のその後を一切、知り得ないのと同様なのである。否、それ以前に、2人が死に赴く真の事由を、ぼく達は知り得ないのではあるが。

ただ、ぼくはその例外をひとつ知っている。
思索書『神曲 (La Divina Commedia』 [作:ダンテ・アリギエーリ (Dante Alighieri) 13041308年頃執筆] に登場する、フランチェスカ・ダ・リミニ (Francesca da Rimini) とパオロ・マラテスタ (Paolo Malatesta) の逸話である。
その作品では、地獄 (Inferno) の第二圏 (Canto II) に於いて、恋人同士である2人は、相伴って、永遠の責め苦を負うているのだ。彼等2人の運命は、決して「死がふたりを分かつまで (Till Death Us Do Part)」ではないのだ。「死は決してふたりを分かちはしない (Never Death Us Do Part)」なのである。

思索書『神曲 (La Divina Commedia)』の作者ダンテ・アリギエーリ (Dante Alighieri) は何故、2人をその様な存在として描写したのだろうか。少なくともキリスト教 (Religio Christiana) 的な発想には反している様に思えるのだ。
否、彼等2人がその作品に登場した理由はすぐに解る。外形的には、もう1組の恋人達、すなわちダンテ・アリギエーリ (Dante Alighieri) とベアトリーチェ (Beatrice) との対照なのである。一方の恋人達が地獄 (Inferno) の責め苦にあっているなか、もう一方の恋人達は天国 (Paradiso) へと昇天していくのである。
但し、だとしてもそれは、その作品内に地獄 (Inferno) にある恋人達が登場する理由とはなっても、彼等2人が相伴っている登場する理由とはならない。離れ離れになった2人が、責めさい悩まされていても不思議ではないし、その方が、他方との差異が明瞭となって、より劇的なモノとなり得るからだ。

その2人を題材とした絵画作品は幾つもあるが、そのひとつ、アリ・シェフェール (Ary Scheffer) の絵画『パオロとフランチェスカ (Les ombres de Francesca da Rimini et de Paolo Malatesta apparaissent à Dante et à Virgile)』 [1855年制作] の解題として、フィリップ・ビュルティ (Philippe Burty) の説がその作品を収蔵するルーヴル美術館 (Musee du Louvre) の、当該作品頁で紹介されている。
それらを読んだぼくは、悪い言葉で謂えば2人はみせしめ (Warning)、さもなければ覚悟 (Resolution) を問うているのだろう、と思うのだ。誰に対してか、と謂えば、フィリップ・ビュルティ (Philippe Burty) 曰くの「愛した者、愛する者、これから愛するであろう者の全て (Tous ceux qui ont aimé, tous ceux qui aiment, tous ceux qui aimeront s’)」に対して、である。
解釈の仕方次第では、あの台詞「死がふたりを分かつまで (Till Death Us Do Part)」よりもさらに峻厳とした態度をもって、過去・現在そして未来の恋人達へと、彼等2人の境涯をつきつけている、と解釈出来よう。
つまり、拙稿で示された課題は、冒頭へと回帰させられる事にもなるのである。

台詞「死がふたりを分かつまで (Till Death Us Do Part)」に対して、ダンテ・アリギエーリ (Dante Alighieri) とは異なるかたちで意義を申し立てている作品として、マンガ『日本発狂 (Nihon Hakkyou : Japan Goes Mad)』 [作:手塚治虫 (Osamu Tezuka) 19741975年雑誌『高一コース』連載] を挙げる事が出来る。
物語は、ある心霊現象を発端として、日本全土のみならず、来世と謂うもうひとつの世界を巻き込んだ壮大な版図を持つモノである。
そして、物語の最終部に於いては、来世に於いて亡者として出逢った1組の男女が、もうひとつの世界 [すなわち現世] に産まれ変わり、再会を誓う事になる。
そこで描かれているのは、台詞「死がふたりを分かつまで (Till Death Us Do Part)」ではない、それをまったく裏返したモノ、「生がふたりを分かつとも (Even If Life Us Do Part)」と謂う意思なのである。
手塚治虫 (Osamu Tezuka) 作品としては、珍作もしくは愚作に分類され得るモノなのかもしれないが、その最終部に辿り着いたぼくは、不覚にも不思議な感動を生じてしまったのである [物語と自己とを同一視してしまっただけとも謂える。つまりそう謂う誤りに陥りやすい世代の時季にこの作品に出逢った、と謂う訳である]。

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マンガ『日本発狂 (Nihon Hakkyou : Japan Goes Mad)』最終頁 [上掲画像はこちらから]

次回は「」。

附記:
戯曲『ロミオとジュリエット (Romeo And Juliet)』の後日譚? として、主人公達2人のその後を描いた作品に短編マンガ『宇宙人レポート サンプルAとB (The Report From The Alien Sample A And B)』 [原作:藤子・F・不二雄 (Fujiko F Fujio) 原画:小森麻美 (Mami Komori) 1977年 雑誌『別冊問題小説』連載] がある。
そして、何故かこの描写は、映画『恋におちたシェイクスピア (Shakespeare In Love)』 [ジョン・マッデン (John Madden) 監督作品 1998年制作] の最終場面と相通ずるモノがある様に、ぼくには思えるのだ。
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