2009.02.03.20.34
と、いうよりも僕達にとっては 大林宣彦監督作品の映画『転校生
映画の粗筋は改めて問う必要もないだろう。
尾道(Onomichi)を舞台にした、図らずもこころとからだが入れ替わってしまった少年と少女の物語。
この作品以降、同趣向の物語構成をもった映像作品が数々創られる事になるのだけれども、物語の元型(Archetypus / Archetype)は『とりかへばや物語(Torikaebaya Monogatari / A Tale of Changing Roles)』に代表される様な、ヒーローやヒロインがある退っ引きならない理由で性を偽って育てられる...。という事は、まぁ、別の機会に譲りましょう[笑]。
ある突発的な事件で、それぞれの性差を乗り越えてしまうという物語は、その後の展開は如何様にもなり得るものなので、それをどこでそしてどこまで律するのかというのが、物語を創るモノに課せられた使命となる。
いずれは、元の肉体と精神を取り戻すというのは、所謂お約束だから、葵の御紋の印籠を使わない事件の解決や、片肌脱いで桜吹雪を魅せないお白州の場面があり得る様に、このお約束を反古にした物語は如何様にも創り出す事が出来る。
[肉体と精神が入れ替わった少年と少女が、夫々の人生を歩み、数十年後の同窓会で再会し、夫々の数十年を物語ってもいいわけだ]
勿論、この映画『転校生
それは、この『トロイメライ / 夢(Traumerei) ヘ長調(F-Dur)』起用に表象される様に、あくまでも「子供の世界のお話」に終始しているからなのだ。
だからといって、その世界は、ピーター・パン(Peter Pan)が棲むネバーランド(Neverland)の様に永遠を保障されているのではない。
その「子供の世界のお話」は、映画の中で、常に危機的状況に曝されているのだ。
家族、学校、友達...、否それ以前に、己が仮託しているこの肉体そのものが日々"性長"していくのだ。
甘く優しく美しい筈の「子供の世界」が徐々に喪われ、それは過去のもの、ノスタルジックなものへと潰えてしまう...、その表象が、この曲に現れているのではないだろうか?
『子供のためのアルバム 作品68(Album fur die Jugend Op.68)』や『子供のための3つのピアノソナタ 作品118(3 Klavier-Sonaten fur die Jugend Op.118)』など、子供向けのピアノ曲(Piano Compositions)をいくつも作曲したロベルト・シューマン(Robert Schumann)自身がこう発言している。
『子供の情景 作品15(Die Kinderszenen Op.15)』はそれらの作品とは異なる「子供心を描いた、大人のための作品(die nicht für Kinder, sondern als „Rückspiegelung eines Älteren für Ältere“ )」である、と。
物語は、夫々の元の精神と肉体を回復した少年と少女が、別れる事によって終わる。その時、ふたりは既にふたり共に「子供の世界のお話」の住人ではない事を悟るのである。そして、かつての己自身に訣別の辞を投げかける。それは、少年であり少女であった、かつての己に向けて、なのである。
サヨナラ、オレ
サヨナラ、あたし!
"Traumerei" from the album "Horowitz In Moscow
追伸:この映画を観た事のある女友達は、男性の肉体を得てしまった"ヒロイン"を演じる尾美としのりの演技を誉める。その一方で男性陣は、少女になってしまった"ヒーロー"を演じる小林聡美を賞讃する。どうやら、いずれも、己の肉体に存在するモノと己の精神に存在するモノに対する評価基準が異なる様なのだ。
これは、僕の周囲の極限られた世界だけの現象だろうか?
次回は「い」。
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